暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

頑張らないといけないのだ

2011-11-28 17:59:16 | Weblog

 『頑張らないといけないのだ』

 

 『昔は、良かったなあ』と言っている人達が大勢います。『インフレで、郵便貯金の金利は、7%(知らないが)とかで』と。

 色々考えてみたけれども。インフレは良い事なのです。楽に金儲けが出来るから。“郵政民営化”を主張していた元総理大臣は、郵便貯金をせずに、日本国債を買っていたようですが。要するに、インフレ時というのは、何も頭を使わなくても、お金さえあれば、お金を稼ぐ事が出来ると。バブルの頃について今でも思い出すのは、土地成金に対する非難でした。つまり、土地さえ買っておけば、後で必ず値上がりするから、それだけでお金持ちになれると。高額納税者の半分以上が、土地相続者であるという時代でした。つまり、インフレというのは、頭を使わなくても、金さえあれば、お金持ちになれる時代であったということで。

 

 それに対して、デフレの時代というのは、頭を使わないとお金持ちになれない。というよりも、そもそも、お金を稼ぐのが大変なのです。『デフレとは、消費者に有利な時代での事である』と書いている人がいますが。逆に言えば、生産者が大変な時代であるということ。すなわち、お金を稼ぐのが、大変な時代である、ということです。

 

 『日本の金利がどんどん低下している。低金利だ』とか言って。株に投資したり、外国に投資したりすることを勧める人達が、少し前までは、たくさんいました。その意見が正しいかどうかは別として。バブルの時並みの、高金利を得ようと思えば、そういう努力をしないといけない事は確かだったでしょう。つまり、インフレ時と同じ利益を得ようと思えば、頭を頑張って使わないといけない、と。インフレの時は、頭を使わなくても、金利収入を得ることが出来たのに。デフレ時に同じだけの金利収入を得ようとすれば、頭を相当使わないといけなくなってしまった、ということで。

 

 デフレ時は金儲けするのに、頭と努力が必要なのです。インフレ時には、その必要はなかったのに。

 

 これが、金儲けをたくらむ人達が、インフレを好み、デフレを嫌う理由ではないかと思うのですが。

 

 ええっと。『頑張らないといけないのだ』ですね。

 

 うつ病の人達が増えてきて。生活保護の人も増えていますが。あるうつ病の人が、『大震災で、「頑張ろう東北」というのは、おかしいのではないか』と書いていましたが。どうなんでしょうね。でも、やっぱり、頑張らないといけないのではないのか。頑張る人のおかげで、頑張らない人が生きていける。そういう仕組みがあるのではないか、と思うのですが。

 

 『ギリシャ人は良いなあ。国民の3分の1が公務員だって』と思いますが。でも、財政収支は、大幅な赤字。誰が補填していたかというと。黒字のドイツとかの国だった訳で。

 皆遊んで暮らせれば良いのですけれども。皆遊んで暮らすばかりでは、その人の世話をするのは、一体、誰なのか、という話になる。

 

 デフレは良い事なのかも知れません。インフレ時には、『頭を使わずに、誰でも、お金さえあれば、金儲け』が実現出来ます。でも、デフレ時には、それが出来ない。だから、皆、苦しみながら、何かを生み出す。それが、人生というものなのかも。

 

 不幸を嘆いてばかりでは意味がないですが。不幸の中で、それを改善すべく、何かを考える。それが、世の中の発展というものなのかもしれません。

 

 TPPはどうなるのでしょうか。日本の思い通りにばかりになる事が、日本のためになるかどうかは、分からない事は、歴史的に証明されています。圧力があって、色々変更していく。それが日本のためになった事も歴史的には多いです。

 

 『不況はチャンス』と言いますが。それを別の言い方で言えば、『不幸はチャンス』なのです。不幸だからこそ、不幸を解消すべく、色々考える。何億もの宝くじに当たった人が、数年後に、貯金ゼロや、マイナスになる人が多い事が良く知られていますが。何不自由ない人生が、意味のある人生かどうかは分かりません。

 

 色々思うけれども。人生の目的とは、思考することにあるのではないかと。考える事がなくなれば、生きている意味がないのではないか、と。『人間関係のない、人生なんて、人生ではない』とも言いますけれどもね。(人間)関係性なしに、生きていても、つまらないだけだと思う。人間関係という制約があるからこそ、生きている意味がある訳であって。ということは、お金という制約なしに、人生を生きるのも、ある意味、何のために生きているのか、意味のない人生なのかもしれません。“ノン シンク フード”(Non think food)と言いますけれどもね。『何も考えないで、食べる食べ物』の事らしいが。そしたら、多分、太ります。

 

