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詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

『ロ短調ミサ』

2025年07月19日 | 雑記

明日はサントリーホールにバッハ・コレギウム・ジャパンの『ロ短調ミサ』を聴きにいく。この曲をちゃんと聴きに行くのは初めてで、ここ2週間ほどは毎日予習。といっても仕事帰りに聴くだけだけど。

この作品には少し親しみがある。亡くなった父が、参加していた合唱団で歌っていた。曲名を耳にしていたし、良い曲だという印象もあった。でもメロディーは思い出せなかった。

アルバムを見てびっくり。全部で27曲もある。父が入っていたのはアマチュア合唱団だったから、さすがにその全てを父は歌っていなかったと思う。

聴いてみると、知っている気がする曲はいくつもある。でも、このバッハ作品、大半は過去の曲のパロディだそうなので、父が歌っていて耳に残っているのか、それとも別で聴いたのかは、もはやわからない。

バッハはルター派プロテスタントの教会音楽家だったのに、なぜ、カトリック礼拝のためのミサ曲を書いたのか。そこには、事情があったのだそう。

以下のサイトにて予備知識を得る。
https://ontomo-mag.com/article/column/messe-in-h-moll/
サイト名:ONTOMO
タイトル:《ロ短調ミサ曲》はなぜ名曲と言われるのか〜特殊な成立事情と込められたバッハの願い
 筆者:加藤浩子

27曲を何周もしているうちに、聴いて心地の良い曲がどんどん増えてくる。中でも、はっとするような曲が浮かび上がってきた。

前奏なしで突然、男女混声の力強い宣言のようなSanctusで始まる。男性のみのSanctusがその後、2回続き、女性の明るい波動のような声を背景に、厳かな男性パートがオクターブで上下しながら下降していく、その下降の4段目あたりで短調のような翳りが入る。その一方で、女性のヴォカリーズというのだろうか、「ア」だけで発する歌声はあくまでも明るく上昇しているように感じる。その微妙に変化していく掛け合いが素晴らしく、曲が始まった瞬間から、はっと覚醒するように気持ちが高まり、翳りにぎゅっと胸を掴まれ、それを持ち上げる女性コーラスに、天からの光を浴びているような喜びを感じる。

曲名は「Sanctus Dominus Deus Sabaoth」

キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイという5つの言葉は、ミサの通常文と呼ばれ、ミサ曲はこれらを基本に構成されているのだそう。父が合唱団で歌っていたので、この5つの言葉には私も馴染みがあり、意味もわかるし、続く言葉を覚えているものもある。

この曲のタイトルもデウスまでは分かった。でもサバオスがわからない。馴染みがなく、意味の想像がつかない新鮮な単語!実際は英語ではサベイオス、ラテン語……と思いきやギリシャ語では、サバオトと読むらしい。

ちなみにあらためてネットサーフィンしてみると、キリエ エレイソンはギリシャ語らしく、アニュス デイはラテン語、そしてサバオトはヘブライ語由来のギリシャ語……。

旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で、カトリック教会ではラテン語が使われ……なので、ミサの曲名だけでも素人にはややこしいことになっている!

サバオトは、「軍隊」や「軍勢」を意味するヘブライ語のギリシャ語形で、新約聖書では、ローマ人への手紙4章に「主、万軍の神(Lord Sabaoth)」という言葉で出てくるらしい。

聖書を開いてみると、該当箇所以上にその先に書かれていることが気になってしまった。イスラエルは正しいことを行おうとしたが、信仰を持たなかったために律法にかなうことができなかった、とあり、つい最近、エマニュエル・トッド氏がイスラエルについて、殺人が自己目的化している、信仰がないのではないか、と語っていた文藝春秋の記事を思い出したからだ。

話が逸れてしまった。「神の軍隊」。この言葉に納得した。神の背後に控えるたくさんの天使たち。「Sanctus Dominus Deus Sabaoth」を聴いていると映像が見えてくるような気がする。きっと男性のコーラスは神を表していて、神が階段を厳かに降りてくる。その後光(天使たち)が、さざなみのように上昇していく。その明るい色が見えるような気がする。

