詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

「最高の時」は演出できない、という恐れ 2

2024年07月21日 | 雑記

たとえば、七月から九月の間で夏休みを三日取っていいですよ、と言われたとする。三連休とくっつけて海外に行こう、といった計画を立てるなら、必然的に休みを取る日は絞られてくる。

しかし、まだ新人(この歳で)で、いつが忙しいかもまだよくわかってないし、業務のコントロールも難しいし、さすがにそれは無理かな、と考え、三日間を自由にバラバラに取る、と考えると話が違ってくる。私は途方に暮れてしまう。一体いつ休みを取って、それを何に充てたらいいのか。いずれの日にも必然性がないのに、それらを任意でどこかに当てはめなければならない難しさ!

そんなふうになってしまうのは、もしかして、私がその休みによって得たいものが「偶然だけがもたらしてくれるような快感」だからなのではないか。

いつ、どのように休みを取れば、そんなことは可能になるのか……。いつまで経っても決まらないわけだ。いつにしたところで、何をすると決めたところで、求めている快感を得られるのか確信を持てないのだから。そりゃ持てないはずだ。意図したって、いや、意図するからこそ、得られないものなのだから。

刻々と変わる私の「身体」が求めるものに照準を定めてしまっては、動き続ける的を追いかけるようなもので、それが一ヶ月後にどこにあるか定めよ、みたいなこと、できるわけがなかった。

なのに、私はそのように生きてきたらしいのだ。どこに行ったら、何をしたら、仕事の前の夏ギフトカタログパラパラほど、快感を得られるのか、みたいなことを思っていたのだ。意図すればするほど、そこから外れてしまうというのに。

***

まだ続く……

偶然見つけて最高の時を過ごしたコンサート 青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂にて

 

「最高の時」は演出できない、という恐れ 1 - 詩と写真 *ミオ*

転職先の新しい職場はこれまでよりも朝がゆっくり。楽でいいと思ったけど、通勤電車の混雑がピークになってしまうので、結局、始業の一時間前に出勤するようになった。職場...

goo blog

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「最高の時」は演出できない、という恐れ 1

2024年07月06日 | 雑記

転職先の新しい職場はこれまでよりも朝がゆっくり。楽でいいと思ったけど、通勤電車の混雑がピークになってしまうので、結局、始業の一時間前に出勤するようになった。

職場の近くのファミマで淹れたてコーヒーを買っていくのは前職からの習慣。

私は朝が弱く、布団から身を引き剥がすのも大変だし、生まれたてのゾンビ……、じゃなかった、死にたてのゾンビみたいに世を儚んで、フラフラしながら通勤電車に乗っている。電車を降りたら、重い体を引きずって、ようやく職場に着く。

不要な荷物をロッカーに放り込んで、パソコンのスイッチを入れて席に座ると、買ってきたアイスコーヒーを手元に引き寄せる。慌てるのが苦手な、のんびりタイプのゾンビなので、始業時間に業務をスムーズに開始できるように、大量に届くメールを仕分けしたり、自分のフォルダを整理したり、といった気楽なことをして、溶けかかった体を朝に慣らす。冷たい闇(アイス・コーヒー)の力を借りながら。

カフェインを注入し、自分のペースで、静かに何かしらの作業をしていると、体がしっかりとし始め、ゾンビだった私も人として息を吹き返す。

ところで、数日前から、私の机の脇には、郵便局の夏ギフトのカタログが置いてあった。会社に届いたものだが、経理の方から「見るならどうぞ〜」と渡されたのだ。捨てることもできず、しばらくそのままになっていた。

また別の話だが、労働法規に厳しい同期入社の人から、「始業前に仕事をする必要なんてないですよ」と言われて(なのにその人は始業の三時間くらい前に来て、掃除機をかけたり、給茶機の水を替えたりしてくれている!)、それもそうかぁ、少し自分のことに有意義に時間を使おうかしら、と思った。

そんなこんなで、ふと、郵便局の夏ギフトから夫の両親に何か贈ろうか、と思いついた。明日は始業前の、このゾンビから人へと生まれ変わる変身タイムを使って、カタログをパラパラめくろっと、と思った。

翌日、フラフラゾンビはいつものように暑さと怠さを乗り越えて職場に辿り着き、ひと通りの机のセットを終えて、アイスコーヒーを片手に夏ギフトをパラパラし始めた。旬の果物の詰め合わせ。果物の入ったゼリー。水ようかん。ジュースなどなど。なんとも喉ごしさわやかな誌面。なんか、心地良い。いやなんだか、異様に気持ちいい。もしかしていま、最高の時間かも。

