詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

ないないない

2015年12月16日 | 雑記
突然、ある文章が読みたくなって、家に帰って玄関の電気も消さず、コートも脱がずに本棚へ走る。とりあえず間違えて寝室に入る。夏ぐらいまではここに本棚があって、その前で座り込んでその文章を読んでいたのをよく覚えているから。寝室に入って、あ、またやった、と額をピシャリとうつ気持ちで部屋を出てくる。地震対策で本棚を他の部屋に移したんだった。何度目だろう、この間違い。だけど、あの本はこの部屋のこの本棚のこのあたりに入っている、というのが、体で覚えた感覚みたいになってしまっていて、心の中では家に着く前から本に手を伸ばしているから、思っていたところに本棚がないことに気が付くと、手がかすっと空を掻く。

さて、寝室に本棚がないことを確認した時点で嫌な予感がする。というのも、以前もこの文章が載っている本を探した記憶があるのだ。しかもその本が雑誌なのだからなお困る。それらしい雑誌は何冊もあるから、期待を込めて次、次、とバーっと見ていくがない。もしかして見落としたのかも。見直す。いや、別の本の気がする。家の中で一箇所に集まっていない本棚を砂糖の粒を運ぶアリのようにちょこちょこちょこちょこ行ったり来たりして探す。

どう見てもない。でも前回読んだあのときから捨てるはずはない。気合いを入れて、再びちょこちょこちょこちょこ歩き回る。やっぱり、やっぱり、ない。ないみたい。誰だぁ捨てたのは!なんて怒りが込み上げてくるけれど、捨てるのは私しかいない。だんだん、捨てたはずがない、の記憶に自信がなくなってくる。でもいま、こんなにも必要としているその文章を、まさか捨てたとは信じたくない。

家の中を何周しても、出てくる気配はない。以前も探して結局見つからなかったような尻切れとんぼの嫌な感覚が残っている。そういえば、なんか処分した気が、しなくもない。本棚を移動するとき、少し処分しないとダメだよね~とか、話していたような記憶がうっすらと蘇ってくる。そうだ、体で覚えた感覚が更新されていないのは、本棚の場所を変えてからその本を見ていないからなのだ。

ああなんと切ない。捨てる決断がなされ、それが実行に移されてしまった本はなんて魅力的なのだろう。なんだかすごくおもしろい内容の詰まった雑誌だったような気がしてくる。本と言えば、じゃなくて、ほんと言えばどの本を買えばその文章が読めるのかはわかっている。Amazonで申し込めばすぐに届くさ。でも、そういうふうに読みたくなった本は、本屋さんに行って買いたい。そして何よりも、やっぱりいま、いま、いま読みたいし、家にあったあの雑誌で読みたかった。この欲望を即、満たしたかった。

そして満たされなかった欲望のために、ブログの記事がひとつ増えたというわけなのです。

ちなみに読みたかった文章とは
大崎清夏さんという詩人の
「指差すことができない」という詩でした。
雑誌を捨ててしまってごめんなさい。
今度ジュンク堂で詩集で買います。
こんな詩が書けて、いいなぁ。

あのね、すぐにいいと感じられたわけではないんだ。おもしろい文章だなぁと思って印象に残って、何度か読んだ。ときどき読み返した。そしていま思い返すと(読み返せなかったので)、きっと海辺の漁村(山の上にある漁村なんてないけど)なんかを思ったときに、そのイメージという私なりの記憶の中に、もうその詩がきっと知らないうちに入り込んでいると思う。たぶん言葉も影響をすでに受けてしまっていると思う。

きっとこういうのが、良い詩なのですね(^-^)

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