近隣
普通は どこか体の具合が悪くなりますと ・・・ 病院に行きます。
そして 慢性病の場合は ・・・ 半年 一年と通うわけです。
しかし どうして病気になったのか 治すにはどうしたよいか そのコツを教えてもらえば、かなり自分でやれる ・・・ そういうしろものではないでしょうか。
ところが それを教えてくれませんから ちょうど学校の落ちこぼれ生徒と同じで いつまでたっても自分の健康のコントロール 治しかたに対して興味が湧いてきません。
いつまでたっても先生に頭が上がりません。 医師には手も足も出ないのです。
例えば 高血圧でしたら 塩気を減らすとか 辛いものを食べないとかいった程度の知識を出ないで、死ぬまで何もわかりません。
ちっとも興味が湧かないはずですね。
先生 ( 医師 ) が 勿体ぶって教えないのでしょうか。
あるいは お互いに 忙し過ぎるためなのでしょうか。
それとも 先生 ( 医師 ) が
・・・ 本当のことを御存知ないのでしょうか。
恐ろしいのは
もし ・・・ 本当のことを御存じないとしたらです。
あるいは お互いに 忙し過ぎるためなのでしょうか。
それとも 先生 ( 医師 ) が
・・・ 本当のことを御存知ないのでしょうか。
恐ろしいのは
もし ・・・ 本当のことを御存じないとしたらです。
近隣
風邪は 誰もがひくものだし
とてもつらいものです。
しかし 風邪を自然に経過させるか
それとも 薬や注射に頼るかでは
その後 からだの形成が まったく違います。
人の体が悪くなってゆくひとつの原因は
その人が
風邪を自然に経過させていないことの積み重ねにある
・・・ と思います。
風邪は ・・・ 自浄作用です。
なぜ 「 風邪 = 悪者 」 という図式が
できあがってしまっているのでしょうね。
なぜそれほど
風邪を怖がるようになってしまったのでしょうね。
それは ひとことで言って
社会的に 風邪という病気が
とても儲かる市場になっているからでしょう。
しかし 現実的に大事なことは
広告や風潮に惑わされずに
自分たちの健康は
自分たちで守るという認識を持つことです。
国や製薬会社が
私たち一人ひとりの健康を守るために
日夜 新薬を認めたり 開発に努力している
というのは ・・・ 幻想にすぎません。
自分や家族の健康は ・・・自分たちで守る
という意識が必要なのです。
薬や注射が ・・・ 健康を作るわけではありませんから。
近隣
学校教育は 「 欲望 」 を自分だと思わせ
その自分を大切にすることを進歩的だ ・・・ と教えてきました。
政治も同じ考えで行われてきたので
欲望に非常に弱く ・・・ 大変図々しい人間が大量生産されました。
おまけに 物が豊かになり 子どもが少なくなったため
この甘やかしの傾向は 極端に発展して
いわゆる 鍛えられた若者は影をひそめてしまいました。
人間らしい向上心 ・・・
それに刺激されて苦しむ悩みさえなくなって
ただ その場その場の快を追い
苦を避けて ・・・ ノラリクラリと日を送ります。
これは 大きな目から見れば
非行少年よりも手に負えない困りものです。
非行少年はまだ、もがきがありますから救いもあるでしょう。
ところが ケガをしたり罰を受けたりする苦痛を恐れるために
それほど悪いこともせず むろんよいこともせず
そのとき その場の小さな快楽を追う 「 非非行少年 」 になると
全く手のつけようのないものです。
彼らは 極端な消費族であって
生産的な行動には全く関心を示しません。
何もしないということは悪をしていることだとすれば
彼らは 常に悪をなして 悪だと気がつかない
・・・ 困りものだと言えるでしょうね。
このような 「 非非行少年 」 が
このところ激増していることに気づいている人は少ないのではないでしょうか。
