詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

分けあう日

2016年08月31日 | 
雨と青とが空と一日を分けあっている。
すぐそこに晴れがあるのにわたしの前髪と頬は濡れてしまった。弾力のこぶを盛りあげて男たちがきらきらするしずくの向こうで笑った。

考えごとからふいと顔を出すと雲が濁っていた。傘を開くとまわりを歩く人々も、それぞれの時間で傘を開いたり閉じたりしていた。わたしははっきりしない気持ちと足取りで歩いたり立ちどまってみたりする。

塀にかけてある表札の会社名を一字ずつなぞって読んだ。ひっそりとしているけれど、それでもグラフは忙しくにらめっこしているだろうか。四階建てのビルの暗い窓をまぶしく見あげる。すると入り口から半袖シャツの少し日に焼けた若いサラリーマンが出てきた。表情を分けあっている顔を識別できなかった。

現状も衝動もつかまえられないのはいつものこと。それなのに、いつもいつも、傘から手を出して天気を確かめるみたいに、つかまえられない、と一生懸命に思っている。

スーパーマーケットのクリーム色のつるつるした桶の中で小さな蟹たちが騒いでいた。商売繁盛をしわがれた地声で歌っているようながちゃがちゃした音楽が、反乱を搔き消した。分かれていることがどこまでも続いている。

線路に沿って生えている雑草の揺れ具合や雷のころがり具合を確かめて歩き、風景の中でわたしがお母さんになる日とならない日が溶けあっている。

雨雲がとうとう青に空を明け渡した。
土手の草むらに夕日があたって緑色が金色の液に浸っている。トンボが似合う光の季節になってきた。
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虫の声

2016年08月27日 | 
そのどきどきでいろんなふうに聞こえる。
虫の声。

ステンドグラスの欠片が落ちている。蝉の翅の切れ端。色の濃さ透明さに思いきり身を震わせて破れてしまった。鋼を擦るような音がガラス製だ、と気付いた翌日の朝。

小さなヴィオロン弾きが無数に隠れている、鬱蒼とした樹々の間を自転車で駆け抜けていくとき。じぶんが水底へしずんでいく代わりに、明るいほうへ昇っていくあぶくたちが笑っているように聞こえる。

夜になり、熱気がきれいに地面に落ちて、さっと拭われたなら、パラフィン紙を重ねて息を吹きかけるような音が続く。紙は何枚も何枚も重ねられていて、風を通す一枚ごとに淡いスケッチが滲む。水風船。思い出すように耳を澄まして一枚一枚めくっていく。

思いに耽って、耳を伝い流れ落ちていた音が、はっと奥まで射し込んで、虫たちの多種に気付いたなら、闇の中に、色とりどりのしずくがぱっと飛び散る。昼間会った優しい笑顔が浮かんで消える。よくないことを告げるから、優しく穏やかな顔。

声は重なりあっていて、どの持ち主のものか聴き分けられない。パート練習だったり、三重奏、四重奏をふくらませていたり、大合奏だったりする。ハーモニーを楽しんでしまって、パズルを解いて、名前に結びつけたりしない。

いま、窓を閉めた。
外の暗がりが、室内を反射するガラスの明かりで閉め出された。スライドしながら景色を隔てて重ねる運動が、いまどの気持ちの風景も映していない顔の前を通り過ぎた。その瞬間、わたしはわたしを離れて、靴の中の小石のような気がかりを思いながら窓を閉めているじぶんを横から見ていた。何かをわかった気がした。けれどそれが何かをわからないまま、それが、わかる、ということなのかさえ、わからないまま、その瞬間は遠ざかった。虫の声は遠ざかった。隔たって。重なって。

眠るとき、まだ眠れないんだと騒ぐ声が外からじんじん響いてくることがある。布団に起きあがり、そっとカーテンをめくる。街灯が誰もいないアスファルトを白く照らしている。
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冷たい空き地

2016年08月21日 | 
草むらに置き去りにされた自転車に
車輪をつたって蔓草が這いのぼる
劇的な動きを時間の停止と見てしまう
悲しい知識がまとわりついている

