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詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

公開ピアノレッスンへ行く

2025年07月05日 | ピアノ

 先日、公開ピアノレッスンなるものに初めて行ってみた。行ってみれば予想していた通り、まわりはピアノの先生と思われる方ばかり。それはそうだ。平日だし、ちょっとしたコンサートと同じくらいのチケット代だったのだから。私は素人で、大して上手でもなく、そのレッスンに行くようなレベルではまったくない。でも行ってみたかった。仕事の休みを取ってまで。

 理由は2つあった。1つは、講師が、最近自分がプチファンになっているピアニストであること。もう1つは、この回で取り上げられるのが、ここ数年自分にとって特別な作曲家と曲だったこと。

 ピアニストは演奏家としての実力はもちろん、長らく教育者としても活躍してこられたパスカル・ドゥヴァイヨン氏で、こちらも実力派ピアニスト・教育者である村田理夏子氏が通訳をしてくださる。

 何年も前に見つけてふと手に取った本『ピアノと仲良くなれるテクニック講座』。語り口が軽妙でユーモアがあって、読みながら何度も笑ってしまう。ピアノの弾き方を学びたい気持ちもあるけれど、読み物としても楽しくて、よく開く。どんな人が書いているのだろう、と巻末を見て知った著者がパスカル・ドゥヴァイヨン氏で、翻訳をされたのが配偶者である村田理夏子氏だった。昨年、なんの拍子だったか、ご夫婦のコンサートがあることを知った。お二人のなんとも耳に心地良い音、これみよがしでない端正な演奏。感動させるぞ、という弾き方ではなく、自然な音楽の流れの中で、ぞわぞわぞわっと鳥肌が立った。お二人の交わす視線と表情と空気には、お互いへの愛情、そして心底からの音楽への愛情を感じて、とても幸せな気持ちになるコンサートだった。

 そんなお二人が開催する公開ピアノレッスン。超一流のピアニストが行うレッスンとはどんなものなのか、どのようなことをポイントとしてお話しされるのか知りたいと思った。

 さて、今回のテーマはブラームスで、プログラムは以下の通り。
・ラプソディOp.79より第1番
・6つの小品Op.118より第1〜3番

 ここ数年Op.118の2番と3番、5番を練習していた。いつか6曲全部を弾けるようになるのが夢。これらの曲(プラスOp.117)を通して、最近、特別に感じるようになっていた作曲家ヨハネス・ブラームス。今回のレッスンの中でもドゥヴァイヨン先生が話されていたけれど、きれいなメロディーに伴奏つけました、みたいな曲では全くない。いくつものメロディーが交差して複雑で美しい立体構造になっている。音楽という空間の、その美しい風の中を通っているような感覚になる(実際は重厚というのが一般的イメージらしいブラームス)。

 ラプソディのほうは、どんな曲だろう、と思ったくらいだったのだけれど、予習として聴いてみたところ、グレン・グールドのアルバムでよく耳にしていた曲で、あらためて聴き始めてみると、これまたなんと素晴らしい曲だろうか。ああこんな曲が弾けたら。マルタ・アルゲリッチで聴いてみる。おお、こちらもすごい。素晴らしく、生き生きとした演奏で、全く知識のない私は初めてアルゲリッチの技術を知った。仕事帰りは毎日聴いていたので、レッスンの数日前から頭の中はずっとこの曲だった。

 ブラームスの曲ってほんといい。公開ピアノレッスンはだからとっても楽しみだった。そして迎えた贅沢な2時間はとても豊かで、ブラームスのすごさをあらためて知り、また音楽の奥深い輝きに魅了された。知識のない私には理解できていないところも多々あると思うけれど、曲に隠されている魔法のような秘密や、弾くときに意識・注意すべきポイントなどもとても勉強になった。ブラームスの苦悩を知れたこともよかった。ド素人の自分がこんな一流ピアニストの素晴らしいご講義を聴講できることを幸せだと思った。

 さて、話は飛んで、自分が中学生だったときのこと。入学式で演奏をしてくれた吹奏楽部に憧れて入った。パートはホルン。平日は授業の後、毎日17時まで練習。夏休みはコンクールに向けて平日は朝から夕方まで練習。相当な練習時間だったので、3年間でみんなすごく上手になった。ある時、ふと思った。これだけの時間、ピアノの練習をしたら、私だってピアノが相当上手になるのだろうな。

 私は小学2年生からピアノを習っていたけれど、そんなに熱心な生徒ではなかった。ピアニストになりたい、という夢を抱いたこともまったくなかったし、もちろんぜんぜん上手でもなかった。なのになぜか、ふとそんなことを思ったことを今も覚えている。結局、高校2年生まではピアノを習っていた。大して熱心でもないままに。でもピアノを弾くのはずっと好きだった。

 あれから何十年も経って、あの頃よりもさらに練習時間は短いけれど、あの頃よりはいま、はるかに熱心にピアノに気持ちを傾けている。1日の時間は限られていて、多くの時間は仕事をしなくてはいけないし、仕事以外の時間も家の用事があり、そして余暇がある。なんの仕事をするかももちろんすごく大事なのだろうけれど、余暇に何をして過ごすかもものすごく大事だと思う。とはいえ、やっぱりダラダラもしたいし、やりたいこともいろいろある、かもしれない……。でも最近あらためて考えてみて、ピアノの練習をするということが、考えれば考えるほど素晴らしいことのような気がしてくる。