しかもいまは その 「 非非行少年 」たちが 親となって
・・・ 子育てをしているのですから。
近隣
日本には
番茶、煎茶、麦茶、玄米茶、・・・ と 数多くのお茶があるように
お茶のつく言葉 ことわざが
それこそ ・・・ たくさんありますね。
お茶目
お茶をひく
お茶をにごす
お茶の子さいさい
茶飲み話
日常茶飯事
お茶の間
茶々を入れる
そして いま テレビ中継されている国会は ・・・ 茶番劇
・・・ などなど。
それだけ生活に密着しているお茶は
今や ペットボトルに入って自販機で
「 あったか~い 」 の 「 つめた~い 」 のも
すぐに手に入ります。
しかし 本来
お茶は「湯薬」なので
必要以上に熱くしたり さましたり
ましてや 冷やして飲むものではありません。
体温が1度下がると
免疫力は20~30%下がる ・・・ とか
いれてから時間がたったお茶は もちろん
冷えて活力を失ったお茶は
体温まで低下させてしまい ・・・ むしろ 体には毒。
そんなお茶の飲み方は
まさに 目茶苦茶 ( 滅茶苦茶 ) 無茶苦茶 ・・・ ですね。
近隣
日本人は
人の魂の中に ・・・ 「 虫 」 を見ていました。
泣き虫
弱虫
疳 ( かん ) の虫
本の虫
浮気の虫
虫が好かない
虫酸 ( ず ) が走る
虫の居所が悪い
腹の虫がおさまらない
虫も殺さぬ顔
虫がつく
虫食 ( ば ) む
虫歯
水虫
虫の息
・・・ などなど。
日本人の正体は
虫のネットワークで命を守ってくれる
・・・ 「 虫の知らせ 」 ではないでしょうか。
近隣
苦しみの本質は 「 死 」 に直面しても耐えうるような光り輝く価値観を 健常なころより育んでこなかったところにあります。
まず 肚 ( はら ) を決めることが大切です。
じたばたしない 肚を決める ・・・ と 物事は展開していきます。
それまでの浅薄な人生観 即ち 健康第一という価値観を転換させなければなりません。
それは 価値観の深化を意味します。
人生で最も大切なものは何か ・・・ 。
「 禍福は糾 ( あざな ) える縄の如し 」 といいます。
幸せがしばらくつづくと 今度は不幸がきます。
不幸をしばらく耐えていると また春がやってきます。
人生の真実は幸・不幸を超えたところにある ・・・ のではないでしょうか。
幸・不幸が 果たして 必ず交互に訪れるものかどうかの詮議はともかく 不幸は やはり ・・・ 突然訪れるもののようです。
不幸の前兆があったとしても それに気づくほど現代人の感覚は鍛えられていません。
目前の生活の安泰のみ求める我々の視野の狭小は甚だしい ・・・ 。
迫り来る危機の警鐘が打ち鳴らされていても ・・・ 危機感を覚えることすらできない著しい感受性の鈍磨 ・・・ がそこに見られます。
近隣
私は仕事柄 多くの人々の不幸に接します。
ある日 致命的ながんに冒されていることがわかった人々 そのような進行がんの患者さんは後を絶ちません。
そのような人々にとって 既存の価値観 肉体本位 金銭物質本位の価値観は足元から崩れていきます。
生きていることを前提にしたすべての生活設計が 音もなく瓦解します。
だれも肩代わりしてくれない苦しみに 本人とその家族は耐えなければなりません。
彼らは 治療法を求めて東奔西走します。
焦っているそういう人々を鴨にして待ち受ける 猟師のような商売が流行っています。
鴨の餌は奇跡の○○療法 「 神の手で・・・ 」 秘薬○○ 「 ○○を信じれば・・・ 」「 ○○の霊が・・・ 」 のような類 ( たぐい )で 行き詰まった人々が前後の見境もなく飛びつくような装いをしています。
しかし 繰り返し広告しているものは たいてい金儲けの商売です。
近隣
童心にかえる とよくいわれますが ・・・
娑婆を長年通ってきた大人には難しいことです。
