負けてらんにぇ ! みんなでなんとかすっぺ !!

南相馬市から新潟県三条市へ集団避難→同市内の雇用促進宅に→2015.2~同市内の戸建に転居 妻と二人暮らし。

二度と死なぬぞ

2012-03-31 21:30:34 | 原発震災避難者


震災前に



白隠禅師の歌に

「 若い衆(しゅ)や死ぬがいやなら今死にゃれ いちど死んだら二度と死なぬぞ 」


「 死にたい 」も 「 死にたくない 」も

五尺のこの身を自分のものと思う ・・・ その我執から生じます。


その我執を いま放ってしまえ( 今死にゃれ )という。

小我を殺せ ・・・ というわけです。


いちどそれをやってしまえば 死は超越できます。


超越できたら 生も死もありません。

生もよし 死もまたよし ・・・ ということになります。


「 二度と死なぬぞ 」は ・・・ そういう意味でしょうね。








長寿の条件 ・・・ 一生一事一貫

2012-03-31 18:51:45 | 原発震災避難者


震災前に



とくべつの長寿者は 例外なく

すくなくとも つぎの三条件を満たしているようです。


1.飲食物の節制。

2.はたらくことが好き。

3.心が平和 クヨクヨ イライラしない。


1.と3.は常識的にわかることですが

2.はあまり注目されない要件のようです。

だが 長生きの根本の秘訣は

案外 ・・・ このへんのところにあるのかもしれませんね。



「 長生きはただ働くのほかになし 流るる水のくさらぬを見よ 」



長寿者に共通することは

自分の生涯が それにつながる仕事

いわゆる ライフワークをもっていたこと。

かつ 楽しみつつ これに取りくんできた ということです。


そこまで注目して はじめて

「 流るる水のくさらぬ 」という表現の味が

よく理解できるというものでしょうね。


流れることは 水の本性です。

働くことは 人の本能です。


水は 一つの水路を絶えず流れます。

人においては 「 一生一事一貫 」というのが

至福の人生であるらしい ・・・ です。


・・・ いま そんなことを考えてみました。








ワビシイ歌 ・・・ 一服の良薬

2012-03-31 13:30:14 | 原発震災避難者


震災前に



「 来しかたも行方(ゆくえ)も知らずひとりきて ひとり消えゆくうたかたの夢 」


ずいぶんワビシイ歌で

いつもこんなことばかり思っていたら 気がめいってしまいそうです。


しかし こういう感じ方も人間的な心情の一面であるし

このセチがらい俗世でドサドサ バタバタ生きている身には

たまには こういう想いにひたってみることも 一服の良薬と ・・・


・・・ そう思って とりあげてみました。







不平の多い人ほど ・・・ 弱い

2012-03-31 10:28:42 | 原発震災避難者


震災前に



「 感謝 」などというと

古くさい道徳を持ち出すように思われるかもしれませんね。

しかし これが古くさく見えるというなら

そのように見させる世のなかこそ まちがっているのではないでしょうか。



人間の「 強さ・弱さ 」についていろいろと観察し 考えてみた結果

「 不平の多い人ほど 弱い 」(弱い人ほど 不平が多い) ・・・ と思うようになってきました。


自分の成長過程にかえりみてもそうで ・・・

不平・不満が減ってきたことが とりもなおさず

精神的に強くなってきたことにほかならない ようです。


「 不平のない人 少ない人が強い人 」とは ・・・ じつに簡明で 深遠な法則です。



不平の反対は 「 感謝 」です。


であるならば 感謝という徳をもちだすことは 古くさいどころか


不平ゆえに心の弱い人が かくも多い いまの世においては

ひとつの急務とさえいうべきではないでしょうか?