 色々考えてみるけれども。宇宙の存在する目的とは、暇つぶしのような気がする。何でも、かんでも、分かってしまったら、それ以上することがなくなってしまう。だから、“忘れるという機能付き”で、地球に生まれてくるのではないか、と。

 

 人生には色々あります。富は無限ではない。制約条件が色々あって。だから、色々考える。そして、人には色々な側面がある。だから、『暇つぶしには、最適でしょう』という訳なのだ。

 宇宙という、暇つぶし手段。人間関係の事を考えていたら、色々眠れないと。良いではないですか。眠らなくさせてくれるのが、この宇宙という場なのだ。考える事があるというのは、幸福な事なのだ。そして悩むべき事があるというのは、良い事なのです。

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去っていく型の支援と 追記

2011-11-13 17:36:56 | Weblog

追記

 色々考えてみたけれども。『継続した支援をお願いします』が不愉快なのだよなと思う。企業が消費者に対して、『継続した我が社の商品の購入をお願いします』というだろうか。政治家が有権者に対して、『継続した私への投票をお願いします』というだろうか。もちろん、すべての企業が、消費者に対して、『継続した我が社の商品の購入』を望んでいるだろうし。すべての政治家は有権者に対して、『継続した私への投票』を望んでいるであろう。でも、それは、言わない。『継続した支援をお願いします』と平気で言えるNGO団体は、“かわいそうな人達”をネタにとって、脅しているだけなのではないか。結局、自分達が栄えたいだけではないのか。

 誰もが、『継続した私への支持』を望む。でも、それは相手には普通は言わない。それを言われていることが、不愉快さの原因なのではないかと思う。

 『継続した支援』を要求するNGO団体は、普通の寄付者の事を馬鹿にしていると思う。企業は移ろいやすい消費者の選択に耐えなければならない。その上で、企業の発展を実現しなければならない。政治家は国民の移ろいやすい選択に耐えなければならない。それが民主政治というものだから。その、普通の寄付をする人達の移ろいやすい選択というのを、拒否する、NGO団体はダメだと思う。

 

 すべてのものは変化する、のだ。永遠の企業の発展はありえない。永遠に栄える国もない。国民は政治家選択を変化させる権利がある。消費者は何を買うか、常に変化させる権利がある。それなのに、特定のNGOに対して、継続して支援しなければならないという義務は、どこにもないと思う。

 

 やっぱり、『継続した支援をお願いします』と言うNGOはちょっとおかしいと思う。

 

 ちなみに。私は今まで、『継続した特定のNGOに対する支援』はした事がない。やはり、一抹の疑問があったからである。

 

 誰だって、この世界は変化するものだという考えの元で、決断をしなければならない。『私だけは無変化な状態のままで維持したい』というのは、無理な要求なのだ。

 

 NGO団体は本当に無茶な要求をするよなと思う。それが私の感想である。事情は何であれ。それは通らない要求なのだ。

 

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去っていく型の支援と

2011-11-13 17:35:37 | Weblog

 『去っていく型の支援と継続型の支援と』

 NGO型の支援と、政府型のODA支援。何が違うかを考えていた。

 単純に考えると。ODA支援というのは、建造物を作る支援である。道路を作ったり、ダムを作ったり、そういう支援である。

 一昔ほど前に、緑の革命について、批判していた人達がいたが。その批判は間違いだと思う。緑の革命は、食糧生産を増やす技術なのだが。もちろんそのせいで、不幸になる農民もいたであろう。でも、全体でみれば、それはすばらしい技術なのである。そこの所を見なければならないと思う。

 ハイチの地震の後、『国際的NGO団体は、ハイチにたくさんの支援をしてきたのに。ハイチのライフラインの普及率はめちゃくちゃ低い』という批判があった。結局、NGO団体には、ライフラインの整備とかいう行為は出来ないのだよね。出来て、学校建設ぐらいしか出来ない。そう思うと、NGO団体というのは結局、毒にも薬にもならない行為をしているだけだともいう事が出来ると思う。水を与えているだけ。やっている側はいい気になって、良い事をしている気分になるが、結局、将来的には何も残っていない。

 

 本当は、批判があるぐらいの行為の方がまともな行為なのだ。

 エジプトのナイル川のダム建設について、批判があったと、私は高校生の頃に聞きました。でも、そのダムを壊さないのは、ダムによって得られる利益の方が大きいからのようである。批判を浴びずに、単純な善の行為として認識されているというのは、結局、何の作用ももたらさない、役に立たない行為をやっているからなのではないのか。そういう疑問が浮かぶのであるが。

 