すぐ横の敷地に建つ
スクラップ工場の曇った窓に
とかげの足指のような
とまどい、いいよどみ、
ことばにならなかったコト葉……
蔦のぷちぷちした吸盤が
ため息のように這いのぼる

アパートの一戸となりなだけで
ベランダから見える空き地の形はまるで変わり
荒れ放題の空き地が暗躍する
コの字がクの字に
クの字がホの字に
流れていた時間をぐっとつかみ
ゆがませる
さっと放って笑う

寝転がってテレビを見る父さんの
高々と組まれたすねのような芋を洗う母さん
だんだんと数が減っていく金魚を
金だらいに移し
金魚鉢の水を入れ替えるわたし
坊主頭をじっとして
きれいな尾ひれを目と指で追いかける弟

ベランダに干し切れなかった洗濯物が
竿一本で片付くようになったこと
さみしいとも豊かとも思うわたし
湯を沸かし急須に入れる茶っ葉の量を
わかるようになった
定年退職して幾年も経つ夫
食卓もひとまわり小さくなった

立ちあがるのにも苦労する
おなかをさすると誇らしく
その庇のほのかな日陰を見るわたし
今日も遅くなるだろう
携帯電話を少し忘れていたかった夫
向かいの部屋の明かりが
消えていくのを見ながら
タバコをすう

捨てられている傘やサンダル
まぎらせる草はつやつやしている
特徴のない木々の枝ぶりももう覚えている
丈高い木々が押し上げるので
空がずっと遠くに見える
森にいるかのように
澄んだ声で高らかに鳴く
姿の見えない鳥たちを
やさしく抱きあげている姿
電話が鳴る
ひとの言葉が耳にささやく
これから行くよ
シャワーを浴びる

捨てていった自覚もない生活の
音が拾われ続けている
もうすぐ空き地も捨てられる
車輪は輪切りのレモンのように
すっぱい汁を絞り
錆びついた夜をギコギコ回す
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飛行中

2016年08月17日 | 
飛行機の窓の外を見ていた
日は落ちて光だけ残っていた
地上では見えない赤が見える
雲が縁取った地球の形があり
赤はその雲の影絵を浮き上がらせる帯だった
闇の底では街の灯りの絨毯が退いていった
テリーヌのような二層の世界があった

写真を撮ろうと構えると
ガラスの抵抗にあう
明るい機内を強固に映し返してくる
視線とは、見えない線のことで
それはガラスを透過して
やすやすと濃紺の向こうへと届く

イヤホンを耳に押し込み
チャンネルを回した
ゴオオという音に
クラシックポップスタンゴが
かるがると乗っている
しっとり落ち着いた声のナレーション
小さく閉じ込められた頭の中で
品のいい部屋のように丸くひろがっている
マホガニーという言葉のように

機内誌をめくる
上質な旅、上質な暮らし
おしゃれな写真、おしゃれな文章
万年筆のためのコラム
物へのこだわりが人生への色気を感じさせる……かぁ
かっこいい仕事をしていて
世界中を飛び回っていて
そんな人が飛行機のシートに座っているところ
目に浮かぶ
顔はフレームアウトしている
そんな人生を送れると
わたしは思ったこともなかったな
自分からつかみに行くのだろうな
そういう人は
あらゆるものを
わたしは待ってしまうから

その万年筆は日本製で
富士山の標高がそのまま名前だと書いてあったから
勘違いすることなどないのに
そのぽってりした形を思い出すと
思わずモンブランになる
いつも百円のペンを使っているから

こんな色の万年筆を持っている人を見たら
やりますね、と思う、と書く
それこそやり手らしい執筆者の思惑に
まんまとはめられて
思わず買いたくなってしまうけど
上質なんて言葉を思い浮かべたのは
雲の上に浮かんでいたからなのだと思う
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ぐらぐらしてもぞもぞする

2016年08月14日 | 雑記
毎年恒例の家族旅行。私の両親と、私の兄弟の家族。合わせて10人。毎年同じところに行く。毎年行くなどと言っても、別荘のような高級なものではなくて、安い保養施設。けれど白樺林に囲まれた広い敷地に長い建物があって、スリッパでパタパタ歩くその廊下には横長の大きな窓があって、林の柔らかな地面にところどころ木漏れ日が落ちているのを眺めていると、胸がすーっとする。天に昇った人の笑顔をまた見つけたような不思議な穏やかさが降りてくる気がする。高原の空気、風、とてもさわやか。