自由 個人主義 権利の主張 ・・・ などの はきちがえが

感謝とか 「 恩 」とかの思想を忘却させ

その結果 不平 不満のたくましく人心にはびこり

そのまた結果 精神的な拠りどころをもたぬ 心弱きものたちがふえて

ノイローゼ社会(古い用語で申しわけなし)ともいうべき世相をつくりだしてしまった

・・・ と考えるのが正しい判断なのかもしれません。


周辺にいる精神的にたくましい人たちを よく見てください。

かならずかれらは 不平をもつことが少ない人たちであるはずです。

( ではありませんか? )


もしあなたが 自分をいちじるしく弱いと自覚されるなら

あなたはまちがいなく 他人一般よりも不平が多いで人であるはずです。

( でしょう? )


不平の少ない人が 強い人 幸福な人 人生をおもしろく生きることができる人。

不平の多い人は その逆 です。



たしかに たしかに その通りであるにちがいありません。







厄年か? 役年か?

2012-03-30 23:26:45 | 原発震災避難者


震災前に



厄年(やくどし) という言葉があります。


昔ふうの数え年で

男なら 25とか42

女なら 19とか33 とか

こういった年には きっと悪いことがあるといいます。


こういうふうに考えるのなら

これは 迷信でしかありえないでしょう。

それも 心を暗くさせることにしか役立たぬ迷信です。


ヤクドシとは 本当は「 役年 」と書くのだそうです。

これからの人生上の新しい役があたえられる

そういう年のことである というのです。


男の25は これから結婚を考えようという年頃。

まさしく役年です。

42は 社会的に責任ある 指導的な役につこうという年頃。

だから こういう年になったら

・・・ よろこび 勇まなくてはならないのです。


この説が学問的に正しいかどうかは問う必要がありません。

「 考えかたの技術 」として ただ そう思えばよいのです。

同音異義語のすこぶる多い

その点では世界に類があるまい日本語の特性を

・・・ こんなふうに活用するのです。


このように考えていれば

いわゆるヤク年において 病気や大失敗に見舞われても

「 ハハァ これから役につこうという自分を成長させるための

  天の試練であるのだナ 」

というふうに 肯定的に受けとることができますね。


「 厄年 」という考えでいれば
 
「 アア やっぱり 」としょげかえるだけです。


コトバの使い方ひとつで 同一の運命の受けとりかたが

明暗 まったく逆になってしまうのです。


「 厄年じゃない 役年だ 」と

・・・ 開き直っていただきたいものです。



私が 原発震災避難者となった昨年は ・・・

私にとって ・・・ もちろん 「 役年 」

・・・ そんな気持ちで 日々をおくっています。








シンパイ : 心くばり

2012-03-30 18:30:58 | 原発震災避難者


震災前に



心配性 といってよいような人がいます。

なにごとにつけ、シンパイということを じつによくあそばされる。

ひどいのになると

心配することが 仕事みたいになっている人さえいます。


人間 この世に生きる以上 心配は避けられない心理ですが

さりとて ・・・ それも ていど問題です。

度がすぎると 実りがないだけでなくて

自分をも 周囲の人をも暗くすることにしか役に立ちません。


心配とは おおむね

心のなかでの主観的なグルグル廻りにすぎないものです。

思いのカラまわり ・・・ 本質的に そういうものがあるのです。


「 心配 」という字は

音(オン)で読めば シンパイですが

訓(クン)で読むと 「 心くばり 」となります。


心くばりなら ・・・ 大いにやるべきです。


心配という心のクセのついている人は

心配の気持にとりつかれたら すぐに

「 あ シンパイはいけない。 心くばりだ 心くばりだ・・・ 」

と 呪文のように唱えることにしたらどうでしょう?

