失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

中富 所沢市

2007年07月14日 | 残ってほしい風景

 上の写真は中富の集落の中を走る道路沿いのお宅。お茶の木が植えてある前庭が大変きれいだった。撮影は5月で、道路沿いの各所で製茶が行われており、お茶の香りがただよっていた。(製茶作業とは何をやっているのか知らなかったが、後日狭山市立博物館を訪れたところ製茶工程の展示があった。)

 
<中富の 左:「多聞院前交差点」と、右:「中富」交差点>


<中富の南の方、県道から>

<中富の南の方、日大芸術学部の北側を通る道から北西方向を見る。広い農地が残っている>
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東村山市 北山公園

2007年07月04日 | 残ってほしい風景

 南側の住宅地の方から近づいて狭山丘陵の緑(八国山緑地)が目の前に開けたときのある種の解放感がいいです。




 公園内のショウブ田や水田などの風景と背後の丘陵の緑との一体感にも安らぎを感じます。





 公園内の池に発生していた赤い色のプランクトンは案内板によると「アカマクミドリムシ」「都会の公園ではめったにみられない」とあります。
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恋ヶ窪 その3

2007年05月13日 | 残ってほしい風景
 
 <恋ヶ窪樹林地 左2月17日 右4月22日撮影。角度がけっこう違いますがご勘弁を>
 
 恋ヶ窪については、「江戸名所図会」だけでなく「武蔵野話」(斎藤鶴磯著)にも挿絵があります。書籍としては、有峰書店版「武蔵野話」がありますが、この絵をネット上でも公開しているサイトがありますので、そちらのものを参照させていただきます。

 オリジナルの「武蔵野話」をそのまま画像にしたものとして龍谷大学図書館のものがあります。この中の「恋ヶ窪村」の絵の部分がこれ(http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/cont_02/pages_02/0206L/02060059.html)です

 また、安藤勇氏の「WEBギャラリー 江戸時代の隠れた名作たち」は、オリジナルを加工してあると断ってありますが、大変きれいでみやすいです。「WEBギャラリー 江戸時代の隠れた名作たち」の「武蔵名勝図会」 「国分寺 立川 昭島」に進むと見られます。http://homepage2.nifty.com/tisiruinoe/musasimeisyouzuekokubunji.html
この挿絵は鈴木南嶺作となっています。

 江戸名所図会のものと比べると、視点が地上に近いこともあるのでしょうが、特に地形描写が「武蔵野話」の方が写実的であるように思います。(私としては、江戸名所図会「恋ヶ窪」の丘陵の描き方にはかなり不満があります。)
 他に、江戸名所図会の挿絵にない特徴として文字で、絵に方角がかかれていることです。
 挿絵中の四角で囲った文字は、北と書かれている側から「八マン」「クメカハ トコロ沢 道」「シンゴン ブヤ山 東フクジ」(雄山閣『新編武蔵風土記稿』第四巻p358をみると「武野山と号す」となっていますので「ブヤ」と読んでいるのでしょう。)「フチウミチ」「アミダサカ」のようです。
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国分寺市 恋ヶ窪2

2007年04月07日 | 残ってほしい風景
 前回紹介した、「姿見の池」のすぐ近くに、日立中央研究所があり、ここに「野川」の水源地がある。「恋ヶ窪」の谷も、「野川」の流域あるいは、支谷と見てよいであろう。
 東京近郊のように、地表が住宅や道路に覆い尽されてしまい、また地形改変の行われているような場所だと、ある地名はそもそも地形にもとづいて名付けられたのだということに気づかなくなってしまう。
 「恋ヶ窪」もその名のとおり、窪地を指して付けられた地名である。(「くぼ」の付く地名は、他にも大きなところで、「荻窪」「大久保」など。)
 「恋ヶ窪」は、現在、住所の表示としては、「東恋ヶ窪」と「西恋ヶ窪」に分かれており、ここには、地形上、窪地以外の部分(武蔵野台地の上)も含まれている。
 西武国分寺線の「恋ヶ窪」駅も台地の上にあって、「くぼ」地にはない。
 恋ヶ窪駅から、そう遠くないところに「恋ヶ窪樹林地」と名付けられた小さな雑木林が残っていた。


わずかに残る武蔵野の雑木林と、畑地、農家の屋敷林の風景。


<撮影日 2007年2月>

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国分尼寺

2007年03月11日 | 残ってほしい風景
 武蔵国分寺の項で、尼寺地区は公園として整備されていると書きましたので、今回は国分尼寺跡と、その北側の旧鎌倉街道と中世の寺院の遺跡について取り上げてみます。

 はじめに、歴史公園としてどのように整備されているかの現状(2007年3月)です。

<金堂基壇 土盛があって、その手前の柱は、「幢竿」>
(幢竿跡:現地説明板によると「のぼり旗を吊るした高竿の跡と考えられる掘建て様式の柱穴。」とあります。)