この曲は基本の5曲のうちのサンクトゥス部分で、バッハ以外にも、モーツァルトやベートーヴェンなど、様々な作曲家による曲があるようだ。

さて、『ロ短調ミサ』は明日に迫っているのに、Sanctusにばかり注目しすぎて、他の曲が疎かになってしまった。他の曲ももちろん美しくて、またコンサートの後はしばらくこの壮大な音楽に浸る日々が続くと思う。

パンフレットを購入するのも楽しみの一つ。事前に調べればわかるはずだけど、敢えて調べず、明日、曲を聴きながら(といってもコンサートの前や休憩や後になるかな?)歌詞を読んで、繰り広げられる音の景色を楽しみたい。

※ちなみに調べたところによると、この曲はニ長調だそうで、どうして4段目が翳りに感じられるのか知りたいのだけれど、絶対音感もないし、音楽の知識もなく、どうやって調べたら良いのかわかりません……。

明日のリーフレット。折り目のついた写真になってしまったアセアセ
意味もなく、バッグ(A4がギリギリ入らない)に入れて持ち歩いているものでアセアセ

 
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芽生える

2025年07月19日 | 雑記

一年で一番、日の長い土曜日に、オープンして約4ヶ月のできたて本屋さん、Sprout Books and Artに行ってきた。二子玉川駅から歩いて5分のおしゃれな一角。

Instagramで見て小さな書店であることはわかっていたので、置いてあるかどうかも考えず、とりあえず、いま買いたいと思う本のメモを作っていった。しかし、全く心配なかった。メモなど開く必要もなく、次々欲しい本📕が見つかった。

店名のSprout、好奇心の芽が育っていくようにと、三つの柱(歴史、アート、哲学……?違ったかも💦忘れんぼですみません!)を軸に、その時々でテーマを設けて、本をセレクトして置いているそう。

その意図にまんまと嵌められた私は書店の中ほどにある展示用テーブルのまわりをぐるぐると何周もしてしまい、最終的に、ウィリアム・モリスの壁紙のデザインの小さなノートを1冊と、本を10冊も購入してしまった。私にとっては、爆買い、と言ってもいい数だと思う。

〜*〜*〜*〜*〜

いろいろ気になった結果、脈絡のない感じになった。
これで購入した本のうちの半分💦

〜*〜*〜*〜*〜

本は中身ももちろんだけれど、やっぱりジャケ買いだってしてしまう。それは決して悪いことではない、はず。でもジャケ買いとは恐らくまた別で、家に持って帰った後に、時には何年も経ってから、あーあ、と思う本があることに、だんだん気がつくようになり、そうなりそうな本かどうかを判断して買うようになった。

本を買って失敗することは全然ありだし、ずっと読まない本が置いてあるのも良いと思っている。その時、自分の核心(があるとして)に触れてこなくても、いつか自分の核の一片になる可能性もある。自分には難しすぎる本だってそう。ファッションとして買ってしまう側面も大いにあり、でもそれによって、自分の内面的な世界が育っていく、深まっていくこともあって、だからファッションとして本を買うことはまったく問題ないと思っている。

でも、そういうのとはまた別で、ファッションとしてだけの本、みたいな本があるなぁという印象が自分の中にいつのまにかできあがっていた。どういう本をファッションにしかならなかった、と感じるのか、これを機会に考えてみたけれど、案外と一筋縄ではいかなかった。恐らく、それは本に原因があるというよりは、その本を買うだけで素敵な状態になれると安易に思ってしまった自分が原因なのだと思う。そんな自分をいかにも浮薄だ、と感じるのだと思う。

自分の本との向き合い方。何が自分にとって大事なのかを決める覚悟を持たず、なんとなくその場の感覚を楽しんでいる自分の浮薄さ。いまは少しは成長して、ジャケ買い含め雰囲気で買ったとしても、ファッションでは終わらせないぞ、と以前よりはきっと思っている。そういうふうに終わらない本を選んでいるつもり。

人生の残り時間の目盛りもメモリーも気になるようになり、お金はもちろん時間的にも、無駄遣いになるかどうかのチェックが少しずつ厳しくなっていて、そのための技も洗練させていく必要がある。その奥義はきっと自分の中の優先順位をちゃんとわかっているかどうか、なのだろう。

〜*〜*〜*〜*〜
こちらの本はカバーというのか、表紙が思わず手に取りたくなる美しさ。
実際に手に取ってみると柔らかな厚みがある。赤と黄の花ぎれもきれい。
紙の側面(天・小口・地)は金色。
全見開きページにカラーのイラストが入っていて、1,980円はとってもお得ではないでしょうか!