 いや、私にも、ピアノの練習なんかして何になるんだろう、と思う時がある。合唱とかなら、仲間ができる。でもピアノは基本ひとり作業。しかもいま私は習ってもいない。そしてここ数年は知り合いに誘われて1年に一度ほどのペースで発表会に参加ができているものの、申し訳なさすぎて、友人を呼びたいとは思わない。というわけで、披露する機会もほとんどなく、ただただほんっとうの自分ひとりだけで満足、喜んでいるだけの趣味で、これが何になるというのだろう、としばしば思う。なのに。ある一定の時間を過ごしたとして、もしそこでピアノの練習をしたならば、程度はともかくとして1曲の素晴らしい曲を理解し、弾けるようになるのだ。それはなんだか魔法のような、特別なことのような気がする。

 いろんな演奏家の弾き方を聴き比べたりして、あ、ここにはこんなメロディーが隠れてたんだ、とか、こんな弾き方も素敵!とか思ったりして、部屋に引きこもって練習。ちょっと上手になったかも、なんて一人で感動。客観的に見たら孤独でしかないのに、そこには、自分にしかわからない、曲との密かな対話、交流がある。CDなどを聞いていても、そのピアニストと対話をしているような気持ちになったりしている。

 など、書いていたら、さぞたくさん練習しているのだろう、と思われるかもしれませんが、大して練習してません。ハハ。でも仕事で遅くなっても、10分は弾こう、そうすると気づけば30分があっという間、ということもある。アマチュアでもものすごく上手な人はたくさんいるけれど、私はそこまで熱心なわけでもない。ゆるい。ほんっとうになーんの役にも、誰のためにもならないのに、細々と続けてしまうし、深めていきたい悩ましい趣味なのだ。

 こういうのってなんなんだろう。どういう満足感なのだろう。自分でも謎だ。人生の成功者、みたいに言われる人とは真逆な人間なのではないだろうか。

 最近思うこと。「やりたいこと」があるかないか、という話がよくあるけれど。そのやりたいことが「仕事として」になると、私の場合、途端に何もなくなってしまうのだけど。どういう形でもかまわない「やりたいことは?」と問われたら、いまはひとつある。そしてそれにはもう一つ条件があって、もし自分がお金持ちだったら、とか、宝くじが当たったら何をする、と考える遊びも絡めて言えば。

 私、音大に行ってみたい。音楽家になりたいとはまったく思わないのだけど、本当に自由に、その先のことも、それをする目的(その先のこと)とかも考えなくていい、と言われたら、音大のピアノ科に行って、勉強してみたいなぁ。年甲斐もなく。

※愛読書と言っていいかもしれない?

 
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平均律クラヴィーア

2022年12月10日 | ピアノ
ブラームスのインテルメッツォOp.117-2をいったん卒業することにしたあと、次は何の曲を練習しようかな、としばし考えた。

ピティナはこれまでフリーステップでしか参加したことがなく、フリーはそれぞれの人のレベルに応じて、評価をしてくださるものなので、今度は23ステップで参加してみたいと思っている。23ステップはレベルが指定されている「課題曲」を演奏し、各レベルの合格を目指すというもので、自分のレベルをより、客観的に、絶対評価的に?頂ける。

自分のレベルでは、どんな曲をやったらよいか、現在はピアノを習っていないが、こういうときが一番、先生につきたいと感じる瞬間かもしれない。

とりあえず、23ステップに参加するには、「課題曲」を選ばなくてはならない。
ちょうどその頃、久しぶりにまたグレン・グールドのバッハの曲ばかり収録したアルバムを聴いていた。バッハも良いなぁと思い、平均律クラヴィーアの5番D-Durがいいかも!と、今度はスヴャトスラフ・リヒテルの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』を聴き始めた。

すると私の(遅い?)『平均律クラヴィーア曲集』との出会いとも言うべき、2番のC-Mollに耳が反応し、以前、プレリュードだけ練習したけれど、ここからやり直すのもいいかも、と考えた。

高松に住んでいた頃、近所のピアノ教室に通っていた。職場の隣の席の人が、「娘が習っているピアノの先生がすごく良い先生で」と言うので、その先生のお宅が近所だったこともあり、急に私も習いたくなって、高校2年生以来、約20年ぶりに始めた。

あるレッスンの日、前の生徒さんが弾いていた曲にしびれて、稲妻が見えたように感じた。「さっきの生徒さんが弾いていたのは何の曲ですか?かっこいい・・・・・・」と先生にお尋ねしたところ、それが『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』2番のプレリュードだった。

そこで先生は、リヒテルのCDを聴かせてくださり、Presto(きわめて速く)になるところで、「リヒテルはここをすごく速く弾いているわね。怒りみたいな感じね」とおっしゃり、その言葉に私はさらにしびれてしまった。バッハだけに、宗教的な怒り、いかづち、のように感じた。