<金堂基壇断面標本表示:上の写真の土盛の反対側に設置されている>

 北面塀は、柱跡に木柱が立てられ間が生垣になっています。板塀は、現地説明板によると、土塀から板塀か不明であるが参考として説明板を兼ねて板塀をここに表示した、とのことです。奈良の平城京跡の整備で、ところどころこうした手法(一部復元し、柱跡には木柱をたて、間に植栽を施す)がとられました。 

<尼坊跡(礎石の部分)と北面塀>

 現地の説明版はポイントごとに配置されていてありがたいのですが、文字部分が剥落して、さびが出ていたり、ひびが入っていたりするものもありました。せっかく整備しているのですから、このような部分の保守にも気を配って欲しい(劣化しにくい材料で作り変えるなど)と思います。
(追記:説明板の文字・図の部分は、詳しい材質はわかりませんが、プラスチック製のようで、文字の剥落部分はさびではありませんでした。通常では部分的に剥落するとは思えませんので、いたずらなどで石などをぶつけられて、破損し欠け落ちたのかもしれません。)


 続いて、尼寺跡の北側(国分寺崖線上)の旧鎌倉街道と、中世寺院跡です。

 
<旧鎌倉街道(北方向を撮影)> <崖線を登り雑木林の中から尼寺の方向(南方向)を振り返る>
 
旧鎌倉街道の切通しの東側に塚があります。古墳のように見えましたが、中世の寺院の修法基壇とのこと。現地案内板には「中世(14・15世紀)において種々の祈願の成就を得るために作法に則り本尊に対し祈祷するために築かれた修法壇跡で、伝祥応寺との関係を有するものと推考される。(国分寺市教育委員会)」とありました。伝祥応寺跡は、切通しの反対側(西側)にあり、雑木林に囲まれた中に礎石がいくつか残っています。
  
<写真左:塚(画面の奥で、鎌倉街道の左側の高くなっている場所に、さらに盛り上がって、藪に覆われている部分)。崖線上から南方向を写したもの。画面左端のフェンスの向こうには武蔵野線の線路が通っている。;写真右:祥応寺の跡、階段の上の平らな部分。塚の側から鎌倉街道をはさんで反対側を写した。>
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土浦-行方 自転車走行日誌風

2007年02月23日 | 残ってほしい風景
 9:25 上野発土浦ゆき常磐線に乗車

10:44 土浦駅着

土浦市観光協会 まちかど「蔵」で自転車を借りる
 


霞ヶ浦に出て、沖宿、崎浜、牛渡、田伏の集落を抜ける。交通量も少なく快適。
 
                     <崎浜横穴古墳群>
 
  <冬枯れの蓮田の風景>                    <牛渡牛塚古墳>
 

 
     <田伏のあたり>                 <霞ヶ浦大橋より見る筑波山>

12:15 霞ヶ浦大橋着、食事をして、夜刀の神の泉(椎井の池)をめざす
 
<谷戸の入り口>

夜刀の神の泉の前を通り過ぎ、谷戸を上り詰める。
 
     <登って来た谷戸を振り返る>             <台地の上の道>

鳥名木の杜(鳥名木館跡)
 
大木に囲まれている。名札をみると、ヤブツバキ、モチノキ、ムクノキ、スダジイ、タブノキ、エノキなど。
 
            <館跡>                  <ヤブツバキの花>
 
         <スダジイの大木のあるところに土塁のような遺構がある>
 
   <玉造町 泉の集落>

15:45 玉清の井
 
<常陸国風土記に記述のある「玉清の井」 標高約3mの位置にあり霞ヶ浦とあまり高さが変わらない>

17:30 土浦まちかど蔵に自転車を返す
  
  <てんぷら屋さん「ほたて」 夕暮れて、泉鏡花の小説の中にでも出てきそうな雰囲気>

16:03 土浦発上野ゆきに乗車

(以上のコースタイムは実際に走ったものですが、写真は別の日に撮影したものを一部使っています。)


地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社,2004年)より
   国土地理院 20万分の1地勢図「水戸」図幅
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川崎市麻生区 早野 谷地田以前・以後の風景

2006年11月20日 | 残ってほしい風景
早野の谷戸のハンノキ林が美しいです。これは谷地田の風景よりさらに古い、稲作以前の谷戸の風景です。

(写真の撮影日2006年11月18日)

 「里山ボランティアの会」の方たちが活動されていた。



といっても、ここが太古からずっとハンノキ林であったということではありません。
耕作放棄され数十年たって、ハンノキ林へもどった風景です。
Kampeitaさんのページ「たまには多摩に行こう」の「小田急線柿生駅~江田駅」(http://nekoserver.com/kampeita/tama/new/kakieda/16.html)の中に、
「30年前の航空写真を眺めると、田んぼの跡のようです。」 とあります。

国土地理院のサイト内の空中写真閲覧サービスhttp://mapbrowse.gsi.go.jp/airphoto/index.htmlによって
1947/7/9米軍撮影の航空写真をみると、
ここの谷戸は水面のような平坦な感じで写っています。
実際、谷戸の上流に行くと畦の跡がわかるようなところもあります。

虹ヶ丘側から下ってやぶを抜けるとこの辺で谷戸の風景となる。



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