あまりに気持ちがいいので、この時間をもっと延長したい、と思って、仕事が終わったらカタログを持って喫茶店に行こうかな、などと考えた。

いやしかし。長さは充分あるけれど、豊かさは乏しい私の経験からでも容易に予想がついた。実際にそうしたとしても、この心地良さは再現できないのだと。意図してできるものではないのだと。そうしよう、と決めた時点で何か違うものになってしまう。意図には「気分の無視」が付きものだからだ。

「え?カタログを始業前にパラパラしようと、前日から意図してたじゃん」と、ここまで読んでくださった方は思うかもしれない。でもそこで意図したのは行為であって、心地良くなること、ではなかったのだ。

そうだ、最高の心地良さは偶然にしか出会えない。心地良さを目指した途端、体の感覚は無視されてしまう。さらには、何に心地良さを感じるか、その条件は自分の中で、刻々と変わっていく。気温、湿度、体調、気分、少し前の出来事への忸怩たる思い。これから起こるであろうことへの期待や不安。これらが様々組み合わさって、いま、私にとって一番心地良いものは変化していく。

そんなふうに考えていると、ふとまた別のこと、自分の精神構造が、見えてきた。なぜ計画を立てるのが苦手なのか。もっと正確に言うなら、なぜ、必然性のないところで計画を立てるのが苦手なのか。

ほんとどうでもいい話で恐縮ですが、次回に続く。

きれいな空を見ると、気分は上向く。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のお天気 2024/5/31

2024年06月09日 | 雑記

夜になると、「ああ今日もなんとか終わった。ようやく布団に入れる」などと、うれしく思って、一日が終わることを大喜びしている。

そうやって何気なく過ごす一日一日に、私は確実に歳を取り、感じて考えて過ごしていることを、惜しむことなく忘れてしまう。私の人生は、重さのない感じた考えたことの見えない山積でしかないのに。

5/26(日)に日本の南の海上で発生した台風一号は、今日、温帯低気圧に変わった。

傘を差して家を出る。台風ではなくなったとはいえ、今日も雨。

このところ、身体なのか、気持ちなのか、疲れが取れない感じがする。のんびりできる時間もあるのに、なんだか休んだ気がしない。重く感じる体で家を出ると、雨だけど、ベタベタせずに、ひんやりした空気が心地いい。

道路の横断歩道のあたりにできた水たまりが細長い銀色の川のように見えて、その水面にたくさんの小さな透明な王冠があちらこちらと跳ねまわっている。

紫陽花の色は鮮やかで、学校の裏側の、いまはまだ誰もいない部室の静けさ、翳っている窓とそこに差し掛かる青々とした木々の枝葉との遠近感が、思い出す自分の高校時代のように、近くて遠く、幼い頃からこの距離をずっと眺めてきたような気がする。

空気なのか気持ちなのか、いろんなものの輪郭がくっきりと見える。そのことに目が覚めるような気持ちになる。体に芯が通り、足取りがしっかりする。見るということに強い意思はなかったけれど。見ているということは生きているということなのだとふと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すぐれている、という名前

2024年04月28日 | 雑記

誰それが優秀、とか、優れている、というときの、「優秀」「優れている」というのは、様々にある特徴のうちのひとつの名前なのではないか、とふと思うことがある。

ピアノの技術が優れている、記憶力が優れている、といった言い方であれば、それはそうなのかもしれないけれど、ある人を指して「優れている」というのは、一体どういうことなのだろう、と思ったりする。

人がそのように誰かのことを評価することを違和感なく聞いてしまうし、自分自身ももしかして誰かのことをそんなふうに言ったりしているかもしれないのだけれど。

人が「優秀」「優れている」というのは、一体どういうことなのだろうか。何かの分野で名を成したり、目立った業績を残したり、物事をどんどん進めることができたり、など、成果を出している、ということなのだとは、私にも分かっているけれど。

でも、それは一つの特徴にすぎないのではないか、と思ったりする。成果を出せる行動ができる、ということには、きっといくつか、もしくはたくさんの要素があって、その人はたまたまそういう行動もしくは思考をすることのできる特徴を持った人だった。努力や訓練でそうなれた、という人もたくさんいるだろうけれど、そういう方向に向かえる努力や訓練を発見し、積み重ねられる要素を持てる、という特徴を備えた人だったのかもしれない。

