詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

文学部って

2015年02月22日 | 雑記
文学部が必要かどうか、という話をときどき見かけます。
文学を勉強して何になる、というような意見に対して
うーん、そうかなぁ、そんなもんかなぁ、そうかもしれない、かなぁ
と自分の中で説得力のある答えを出せずにいました。
(それほど熱心に考えたわけではありませんが)

ちなみに私は英語がまったくできない英米文学科卒業生で
学生時代にもアルバイト仲間に「なんちゃって英米文」と言われ、
そもそも受験のときから併願した学校によって
哲学科で申し込んでみたり仏文科で申し込んでみたりするようないいかげんな選択で
大学時代の勉強に関して何も胸を張れるようなところがありません。
1年生のときは特にひどく、体育だけがAA(一番良い評価)だった気がします……。

理系で卒業をした夫を見ていると、
私もはなから文学部と決めつけずに、
数学や化学や物理なんかもがんばって
理系を目指せばよかったなぁなんて、
都合の良いことを思ったりもしていました、正直。
(いまとなっては、理系の勉強がすごく面白そうに見えるし!)

でも最近のニュースを見ていて、ふと
やっぱり、文学って大事かも、だから文学部があって
何百人に一人かもしれないけれど、文学を専門に研究する人を育てたり、
その他大勢が4年間文学について思い巡らしたりする(のんきすぎ?)
こともいいことなのかも、と突然思い始めたのでした。
自分の中で急に説得力がむくむくと盛り上がってきたのでした。

たとえば国の何か政策とかなんでも、大事なことを決めるときに
文学的な観点がものすごく大切なのではないか、と思ったのです。

人間の考える「幸せ」は、考えてみると
そもそも、ちょっと言葉の使い方がおかしいかもしれませんが
仮想的なものなのだろうなぁと思うのです。
私は自分で言うのもなんですが、ものすごく平和な人間で暴力的なことは大嫌いです。
だから自転車をこぐのもものすごくのんびりしています。
(この「だから」には、家からお隣さんまでアリさんが歩いていく、くらいの飛躍がありますが)
車でも気付くと時速30キロメートルくらいになってしまい、
高松では田んぼの間であおられたりしていました。
(逆にまわりをイライラさせて事故になるからちゃんと流れにのるように、
と注意されて、努力しています。努力したいと思います。)
日々、普通に暮らせることの幸せをちょっと過剰なくらいに感じています。
「毎日、ごはんがおいしくてほんとに幸せ」と言うと
「それ、まったくおんなじこと言ってた人知ってる。
オレのおばあちゃんだけど。そのときおばあちゃん80歳過ぎてたけど」
と夫に言われ、笑ってしまいました。
屋根のあるところにいられることも、夜、温かいお風呂に入れることも
布団でぬくぬくできることも、本当に幸せ。
(日本昔話の歌みたいですね)
でも、生き物ってそもそもそういう暮らしはしていないのですよね。
ちゅちゅちゅちゅと鳴いて、トテトテトテと細い足で歩く小鳥がどんなにかわいくても
寒さや飢えや嵐なんかに耐えて、私などには到底できないような
(できなくてもしなくちゃいけなくなったらしなくちゃいけない)
激しく厳しい現実を生きているのですよね。
人は食べるために、狭い囲いに鶏を入れて、
早く育てるために夜でも電気を点けっぱなしで太らせて殺してしまうんですよね。
そういうことを思いはしても、やっぱり食べてるんですよね。
環境はもちろん破壊して。
人の幸せ自体がそもそも不自然の上に成り立っているのですよね。

だから(この「だから」には地球と月までを
ロケットで一気に飛ぶくらいの飛躍がありますが)
人間的な生活をできるだけ長く、より良く続けていくためには
動物的でない、人間的な想像力がたくさん必要なのだと思うのです。
それを提供してくれるのが、文学(ちょっと通販番組みたい……)。
文学の世界、文学と親しんだ精神なのではないかと。
科学にだって文学的な心が必要です。
進歩しか知らない科学にストーッッップ!というのは、たぶん文学の役割です。
文学を取り入れると話がややこしくなって、
話を先に進めたり、次の解決策を見つけ出すのに苦労してしまうので
排除されてしまいがちだと思うのですが
人間生活が成熟して、世界は小さくなってその分軋轢が大きくなって
それぞれの振り回せる暴力の大きさがはんぱなくなってきたときにこそ
文学的な想像力なしでは恐ろしいことになる(もうなっているけれど)と
私が言ってもあまり説得力はありませんが、思うのです。