 元の議題に戻る。NGO型の支援と、政府型のODA支援を比べてみた時、思いついたのは。NGO型の支援というのは、継続型の支援で。実際NGO団体もそう言っている。『皆さまの継続した支援をお願いします』と。それに対して、政府のODA支援というのは、去っていく型の支援である。ダムを作ったら終わり。水道施設を作ったら終わり。道路を建設したら終わり。そういう支援であるということが言えると思う。

 NGO団体の人達は、学校建設とかいう、一時的に大金を出して、後は何もしない人達の事を批判的にいうのだよね。でも、それは、相手に自立させなくさせているだけなのではないのか。学校を立てて、後は去っていったら。その学校運営は、地元の人がしないといけなくなってしまう。でも、去っていかなかったら、結局、運営は、NGO団体の人に任せきりになってしまう。それでは、地元の人達の悩んで向上するという部分を取りはらってしまう事になるのではないか、と。

 

 安直に答えが得られる事が、自分にとって、善かどうかは分からない。

 先進国の人達の言う事を聞いておけば、多分間違いないのであろう。でも、それは、過程なしの、結論みたいなもので。なぜ、それが正解なのか、全然分からない。

 自立というのは、そういう事ではないと思う。親が先回りして、子どもが間違いを犯さないようにする行為のようなものである。子どもには、なぜ、それが間違いなのか、全然分からない訳だから。自立にはならないと思う。何でも、してやってあげることが、相手に対する善行ということではないと思う。

 

 確かに発展途上国のやっている人達の行為は、先進国の人達から見れば、過ちに見えることは多いと思う。だからと言って、何でもかんでも手をかしていては、彼らの自立にはならないのではないかと。

 

 問題は、彼らを自立させる事だ。だから、学校建設をした後、校舎がほったらかしになっていても、放っておくことが、彼らの将来のために有益な事かも知れない。

 何でもかんでも手を貸す事が、彼らのためになるのかどうか。

 

 食糧支援とか無駄だと思うけれどもね。田植えの方法を教えるのならともかくとして。相手が援助を必要としなくなる状態に持っていくことこそが最大の援助なのだ。緑の革命は偉大だ。そのおかげで、東南アジアは食糧支援を必要としなくなる状態になったのだから。援助者がいなくなる状態に持っていくことこそが最高の援助なのだ。そこの所を間違えてはいけないと思う。中国的に言えば、『魚をあげるよりも、魚の取り方を教えなさい』と。

 援助者は常に、自分の存在が無意味になる事こそが、成功なのだ、ということを忘れてはいけないと思う。

 

 

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援助が目的化してはならない

2011-11-13 13:49:50 | Weblog

 今日夢の中で考えていた事。

 

 ネットでは、『日本ユニセフは、日本法人の経費として、寄付金収入の2割も取っている。だから、日本ユニセフに寄付してはいけない。』と書いている人が大勢いました。

 

 『そんなものかな』と思って。私がその時、支援していた、ある国際NGO団体の収支報告書を見ると、それも、日本法人が、2割の経費を取っていました。

 で、『2割というのは、そんなに、多い数字ではないのかも知れないな』と思ったのだが。

 しかし、後から、考えてみれば、変な話で。日本法人が2割取っているということは。全体法人も2割とっていて。8割×8割=64%しか、現地には回っていない事になる。これが多いのか少ないのか。私には、多いとは思えないので。結局、『もう寄付するのは、止めようかな』という気になりました。

 

 その後、最近寄付した、北朝鮮の難民を支援する団体は、多分、経費取っていないのじゃないかな。

 組織の維持が、組織の目的化したら、おしまいである。立派な収支報告書を送ってくる団体は、あやしいのではないのか。その報告書も経費なのだから。本当に、いかにして、現地に投下するお金を増やしたいかという事を考えている団体は、そんな立派な収支報告書を送ってこないのではないか、と。

 

 ちなみに。話は、投資信託に行くが。投資信託が儲かるものでないのは。金額が低い人でもはいれるからである。あんだけ、収支報告書を年に2回、元は10万ぐらいしか入っていないのに対して、送っていれば、そりゃ、手数料も高くなるであろう。

 

 本当にNGO団体というのは、すばらしい組織なのか。どうもそうは思えないのだが。

 

 組織が大きくなってくると。事務員も雇わなければならない、自分の給料もそこから欲しいという欲望が出てくる。本当に、いかにして人を救おうかと考えている団体であれば、事務員はすべてボランティアで、自分も他の会社に勤めていて、NGO活動は有給を使ってと出来るはずだと思うのだが。結局それが出来ない。要するに、それは、本当は、現地の人がそれほど困っているようにその人達にも見えていないからなのではないか、と思うのだが。

 

 はっきり言えば、不幸な人達をネタにしているだけのように見える。国際的NGO団体というのは。そこの所はどうなのか、と思う。

 

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