先日、公開ピアノレッスンなるものに初めて行ってみた。行ってみれば予想していた通り、まわりはピアノの先生と思われる方ばかり。それはそうだ。平日だし、ちょっとしたコンサートと同じくらいのチケット代だったのだから。私は素人で、大して上手でもなく、そのレッスンに行くようなレベルではまったくない。でも行ってみたかった。仕事の休みを取ってまで。
理由は2つあった。1つは、講師が、最近自分がプチファンになっているピアニストであること。もう1つは、この回で取り上げられるのが、ここ数年自分にとって特別な作曲家と曲だったこと。
ピアニストは演奏家としての実力はもちろん、長らく教育者としても活躍してこられたパスカル・ドゥヴァイヨン氏で、こちらも実力派ピアニスト・教育者である村田理夏子氏が通訳をしてくださる。
何年も前に見つけてふと手に取った本『ピアノと仲良くなれるテクニック講座』。語り口が軽妙でユーモアがあって、読みながら何度も笑ってしまう。ピアノの弾き方を学びたい気持ちもあるけれど、読み物としても楽しくて、よく開く。どんな人が書いているのだろう、と巻末を見て知った著者がパスカル・ドゥヴァイヨン氏で、翻訳をされたのが配偶者である村田理夏子氏だった。昨年、なんの拍子だったか、ご夫婦のコンサートがあることを知った。お二人のなんとも耳に心地良い音、これみよがしでない端正な演奏。感動させるぞ、という弾き方ではなく、自然な音楽の流れの中で、ぞわぞわぞわっと鳥肌が立った。お二人の交わす視線と表情と空気には、お互いへの愛情、そして心底からの音楽への愛情を感じて、とても幸せな気持ちになるコンサートだった。
そんなお二人が開催する公開ピアノレッスン。超一流のピアニストが行うレッスンとはどんなものなのか、どのようなことをポイントとしてお話しされるのか知りたいと思った。
さて、今回のテーマはブラームスで、プログラムは以下の通り。
・ラプソディOp.79より第1番
・6つの小品Op.118より第1〜3番
ここ数年Op.118の2番と3番、5番を練習していた。いつか6曲全部を弾けるようになるのが夢。これらの曲(プラスOp.117)を通して、最近、特別に感じるようになっていた作曲家ヨハネス・ブラームス。今回のレッスンの中でもドゥヴァイヨン先生が話されていたけれど、きれいなメロディーに伴奏つけました、みたいな曲では全くない。いくつものメロディーが交差して複雑で美しい立体構造になっている。音楽という空間の、その美しい風の中を通っているような感覚になる(実際は重厚というのが一般的イメージらしいブラームス)。
ラプソディのほうは、どんな曲だろう、と思ったくらいだったのだけれど、予習として聴いてみたところ、グレン・グールドのアルバムでよく耳にしていた曲で、あらためて聴き始めてみると、これまたなんと素晴らしい曲だろうか。ああこんな曲が弾けたら。マルタ・アルゲリッチで聴いてみる。おお、こちらもすごい。素晴らしく、生き生きとした演奏で、全く知識のない私は初めてアルゲリッチの技術を知った。仕事帰りは毎日聴いていたので、レッスンの数日前から頭の中はずっとこの曲だった。
ブラームスの曲ってほんといい。公開ピアノレッスンはだからとっても楽しみだった。そして迎えた贅沢な2時間はとても豊かで、ブラームスのすごさをあらためて知り、また音楽の奥深い輝きに魅了された。知識のない私には理解できていないところも多々あると思うけれど、曲に隠されている魔法のような秘密や、弾くときに意識・注意すべきポイントなどもとても勉強になった。ブラームスの苦悩を知れたこともよかった。ド素人の自分がこんな一流ピアニストの素晴らしいご講義を聴講できることを幸せだと思った。
