秋に府中郷土の森を訪れました。紅葉がきれいだったことに加えて、むかしの道を行っているかのような気分を味わうことができて、
満ち足りたひとときでした。
府中郷土の森については開園前との比較を2006年10月と2012年4月に、民家園探訪として2010年10月に、
梅まつりのころの様子を2016年2月に取り上げました。今回は郷土の風景というテーマで少し(浅く)書いてみます。
「むかしの道を行っているかのような気分」と書いたのは、園内の木々が成長してだんだん森としてなじんできたなという印象を持ったからです。
「なじんできた」というのは、「そこが昔からそのような森だった」ような感じとでもいったらいいでしょうか。
森ではなかった場所が(
開園前の写真参照)、1987年の開園から34年で郷土の森に変わっています(*1)
園内の「はけ下」は府中崖線と多摩丘陵にはさまれた府中市の低地部を再現しているということです。そこ自体も浅い谷戸地形をなしているといえます。
そびえるけやきの木にさえぎられてさわがしい現代が及んでこない。そんな感じが昔の道の印象を与えたのでしょう。
府中市美術館には明治時代の府中を描いた絵が何点かあって、ちょっと上↑や下の写真↓のような感じの絵(*2)もありましたので、
「むかしの道」という感じもあながち独りよがりではないと思います。
「郷土の森」らしさとは何でしょうかね。
武蔵野の林のイメージというとやはり国木田独歩の影響が大きくて、「クヌギ・コナラ」の雑木林ということになりますが(*3)
<園内にはちゃんと「ハケの上」にクヌギ・コナラの雑木林があります>
農家の屋敷林や街道すじに近く遠く見えるケヤキも武蔵野の風景としては欠くことができない気がします。(*4)
『府中市の植生』(*5)には「自然保全のプランニング」として「大筋として配慮されなければならない考えられる2,3の点」
の一つに、「2。樹林の造成」として次のように記されています。
造成される樹林としては、武蔵野の、そして府中の自然を代表するようなものであると同時に、
その立地が成立を許容する植生でなければならないことはいうまでもない。現在の立地が成立を許容する潜在自然植生については、
別紙の潜在自然植生図に示されているが、造成される樹林はかならずしも自然植生に限られることはなく、その代償植生である
雑木林などの二次林を自然植生とともに造成することも、自然の多様性の維持という面から好ましいことと考えられる
上記引用文中の潜在自然植生図によると、今「郷土の森」となっている場所の潜在自然植生は「ハンノキークヌギ群落」となっています。
ここが「ハンノキークヌギ群落」に区分されたのは、開園前ここは水田(跡)だったことによるのでしょう。(*6)
その周囲は「シラカシ群集ケヤキ亜群集」です。開園に伴う土地造成により盛り土されていると思われますので、
現在は、潜在自然植生は園内も「シラカシ群集ケヤキ亜群集」と考えていいかもしれません。(*6)
ちなみに、ハンノキ林というと思い出すのは、
川崎市早野です。
以下、園内風景を2枚。
(写真撮影 2021年11月14日)
*1 「1987年4月 郷土の森博物館開館」(府中市政策総務部広報課 編集『あの日の府中』府中市 2010年 p.196)
府中郷土の森は「野外博物館」であって、鎮守の森を目指しているわけではないでしょうけれど、鎮守の森を作るとしたら100年かかると言われています。
「ススキ原からスタートした明治神宮林も百年経つと、潜在自然植生とほぼ同じ種組成の樹林となりつつあり、鎮守の森と呼べるものになっている。」(原田洋・矢ケ崎朋樹『環境を守る森をつくる』海青社 2016年 p.53)
*2 吉野博 「府中」 水彩 府中市美術館蔵
*3 国木田独歩『武蔵野』「林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。則ち木は重に楢の類で・・・」
*4 「武蔵野にはケヤキが非常に多い。クヌギやコナラの雑木林以外で、この地方の林や樹林群をなしている所には必ずといってよいほどケヤキが見うけられる」
奥富清・吉川順二・曽根伸典『府中市の植生』府中市 1975 p.57
*5 奥富清・吉川順二・曽根伸典『府中市の植生』府中市 1975 pp.65-66
*6 奥富清・吉川順二・曽根伸典『府中市の植生』府中市 1975 pp.42-43
Tab..3.潜在自然植生図作成指針 地形地質その他欄「シラカシ群集ケヤキ亜群集:段丘崖、自然堤防、沖積低地の人工盛土他、台地上の凹地、水はけの良い適湿地」
「ハンノキークヌギ群落:現在水田やナシ畑として利用されている沖積低地、河辺高水敷」