たくさんの日々を重ねていても、並木を縦に見るように、わずかな差異を見通すのみで、何十年の思い出がたった一本のように感じられる。丁寧に歩いていけば木々はばらけて、一本一本違う形。けれど、コツコツと積み重ねられてきた愛が、振り返るとたったひとつの象徴に集約されてしまって。ばらしていく作業が苦痛だと本能は気づいているのかもしれない。
カーテンがそっとひるがえり、今日の風を感じてこれからの気温を予測している、そのような時間の運び方、首の傾け方で、上手に思い出すのにふさわしい角度があるようだと気がつく。探り当てるまでは知りもしない、流れこむのにふさわしい面の傾き。風で揺れる影によって知らされる光。セルフィッシュ。
互いの入り乱れていく迷路を、わたしの論理で水のように攻めてはいかないで。曲がり角で、ふいに出会わなくてはいけない。たとえば鳥のように舞い込む手紙。呼気が四つ折りの跡を広げ、意図せず、出会う。経緯を持たない、別の人の視線を通して、あの人らしさが生き生きとよみがえる。ほんのわずかな隙間に、過去から流れてくるかげろう。見逃さず、かるく掬い取る。像が壊れてしまうから、水面を揺らさないように。
再びあの人らしさに会うために。再びわたしの感情に出会うために。あの人の愛を見なくてもいい。個性を唱えることはできなくて、目をつむると空気がひたすらすり抜けていく。ただその気配でしまっておけるように。そばに佇んでいるだけで、あの人だとわかったように。
早い涙で繰り返し洗いすぎて繊維になった感情を、健康な日差しの庭にひろげて、ふんわり真っ白なタオルに戻したい。風で揺れる影によって知らされる光。セルフィッシュ。
どんな気持ちでその日々を生きていたのか、からだのなかを流れていた水、生まれたてのままキラキラ流れていた水が、枯れ始めているようで、だんだんわからなくなってきて。ときどき、カーテンがひるがえる。