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世界には金持ちから金を取って

2011-04-18 16:29:13 | Weblog

 世界には、「金持ちから金(税金)を取って、貧乏人に回せ」という国と、「貧乏人から金を取って、金持ちに回せ」という国があるように思うが。日本も戦前は後者の国であった。戦後、前者に国になった訳だが。なぜか知らないが、現在、多くの国が後者の体制を目指しているように見える。

 前者の国とは、高い法人税率、高い累進課税の所得税(高い基礎控除)、低い消費税率、高い相続税の国のことであり、後者の国とは、低い法人税率、低い累進課税の所得税(低い基礎控除)、高い消費税率、低い相続税の国のことである。

 

 発展途上国における不幸が、一部の権力者層における過度の富の集中にあることは否定すべき論理ではないと思う。しかし、今、世界の先進国の趨勢として、「貧乏人から金を取って、金持ちに回す」方向に行こうとしているのは心配すべき事項のように思う。つまり、多くの先進国は、発展途上国のような国にしようとしているということである。目の前の金にくらんで。

 

 『無税国家は出来ないのだろうか』と考えたことがある。「出来たとしても、すべきではないのではないだろうか」というのが、私の答えである。ある人の説明によれば、『税金とは、罰金としての役割がある』と。法人税は0にすべきではない。なぜなら、0にすると、金を持った企業は更に(ますます)富を蓄え、赤字の企業はますます、倒産の危機に瀕するから、である。所得税の累進課税はなくすべきではない。なぜなら、所得税を均一にすると、所得の多い人は、ますます、所得を増やしていくであろうから。大体、私は、「すべての人の収入は同じであるべきである」という考えは持っていないが、「すべての人の、支出(消費)可能金額は同じであるべきではないか」という考えを持っている。ある人が、年間1億円の支出が出来て、ある人が年間100万円の支出しか出来ないのはおかしいのではないかと思う。人が皆平等に作られているというのであれば、消費可能額は皆同じであるべきであると思う。その人がいくら実際に支出するかは別として。

 

 「所得税のすべての人に対する一律課税制度」には反対である。それでは、富の偏在に対する平等化は不可能であるから。なぜ、ある人が1日に1ドルしか使えなくて、ある人が1日に1万ドル使えるのであろうか。それはおかしいのではないかと思う。収入の均一化はやめるべきだとしても、支出能力の均一化は図られるべきだと思う。

 

 「アメリカのやっていることはおかしい」といわなければならないと思う。「貧乏人から金を取り、金持ちに金を与えるような体制はおかしい」と。今、アメリカがやっていることというのは、まさしくそれなのだから。

 

 ちなみに。ヨーロッパも理想の国ではないと思う。スウェーデンも、低い法人税率、高い消費税率の国なのだからして。

 

 日本人でノーベル経済学賞を取った人がいるという話は聞いたことがない。恐らく、ノーベル経済学賞のほとんどの人は、アメリカ人もしくはアメリカの大学で大学教授をやっている人であろうことは言うまでもないことだと思う。すなわち、日本人は、アメリカに対して、世界に対して、「政府の役割として、金持ちから金(税金)を取って、貧乏人に金をばら撒くことが、経済にとって、良い事なのである」ということを、証明し、説明しなければならない義務を持っていると思う。三橋貴明さんは、『私は、無税国家を実現すべきという暴論を言っている訳ではない』と書くが、それではダメだと思う。究極の仮定を考えて、そうなった場合、どうなるかということも含めた上で説明しないと、アメリカ(欧米)の学問といわれるものにはならないと思う。自分の理論を、学問にしたければ、究極の仮定の状況も考えた上での説明をしないと。「ある仮定を設定した上で」というのが、欧米人の学問の得意とする所である。日本人はそれが苦手ならしく、それが、ノーベル賞に日本人が少ない理由であろうと思われるのである。日本人はすぐに、「妥当なライン(線)で考えて」とか言うから、現実問題の適応に関しては、世界一でも、学問分野では能力が低く見られてしまうのである。

 

 日本人は、観察力はすぐれているのだよね。今起きていることの観察力については。でも、「こういう仮定を設定した上で考えると」というのは、全然ダメだと思う。欧米人は、「もし太陽がなくなれば」ということも考えている。しかし、日本人は、「もし隕石が原子力発電所の上に落ちたら」ということに対しては、「あり得ないから考えない」という態度を取る。それではダメだと思うのだけれども。

 

 経済学だって、ノーベル経済学賞を取る人の論文なんて、数式だらけである。それも数字が入っている数式ではなくて、アルファベットだらけの数式。すべてが、アルファベットだらけの数式で表現出来て、「初めて学問といえる」といえるぐらい。哲学だって、本当の学問といえる論文については、全部アルファベットだらけの数式で表現されるらしいと。日本人にはそれが出来ないから、いつまだ経っても、ほとんどノーベル賞が取れないでいる、と。世界(欧米諸国)からは、「日本人のやる研究なんて、本式の学問ではない」と思われているのは、それが理由。

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