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失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

小規模湿原

2007年02月04日 | 失われた風景

<尾瀬ヶ原からの至仏山>
 
   <ナガバノモウセンゴケ>                <ハッチョウトンボ>
湿原というと、尾瀬などの大規模なものを頭に浮かべると思いますが、ある種の条件があると、小規模な谷戸のようなところにも、モウセンゴケなどの湿原植生が現れるそうです。
岡山理科大学の波田善夫先生は、湿原が成立する条件を研究されています。(波田先生は、研究だけでなく、開発で消えていく湿原植物の移植も行っています。)
この中で、供給される水が貧栄養であることが挙げられていますが、この水の栄養の度合いをはかる尺度として、波田先生は電気伝導率(上記参照ページ中の表)を使っています。

電気伝導率については、波多先生のページでも解説されていますが、私の言葉で簡単に説明すると、その水がどれだけ電気を通しやすいか(イオン量が全部でどれだけあるか)の尺度ということになります。植物の生育に関係する窒素、リン、カリなどといったものを個別に測定せずに、全部まとめて表してしまおうという考え方です。ここで対象にしている湧水は、「貧栄養」と言われているように、水にあまり多くの物質が溶けていませんので、微妙な差を測るには、電気伝導率という一見大ざっぱな感じのする水質指標が、手ごろで有効だったというわけです。

私は多摩丘陵周辺では、このような小規模湿原を見たことはないのですが、本でみると、多摩ニュータウン開発前の永山にあったようです。また、八王子の鑓水の大谷戸?にもあった可能性があります。
・『大栗川・乞田川 流域の水と文化』小林宏一(2003)p.100
(引用開始)
「永山にあった湿地岩入りの池は、一部の人には重要性が認識されていたが、ニュータウン工事初期の昭和43年、保護意識がまだ高くなかった頃で、きちんとした調査が行われないまま、あっという間に埋め立てられてしまった。トキソウ、サギスゲ、モウセンゴケなどがあった。「ふるさと多摩 一号」」
(引用終わり)

・『絹の道 やり水に生きて』小林栄一 かたくら書店(1992)p.12-14
(引用開始)
「多摩丘陵の中の小さな村落である鑓水の、いたる所にある谷間や沢は、それぞれ異なった地質、地層があって、好奇心の強い少年時代の私は、よく一人で山の中や谷川沿いを歩きまわった。・・・
 その中で、一番不思議だと思う所が一ヶ所あった。それは大谷戸の沢の奥で、雑林の生えている約六畳か八畳間ほどの広さがある平坦地で、いつもこの地に足を入れると、心持ち足元がぐらつく様な感じがする。そこは楢やえごの木が生えていて、一見その周辺の山肌と何の変わっているところでもない。だが、その場所へ来て、両足をしっかりと踏んばって腰に力を入れて振って見ると、大地がユラユラと揺れ動く。・・・
 戦後、尾瀬の湿原の記事が新聞や雑誌の紙面を賑しテレビでも時々紹介されるようになったが、尾瀬の記事を読み、画面を凝視していると、あの少年の日に、行ってはゆすぶって見た、あの沢の雑木林の土地は、湿原に近い小規模のものでなかったとも想像して見る。」
(引用終わり)


以下は、10年近く前の古いデータですが、私が実測した電気伝導率の値です。波田先生の指標と比べてみると面白いと思います。尾瀬の水は私が今まで測った中では最小値です。

尾瀬(牛首ちかくの池塘1997.8.2)   5μS/cm pH 5.1
雨水(東京都府中市1997.12.31)   10μS/cm 
水道水(東京都府中市)     220-230μS/cm
静岡県柿田川最下流(1997.8.10)    170μS/cm 
国立市ママ下湧水(1997.8.10)     300μS/cm 
下水処理水(北多摩2号1999.12.26) 520μS/cm
(単位μS/cmの読み方:マイクロジーメンス毎センチメートル)
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横浜市 上飯田 柳明村