結果的に人に見える形で、今の世の中で認められる形で、何かをした人は、「優れている」と呼ばれる。「優れた人」だから、そういう結果を残せたわけではない。

A「これこれこういうことをしたから、あの人は優れている」という文と、B「あの人は優れているから、これこれこういうことができたのだ」という文とは、イコールのようだけど、実は大きな違いがあるのではないか、と思う。私の感覚としては、Aは真になり得るかもしれないけれど、Bは真ではなく、下手をすると優生思想のような危険な考え方になり得るかもしれないと思う。

三角形の内角の和は必ず180度になる、というような数学的、化学的な原理、法則とは異なり、ある人が真理として「優れた人」だから、成果を出せるのではなく、成果を出した人のこと、人が認めることをした人のことを「優れている」と言おう、ということに、人間界ではなっているだけのこと。

ある人がそのようであるには、その人なりの必然があり、それに対して評価をするということは、自然界の真理的な側面から見れば、できないはずだと思う。「優れている人」というのは、都合のいい人、という意味で言われる「良い人」と同じように、人間界的に、ある意味では都合のいい人にすぎないのではと思う。

なぜかというと、生物としては、本来は、多様な個体がいてくれないと困る、群れとしては、女王がいれば、そこに、突出することのないたくさんの働き者や、2割の怠け者(力温存派)がいなくては困る。いろんな遺伝子を持った個体がいてくれないと、一つの災害や、パンデミックで全滅してしまう。そんな摂理の中では、あらゆる個性はなんらかの役割を演じる特徴にすぎず、そこに優劣はない。「優れている」は真理ではなく、誰かが名づける名前なのだと思う。

それなのに、時々、人は、というか、私は、AとBを混同して、Bの言い方をしてしまい、さらには思い込んでしまう。ある人が優れている=特別な存在である=特別に大切にすべき人である=(天とか、運命、といった人を超えた世界から)選ばれた人である。だから、逆の発想も働く。

人間界で生きる私たちだから、人間界的に都合が良く、価値があると感じさせる分かりやすい結果・特徴を持っている人を大事にしてしまうのは、当然のことかもしれないけれど、それは、人の思惑によるものであり、真理ではない、ということを忘れないようにしたい、と思う。「結局人間界で生きているのだから、真理がどうとか関係ない」と思うかもしれないけれど、そんな時は思い出したい。真理ではない、人の思惑だから、ひっくり返ることもままある、ということを。

言葉のすごいところは、「優れている」という言葉だって、何に使っても自由だということだ。「優れている」という言葉を硬直的に使ってしまうのは、言葉のせいではなく、使用する人のせいで、たとえば世間では「怠け者」と言われる人のことを「みんなが必死で働いている中でも、動じずに怠けていられるなんて、あの人は優れている」などと言うことだってできる。

人間界で幅を利かせる価値観にのっかって生活することは、人間界で生きる私たちにはとても重要なことだとは思うけれど、「それは本当の本当の真理ではない」と、時には距離を置いて見てみることも必要だな、と思う。

*つくば海浜公園 ネモフィラ*







 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感じると考える

2024年02月12日 | 雑記

〜〜*簡単な目次*〜〜

1.ピアノの練習をきっかけに考えたこと

2.目標を持つこと

3.私の「感じる」そして「考える」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

1.ピアノの練習をきっかけに考えたこと

もうすぐピアノの発表会がある。選択した曲は私のレベルではとても難しく、どうしたら少しでも美しく弾けるだろうかと悩みつつ練習している。

 

テンポが早い上に、オクターブでの跳躍も多く、なんとなくの練習ではいつまで経っても弾けるようにならない。音も多い。ペダルも難しい。自然かつ美しい表現ができるようになるには、私のレベルでは、どれほどの細かい配慮と組み立て、それを実現するための練習が必要かと思ってしまう。

 

自宅には電子ピアノしかなく、これで練習することも効果はあると思っていたけれど、今回、その限界をあらためて感じた。

 

そうなると、これまでにも、たくさんの時間を無駄にしてきたのかもしれない、と思えてきた。もし明確な目標を持って取り組んでいたなら、「そこに到達できない」ということによって、練習の仕方のまずさにもっと早く気がつけたかもしれない、と思った。

