詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

愛とか(『薔薇の名前』の感想のような……)

2015年12月12日 | 雑記
少し前のことになりますが、『薔薇の名前』をようやく読み終わりました。ずっと前に映画で見てとても面白かったし、いつからか実家の本棚にあるのを目にしていたけれど、いまになってようやく読んだというわけなのです。何年、何十年?!経っていても、映画の印象が強くて、読んでいてもバスカヴィルのウィリアムはショーン・コネリーで、アドソはクリスチャン・スレーターになってしまいます。

異端の話、教皇と皇帝の権力闘争などは途中からよくわからなくなってきてしまいましたが、そのあたりは忍耐したとしても、やっぱりとても面白かったです。ウィリアムとアドソがいいですよね。わが師ウィリアムとか言って、その教養や、頭脳明晰(そして考え方が現代的で、中庸で、こんな人ばかりが異端審問官だったら、政治家だったらいいのに)を尊敬しながらも、ちょっとした虚栄心というか見栄というか、を冷静に見ていて、今風に言えば突っ込みを入れるアドソ。物語の冒頭からこの師弟コンビに親しみを感じられるから一緒に謎の中に入っていけるし、クライマックスの悲しさを共に感じるのですよね。

ところで、物語だけで存分に味わえなければ、と思うのに、理解力の乏しい私はついつい解説(翻訳者 河島英昭氏による)を読んでフムフム、と勉強してしまうのでした。いろいろと感じたところはあるのですが、今回書きたかったのは、「ウンベルト・エーコは記号への愛のために『薔薇の名前』を書いた。」という文章について、ということにしておきましょう。

解説を読んで、この長い物語を思い出し、また最後のウィリアムとアドソの会話を思い出し、塵ほどのわずかな知識ながら歴史のことや人間のことを思ってみたりし、ほとんど何も知らないながら、文学とか人間の知識とかということを思ってみたりし、自分自身のことにも結びついて、いろんな部分が星座にとってのひとつひとつの星のように、自分の中でつながって、光っているような感覚があるのですが、それが何かと言い表すのは難しく、もどかしいです。

とても書きたいことがあるのですが、長くなりすぎるので、そこは端折って、解説で取り上げられていて、そこで再び読んで再び感銘を受けた文章を載せておいて少しすっきりしましょう。
「すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、そのなかでは一切の事物が創造者の広大無辺な善意を物語り、そのなかでは、一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪のささやかな薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付せられた注解となるのだが、」

ここには記号学者である作者の記号とは何かという考えも映されていて、そしてさらに感動的(?)なことについて、恥しながら解説によって私は知るのですが、それについて語りたい、という気持ちと踏みとどまる気持ちがあって、その中間がこのような半端な文章となっております……。

学者や博学の人々のようにはいかないけれど、私も私なりにその一巻の書物を読みたい。それには注意深さと、きっと愛が必要なのでしょう。そして愛というのはとても積極的なものなのだろうと最近思います。積極的な愛でなければ読めない文字がたくさんあるのでしょう。私はこれまであまりできていませんでした。愛する才能は生まれつきの気質によるのだとは思いたくない。自分を変えるのは難しいけれど、少しずつでもできるようになりたいです。

『薔薇の名前』というタイトルの意味が深くてすごいし、かっこいい!

『薔薇の名前』上・下
ウンベルト・エーコ著
河島英昭 訳
東京創元社
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おつかい

2015年12月12日 | 
四つ辻の先、行き止まり
その向こうにあるものは空しか知らない
目的地は決められていても
それを忘れてしまうのは得意だから立ち止まる
大きなビルが道をあけ
いつも夕方のような冬の陽が
女の子の髪と瞳の色を薄くして
ふんわりさせると
身体の周りで散っていた火花が
急に静かになった

堅い靴音が後ろからやってきて
やわらかく追い越して行った
私もすぐに私を追い越したり
遅れをとったりして
ぴたりと同じ歩調で歩けることは稀だし
一緒になったと思っても
またすぐに追い越したり
遅れていったりしてしまう

わびしさを飾るだけのショーウィンドウの中に
埃を被っている古い西洋人形をのぞく
昔、家にも同じようなものがあった
子どもにとってはかわいさよりも
不気味さのほうが際立って
茶色の靴を脱ぎ履きできるとわかって
脱がせたり履かせたりして
気持ち悪さも少しは抱きしめられる気がした

私たちを産んだ女性たちはみな母だけれど
娘の私たちみなが母になるわけではなく
産むことのなかった女性は
ほんのひとときこの世のどこかに
誰にも知られずに自分でさえ気付かずに
娘や息子を育てていたりするのかもしれない

眼球が裏へ帰る
行き先や歩く速度よりも
誰かが自動販売機に投入したコインのような
遠いわずかずつの力を信じてしまうので
頭の中の地図はぷつりぷつりと途切れていて
どの角を曲がっても近付けない場所が
標識を立てて浮かんでいる
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