暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

お互いに助け合いなさい

2011-04-18 16:35:54 | Weblog

 スピリチュアルなことに関心のある人の中に、『経済というような、くだらないことに関心を持つ人達がいる』という考えを書いていた人がいたが。しかし、お金の問題はスピリチュアル(霊的)な問題である。「飢え死にしそうな人を助けよう」「飢えに苦しむような人達がこの地球上に存在するのはおかしいのではないか」ということは、スピリチュアルな霊的な問題であると思う。

 所得に対する一律課税に私が反対なのは。「人間はお互いに助け合わなければならない」に反するからである。一方で、一日1ドルしか使えない人が存在し、その反対に、1日1万ドル使える人が同じ地球上に存在することはおかしいと思う。人間はお互いに助け合わなければならないからである。神による正義の実現を待つのではなくて。

 

 その意味において、「困った時は、神に頼ろう」とするのは、間違いなのではないかと思う。本当は、人間に頼らなければならない。巨大地震が起きた時、頼りになるのは、神ではなくて、自分達の隣に住む人間なのである。で、神ではなく、人間に頼る方が霊的な意味においても、真理であると思う。人間は神と同じ材料によって造られているのだからして。

 

 “唯一の神”という存在を信じるのかどうなのかという問題がある。良く分からないが、唯一の神を信じている人達によれば、神は絶対的なもので、要するに、何でも知っていて、何でも出来る存在らしい。でも、私は、そういう神に頼るのではなくて、人間に頼った方が良いと思う。神はこの地球上にいまだに現れてこないが、それは、何でも出来る神が現れたら、人間は何もしなくなってしまうからである。大体、神に頼るのは良い事なのか。一つしかいない神に頼るのではなくて、たくさんいる人間に頼った方が良いと思う。

 

 なぜ、そういう事を考えてしまうかというと。中国の経済発展が気に入らない人達がいるのだよね。で、日本の特許収入はここ10年ほど、世界のすべての国に対して黒字である。しかし、赤字であった、バブル期やそれ以前の高度経済成長期より、日本人の幸福感が増したかといえばそうではない。むしろ、不幸な気分になっている。『パソコンの企業が、マイクロソフトしかない世界よりも、多くの企業が参入している世界の方が、世界全体としての幸福度は増大するのと同じことである。』 『日本の企業しか研究開発しなくなって、幸福になるのは、その日本企業とその従業員だけである。日本国民全体としては不幸になる。』『エンジンは一個あるより、たくさんあった方が良いのである。』経済発展というエンジンも、日本しかない世界よりも、中国とか、アメリカとか、ヨーロッパとか他の国も健全であった方が、世界の幸福度は増大するし、日本人の幸福度も増大するのである。他者を否定して、自己利益が得られるということはないと思う。

 

 スピリチュアルな議題に移ると。大抵の企業活動は、他者に幸福を与えるために存在しているから。自分の仕事に対して頑張るというのも、スピリチュアルな問題である。皆が、何もせずに、働かない世界が良い世界であるとは思わない。もちろん、機械で代わりにその仕事が出来るなら、機械にさせた方が良いが。

 

 人を助ける方法には色々な方法がある。震災があって、医者として、人を助ける人もいれば、義捐金を送って助けようという人もいる。被災者に対して歌を歌うことで、被災者の人達に幸福を与えようとする人もいる。人の道は色々である。問題は、助けようという意思の問題であって、その方法の違いについて、一つの道が正しいということではないし、一つの方法しか認められない世界よりも、たくさんの方法が尊重される世界の方がすばらしいと思う。ある意味では、普通に働くことも、被災者を助けることだと思う。ミネラルウォーターを作る会社で働いている従業員の人達とか。

 