コトバによる心の切りかえです。


心配をよくする人は 神経質な人です。

この神経質な人に共通する長所は 「 細かいことに気がつく 」ことです。

だから こういう人たちが シンパイを心くばりに切りかえたら

・・・ 大変な創造力が発揮されるはずですね。






自分にたいして強い人 ・・・ 生きる力 2

2012-03-30 15:00:21 | 原発震災避難者


震災前に



( 気が弱い・気が小さい … 生きる力 1 から続く )


強者とは 「 自分にたいして強い人 」のことなのです。

それが強いということの本体です。


自分にたいして強くありうる人が ・・・ そういう人だけが ・・・

それの当然の結果として

他人にたいしても毅然たる姿勢で臨むことができるのです。


すなわち 「 自他は一体 」であるということです。

自分にたいする心の姿勢と 他人にたいするそれとは

まったく同一のものなのです。


「 他人に弱い 」ということは

じつは 「 自分が自分にたいして弱い 」ということなのです。

・・・ それが 弱い人の弱さの本体なのですね。



であるのに

「 自分が自分にたいして強くない 」は反省せず

そこへ観点がゆくことさえもなくて

ただいたずらに「 対人的に強くなりたい 」とあせります。

・・・ そこがおかしいというのです。

・・・ 考え方に ひとつの致命的な穴があいているのです。


身辺にも 精神的に強い人 心のシッカリした人は いくらでもいるはず。

・・・ よく眺めてみることです。

かれらは例外なく 「 自分にたいして強い人 」でしょう?


自分の弱さを自覚されるのだったら

あなたはまちがいなく「 自分にたいして弱い人 」であるはず。

・・・ ( ではありませんか? )



それゆえ

強くなりたいなら 自分にたいして強くなりなさい

・・・ という論理になりますね。

事実 それがすべてなのです。


自分にたいしてさえ強くありうるなら

すべてにたいして( 人にたいしても ことにたいしても )

・・・ 強くありうるのです。



おそらくこれは 絶対的な真理にちがいありません。


・・・ すくなくとも 私はそう信じています。










気が弱い・気が小さい … 生きる力 1

2012-03-30 11:30:33 | 原発震災避難者


震災前に



「 強くなりたい たくましく生きたい 」

・・・ という願いもつ人は少なくありません。


強いとはむろん 精神的に強いということです。

さらにいえば

対人的に強くなりたいということに

・・・ その願いの主眼がおかれています。


気が弱い 気が小さいと自覚する人が そういう願いをもちます。

むりもないことで 弱気 小心 臆病であっては
 
この人間関係の複雑な世を

たくましく 楽しく渡ることはできにくいでしょうね。



求めに応じ 及ばずながら人生相談にのってあげてみて

かれらにひとつの重大な共通点があることに気がつきます。


眼が外にばかりいって

強いとは 「 他人にたいして強いこと 」だというふうにのみ

・・・ 感覚しているのです。


強いとは 「 自分が自分にたいして強いこと 」だというふうには

・・・ ほとんど だれもとらえていないのです。


しかし これではダメなのです。

強くなりたいという願望は いたずらに空想を描いて

・・・ カラまわりするだけに終わるにちがいありません。


( 自分にたいして強い人 ・・・ 生きる力 2 に続く )








人生 : 気の一字

2012-03-30 07:36:42 | 原発震災避難者


震災前に


心が健康で人生が楽しければ 人は陽気にならないわけにはゆきません。


生活がおもしろくなかったら 心は陰気になります。

いわゆる 「 ふさぐ 」ことになるわけです。


これを逆にいえば < 気 >を陽にすれば 人生は楽しくなり

これを陰にしたら 人生は暗い場所になる ・・・ ということです。


このへんに自己改造 心のスイッチを切りかえる方法の

カギ カナメがあるように思います。


では < 気 >とは何か?

ばくぜんとした ひじょうに内容の広い言葉ですが

心身両面をふくめた< 生命力 >というような意味に解したら

だいたい当たっているのではないでしょうか?