早速リヒテルのCDを買い、何度も聴いて、私のレベル的にプレリュードばかりだったものの、2番をはじめ、何曲か練習させてもらった。

平均律クラヴィーアは、プレリュードとフーガが1つのセットで、ドからシまでの全12音について、それぞれ長調と短調の(全ての調の)曲があり、全24曲という構成になっている。

アルバムですべてを(聴くともなく)聴いていると、その時々で好みの曲が,潮のように押し寄せたり引いたりするのがおもしろい。

こうしてあらためて聴いてみると、一曲一曲ももちろん素晴らしいけれど、全体で物語のようにも感じられる。全ては無理だけれど、いろんな曲を練習したいな、と思う。

いまの私の小さな野望は「フーガも弾く!」ということ。
フーガの難しさは(プレリュードもそうだと思うけれど)、多声であることなのだと思う。リヒテルさんの演奏する2番のフーガを聴いていても、本当にいろんな声が聞えてくる。このように弾き分けていくのが、そして全体としてひとつの建造物のように聴かせるのが、とても難しいのだろうと思う。

いまさらだけれど、調べてみると、フーガは遁走曲と訳され、出てきた主題や旋律が次々と追いかけるように出てくる楽曲形式、とのこと。

さらに調べると、平均律クラヴィーア 第1巻の2番は最初に取り組むのに、かなりオススメとの記事も発見!なるほどなるほど。

それにしても、平均律クラヴィーアは指をよく動かす曲が多いので、自宅の電子ピアノの鍵盤で練習するのはなかなかつらいものがある・・・・・・。変な癖がついてしまいそう・・・・・・。

リアルピアノで練習したいと、先日実家のピアノの調律をお願いしたが、「2年ぶり、久しぶりですね」と言われてしまった。
はい、おかげで、出ない音や、戻らない鍵盤があります・・・・・・。お恥ずかしい。

ちなみに第2巻のほうは、あまり聴けておらず、耳に馴染んでいないせいで、以前、第2巻の演奏会があったときは、気持ちよく寝てしまいました、ごめんなさい!!





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ブラームス 3つの間奏曲 Op.117-2

2022年10月14日 | ピアノ
いつまでも同じ曲にこだわるので、ピアノの先生に、「いいかげん次の曲に進んだら?人生であと何曲弾けると思うの?」と聞かれてハッとしたのに、やっぱり延々同じ曲を練習してしまう。

そんなに弾いているなら、どれほど上手くなっているか、と思われるかもしれませんが、ちょっとずつをダラダラ続けているので、なかなか上手にならない→延々と練習し続ける、という悪循環。いや、好循環?

そのようなわけで、もしかしてもう、3年も経つ!?2019年に発表会で弾いたブラームスのインテルメッツォOp.117-2を延々練習しているのでした。

この曲は本当に味わい深い美しい曲で、いつかピティナのステップで弾いて、いったん卒業しようと思いました。ピティナのステップは、誰でも申し込めば、ピアノの先生数名に演奏を聴いてもらって講評を頂くことができます。でも、いきなりこの曲を弾いてしまうのはもったいない。その前に練習として、人生初めて挑戦するステップでは、同じくブラームスの6つの小品のうちの一曲Op.118-2にすることにした、という、私らしい遠回りでもったいぶるくらい、好きなのでした。もちろん、Op.118-2も本当に素敵な曲で、もともとはこちらのほうをピアノの先生に薦められて弾き始めて、こんな美しい曲があるんだ!?と驚き、グレン・グールドのCDを購入して、さらに虜になって、同じアルバムに収められていたOp.117にも恋した、という経緯があります。

グレン・グールドの演奏は、音楽が終わった後に、ふと、誰かが話しているのを聴いていたような気持ちになっているのが不思議です。音も、間さえも、その役割の意味をひとつとして疎かにすることなく慈しんで弾いているのが感じられます。ひとつひとつの音が生きている!そしてなお、いや、だからこそ、一曲としてこんなにも自然に聞える。

そして、私はひとつ、ピアノの弾き方のヒントを得ました。語りかけるように弾いてはどうだろうかと。よく、歌うように弾くように言われるけれど、なかなか難しい。語りかけるように弾く、とイメージするほうが手が自然に動く気がする。

そんなふうに考えていて、素晴らしい作品は他のジャンルに例えられると気がつきました。絵が語ってきたり、音楽を感じる言葉だったり、詩のような一曲だったり。それはつまり、手段よりももっと先の、表現したいイメージがしっかりと捉えられている、ということなのではないでしょうか。

そう考えてくると、人生さえももしかしたら手段で、その先のイメージを持つことができるのだ、とも言えます。もしかしたら、そういったイメージをしっかりと掴めた人こそが、年齢や境遇なども超えて、永遠のように若い心を持つことができるのかもしれません。

美しい音楽は、個々の人生という具体を超えたイメージを伝えてくれます。
私の演奏では、なかなかそれを伝えられませんが
( ; ; )(^∇^) (^^;) (^_-) ʅ(◞‿◟)ʃ
(↑ここにふさわしい顔文字はどれでしょうか?)




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