 

〜*〜*〜*〜*〜

ちなみに、本を読むこと自体に費やすお金と時間についても、ときどき自分の中での意識調査が入り、本をあまり買わない時期も周期的に訪れる。現在は、本を読んでいこう、という時期。けっこう太めの周期なのではないかと思っている。

言葉を読むこと、読むことによって何かを感じたり、理解したり、学んだりすることが自分には合っている、というか、好きなのかもしれないと、何回目かの周期を経ていま、あらためて感じていて、だからこれからも本を読んでいきたいし、自分も言葉に袖を通し、それらが生き生き輝くような身のこなしをしたいと思う。

というわけで、我が家にはいま、積読(濫読じゃないんかい)の嵐が来ている。
しばらくは、Sprout Books and Artで購入した本に溺れたいと思います。

お店のマークもかわいい

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ブログ引っ越しします

2025年06月09日 | 雑記

gooブログ終了にあたり、私も引っ越しいたします。
いままでお読みくださったみなさま、どうもありがとうございました。

◾️引っ越し先(アメブロ)

https://ameblo.jp/miolemon8/

もしよろしければ引っ越し先もお訪ねいただけたらうれしいです。

熱心に交流をしてこなかったですし、最近は記事のアップも滞りがちでしたのに、宣伝だけして恐縮ですが。

やはり少しさみしさがあるものですね。
約11年間、本当にお世話になりました。
ささやかな私の生活に寄り添ってくださり、ありがとうございました。



 

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時空を超えた話

2024年10月31日 | 雑記

前職で、朝、日経新聞の読み合わせをしていた習慣が残り、いまも通勤電車では日経新聞に目を通すことにしている。座れたら寝るし、読みながらうつらうつらしていることも多いのだけれど。

「春秋」蘭で、9月に亡くなった写真家 細江英公について触れられていた。28歳の時に三島由紀夫の自宅へ撮影に行き、庭にあったホースをくわえさせたり、ぐるぐる巻きにしたりと無茶なことをした、とのエピソードに興味が湧いた。ネット検索してみると、ちょうどフジフイルムスクエアで企画写真展をやっているとのこと。

上野の東京都美術館で開催されている『田中一村展』に行った後、立ち寄ってみることにした。東京ミッドタウンに着いて、降り始めた雨を避けるようにフジフイルムスクエアに駆け込む。ところが、フロアを見てまわっても、それらしき展示がない。『鎌鼬(かまいたち)』とか『薔薇刑』とか、ネットで見て、モノクロゆえか、さらにどぎつく感じた作品が見当たらない。

ラッキーなことに、ロベール・ドアノー展が開かれている。あれれ?という気持ちをいったん置いて、これが『パリ郊外』かぁ、モノクロ写真は味わいがあるなぁ、など思いながら、ひと通り見た。それにしても細江英公展はどこなのか。ネットで再度調べるも、開催場所は写真歴史博物館と書いてある。ドアノー展の入り口を見直すと写真歴史博物館とある。

不思議な感覚。ここにいるのに、ここにあるはずのものが見えない。まるで同時に存在している別世界に来ている、もしくは別世界があるのに見えない、スライドした窓と窓の間、現実が二重映しになっているところに嵌まり込んでいるような感覚。

ところで、『スピード』でお馴染みだったコンビ、キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロック共演の『イルマーレ』という映画を観たことがある。

湖に建つガラス張りの家。家を囲む湖とそのほとりの景色の、時間や季節による変化の中に、部屋が浮かびあがっている。

その家に越してきた男性と、転居していった女性が、家のポストで手紙のやりとりをするようになる。やがて、二人は二年の時を隔てて文通をしていることがわかる。サンドラ・ブロック演じるケイトが手紙を投函したり、返事を受け取ったりするために訪れるこの家では、その手紙を受け取ったり、返事を書いたりしているはずのキアヌ・リーブス演じるアレックスはおらず、一方、転居していったはずのケイトから手紙を受け取るアレックスは、この家にはしばらく人は住んでいなかったはずなのに、と思うのだ。