 だから。たった一つの存在しか認められていない神の助けを願うより、たくさん存在する人間に助けてもらう方がすばらしいと思う。

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震災復興財源を消費税で賄うな

2011-04-18 16:33:57 | Weblog

 「震災復興財源を消費税増税でまかなうな。日銀の国債引き受けで賄え」

 日銀が国債を引き受けるとインフレになり、インフレは「政府による卑劣な税金なのである」というが。消費税増税で、復興財源を賄うことも、十分な税金なのである。問題は、どちらのやり方の方が、リスク(危険性)が少ないかである。今、日本は消費が足りなくて困っているのに、消費に罰金をかけるような、税金を掛けてどうするのだろうかと思う。それに、あるインターネット上の情報によれば、消費税を増税しても、税収は増えないらしい。なぜかというと他の税収、法人税や所得税が減少するから、とのことであった。(消費税を3%→5%にした時の話)。ということは、復興財源を消費税で賄うことは、除外すべきだと思う。消費税収入が増えても、国税全体が減少したのでは何にもならないから、ということで。

 

 ちなみに。「政府銀行が、国債引き受けをするとインフレになる」と言っても、「すべての価格が均等にインフレになるわけではない」と思う。今回は、復興財源として、国債を引き受ける訳だから。まず、建設労働者の賃金が上昇する。これは、あながち悪いインフレとも言えないと思う。建設関係に関わっている人達は大喜びするであろう。卵の値段は上がらないであろう。高度経済成長時でも、他のすべての物価は上昇したのに、卵の価格は上がらず、卵は物価の優等生といわれた。つまり、インフレになるといっても、すべての物価が上昇するわけではないのだ。需要供給のバランスが働き、その時点で供給が追いつかず、欲しい人が多いもの価格が上昇する。供給が十分だと価格は上昇しない。大体、鳥インフルエンザの時は、マスクの価格が上昇したはずであるが。(高くても売れる現象が発生)。別に、国債を日銀が引き受けなくても、インフレになる物価というのは必ずあるし、国債を日銀が引き受けても、どれほどインフレになるかは疑わしいと思う。しかし、復興財源を消費税で賄うというのは、本当に国税収入の増加になるか疑わしい上に、GDPが減少する(不況になる、経済成長率がマイナスになる)可能性も高いし(実際、3%→5%の時はそうなった)、消費に罰金をかけてどうするのか、という問題もある。

 

 多分、日銀による国債引き受けというやり方を批判する人達の意見は、「そんなに楽な方法で良いのだろうか」ということだと思う。楽すぎて、まじめに、国民の反対を押し切って、税金を取って、というリスク(危険性)のある行為を政府(政権与党)が放棄してしまうのではないか、ということにあると思う。禁断の果実だから。禁断の果実はとてもおいしいのである。

 

 それに対して、私は今の所、回答を持っていないが。大体、赤字国債だって、最初は例外的とされ、小額であった。それが、10年後には多額になり常態化したのである。日銀による国債引き受けもそれと同じになりかねないというのは当然の懸念のように思う。一応今回は、巨大地震による例外としても、この実はとてもおいしいことがすぐに明らかになるであろうから。

 

 (ちなみに。現在における、政府決定は、「年金機構にある貯金を担保にして、赤字国債を発行しよう」ということらしい。まあ、問題の先送りな訳だが。それで良いのではないかと思う。『何も出来ない政府は良い政府だ』かな?)

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強きを挫き、弱きを助ける

2011-04-18 16:31:47 | Weblog

 増田悦佐さんの、最新作の『BRICsの経済発展は幻だ』みたいな内容の本については、「何で、一人当たりのGDPが日本の10分の1以下のBRICs諸国の不幸を願わないといけないのだ」と憤慨して買わなかった。日本のマスコミの人達の意見、「強きを挫き(叩き)、弱きを助ける」には、不満を言う人もいるが、おおむね正しいと思う。「強きを賞賛し、弱きをたたく」世界のエリート層の人達よりは、何十倍も偉大な人達であると思う。

 

 増田悦佐さんの別の本に書いてある、「アメリカが最も偉大だった時は、最も平凡極まりない大統領を持ち、まともな大学がなく、エリートといわれる人達がいない時期であった」という意見にはすばらしい意見であると言いたいと思う。エリートは常に、富を自分達の所にとどめて置きたいと画作し、そして、「貧乏人から金を取り、金持ちに富を渡す」体制を正義として、理論化し、そういう体制を作ろうとする人達のようだから。

 

