詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

深さをはかって

2017年05月30日 | 
青さに深いという形容は
ひとが捉えた感覚です
けれど銀河のように地上を遠く離れている

紫陽花はその色で
リトマス試験紙のように
雨にぬれる土のphを測る

けれど鉢植えの紫陽花は
もう花ひらいていて
初めからその青さを見染められたのだ

見知らぬ街角のように
夢見がちな白を抱いた
まだ淡いブルーだった

わたしはベランダに降り立つ
街路に背を向け
じょうろから先の虹でつながる

土がほどけてしまえば
紫陽花は大きな頭をがっくりと垂れ
夕闇に沈みこんでしまう

わたしは夕闇に紛れ込ませるくらいの
わずかに意地悪な本能をくすぐられながら
朝晩朝晩水を遣る

うなだれた首は立ち上がる
街が翳っていく中に
紫陽花は色づき上気する

錯覚だろうか
思わず目を凝らした
青色が深くなっている気がする

道端では当たり前に見てきた変化を
我が家のベランダでは
降ってきた星くずのように思う

この紫陽花はわたしのものだ
けれどわたしよりもたくさんの大気に触れて
そらに属している

吸いあげる栄養が
胸に深く青を染み込ませる
やわらかで緊密な法則がある

青い焔のように花びら
ますます深くなっていく



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自転車

2017年05月18日 | 
好きな曲を口ずさんで
自転車を漕いでいたら
三十くらい若くなって
空は穴だらけ

すんなりと脚が伸びて
もう誰も私の名前を呼ばなくなって
(そうなればもう)風に乗って走っている
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2017年05月17日 | 
人類の大きな発明
それは光
光を名付けうるものだと
気がついたこと

このなにか
物と物を分け
人びとの顔に目鼻を与え
隅の隅まで
奥の奥まで
無数の触手を伸ばしていくものを

と名付けたこと

おかげでわたしたちは
目に見えぬもの
音楽やだれかの言葉
未来という概念にさえ
光を見出せるようになった

アップルティー
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仮想

2017年05月15日 | 
どんなに突き放して考えてみても
あなたは私の風景に
モザイクのように嵌め込まれている

本を開いたまま眠ってしまうこと
レストランで注文を決めのに時間がかかること
レモンティーが好きなこと
小さく砕かれて敷き詰められていった

足りないものは瞬いて
ひっきりなしにアピールをする
けれどあなたのように
もはや満ち満ちて
ひとつになっているものには気づけない

その欠落の可能性を想ってみる

それは胸から千切れる雲母のきらら
かさかさする線維質をもろくして
剥がれ落ちる絶縁体

薄い空気を吸ったり吐いたりして
風景から意味がぼろぼろと
こぼれ落ちいくのを見ている

私がどのように私であるのか
私自身わかってはおらず
私はほとんどあなたであったと気がつく

空はそのまま大きな青い窓で
その見えない向こう側
あなたはいつも隠れている

きっと私は
雨だれのように甘美になるだろう
もしもあなたを失えば
経験したことのない新しい光が
くずれた廃墟の間から
射し込むことを想って
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心地よいすみっこ4

2017年05月08日 | 雑記
引っ越しで忙しくて更新できない……というのは言い訳。

でも片付け(物をしまう場所を決める)は決断の連続なので、脳をたくさん使ってしまって、とてもくたびれてしまって。休んだ気のしないGWが終わることを悲痛な気持ちで思っていたけれど、会社に行って元気になった。

本棚にエーリック・フロムという人の『自由からの逃走』という本がもう20年くらい差してあってその背表紙だけは何度も読んでいて、もう内容もわかった気になって、確かに確かに、と、思っている。私も、自由苦手(本の内容は今の日本にもつながる、もっと恐ろしい話だと思うけれど)。

私の理想は村上春樹さんで、自分の力でなんでもできる、自分の人生を自分で自分の思うようにしていける、ということなのだけれど、その両極端かと思うほど、ぜんぜんだめ。なんにもできない。自由な時間がたくさんあるとかえって、なんにもできない、の気持ちにがんじがらめになる。

そうして休日こそ、片付けをパッパッパーとやってしまって、文章を書いたりすればいいのに、ネガティヴな気持ちに囚われていて、重力が普段の5倍ぐらい。

一応、心のGに抗って、いろいろと、ちょこちょこと、詩も書きかけてはみる。でもどれもなかなか進まない。それで心地良いすみっこシリーズで難をしのごうという考え。

ピアノの上に置いているお気に入りのランプ。


高松に住んでいたとき、Little Garden というカフェがありました。個人のお宅で趣味が高じて素晴らしいお庭を作ってしまい、もったいないのでみんなが楽しめるようにとお庭を公開して、お茶も飲める、という素敵なところ。夢見心地になれるところ。そこで購入したランプ。ご夫婦でお庭に凝っているのだけれど、そのときすでに定年退職されていたご主人は、現役の頃も徹夜で庭造りに没頭していたらしい。つまり昼間は会社、夜は庭造り、という生活。すごい!考えられない。私には、とてもムリ。

ご主人はとてもおしゃべり好きな方で、私はガーデニングどころか、植木鉢さえ、ムスカリさんひと鉢しかお世話をしていないのだけれど、興味津々で夢中になってお話を聞いた。

そのとき、私は初めての言葉に出会ったのだ。
「水平をとる」という言い方。
意味はニュアンスでなんとなくわかったけれど、え、水平をとる!?
お店を後にした車中で、すぐ夫に尋ねた。「水平をとる、水平をとる、水平をとるとるとるだって、水平を、こう奪(と)っちゃうの?」手をすべらせる真似。

「水平を取る」とは、水平を作る、ということなのですね。技術職系の夫には、普通の言い方だったらしい。あの方も技術職なのかもしれないね。雰囲気からして、もしかしてあそこの会社にお勤めだった人かもしれないね、なんて盛り上がったのだけれど、技術職でなくてもみんな知ってる言い方だったか、もしや。恥ずかしや。

その後もLittle Gardenには何度か足を運んだ。他県など遠方含め、いろんなお庭を訪ねるツアーも定期的に開催されていて、とても参加したかったけれどいつも開催が平日だったので、残念無念なことに参加できずじまいだった。

高松は大好きなところがたくさんあったけれど、いまも心に残るそんな場所のひとつ。また行きたい。

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