以前、似たようなことがあった。あくまで自分の感覚的に、ということだけれど。新宿NSビルのタリーズで、夜、夫と待ち合わせをした。夫から着いたと連絡があり、私は少し遅れてタリーズに着いた。ひと通り席を見て回ったが、夫の姿が見えない。携帯で電話する。「タリーズに着いたけど、いる?」「いるよ」「姿が見えないんだけど」

すごく不思議な感覚だった。『イルマーレ』の映画の中のように、二人が違う時空にいるような感じがした。同じ場所にいるのに、透明なガラスを隔てたようにずれがあって、重ならない。実は、同じビルにタリーズが二つあっただけだったのだけれど(そのことにもびっくりしたけど)、その不思議な感触は、頭の中というより身体感覚として残っている。

フジフイルムスクエアでの不思議も、『細江英公特別展』のサイトをあらためて見直してみれば、一年前の開催だっただけなのだけれど、自分のおバカさ加減に苦笑しつつも、その一瞬、時空を飛び越えたような感じがした。新宿NSビルのタリーズでの感覚が蘇り、その向こうには、ガラス張りの湖畔の家があった。

映画を観た後にはそんな感覚が自分の中に残るとは思ってもいなかった。でも、いつのまにか自分の身体感覚を作る風景の一部になっている。ちょっとした体験が重なり、その体験を捉える際のイメージの源が映像の中にあったことに初めて気がついた。

あの映画(もとは韓国映画がオリジナルのようで、そちらはまだ観ていない)は、湖の中に建つガラス張りの家であることが重要だったのだということにも、こうして時を経て初めて気がついた。邦題は『イルマーレ』という劇中に出てくるレストランの名前だけれど、原題は『The Lake House』(韓国のオリジナルは『イルマーレ』がタイトルらしい。ちなみにイルマーレはイタリア語で海という意味だそう)。

ガラス、そして湖という水。どちらも周囲の景色を映す媒体で、だからこそ、現実を二重にしながら、それらを映したままで、揺れ動いたりする。

ある映画が自分の中に風景やイメージを作っていて、そのイメージが、窓を通して見る世界のように、思わぬタイミングの他愛ない出来事の重なりに、時間と空間という奥行きを映して揺れた。

心象風景は、はかない。骨は何万年も残るかもしれない。でも、心の中にある景色はすぐに他の印象や記憶に埋もれ溶けてなくなる。わずかに残った感覚のモザイクも、体ではないのに、死とともに消えてなくなる。体ではないから、かもしれない。波紋で像がいっとき壊れても、頑固に景色を戻そうとする水面とは異なり、そこにないものまでも映すがゆえに、隠れてしまった景色もまた、たくさんある。

 

周囲の世界をかたどる水の表情の豊かさ

立山 室堂のミクリガ池では、さざなみが生み出す細かな光と陰が、ゆっくりと、渡り鳥のように水面の空を渡っていった。

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最高の時は演出できない、という恐れ3

2024年09月27日 | 雑記

※行為を目指す人、状態を目指す人
(行為を目指す人も、行為後の達成感など、最終的には状態を目指しているのかもしれないけれど、きっかけとしては行為することに気持ちが動くのでは)

状態を目指すと、受け身になりがち?

「最高の時は演出できない、という恐れ」というタイトルで書いてみた雑記
1では、心身は時々刻々と変化していくから、「最高の時」は、偶然にしか得られないのではないか、と考えた。

2では、自分はなぜ計画を立てるのが苦手なのか、それは、自分がいつも、偶然得られるような感覚的な「最高の時」を求めてしまうからなのではないか、と考えた。

3では、私とは、まるで違うタイプの人について考えてみる。

ある友人は週末を利用して登山に行く。その実現のため、平日のうちに家事を片付けておくらしい。仕事を終えた夜のうちにてきぱきと。えー!ずっと忙しいじゃん。ずっと疲れるじゃん。ぜんぜんゆっくりできないじゃん。

休みといえば、のんびりするとこ、と思ってしまう私には信じられない感覚だ。しかし友人は、仕事では外から縛られてしまう時間を、休日、計画を立てて行動し、自分の思う通りに使う、ということでリフレッシュできるらしい。