「 気が晴れて 」いれば 人生は楽しい。

「 気が滅入って 」いるのが ノイローゼ。


与えられた潜在生命力をフルに発動させている人が 「 気が強い 」人。

それを出しきれないでいるのが 「 気が弱い人 」。


その気にブレーキがかかっていれば

気力 気迫 気骨 また生気 元気 活気 勇気 根気 覇気 などに欠け

そのために 人生の虚無感に苦しみ つねに 「 気が重い 」ということになります。



「 人生要するに 気の一字 」 そういういい方さえできるかもしれません。


人間とは つまりは イノチ(生命)以外のなにものでもないのですからね。







アリガトウ を連発しよう

2012-03-29 18:00:40 | 原発震災避難者


震災前に



私の亡父が晩年に 「 ありがたい ありがたい 」と

・・・ ときどきつぶやいていました。

かなり大きな声で そばに家人がいても これを口にするのです。

一種の口癖のようにさえ なっていたようです。


とくに何がありがたいというのではなく 生活全般にかんして

なんとなくありがたい気持がするのでしょう。

あるいは 「 ありがたいと思え 」と

自分にいいきかせる気持であったかもしれません。

もしそうなら 唱えたことによって

ありがたい気持になれたであろうことはまちがいありません。


亡父の この口癖をはじめてまねしたとき

「 ありがたい 」では どうも足りない気がしたので

ていねいに 「 アリガトウゴザイマス 」といってみたら

  そのほうが心にぴったりくるように思われました。


それで ときたま思いついたように

こちらの方を口にすることにしています。



不平や不満 怒ることが多い人は

ときどき これをお題目のように唱えてみられたら如何ですか。

感謝の対象を とくに想定する必要はありません。

ただ 「 アリガトウ・・・ 」といいさえすればよいのです。

そういう気持になれなくても ウソでもいいから 演技でもいいから

・・・ 口にしてみるのです。


これをときどきやっているうちに 心がだんだん ほんとうに

・・・ 感謝の気持に満たされるようになってゆくでしょう。

言霊の創造力によって ・・・ そうなってゆくのです。


怒りがこみあげてきたとき はげしい不満にとりつかれたときなど

これを思いだして口にしてみれば ・・・

それら悪しき感情を鎮静する役を果たしてくれるかもしれません。


なにか感謝の対象を想定したほうがいいやすい というなら

自分自身を その対象にされたらどうですか?

