負けてらんにぇ ! みんなでなんとかすっぺ !!

南相馬市から新潟県三条市へ集団避難→同市内の雇用促進宅に→2015.2~同市内の戸建に転居 妻と二人暮らし。

二度と死なぬぞ

2012-10-05 21:00:13 | 原発震災避難者


遠足



白隠禅師の歌に

若い衆(しゅ)や死ぬがいやなら今死にゃれ

いちど死んだら二度と死なぬぞ


「 死にたい 」 も 「 死にたくない 」 も

五尺のこの身を自分のものと思う

・・・ その我執から生じます。


その我執をいま放ってしまえ ( 今死にゃれ ) という。

小我を殺せ ・・・ というわけです。


いちどそれをやってしまえば 死は超越できます。


超越できたら 生も死もありません。

生もよし 死もまたよし ・・・ ということになります。


「 二度と死なぬぞ 」は そういう意味でしょうね。







ワビシイ歌 ・・・ 一服の良薬

2012-10-05 18:00:10 | 原発震災避難者


遠足



来しかたも行方(ゆくえ)も知らずひとりきて

ひとり消えゆくうたかたの夢


ずいぶんワビシイ歌で

いつもこんなことばかり思っていたら 気がめいってしまいそうです。


しかし こういう感じ方も人間的な心情の一面であるし

このセチがらい俗世で ドサドサ バタバタ生きている身には

たまには こういう想いにひたってみることも ・・・ 一服の良薬と


・・・ そう思って とりあげてみました。







オロシガネ ・・・ 修業

2012-10-05 15:10:38 | 原発震災避難者


遠足



むかし ある画家の言葉です。


「 仕事はすべてオロシガネなんですよ。

自分の仕事にこすりつけ こすりつけして

 
最後に何が残るのか それとも 何も残らないのか。

それを確かめたいんですね 」


「 私の本職は 画でも彫刻でもないんです。

これらはみな 修業の手段にすぎないのです 」


自分という大根を仕事というオロシガネにこすりつける。

・・・ それが「 生きる 」ということだと。

おもしろい !


気を入れて強くこすらなければ 大根オロシという作品は生まれません。

人生 どこへいってもオロシガネです。


どうせそうなら いま眼の前にあるヤツに

全身全霊をぶっつけて こすりまくることですね。

その修業によって

人として成長できてゆく ということなのでしょう。


この画家のいうように 仕事とはだれにおいても どんな仕事でも

「 修業の手段にすぎない 」 のかもしれません。


ならば 困難な仕事 ニガ手の仕事こそが

・・・ 修業をゆたかにさせてくれはずですね。







精を出しきる ・・・ 「 本気 」

2012-10-05 12:00:15 | 原発震災避難者


遠足



「 ご精が出ますネ 」 と挨拶します。

何かあることに イッショケンメイにうちこみ

努力している姿にたいする賛辞であるともいえます。


精は 精力 精気 精神 精魂 ・・・ などの精で

「 まごころ ・ 気力 ・ たましい ・ 生命のもと ・ 神 」

などの意味も辞書には載っています。


だから 「 精を出す 」 とは 肉体的に励むことはもちろんですが

それ以上に 心をうちこんでやることをいっているのでしょう。

つまり 気を出してことにあたるということです。

それが わが身の健康にもプラスするというのです。


努力なき身に 健康なし ・・・ そう解釈することもできますね。


心身の精気を出し惜しんではなりません。

それは けっして尽きるものではないから。

いや 出せば出すほど 生命の奥から 新しいより強力な精気が

どんどん涌き出てくるものなのだから。


生命力の泉は 井戸水に似ています。

掘り井戸の水を全部かいだすと

新しい真清水が コンコンと涌き出てきます。

古い水をかいださなければ 新しい水は湧いてきません。


人の精気も同じことで

出し惜しんでいては 新しい力は涌き出てきません。

それは自分の生命力に みずからブレーキをかけることで

したがって 健康にもブレーキがかかってしまいます。


「 精 」 を出せば出すほど 心身の健康を高めるわけで

それゆえこれが

 
有力な 「 出す 」 健康法のひとつである といえるのです。


ちょっと気がつきにくい

それゆえ 大切な健康法であるかと思われます。


精を出す対象は 仕事にかぎりません。

いろいろな人間関係 趣味 遊び なにごとでも

「 本気 」 になってやる ・・・ ということですね。







コトバは心 ・・・ マイナス・コトバを封ずる

2012-10-05 09:00:10 | 原発震災避難者


遠足



コトバには 現実をつくりだす創造力があります。

これを古代の日本人は 言霊 ( ことだま ) といいました。


コトバは 心から出ます。

心の姿がそのまま コトバになって表現されます。


「 心 即 コトバ 」 といえるほどで

どういうコトバを口にするかによって

その人の心がわかってしまうのです。

「 文は人なり 」 というより はるか以前に

「 コトバはひとなり 」 という厳たる法則が存在するわけです。


ということは

「 コトバを変えることによって 心を変えることができる 」

・・・ ことを意味するはずです。


コトバの創造力によって その姿が変えられてゆくのですね。







シンパイ : 心くばり

2012-10-05 04:32:39 | 原発震災避難者


遠足



心配性 といってよいような人がいます。

なにごとにつけ シンパイ ということを じつによくあそばされる。

ひどいのになると

心配することが仕事みたいになっている人さえいます。


人間 この世に生きる以上 心配は避けられない心理ですが

さりとて それもていど問題です。

度がすぎると 実りがないだけでなくて

自分をも 周囲の人をも暗くすることにしか役に立ちません。


心配とはおおむね

心のなかでの主観的なグルグル廻りにすぎないものです。

思いのカラまわり ・・・ 本質的に そういうものがあるのです。


「 心配 」 という字は

音 ( オン ) で読めば シンパイですが

訓 (クン) で読むと 「 心くばり 」 となります。
 

心くばりなら ・・・ 大いにやるべきです。


心配 という心のクセのついている人は

心配の気持にとりつかれたらすぐに

「 あ シンパイはいけない。心くばりだ 心くばりだ・・・ 」

と 呪文のように唱えることにしたらどうでしょう ?

コトバによる心の切りかえです。


心配をよくする人は 神経質な人です。

この神経質な人に共通する長所は 「 細かいことに気がつく 」 ことです。

だから こういう人たちが シンパイを ・・・ 心くばりに切りかえたら

・・・ 大変な創造力が発揮されるはずですね。