Blue Sky Love Sky

空を愛する者として各地を歩いた際の航空機の写真災害時の活用法などを掲載しています。現場の意見などコメントをください。

LM-1(多座連絡機)

2011-02-20 10:20:40 | 趣味・航空機
昭和29年3月からT-34の輸入機の組み立てを行っていた富士重工業は、前掲のKAL-1とほぼ同時期の昭和30年2月頃からT-34メンターを改造した多座連絡機LM-1を開発しており、それが昭和31年に陸上自衛隊に採用されて昭和32年9月までに27機が製造され納入されている。(富士重工業(株)30年史)その後海上自衛隊と陸上自衛隊がLM-1を能力向上させたKM-2型(陸自向けはLM-2型)が昭和36年~57年まで製造され、合計62機生産された。更に航空自衛隊がT-34の後継練習機としてT-3(KM-2B)を採用し、50機を超える生産をしている。LM-1の系列機は陸・海・空自衛隊の創設期の操縦・整備要員養成に大きくかかわった航空機であると言える。陸上自衛隊は、三菱重工業(株)が国産したMU-2型を改修し、陸上自衛隊の連絡偵察機としたLR-1が導入されるまでは、このLM-1が主として指揮連絡任務を行っていた。

KAL-1

2011-02-20 09:36:14 | 趣味・航空機
わが国の航空宇宙工業は、敗戦により軍用機はもとより民間機についても「民間機及び部品等の生産禁止指令(20.9.24)」によって製造が禁止され、昭和20年の暮れ頃までの3ヶ月間で、陸・海軍所属の航空機と民間機が徹底的に破壊され、12月31日付をもって航空機の生産・研究・実験をはじめとした一切の活動が禁止されてしまった。更に財閥解体によって、航空機を生産していた会社はことごとく複数の会社に分割されたため、多くの有能な技術者が分散してしまった。(「日本の航空宇宙工業50年の歩み」から抜粋)
朝鮮戦争が勃発して、米軍の航空機等の整備所要が大きくなり、嘗ての優秀な技術を持った航空機製造会社に修理・オーバーホールを要求する必要が出てきた。そこで、GHQは昭和27年4月6日を以って「兵器・航空機の生産禁止令を解除」した。ここにわが国の戦後の航空宇宙工業が再開されることになる。その後米軍からの修理・オーバーホールが増加し、航空機製造への意欲が高まっていた。
その頃「川崎岐阜製作所」が2機製造し、昭和28年7月に初飛行した航空機である。1機は、昭和29年7月に誕生したばかりの陸上自衛隊に研究用として納入された。1機は社有機として残し、改善が継続され、後にKAL-2(前輪式)として海・空自衛隊にそれぞれ1機が納入されている。当時米軍が使用していたT-34メンターを改善したLM-1も同時期に富士重工業(株)で製造されている。陸上自衛隊は、T-34メンターの改善型であるLM-1を採用してこの尾輪式のKAL-1及び、海・空に納入された前輪式のKAL-2もその後製造されることなく中止された。(「日本の航空宇宙工業50年の歩み」などを参考に記述)陸上自衛隊の航空部隊は、来年で創設60周年を迎えるが、その歴史を残そうと収集活動がOB会を中心に行われている。その活動で、写真のKAL-1をはじめ、創設期の頃にあった航空機を操縦・整備したことがある方に当時の事を回想していただき、文章として残す努力がされている。