さて、話は飛んで、自分が中学生だったときのこと。入学式で演奏をしてくれた吹奏楽部に憧れて入った。パートはホルン。平日は授業の後、毎日17時まで練習。夏休みはコンクールに向けて平日は朝から夕方まで練習。相当な練習時間だったので、3年間でみんなすごく上手になった。ある時、ふと思った。これだけの時間、ピアノの練習をしたら、私だってピアノが相当上手になるのだろうな。
私は小学2年生からピアノを習っていたけれど、そんなに熱心な生徒ではなかった。ピアニストになりたい、という夢を抱いたこともまったくなかったし、もちろんぜんぜん上手でもなかった。なのになぜか、ふとそんなことを思ったことを今も覚えている。結局、高校2年生まではピアノを習っていた。大して熱心でもないままに。でもピアノを弾くのはずっと好きだった。
あれから何十年も経って、あの頃よりもさらに練習時間は短いけれど、あの頃よりはいま、はるかに熱心にピアノに気持ちを傾けている。1日の時間は限られていて、多くの時間は仕事をしなくてはいけないし、仕事以外の時間も家の用事があり、そして余暇がある。なんの仕事をするかももちろんすごく大事なのだろうけれど、余暇に何をして過ごすかもものすごく大事だと思う。とはいえ、やっぱりダラダラもしたいし、やりたいこともいろいろある、かもしれない……。でも最近あらためて考えてみて、ピアノの練習をするということが、考えれば考えるほど素晴らしいことのような気がしてくる。
いや、私にも、ピアノの練習なんかして何になるんだろう、と思う時がある。合唱とかなら、仲間ができる。でもピアノは基本ひとり作業。しかもいま私は習ってもいない。そしてここ数年は知り合いに誘われて1年に一度ほどのペースで発表会に参加ができているものの、申し訳なさすぎて、友人を呼びたいとは思わない。というわけで、披露する機会もほとんどなく、ただただほんっとうの自分ひとりだけで満足、喜んでいるだけの趣味で、これが何になるというのだろう、としばしば思う。なのに。ある一定の時間を過ごしたとして、もしそこでピアノの練習をしたならば、程度はともかくとして1曲の素晴らしい曲を理解し、弾けるようになるのだ。それはなんだか魔法のような、特別なことのような気がする。
いろんな演奏家の弾き方を聴き比べたりして、あ、ここにはこんなメロディーが隠れてたんだ、とか、こんな弾き方も素敵!とか思ったりして、部屋に引きこもって練習。ちょっと上手になったかも、なんて一人で感動。客観的に見たら孤独でしかないのに、そこには、自分にしかわからない、曲との密かな対話、交流がある。CDなどを聞いていても、そのピアニストと対話をしているような気持ちになったりしている。
など、書いていたら、さぞたくさん練習しているのだろう、と思われるかもしれませんが、大して練習してません。ハハ。でも仕事で遅くなっても、10分は弾こう、そうすると気づけば30分があっという間、ということもある。アマチュアでもものすごく上手な人はたくさんいるけれど、私はそこまで熱心なわけでもない。ゆるい。ほんっとうになーんの役にも、誰のためにもならないのに、細々と続けてしまうし、深めていきたい悩ましい趣味なのだ。
こういうのってなんなんだろう。どういう満足感なのだろう。自分でも謎だ。人生の成功者、みたいに言われる人とは真逆な人間なのではないだろうか。
最近思うこと。「やりたいこと」があるかないか、という話がよくあるけれど。そのやりたいことが「仕事として」になると、私の場合、途端に何もなくなってしまうのだけど。どういう形でもかまわない「やりたいことは?」と問われたら、いまはひとつある。そしてそれにはもう一つ条件があって、もし自分がお金持ちだったら、とか、宝くじが当たったら何をする、と考える遊びも絡めて言えば。
私、音大に行ってみたい。音楽家になりたいとはまったく思わないのだけど、本当に自由に、その先のことも、それをする目的(その先のこと)とかも考えなくていい、と言われたら、音大のピアノ科に行って、勉強してみたいなぁ。年甲斐もなく。
※愛読書と言っていいかもしれない?