旅行の少し前になるといつも、思春期のように、家族行事よりも自分のことをもっとなんとかしなくちゃいけない、もっと外に行かなくちゃいけない、と思ったりするのに、旅行から帰る頃にはいつも子どものようにさみしくなってしまう。甥っ子二人、子どももいるとにぎやかで楽しくて、みんなで一緒に住めないかなぁ、などと、本当に小学生みたいなことを思ってしまう。

昨年亡くなった先輩の言葉をふと思い出す。先輩と、同じサークルメンバー二人と私の合わせて四人で山登りに行ったことがあった。白馬三山縦走コース。白馬の大雪渓を登って、山頂アタックをして、杓子岳、白馬鑓へ。もう十年以上前のことなので、はっきりしないのだけれど、確か山小屋で二泊した。どこでだったか途中で、先輩が「みんなで旅行に行くと終わった後がさみしいんだよね。そのさみしいのが嫌で、行きたくないような気持ちになることがある」と言った。その言葉が自分の中でどういう位置を占めたのか、よくわからないけれど、「先輩、そんなこと言ってたな……」と、ずっと心に残っていた。

数日、生活を共にすると、家族のような特別な連帯感が生まれて、独特の空気感が生まれて、別れた後もその余韻が残る。その余韻を探してしまって、あーあ、終わっちゃったなぁと思う。大勢でワイワイしているときの自分は普段の自分とは違うようで、仲間の間でプカプカしていて満たされていて、それ以上なにもいらないような気がしてくる。仕事とか、なにか厳しいこととかが嫌になってしまって、よし、がんばろう、と思えなくなり、怖がりになり(これはオキシトシン効果なのではないかと思っている)、安楽なことばかりしていたくなる(これ以上?!)。詩を書こうと思う自分を奇妙な目で見遣ったりしている。

いまでもこんなだなんて、恥ずかしいことなのだろうけれど、いまだに、普段と違う人と一緒にいると、自分がぐらぐらする。普段とは何かというと、現在は、夫と暮らして、現在の勤務先に通っている、生活のパターン。まもなく二年になろうとする職場にもだいぶ慣れ、遠慮しながらも、能天気な私なものだから、かなり自分がこぼれ出てしまっていて、だけど、私はそう積極的に人と打ち解けようと努力するほうではないから、自分の柔らかい部分は隠してあるつもり。半分くらい閉じた自分の世界に入ってしまっている状態。ある程度固まっている状態。それが、たとえば、両親と一緒に時間を過ごす。すると安定している自分規定のようなものが、ぐらぐらとしてくる。昔のサークルの仲間と会ったり、夫の知り合いの家族に会ったりする。ぐらぐらする。自分はどんな人間なのかとか、妙に考えてしまう。自分がとても奇妙に思える。とても動揺してしまうのだけれど、普段の暮らしに戻れば、やがて、揺れていた水面が平らになるように、もとに落ち着く。毎度そうなのだからわかっているのに、毎度ぐらぐらして動揺する。さみしくもなる。

夫に以前、その話をしたら、「だからいいんじゃないの?いろんな人に会うことが」と言ってくれた。そうだなぁ、と思った。ほんの少し大変だけど、そうやってぐらぐらすることになんの意味が、と思ってしまいそうにもなるけれど、ぐらぐらしながら、安定を求めて、微調整のためにもぞもぞ動いているのが、いいのかもしれない。なんのためにかは、わからないけれど。本当の本当の本当の意味での安定のために、かな?

ところで、今年、子どもがいなかった兄のところ(私には兄が二人いる)にも子どもが生まれて恒例の旅行メンバーは来年から11人になる。うれしくてきっとまた、ぐらぐらぐらぐらしてしまう。











今月末には先輩の一周忌。去年の今頃はまだラインしてたな、などと思うと苦しいけれど、お墓参りに行く準備として、またいろいろ思い出してあげたい。
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