さきほどサンデーモーニングを見ていましたが、無人殺人機とか。
自宅から通勤している兵士が、テレビゲームみたいに
地球の反対側にいる人を爆撃できるとか。
それを作るだけではなく、他の国に輸出するとか。
こういうのを見ているともうやけっぱちな気持ちになって
ああ、きっと、やっぱり人間は最後は殺し合っておわるんだろうね!
と暴言を吐きたくなり、食卓も一気に荒れてしまいます。
(ISのニュースが流れ始めて私がそれに釘付けになっていると
急いでチャンネルを変えるようになった夫。
ニュースを見て、気持ちが荒れて、それで発した言葉が
まわりの人の気持ちをまた荒らすんだな、と反省しています……)

文学って何?
誰かがどこかで書いたこと。
いろんな人がいろんな暮らしがいろんな出来事がいろんな考えがあるんだなぁと知ること。
みんなそれぞれ一生懸命生きているんだなぁと思うこと。
世界と人の心のふくらみを味わうこと。
(そしてこんな人の暮らし、人の心のふくらみってバーチャルだよね、
と自分で突っ込みを入れて苦しくなること。実は、逃げてます。人間社会と同じように)
いろんなものに耳を傾ける訓練。立ち止まること。
ちょっと立ち止まって耳を傾けてみること。
そして想像すること(イマジンですね!)。

自分がいまできているかどうかはともかく、
世界の平和のために大事なことの一番最初は、自分が平和な気持ちになることで、
その次にまわりの人の気持ちの平和を思いやることではないかと一応思っています。
因果応報。
世界はつながっているのだから(特にいまはうっとうしいくらいに!)
自分が発したもの、生み出したものは、自分に返ってくるんですよね。
たとえば、電車ですれ違った人に、ぶつかって、「ちっ」と舌打ちしたりするとします。
そうされた人は実は最近つらいことばかりで、とても惨めな気持ちになっている。
そこにまた他人の冷たさを感じさせられる、
小さいかもしれないけど出来事があって、
鬱屈していたものが爆発して何か大きな犯罪を犯してしまうかもしれない。
その結果をたとえばニュースで見たりして、
「ひどい人もいるよね~」と言っている私が、
実はその人の導火線に火を点けていたのだとしたら。
きっと、ただすれ違うだけの人の心に対してさえ、みんな責任がある。

大きな力を持っている人はなおさら。
いくら自分だけの幸せを願ったところで、
それを叶えるために誰かを苦しめていたら、
苦しめられた人達が社会に仕返しをする。
あなたに関係のないことじゃない、
あなたのいる社会にあなたは毒を撒き散らしているんだよ
と、言いたい。

無人殺人機を作ったり、輸出したりすることは、
お金儲けになったとしても、それは結局自分のところに返ってくる
自分もいる社会にそんな凶器、というより狂気を送りこんでいるのだ
と、想像しないのかな、と思うのですが。

けれど、文学的な主張というのは、きっととても弱くて
というのは、きっと効果は東洋医学のようなものだから
ゆっくりじわじわ効くもので、効果が見えにくいんです。
まして、それを知らない人に効能を伝えることはとても難しい。
(私がそれを知っているかと言われると、声は急に小さくなります……)

でも、大きなところ、国の方向性とか、政策とか、
いろんな問題を考え、決定して行くときに、
文学的な観点が入っていたら、きっとずっと違うものになっていくだろうと夢見るのです。

なんて、熱心に勉強したわけでもない私が言うのもなんだな、と思うのですが
せっかくブログを開いているので、ふと思ったことを書いてみました。
話がとっても大げさになってしまいましたが、どうでしょうか。

うーん、気のせいかもしれない。

文学として私がイメージしているものがずれているかもしれないし
そもそも私も「美しい夢を見たい」という欲望の為に
他の人が大切にしている何かをたくさん切り捨てているのかもしれない。

「大切なものは目に見えない」のイメージ


目に見える大切なものもたくさんあるけれど


『星の王子様』は確かに良いですよね


本棚をガサゴソしていると、たまにこういうのが出てきて面白い
書いたことはなんとなく覚えているけれど、いつ頃、どんな気持ちで書いたか忘れてしまって
なんだか知らない自分に出会ったような気持ち。裏はチラシだし。
(文章は『星の王子様』の一節です)