「ありがたい自分」と思って これに礼をいうのです。



万物同根なのだから やがてその心は

あらゆる他人 他物へと拡大されてゆくでしょう ・・・


究極的には 神への感謝というものになってしまうはずですね。







河の流れ ・・・ 小粒人間 2

2012-03-29 15:00:13 | 原発震災避難者


震災前に



「 河の流れがゆるやかなのは 水の量が多いからだ」

という西欧の諺(ことわざ)が 私は好きですが ・・・


急ぎたがる人間は 上流の急流と同じで

水かさがすくない(内容が乏しい)から音までたてて

・・・ あわただしく流れるのでしょう。

達人となって ・・・ 河口までくれば もう

流れているのかどうかさえ わかりにくくなります。







急ぎ車 ・・・ 小粒人間 1

2012-03-29 12:00:57 | 原発震災避難者


震災前に



むかし 澤木興道老師(わが師の師)は 自動車をすこぶるきらいな人だったそうです。

「 イソギグルマ 」(急ぎ車)といって 軽蔑しました。

「 セッカチどもが イソギグルマをブッ飛ばしおって・・・ 」 という調子です。


たしかに自動車という文明の利器は

禅の理念とは 反対の極に立つものでしょう。

禅の坊さんがクルマに乗るなら

人力車というユックリグルマがふさわしいでしょうね。



私の知人にS氏という タクシー会社の社長がいます。

社長といっても 東北の田舎町で

5,6台をもってやっている小企業ですが。

運転歴30年 この間完全無事故です。

若いころには東京で5年ほど タクシーを流した経験もあります。

だから その運転はウマイなどというていどではなくて

車が自分の体の延長のようなものです。

誇張していえば 眠っていたって運転を誤ることはありますまい。


この超ベテランのS氏が じつにゆっくりと車を走らせます。

悠々とマイペースで走るのです。

車のほとんど通らない田舎道においてさえも。


「 ゆっくり走るねェ 」というと

「 スピードを出す必要がないから出さないんだ 」と答える。

そして 「 ヘタなやつほどスピードを出したがる 」とつけくわえる。

これ ・・・ 達人の言ですネ。



実生活もそのとおりでしょう。

スピードを出す必要がないのに出したがります。

そういう人が多いから 日本列島がストレスの場となります。

不必要にアクセク急いで みずから疲れています。


未熟な人間 小人物ほど急ぎたがるのも

・・・ 自動車の場合と同じでしょうね。







気が長い ・・・ 気が若い

2012-03-29 09:02:50 | 原発震災避難者


震災前に



大きい人間のひとつの共通点は

人生を長距離的 マラソン的にとらえていることです。

つまり 「 気が長い 」のです。


気が長いとは 生命力の持続時間が長い ということです。


だから こういう人たちは

いくつの年になっても 前向きの姿勢を失いません。


老年というべき年齢においてさえ ・・・ 青年のように

「 これから・・・ 」とばかりに 前方を見つめています。

つまり 「 気が若い 」のです。

体は老いても 心は老いないのです。



「 いくらか老人的なもの(分別 落ちつき など)をもった青年は好ましい。

そして こういう青年は年をとると

成年のような若さを どこかにもちつづけるものだ 」


・・・ ナルホド と思います。

どちらの年齢においても その年齢のカベを破っているわけですからね。








根気 ・・・ 牛のごとく

2012-03-29 01:30:44 | 原発震災避難者


震災前に



日本の古い道歌(教訓の歌)に

根気の大切さを説いたものが 少なからずあります。

そのひとつに ・・・



怠らずゆかば千里の外も見ん

牛の歩みのよし遅くとも



牛の歩き方はのろい。

しかし 歩くことを続けさえするなら 

千里以上もいくことができる。

大切なのは 歩みのはやさではなくて

これを続ける根気である ・・・ 教えたものです。


セッカチな人は 馬のはやさを求める。

しかし いかにはやくとも 根気に欠けて 途中で放棄するなら

千里に達せず けっきょくは 牛に負ける。


人間も牛のようにヨダレを ・・・

ヨダレを垂らさないほうがよろしいが

とにかく 牛のようにゆっくり ノッシノッシと歩きたいものですね。








どこぞのおバカさんへ ・・・ 泥棒的人種

2012-03-28 21:04:38 | 原発震災避難者


震災前に



益なくして厚く禄を受くるは窃(ぬす)むなり
             (前漢時代の『大戴礼』より)



たいした仕事もできないのに 報酬をたくさんもらうのは

盗賊にひとしい ・・・ というわけです。


しかし 今日の社会には

その意味での泥棒的人種が なんと多いことか。



「 各人は その能力に応じ働き その労働に応じて与えられる 」

べきなのですが ・・・ 現実にはそうはいきません。


「 益なくして薄く禄を受くる 」場合が少なくないのは

「 益なくして厚く禄を受くる 」連中が

・・・ ゴマンといるところに 大きな原因があります。


では どうすればよいのか ・・・ 。

この点に関する考え方いかんで
 
人生も 社会も 右か左かへ曲がっていくおそれが多分にあります。


「 だれも自分の財産に満足している者はいないが

自分の才知に不満をもっている者もいない 」

・・・ ここに問題の根本がある と思います。


これを中国の諺でいうならば

「 道がわかる気でいる時ほど 道に迷うことはない 」

 ・・・ ということになるでしょうね。


困ったことに

私たちは 自分の才知をおおむね不当に高く評価し

「 道がわかる気 」になってしまいます。

だから 厚く禄を受けても 当然だと思うどころか

それでも まだ不足だという気分にさえもなるのです。




蛇足ながら ・・・
 
とくに 「 国会議員はエライ 」などと思っている

・・・ どこぞのおバカな議員さん こころしてお聞き下さいな!!