詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

平均律クラヴィーア

2022年12月10日 | ピアノ
ブラームスのインテルメッツォOp.117-2をいったん卒業することにしたあと、次は何の曲を練習しようかな、としばし考えた。

ピティナはこれまでフリーステップでしか参加したことがなく、フリーはそれぞれの人のレベルに応じて、評価をしてくださるものなので、今度は23ステップで参加してみたいと思っている。23ステップはレベルが指定されている「課題曲」を演奏し、各レベルの合格を目指すというもので、自分のレベルをより、客観的に、絶対評価的に?頂ける。

自分のレベルでは、どんな曲をやったらよいか、現在はピアノを習っていないが、こういうときが一番、先生につきたいと感じる瞬間かもしれない。

とりあえず、23ステップに参加するには、「課題曲」を選ばなくてはならない。
ちょうどその頃、久しぶりにまたグレン・グールドのバッハの曲ばかり収録したアルバムを聴いていた。バッハも良いなぁと思い、平均律クラヴィーアの5番D-Durがいいかも!と、今度はスヴャトスラフ・リヒテルの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』を聴き始めた。

すると私の(遅い?)『平均律クラヴィーア曲集』との出会いとも言うべき、2番のC-Mollに耳が反応し、以前、プレリュードだけ練習したけれど、ここからやり直すのもいいかも、と考えた。

高松に住んでいた頃、近所のピアノ教室に通っていた。職場の隣の席の人が、「娘が習っているピアノの先生がすごく良い先生で」と言うので、その先生のお宅が近所だったこともあり、急に私も習いたくなって、高校2年生以来、約20年ぶりに始めた。

あるレッスンの日、前の生徒さんが弾いていた曲にしびれて、稲妻が見えたように感じた。「さっきの生徒さんが弾いていたのは何の曲ですか?かっこいい・・・・・・」と先生にお尋ねしたところ、それが『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』2番のプレリュードだった。

そこで先生は、リヒテルのCDを聴かせてくださり、Presto(きわめて速く)になるところで、「リヒテルはここをすごく速く弾いているわね。怒りみたいな感じね」とおっしゃり、その言葉に私はさらにしびれてしまった。バッハだけに、宗教的な怒り、いかづち、のように感じた。

早速リヒテルのCDを買い、何度も聴いて、私のレベル的にプレリュードばかりだったものの、2番をはじめ、何曲か練習させてもらった。

平均律クラヴィーアは、プレリュードとフーガが1つのセットで、ドからシまでの全12音について、それぞれ長調と短調の(全ての調の)曲があり、全24曲という構成になっている。

アルバムですべてを(聴くともなく)聴いていると、その時々で好みの曲が,潮のように押し寄せたり引いたりするのがおもしろい。

こうしてあらためて聴いてみると、一曲一曲ももちろん素晴らしいけれど、全体で物語のようにも感じられる。全ては無理だけれど、いろんな曲を練習したいな、と思う。

いまの私の小さな野望は「フーガも弾く!」ということ。
フーガの難しさは(プレリュードもそうだと思うけれど)、多声であることなのだと思う。リヒテルさんの演奏する2番のフーガを聴いていても、本当にいろんな声が聞えてくる。このように弾き分けていくのが、そして全体としてひとつの建造物のように聴かせるのが、とても難しいのだろうと思う。

いまさらだけれど、調べてみると、フーガは遁走曲と訳され、出てきた主題や旋律が次々と追いかけるように出てくる楽曲形式、とのこと。

さらに調べると、平均律クラヴィーア 第1巻の2番は最初に取り組むのに、かなりオススメとの記事も発見!なるほどなるほど。

それにしても、平均律クラヴィーアは指をよく動かす曲が多いので、自宅の電子ピアノの鍵盤で練習するのはなかなかつらいものがある・・・・・・。変な癖がついてしまいそう・・・・・・。

リアルピアノで練習したいと、先日実家のピアノの調律をお願いしたが、「2年ぶり、久しぶりですね」と言われてしまった。
はい、おかげで、出ない音や、戻らない鍵盤があります・・・・・・。お恥ずかしい。

ちなみに第2巻のほうは、あまり聴けておらず、耳に馴染んでいないせいで、以前、第2巻の演奏会があったときは、気持ちよく寝てしまいました、ごめんなさい!!





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ブラームス 3つの間奏曲 Op.117-2

2022年10月14日 | ピアノ
いつまでも同じ曲にこだわるので、ピアノの先生に、「いいかげん次の曲に進んだら?人生であと何曲弾けると思うの?」と聞かれてハッとしたのに、やっぱり延々同じ曲を練習してしまう。

そんなに弾いているなら、どれほど上手くなっているか、と思われるかもしれませんが、ちょっとずつをダラダラ続けているので、なかなか上手にならない→延々と練習し続ける、という悪循環。いや、好循環?

そのようなわけで、もしかしてもう、3年も経つ!?2019年に発表会で弾いたブラームスのインテルメッツォOp.117-2を延々練習しているのでした。

この曲は本当に味わい深い美しい曲で、いつかピティナのステップで弾いて、いったん卒業しようと思いました。ピティナのステップは、誰でも申し込めば、ピアノの先生数名に演奏を聴いてもらって講評を頂くことができます。でも、いきなりこの曲を弾いてしまうのはもったいない。その前に練習として、人生初めて挑戦するステップでは、同じくブラームスの6つの小品のうちの一曲Op.118-2にすることにした、という、私らしい遠回りでもったいぶるくらい、好きなのでした。もちろん、Op.118-2も本当に素敵な曲で、もともとはこちらのほうをピアノの先生に薦められて弾き始めて、こんな美しい曲があるんだ!?と驚き、グレン・グールドのCDを購入して、さらに虜になって、同じアルバムに収められていたOp.117にも恋した、という経緯があります。

グレン・グールドの演奏は、音楽が終わった後に、ふと、誰かが話しているのを聴いていたような気持ちになっているのが不思議です。音も、間さえも、その役割の意味をひとつとして疎かにすることなく慈しんで弾いているのが感じられます。ひとつひとつの音が生きている!そしてなお、いや、だからこそ、一曲としてこんなにも自然に聞える。

そして、私はひとつ、ピアノの弾き方のヒントを得ました。語りかけるように弾いてはどうだろうかと。よく、歌うように弾くように言われるけれど、なかなか難しい。語りかけるように弾く、とイメージするほうが手が自然に動く気がする。

そんなふうに考えていて、素晴らしい作品は他のジャンルに例えられると気がつきました。絵が語ってきたり、音楽を感じる言葉だったり、詩のような一曲だったり。それはつまり、手段よりももっと先の、表現したいイメージがしっかりと捉えられている、ということなのではないでしょうか。

そう考えてくると、人生さえももしかしたら手段で、その先のイメージを持つことができるのだ、とも言えます。もしかしたら、そういったイメージをしっかりと掴めた人こそが、年齢や境遇なども超えて、永遠のように若い心を持つことができるのかもしれません。

美しい音楽は、個々の人生という具体を超えたイメージを伝えてくれます。
私の演奏では、なかなかそれを伝えられませんが
( ; ; )(^∇^) (^^;) (^_-) ʅ(◞‿◟)ʃ
(↑ここにふさわしい顔文字はどれでしょうか?)




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