 日本には倫理があって。「権力を一極集中化させない」という倫理である。江戸時代、もしくはそれ以前の体制を見ても、「権力者には富を与えず、富ある者は権力がなかった」という体制であった。江戸時代最も、富があったのは、商人といわれているが、彼らは、士農工商という身分の中で一番低い身分の者とされ、権力がある武士は恐らく、最も多額の借金を抱えていた層であった。

 

 政治家が富を持っていると日本ではたたかれるが、たたかれるのは健全なことである。たたかれることでバランスが取れているのである。これが、権力者=富となると、発展途上国になってしまう。

 

 富と権力の一極集中は避けられるべきである。一人の人がすべてを決めるという体制は良くない。エンジンは一個あるより、たくさんあった方が良いのである。今の日本人の不幸は、新しい発明をする国が日本しかなくなってしまったことにあるのであって、他の国も新しい発明をいっぱいしてくれるのなら、その方が日本人にとっても幸せなことなのである。ライバルはたくさんいた方が良い。自動車開発にはたくさんの国が実行してくれる世界の方が、日本国民全体としては幸福なのである。日本の企業しか研究開発しなくなって、幸福になるのは、その日本企業とその従業員だけである。日本国民全体としては不幸になる。パソコンの企業が、マイクロソフトしかない世界よりも、多くの企業が参入している世界の方が、世界全体としての幸福度は増大するのと同じことである。

 

 一極集中を善とするのは、世界の国々の不幸な生い立ちからである。政府の第1の役割とは、他国の侵略(他国民からの殺害とも言う)から国民を守ることであって。その他国からの侵略という不幸を経験したことのない唯一の国が、日本みたいなものだからして。

 

 本当に幸福を感じているのなら、自分の持っている富を、他の貧しい人達に分け与えることは出来ると思う。しかし、世界の多くのエリート達は、「まだ自分達には富が必要だ」という。自分達には富が必要だといえば言うほど、平均的国民は貧しさを感じるようになるのであるが。それでも、彼らは、まだ、富が必要ならしいのである。お互いに分け与えれば良いのに。人間が生きるのに、そんなに富が必要な訳でもないであろうのに。こういうのを、貧困意識というと思う。富があるかないかは問題ではなく、自分達のことを貧しいと思ってしまうその心情が問題だということである。

 

 アメリカの富裕層は、日本の富裕層と比べて、寄付行為をよくするというが。しかし、じゃあ、なぜ、アメリカは日本よりも所得格差が激しいのでしょうか。そこの所を考えないといけないと思う。まあ、日本人だって、「日本人の間では所得は平等であるべきだ」と考えているようであるが、「外国人に関しては知ったことではない」という考えのようだが。ちなみに、アメリカ人だって、「アメリカ国内にいる人達の間では平等であるべきである」と考えているようであるが。日本人と同様に「外国に住んでいる人間に関しては知ったことではない」ということらしい。

 

 敵が必要なのかな。「宇宙人が現れれば、『地球人同士は仲良くしなければ』という機運が出てくるのではないか」という話を書いていた人がいるが。要は、比較である。絶対値が何かということは、皆知らないから。結局、比較によってしか、ほとんどすべてのことは把握不能である、ということで。

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世界には金持ちから金を取って

2011-04-18 16:29:13 | Weblog

 世界には、「金持ちから金(税金)を取って、貧乏人に回せ」という国と、「貧乏人から金を取って、金持ちに回せ」という国があるように思うが。日本も戦前は後者の国であった。戦後、前者に国になった訳だが。なぜか知らないが、現在、多くの国が後者の体制を目指しているように見える。

 前者の国とは、高い法人税率、高い累進課税の所得税(高い基礎控除)、低い消費税率、高い相続税の国のことであり、後者の国とは、低い法人税率、低い累進課税の所得税(低い基礎控除)、高い消費税率、低い相続税の国のことである。

 

 発展途上国における不幸が、一部の権力者層における過度の富の集中にあることは否定すべき論理ではないと思う。しかし、今、世界の先進国の趨勢として、「貧乏人から金を取って、金持ちに回す」方向に行こうとしているのは心配すべき事項のように思う。つまり、多くの先進国は、発展途上国のような国にしようとしているということである。目の前の金にくらんで。

