負けてらんにぇ ! みんなでなんとかすっぺ !!

南相馬市から新潟県三条市へ集団避難→同市内の雇用促進宅に→2015.2~同市内の戸建に転居 妻と二人暮らし。

厄年か 役年か ?

2012-10-04 20:00:11 | 原発震災避難者


遠足



厄年 ( やくどし ) という言葉があります。


昔ふうの数え年で

男なら 25とか42

女なら 19とか33 とか

こういった年には きっと悪いことがあるといいます。


こういうふうに考えるのなら

これは 迷信でしかありえないでしょう。

それも 心を暗くさせることにしか役立たぬ迷信です。


ヤクドシとは 本当は 「 役年 」 と書くのだそうです。

これからの人生上の新しい役があたえられる

そういう年のことである というのです。


男の25は これから結婚を考えようという年頃。

まさしく役年です。

42は 社会的に責任ある 指導的な役につこうという年頃。

だから こういう年になったら

・・・ よろこび 勇まなくてはならないのです。


この説が 学問的に正しいかどうかは問う必要がありません。

「 考えかたの技術 」 として ・・・ ただ そう思えばよいのです。

同音異義語のすこぶる多い

その点では 世界に類があるまい日本語の特性を

・・・ こんなふうに活用するのです。


このように考えていれば

いわゆるヤク年において 病気や大失敗に見舞われても

「 ハハァ これから役につこうという自分を成長させるための

  天の試練であるのだナ 」

というふうに ・・・ 肯定的に受けとることができますね。


「 厄年 」 という考えでいれば

 
「 アア やっぱり 」 としょげかえるだけです。


コトバの使い方ひとつで 同一の運命の受けとりかたが

明暗 まったく逆になってしまうのです。


「 厄年じゃない 役年だ 」 ・・・と 開き直っていただきたいものです。







アリガトウを連発せよ

2012-10-04 17:00:52 | 原発震災避難者


遠足



私の亡父が晩年に 「ありがたい ありがたい」と

・・・ ときどきつぶやいていました。

かなり大きな声で そばに家人がいても これを口にするのです。

一種の口癖のようにさえ なっていたようです。


とくに何がありがたいというのではなく 生活全般にかんして

なんとなくありがたい気持がするのでしょう。

あるいは 「ありがたいと思え」と

自分にいいきかせる気持であったかもしれません。

もしそうなら 唱えたことによって

ありがたい気持になれたであろうことはまちがいありません。


亡父の この口癖をはじめてまねしたとき

「 ありがたい 」 では どうも足りない気がしたので

ていねいに 「 アリガトウゴザイマス 」 といってみたら

そのほうが心にぴったりくるように思われました。


それで ときたま思いついたように

こちらの方を口にすることにしています。



不平や不満 怒ることが多い人は

ときどき これをお題目のように唱えてみられたら如何ですか。

感謝の対象を とくに想定する必要はありません。

ただ 「 アリガトウ・・・ 」 といいさえすればよいのです。

そういう気持になれなくても ウソでもいいから 演技でもいいから

・・・ 口にしてみるのです。


これをときどきやっているうちに 心がだんだん ほんとうに

・・・ 感謝の気持に満たされるようになってゆくでしょう。

言霊の創造力によって そうなってゆくのです。


怒りがこみあげてきたとき はげしい不満にとりつかれたときなど

これを思いだして口にしてみれば ・・・

それら悪しき感情を鎮静する役を果たしてくれるかもしれません。


なにか感謝の対象を想定したほうがいいやすい というなら

自分自身をその対象にされたらどうですか?

「 ありがたい自分 」と思って ・・・ これに礼をいうのです。



万物同根なのだから やがてその心は

あらゆる他人 他物へと拡大されてゆくでしょう ・・・


究極的には 神への感謝というものになってしまうはずですね。







「 コレデイイノダ 」 ・・・ あるがままで

2012-10-04 14:14:42 | 原発震災避難者


遠足



「 コレデハイケナイ 」 と心であせる癖のある人は

それと反対の

「 コレデイイノダ 」 という言葉を ときどき声に出してみられるとよい。

・・・ 何度もくりかえし 呪文のように唱えてみるのです。


自分自身をふくむ すべての現実を

「いま あるがままでよいのだ」 とする ・・・ 大肯定の精神です。



「 コレデハイケナイ 」 は現実を否定する想念です。

否定する精神は 何ものも創造しません。 だから

「 コレデイイノダ 」 とする肯定の精神から出発しなさい というのです。



この言葉をくり返し唱えたあと ・・・

ヘソの下あたりに

なんとなく ・・・ 気が満ちてくるような感じがしませんか?







忙しいからこそ ・・・ 2.セッカチは悪魔の使い

2012-10-04 09:05:11 | 原発震災避難者


遠足



頭や 手や 体とともに ・・・ 心まで忙しく

さわがしくなってしまう人のことを 「 オイソガ氏 」 といいます。

いつも何かに追われるように ソワソワ セカセカしている人です。

視線を落とし 前こごみになって

よろめくように街を歩く人たちです。


私たち日本人は もともとセッカチの素質があるのに加えて

はげしい企業競争や 社会全体のスピード化といった

現代社会の状況に煽られて

大なり小なり オイソガ氏の性向をもつにいたっています。


一億二千万のほとんどが つねに 「 気が急いで 」 いるのです。


しかし これは好ましい現象ではありません。

これでは 個人も 民族も ひいては全人類が

危ない方向に流されていく可能性があります。


「 セッカチは悪魔の使い 」 ( ユーゴスラビアの俚諺:ことわざ )

・・・ であるからです。







忙しいからこそ ・・・ 1.心の落ちつき

2012-10-04 04:26:53 | 原発震災避難者


遠足



多忙であることはしかたがりません。

いや むしろ めでたいこと 幸福なことです。

日々 なすべきことがいっぱい というのは ・・・

ありがたいこと 恵まれた境遇というべきです。

男も女も 社会人も学生も おたがい

多忙であるに越したことはないのです。


しかし

多忙であること 即 「 心が急(せ)く 」こととはちがいます。


頭や 手や 体がいかに忙しく めまぐるしく 休みなく動いていても

・・・ 心まで忙しくなってはいけません。

むしろ 多忙であるからこそ 心の平静が必要なのだ といえます。

心の落ちつきがないと ・・・

多忙な仕事をテキパキと誤りなく処理してゆくことができないからです。