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館内に響く声

2015年02月21日 | 
どこかで人の話す声が響き
反響は館内の広がりを存分に試して
それ以外の静けさを際立たせている
踊り場を照らす照明と
階段の折れ曲がった手すりの影が
自分が死んでいることに気付かない亡霊のように
じっと聞き耳を立てている

声は抑揚も二人の性格の違いも知らせるのに
内容は響きに包んでもらさない
大事なのは言葉じゃない
残響が耳元でささやく
そうかしら?
つぶやきもすぐに響きとなって
他の記憶を追いかける

鞠のように跳ねる子どもの声
きっと幼い兄達の
階下からはテナーの優しく響く父の声
ソプラノを低く抑えた母の声
横に長く伸び
土地の起伏に合わせて
上がったり下がったりする
施設の人となにやら話をしている
あたりは木の葉のさざめきを乗せた風の吹く白樺林

響きは館内をあちこち寄り道したあとで
柔らかい土に飛び出していく
大切な思い出のように落ちている
木漏れ日に憧れて
太陽の光と同時に
みんながいっせいに振り返るので
急に弱々しくなり消えてしまう

閉じ込められてこその命だったのか
声が死ぬと意識が戻ってくる
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休日

2015年02月14日 | 
月火水木金
はたらいて
迎えるあくる日の朝
私の頭は爆発している
アトムになっている
ちんぷんかんぷん

選手たちに走れ走れ
コーチが腕をぐるぐる振り回すような
それは時計の針だったかもしれないけど
そんな平日が暮れて
その勢いのまま
布団にスライディング
髪を乾かさずに
寝てしまうから

せっかくのお休みも
平日のための準備
台所では市場のように
魚が飛び交う
それは頭の中のことだった
かもしれないけど

昔は嫌だった
生活とはなんだ?
生きるための活動
明日のための準備
それが昨日も今日も明日も
ずっと続いていくのが嫌だった
たぶんそういうことだった
暮らしを排除して排除して
もしくは大急ぎで通過して
散歩ばかりして
空っぽになって帰ってきて
さびしかった

少しは歳をとって
生活のための生活も
いまを味わっているのだと
たとえば来週のために
菜っぱを茹でながら思うようになった
いまはどこにも行かず、ここにある
裏の空き地は隣の家へと続く過程ではなくて
そのものでみずみずしい緑の芝生なのだ

台所の前は大きな窓で明るい
こごっているように見えるほど
ゆったりと流れる川を下っていく
両側には白い家々が並んでいる
心は凪ぎ
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絵葉書

2015年02月08日 | 
車窓からの景色を眺めていると
ふいに絵葉書が届く
いつのどれの
もう思い出せない旅先から

写っていたのは
ありふれた街の角
ふたりで歩いていた気分
倦怠感も色あせればセピア色

ふたりはきっかけを探している
誰かの日常と私たちの非日常
揺れて
溶けあって
夢の中のあの坂につながっている
心を裏返しにしてつくったひとつのカプセルに入って
外からやってくる不機嫌も苛立ちもときめきも
ふたりを布で巻き付けるようにタイトにする
だから疲れが蔦のように管を巻いても
風景を絡めとって
一枚の絵葉書は刷り上がる

気まぐれな便り
いつどこに届けようか考えもせず
自分でも気付かぬうちに
ポケットから出しいつのまにか
未来の自分に宛てて
するっとポストに入れているから
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小さい私

2015年02月02日 | 
甘えとか欲とか妥協?迎合 とかの間で
何よりも未熟さのせいで
できることはとても小さくて
早朝の寒さにさえ負けてしまいそうで
そのことにがっかりして
余計に負けてしまいそうになるけど

ため息にも似たあくびを噛み殺して
コーヒーを飲んで
私の中の暗い夜が
数時間も遅れてようやく
しらじらと明け始めるのを見逃さず
小さくても
できることがあることのしあわせを思い
手のひらの上の米粒をほめたたえる

あちらこちらから
ダメダメダメと張り手があって
とても小さくなってしまったけど
この小さい囲いの中で
かえって
押入れに閉じこもった子どものように
ぬくぬくのびのびしている心がある
薄汚れたビルの大きな扉の上に
ステンドグラスのような彩色の絵が嵌っていて
その絵の成り立ちも画家の心の風景も
いまなら深くわかるのだ
とブランコに乗っているような気持ちで思うのだ

どっちを向いて
何を願えば良いのかも
もうわからなくなってしまって
くうを見つめようとする顔を
無理矢理引き戻して
とりあえず目の前の作業に
たくさんの仕切りを置いて
小さく小さく
集中してみる
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