2006年12月17日 | 失われた風景
柳田國男の「水曜手帳」(『柳田國男全集3』ちくま文庫)に「柳明」という文章があります。一部抜粋してみます。

(引用開始)
「柳明という村だけは、一度諸君にも見せたい。こういう古くて美しくて、人に知られていない村も珍しいからである。いつの時代の宛て字か知らぬが、ヤナギミョウのミョウはもと開墾地の「名」であろうに、住民ももうその意味を忘れているのである。」p.11
「小田急江之島線の高座渋谷という駅から降りて、ほぼ東北に向って十四五町も行けばもうこの村である。」p.11
「何よりも珍しいのは村の形、境川の対岸の岡から眺めると、ほぼまっすぐに南北一列に、大きなゆったりとした屋敷ばかり並んでいるので、何か昔風の宿場を裏から見るような感じがする。村に入ってみるとこれがじつは表通りで、前をきれいな用水が流れ、家ごとに橋を架けている。流れに沿うて一筋の村路があるからである。私はこの路が中古の往還ではないかと思って、気をつけて歩いてみた。土地の人に教えられて知ったことは、村の南手にやや大ぶりな小山があって、それがこの辺一帯の風よけになっている。南風のひどい土地だから、風下へ風下へと分家をしたので、こうした一列の村ができたといっているが、一部分はほんとうのようである。」p.12
「別に羽太という一まきが五六戸あるが、それはすべて小山の裾を曲がってから向こうに固まっているという。」p.12
「石井という大百姓の拓いて住んだ村ということ」p.12
「村の民家は全部が西を向き、路を隔てた片側の田圃を見守っている。そうしてその向こうには境川の流れを前に控えて、城山という松の茂った岡があり、その周囲には幽かな土工の名残もあるという。」p.12
「柳明にはもと観音堂があって、大石寺という大きな寺があったと伝えられ、現在はそこが鎮守の御社になっている。」p.13

(引用終わり)
(引用者注:「ヤナギミョウ」と書かれていますが、地元の表示では「ヤナミョウ」です。)

柳田國男が、「一度諸君にも見せたい」「古くて美しい」「珍しい」と称えた「柳明村」は、今どうなっているのでしょう。当時の面影ははたして残っているのだろうか。

以下の写真は、すべて2006年12月16日撮影です。


地図でみると神奈中(神奈川中央交通)の上飯田車庫の横(地点1)を南に入っていくやや狭い道があります。

<<地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。>>

この道に沿って、蓋こそされているものの用水が確かに通っています。

<<写真1 右側は、神奈中の敷地。ガードレールの左に用水路>>

さらに南に進むと、左から下ってくる道とぶつかります。これを登ると柳明神社(地点2)、松並の交差点にでます。


<<写真2 柳明神社の一角から、下り道を写したもの。>>


<<写真3,分岐点から柳明神社に向う道の脇にある道祖神。右端の道祖神には、「文政五年十二月」(1822年)と刻まれている。>>

  
<<写真4 柳明神社境内にある石碑
「奉再興山王大権現」には、「寛政十一己未年」(1799年)と刻まれている。
「當寺本尊十一面観世音」には「宝暦十庚辰霜月吉日」(1760年)と刻まれている。>>

(年号の西暦換算は、宝月圭吾監修『要説日本史年表』(山川出版)の年号一覧表から、年号の始まる西暦年に(刻まれている年数-1年)を足し算した)

柳明神社から下の道に戻って、さらに南に進みました。この路沿いには確かに石井姓が多く見られます。
現在、羽太郷土資料館が地点3あたりですので、「風除けの小山」は、小山というより、境川の河岸丘陵が西に張り出し北向き斜面ができる部分のことのようです。地図の等高線では分りにくいかもしれませんが、写真5でビニールハウスの先に見えている丘陵と木立の部分あたりを指しているのでしょう。

<<写真5 ここもガードレールの左が水路です。>>


<<写真6 北向きの写真を一枚>>

羽太郷土資料館の前を通り、新幹線の高架下をくぐると、本興寺の下に出ました。境川左岸の丘陵はまだまだ続きますが、本興寺で引き返し、境川の対岸からの眺めを見てみることにしました。
最初に、大和南高校の前に登り、とりあえず対岸を撮ってみましたが、住宅にさえぎられて眺望はよくありません。大和南高校の屋上に登ればさぞかし良い眺めでしょうが、突然訪問して写真を撮らせてくださいと学校にかけ合う気力はありませんでした。学校の前の道を北に進むと、某会社の資材置き場(地点4)があり、ここからかろうじて眺望写真が撮れました。

<<パノラマ 写真のだいたい右半分に、今回歩いた道の背後の丘陵が写っている。画面中央よりやや左下、オレンジ色の柵に接するように見えている白い建物が神奈中の車庫付近。>>

「何か昔風の宿場を裏から見るような感じがする。」とはほど遠い印象です。
資材置き場付近には、「監視カメラ作動中」との表示があり、本日不審者1名と記録されたかもしれません。(これは冗談。立ち入り禁止の中には立ち入ってませんので。)

以下、地元の方がどう地域を考えているのかは、まったく調べずに、一見者の勝手な感想を書いてみます。
水路は蓋をされ、水田には、資材置き場や、ビニールハウスが出来て、対岸には団地が出来、新しい住宅も集落の中に出来つつあります。とは言え、ここは、寺家のふるさと村のような、あるいは営農+野外博物館的なありかただって可能なくらい、やはりユニークな場所に思えました。徐々に普通の住宅地に変わってしまうのは残念な風景だなと思いました。
コメント (4)
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埼玉県 大滝村 滝沢ダム水没地