 

 『無税国家は出来ないのだろうか』と考えたことがある。「出来たとしても、すべきではないのではないだろうか」というのが、私の答えである。ある人の説明によれば、『税金とは、罰金としての役割がある』と。法人税は0にすべきではない。なぜなら、0にすると、金を持った企業は更に(ますます)富を蓄え、赤字の企業はますます、倒産の危機に瀕するから、である。所得税の累進課税はなくすべきではない。なぜなら、所得税を均一にすると、所得の多い人は、ますます、所得を増やしていくであろうから。大体、私は、「すべての人の収入は同じであるべきである」という考えは持っていないが、「すべての人の、支出(消費)可能金額は同じであるべきではないか」という考えを持っている。ある人が、年間1億円の支出が出来て、ある人が年間100万円の支出しか出来ないのはおかしいのではないかと思う。人が皆平等に作られているというのであれば、消費可能額は皆同じであるべきであると思う。その人がいくら実際に支出するかは別として。

 

 「所得税のすべての人に対する一律課税制度」には反対である。それでは、富の偏在に対する平等化は不可能であるから。なぜ、ある人が1日に1ドルしか使えなくて、ある人が1日に1万ドル使えるのであろうか。それはおかしいのではないかと思う。収入の均一化はやめるべきだとしても、支出能力の均一化は図られるべきだと思う。

 

 「アメリカのやっていることはおかしい」といわなければならないと思う。「貧乏人から金を取り、金持ちに金を与えるような体制はおかしい」と。今、アメリカがやっていることというのは、まさしくそれなのだから。

 

 ちなみに。ヨーロッパも理想の国ではないと思う。スウェーデンも、低い法人税率、高い消費税率の国なのだからして。

 

 日本人でノーベル経済学賞を取った人がいるという話は聞いたことがない。恐らく、ノーベル経済学賞のほとんどの人は、アメリカ人もしくはアメリカの大学で大学教授をやっている人であろうことは言うまでもないことだと思う。すなわち、日本人は、アメリカに対して、世界に対して、「政府の役割として、金持ちから金(税金)を取って、貧乏人に金をばら撒くことが、経済にとって、良い事なのである」ということを、証明し、説明しなければならない義務を持っていると思う。三橋貴明さんは、『私は、無税国家を実現すべきという暴論を言っている訳ではない』と書くが、それではダメだと思う。究極の仮定を考えて、そうなった場合、どうなるかということも含めた上で説明しないと、アメリカ(欧米)の学問といわれるものにはならないと思う。自分の理論を、学問にしたければ、究極の仮定の状況も考えた上での説明をしないと。「ある仮定を設定した上で」というのが、欧米人の学問の得意とする所である。日本人はそれが苦手ならしく、それが、ノーベル賞に日本人が少ない理由であろうと思われるのである。日本人はすぐに、「妥当なライン(線)で考えて」とか言うから、現実問題の適応に関しては、世界一でも、学問分野では能力が低く見られてしまうのである。

 

 日本人は、観察力はすぐれているのだよね。今起きていることの観察力については。でも、「こういう仮定を設定した上で考えると」というのは、全然ダメだと思う。欧米人は、「もし太陽がなくなれば」ということも考えている。しかし、日本人は、「もし隕石が原子力発電所の上に落ちたら」ということに対しては、「あり得ないから考えない」という態度を取る。それではダメだと思うのだけれども。

 

 経済学だって、ノーベル経済学賞を取る人の論文なんて、数式だらけである。それも数字が入っている数式ではなくて、アルファベットだらけの数式。すべてが、アルファベットだらけの数式で表現出来て、「初めて学問といえる」といえるぐらい。哲学だって、本当の学問といえる論文については、全部アルファベットだらけの数式で表現されるらしいと。日本人にはそれが出来ないから、いつまだ経っても、ほとんどノーベル賞が取れないでいる、と。世界(欧米諸国)からは、「日本人のやる研究なんて、本式の学問ではない」と思われているのは、それが理由。

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