なるほど。そういう感じ方もあるのだ。どんな時を「最高」と感じるかは人によって違う。その違いによって、選択の仕方、時間の過ごし方、大げさに言えば生き方も変わる。

感じ方は生来のものと思ってしまうけれど、実際は習得された考え方によって決まる、変わる、のではないか。

その結果は、どんなふうであっても、いいのだけれど、近頃の私は計画を立てられるようになりたいと思っている。そうして自分を少し違う場所に連れて行けるようになりたい。自ら意図することによって。

そうなると、「最高の時」に出会える偶然を期待するような受け身な姿勢ではダメだなぁと思う。自分の中にこれをしたいこうしたい、がないから、目の前に現れる様々な用事(プラス自らの雑念やちょっとした気晴らし)に自分の時間が埋もれてしまう。

なんの座標もない見渡す限り大海原の波間のようなところに自ら任意の錨をおろしていき、自分はこれとこれとこれを目印にして生きています、と言えることが大人らしい態度、というか力強い生き方なのではないだろうか。偶然出会える快感という波を当てにしてはいけない。自分の快感の種類を変えなくてはいけないのではないか。

友人を例に考えてみれば、彼は身体に負荷がかからず楽であることを求めているのではなく、自分が決めたことを実行したこと、さらに経験を重ねてより良い登山を実現していくことに快感を覚えているのだ。なんと健康的で逞しい精神だろうか。

自分がこうしたい、と思ったことを、自ら行動することで叶えられたら素敵だなぁ。それを「最高の時」と思えるようにならなければ。さて私は何を叶えたいだろうか。

しかし……。何のために?

考え始めると、自ら目標を定めてそのために行動することを理想と考える、それさえも軽い波に押し流されてしまう。それが自然と身についていたのではない、私のようなタイプがそれを真似したところで、「私はこれをしています」と、誰とも知れない誰かに向かって言いたいだけの、つまらない自尊心なのかもしれない。しかし、さらにあらためて考えてみると、誰とも知れない誰かに向かって(つまり自分に向かって)言いたいだけの自尊心こそが何より大切なような気もする……。

そうして一回りして、何を考えたことにもならない思い巡らしをする中でも、どこにも到達できる気がしないことばかりの中で、自分にとって大切、と感じられる場所に関しては、重めの錨を降ろしておこうかな、などと思う。演出できない「最高の時」のことなど当てにせず、自分がそれを大切にしている、ということに、喜び、というか、自分の確かさを感じて生きていける、というふうでありたい。

追記1
こうしてあれこれ考えると、計画を立てるというのは、人間らしい営みだな、と思う。知的な生物として、というよりは、生物の本能に従えば、やらないだろうようなことをしてしまうこと。計画というブイを浮かべても、いろんな要因という潮で流されてしまうのに、あきらめずに一生懸命元に戻そうとしたり、流されたところでなんとかしたり、また新たな計画を立ててみたり。そうやって、文明の飛距離を伸ばしてきたのだなぁ。私などは計画を立てることの意味すら押し流されてしまって、生きるための生活ばかり。

追記2
恐ろしいことに、「最高の時」は味わっている現時点だけでは足りず、過去についても評価がなされ、それもまた時につれ変化する。いつ時点の「最高」に照準を定めたらいいのか、そこにもその人の生き方考え方が現れてしまっている。

追記3
当記事が停滞(繋留)している間に堀江敏幸『河岸忘日抄』を読み進む。
「つまり、受け身を重ねてできた石の形姿や大きさは、そのまま石の個性だと言っていいのではないでしょうか」by枕木さん

 

「最高の時」は演出できない、という恐れ 1 - 詩と写真 *ミオ*

転職先の新しい職場はこれまでよりも朝がゆっくり。楽でいいと思ったけど、通勤電車の混雑がピークになってしまうので、結局、始業の一時間前に出勤するようになった。職場...

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「最高の時」は演出できない、という恐れ 2 - 詩と写真 *ミオ*

たとえば、七月から九月の間で夏休みを三日取っていいですよ、と言われたとする。三連休とくっつけて海外に行こう、といった計画を立てるなら、必然的に休みを取る日は絞ら...

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夕焼けを見ながら、十年という時の長さについて考えていた

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