2006年12月02日 | 失われた風景
荒川上流の中津川(秩父湖(二瀬ダム)の北側の谷)に、滝沢ダムが建設されました。
「平成17年12月に試験湛水が開始された」と
水資源機構の滝沢ダムのページhttp://www.water.go.jp/kanto/takizawa/html/index.html
に書いてあります。
今回は、大滝村(当時)の浜平集落付近をとりあげます。
撮影日は、1983年4月3日です。



浜平集落の民家から中津川下流方向 撮影位置はだいたい地図の地点1(水没地)



浜平集落の民家 撮影位置はだいたい地図の地点1(水没地)



浜平のバス停から北斜面を撮ったものと記憶する 位置はだいたい地図の地点2(水没地)



ダムサイト付近の川原 位置はだいたい地図の地点3(水没地)


以下の1点は、滝沢ダム水没地ではありませんが、
秩父湖の上流に栃本関跡があり、そこから西方向を撮ったものです。撮影地点は、地図の地点4です。
ネット上でもこの構図の写真は何点かありました。ここからの風景はあまり変わっていないようです。

栃本関跡の前から西方向 地図の地点4



地図 国土地理院 5万分の1地形図「三峰」 昭和49年編集 より
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国立市ママ下湧水(2)

2006年11月02日 | 失われた風景
撮影日時は(1)と同じである。

ママ下湧水付近の青柳崖線パノラマ。画面の中央付近にママ下湧水の主要な湧出点があった。



その主要湧出点の上を道路が通り、なんとなく無残な感じになった。湧水は涸れているわけではなかった。



道路西側の崖線下から見たところ



崖の上もだいぶ変わった。

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国立市ママ下湧水(1)

2006年11月01日 | 失われた風景
 ママ下湧水は、主要な湧出点の真上を道路が通って周辺の景観も大きく変わった。
 今回はビデオ映像からパノラマを作ってみた。パノラマ作成過程で画像欠落部分が黒く抜けるため、空の部分に限って色を塗り直した箇所がある。

 道路建設前は1996年8月4日撮影。建設後は2006年1月3日撮影。両者で季節が違うため比較するのは少々不公平であるが、木々の色の違い以上に道路による景観の変化は大きい。
 画面奥の道路(防音フェンスのあるもの)は中央自動車道である。
 ママ下湧水については別の地点からの画像があるので後で追加する予定である。


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府中市郷土の森開園前

2006年10月31日 | 失われた風景
府中郷土の森開園前後10年の比較。左は1982年4月5日撮影。右は1992年4月12日撮影。
左の写真は、いずれも失われた風景ではあるが、現在の風景の方が園として整備された結果美しくなっているとも言える。1982年当時は、水田、畑(キャベツ)、残土仮置き場?として利用されていた。



撮影地点1 現在の郷土の森の外(北西部)旧下河原線跡の緑道から北方向。



撮影地点2 現在の郷土の森園内から南方向(多摩川方向)を望む。左の画面で左右方向に通る土手は、多摩川の堤防とは別にもう一つ土手があったもの。右は、復元された第一小学校建物の2階から。



撮影地点3 現在の郷土の森園内から西方向(旧下河原線跡の緑道方向)。上述の土手のあたりから。
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日野市落川

2006年10月22日 | 失われた風景
日野市落川。現在の「府中四谷橋を日野側に渡って右側のヤマト運輸のあたり」。道路開通以前の用水路と田んぼの風景。現在は大部分が宅地になっている。


写真1 撮影日は1996年5月5日。


写真2 撮影日は1996年4月21日。写真1とほぼ同地点から南西方向の百草の丘陵を撮影したものと記憶する。
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八王子市別所

2006年10月21日 | 失われた風景
 第一回目の画像は、現・八王子市別所1付近の風景。
 現在の京王相模原線堀之内駅あたりから、尾根幹線道路付近まで、集落沿いに谷津田と雑木林の中をいく小さな道があった。

 撮影日は1983年3月。

写真1 撮影ポイントは現・別所1-23あたりか。写真のほぼ中央やや左下に赤く見えているのは蓮生寺の屋根である。現在の堀之内駅方向に向って写したもの。


写真2 写真1とほぼ同地点で反対方向を撮影したもの。この時点ですでに一部道路工事が始まっていたかもしれない。

 現在この風景はすでにないが、蓮生寺の裏山?や長池公園に、昔の姿が残っている。

 と思って「長池公園」で検索したらNPO Fusion長池さんのサイトに『開発前の由木村昔の風景』http://www.pompoco.or.jp/chiikitai/index_yugimukashi.htmのページがあった。
 これからの都市近郊の里山は、NPOなどの市民団体が、地元の農家の方などと協力しながら公園のネイチャーセンターや野外博物館といったところを拠点にして、守り創っていくのであろう。
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