オトナが果たして童心に還れるか
となると ・・・ 難問になってしまいます。
童心とは 要するに
我執という自我の枠から開放された心だ となったら ・・・
それに還ることは 極めてやさしいことに違いありません。
知識にとらわれて ヒン曲がっているのをやめればいいのです。
早く言えば 知識を手放せばよいだけです。
・・・ 簡単なことです。
近隣
あれも人生 これも人生
どっちがいいか
どっちに値打があるか
などは ・・・ 問題外の問題です。
唯 この自分の生きている人生を
またしても 振り返ってみたくなるのです。
近隣
「 ここが極楽だ 」 と言うのではなく
「 極楽とは此処のことだ 」 と言わせてください。
「 ここ 」 という所が先にあるのではなく
「 極楽 」 が先にあるのです。
( この論理はおかしい ・・・ のか。 )
「 山あり 雲あり 花あり。
だから 此処を極楽と言うのだ 」
・・・ と思われては困ります。
「 極楽とはここのことだ 」
・・・ と先ず決めてください。
( こんなことはいくら言っても空しさが増すだけ ・・・ もう止そう。 )
ともかく 自分の今居るこの場が ・・・ 極楽なのです。
それに ・・・ 違いないのです。
近隣
一人前に 喜怒哀楽に操られていれば それはそれで面白かったでしょうが ・・・ その世界に行き詰まったときフと別の世界を知ってしまいました。
生と死を超えた もう一つの世界 いや生と死の世界を映し出しているその源の世界。
何と言ってもよいが 要するに もう一つの世界 そこに存在する自分を知ったらこの現実の世界は ただそれだけのものです。
政治家や実業家 いや教育者や宗教家と称する偉い人々も 実は紙屑にしか見えません。
そうなのです 価値基準が異なればそういうことになるのです。
もちろん どっちがいいとは言えません。
政治家や実業家から見たら 生死を超えただの もう一つの世界だのと言って眼を白黒させているようなのは 泥だらけの落葉みたいに見えるでしょうね。
それでいいのです。
それでいいのです。
それでいいのです。
近隣
モノは 豊かになりました。
しかし
ココロは 貧しくなりました。
「 がんばって 」
「 しっかり 」
「 早く 早く 」
「 負けないように 」
「 笑われないように 」
「 損をしないように 」
・・・ と
見えるモノばかり ・・・ を追いかけてきた結果です。
近隣
「 ケ 」 ・・・ 日常のこと、ニュートラルな状態
「 ハレ 」 と 「 ケガレ 」 ・・・ 非日常の状態
「 ハレ 」 ・・・ 聖の非日常
「 ケガレ 」 ・・・ 負の非日常
「 ハレ 」 ・・・ 「 晴れ着 」 「 晴れ舞台 」 「 張れ 」
お祭り ( ケンカ祭りとかハダカ祭りなど )
「 ケガレ 」 ・・・ 「 気枯れ ( 気が枯れる )」
エネルギーの枯渇 穢れ ( けがれ )
すべてが ・・・ 一時的な状態なのですね。
近隣
いそがしいことはよいことだ
それだけ生活が充実しているのだ
・・・ という人がいるかもしれません。
ほんとうでしょうか。
つぎからつぎに
追いたてられるようにして生きている人は
ほんとうの自分の時間をもっていない
・・・ というべきでしょう。
自分の時間とは
時計に監督され 命令されている時間ではなく
自分が主人公になっている時間のことです。
いえ それは一定の時間というものではありません。
自分がしたいからする
せずにはいられないからする
たとえ それによって
よい成績がとれるとか
よい収入があるとか
名誉になるとか
・・・ いったことがなくとも
わが身をいとわず
天の呼び声にこたえるように
無我夢中にとりくんでいく ・・・
そいうときは その人には
もはや ・・・ 時間などはありません。