※発表会間近のいまは、電子ピアノはあまり触らないようにして、実家のアップライトで練習している。

 

2.目標を持つこと

目標を持つことの大切さはよく聞く。

でも私にとっての自然な「感じる」では、あまりその言葉がピンと来なかった。

それは

・目標を持って達成したい何かがなかったからかもしれない。

・目標を持ってまっしぐらになることで見えなくなる散歩道が魅力的に思えてしまう人間だからかもしれない。

 

それとも

・多くの人も訓練によって、目標を持つことが必要だと考え→感じるというレベルにまで引き上げ(引き下げ?)ているのかもしれない。

 

目標を持つことで先ほどの例のように、やり方のまずさに気がつき、効率よくできることは、たくさんあったのかもしれない。理想から逆算してネジを巻いて生きないと、人生はあっという間に終わってしまう。

 

こういう時、「考える」が必要になるのかもしれない。特に、私のように「感じる」に突き動かされることを待ってしまう人間には。自分の「感じる」では見えてこない「目標を持つことの重要性」、それを一つの経験から類推して、敷衍して?他の物事を見てみる。

 

そう考えると、目標……、というより期日を決めるというのは大切なことかも、と感じた。ピアノの発表会という期日があることで、そこに焦点を合わせて、できることできないことの目算をする。これがすごく大事なのだといまさら気がついた。期日を決めることで、いまから自分にできる理想像を考え、それを実現するための練習に時間とエネルギーを集中できる。

 

期日を決めるというのは、夢想の理想像の代わりに現実的に描ける理想像を据えて、現実的な努力ができるようにするための(そしてそれは物事を前に進めるためにとても重要なこと)一番の方法なのかもしれない。

 

そう感じ、思ったならば、「目標とその期日を決める」をしていこうと決めて※、それを習慣にすることができるはず。

※ここで「考える」と書きたくなったけれど、ここはきっと「決める」なのだ。私は「決める」と言うべきところを、「考える」と言い換えて、とかく現状維持を選んでしまう。「決める」ことを躊躇させるのは何だろうか。間違った選択をして無駄な時間を過ごしてしまうこと、何かを見過ごしてしまうこと?でも選択をしないことで無駄にしている時間、見過ごしていることは、もっとずっと多い可能性もある。

 

3.私の「感じる」そして「考える」

さて、私にとっての「考える」とは。何を選択すべきか決めるために「考える」とは。できれば、「時間をかけて揺らしたい」。同じ一つのことを、いろんなタイミングで、手で重さを計るようなイメージで、揺らしてみたい。「いまはどう感じるかな」「いまはどうかな」と、いろんなシチュエーションでいろんな角度で感じてみたい。そうやって「感じる」をたくさん積み重ねると、自分にとってのそのものの適切な重さがわかってくるような気がする。そうなって初めて、「ではこうしよう」。そのように、答えを出したい。

 

とはいえ、「考える」は決めるためだけに使うものではない気がする。長期的に見れば、やはり、それによって何かを決めているのかもしれないけれど、心に浮かんだ疑問、疑問というほどにも形を成していないようなフワフワしたものをも、パッと捨ててしまわずに、自分の中に温めておく、という役割も大いにあるのではないか。それがなんの役に立つか。長い時間をかけて価値観、好き嫌い、より自分らしく、またより良い人間となるための「感じる」を育んでいるのではないだろうか。それらはまた何かを「決める」ときの土台を作っている。

※これが私の人生のテーマなのかもしれないとふと思った。

 

そして私は考える。「文章を書く」は何だろう。私にとっての何だろう。

それはきっと、「感じる」を受け止めて、「考える」につなげるためのトンネル。「考える」が豊かになると、今度は、「感じる」も玉虫色になる。トンネルから思わぬ言葉、もはや言葉を超えて触知するような幻のような言葉が生まれる。そんな夢を見る。

 

関連記事

 

考える - 詩と写真 *ミオ*

少し前、『考える』について、考えていた。『考える』についての考えは、少しずつ発展していったのだけれど、「もっとよく考えて整理したい」と思いながら、別のことに関心...

goo blog

 

 

 

感じる - 詩と写真 *ミオ*

以前、「考える」について書いた。考える-詩と写真*ミオ*少し前、『考える』について、考えていた。『考える』についての考えは、少しずつ発展していったのだけれど、「も...

goo blog

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする