暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

日本的悲観主義?

2010-04-12 15:40:36 | Weblog

 『内向の世界帝国 日本の時代がやってきた』にこんなデータが載っていました。

 「ブログ使用言語シェア」について。で、このデータが、「最近調査項目が変わったようで2006年度(略)以来ずっと更新されていないのが気になるが」とあるが。

 調査項目は、”変わった”では、”変えた”のである。どこの国の調査機関かは知らないが、いかにも欧米人のやりそうなことである。つまり、「我が国は偉大だ」ということを占めさない統計データについては、発表しない、という方法が、ということである。

 ちなみに。その、2006年(略)のブログ使用言語シェアは、「1位日本語37%、2位英語36%で、以下、数パーセントの数字」である。

 自分の国が「偉大だ」と言えない、調査データについては、公表しない、というのは、いかにも、欧米人がやりそうなことではあるが。しかし、日本はそれとは逆に、「いかに自分の国がダメなのか」という情報ばかりを言いたがる点があるようが気がしてならない。

 ちなみに。我が国の農林水産省は、”カロリーベースの自給率”という、世界的に見て、日本と韓国しか発表していない、データを元に、「日本の自給率は低い」から、問題だ、と主張している。ちなみに。カロリーベースの自給率、30%代に対して、金額ベースの自給率は50%代である。世界の普通の国なら、問題は金額ベースにある、というはずなのに、と。

 ちなみに。なぜ、金額ベースより、カロリーベースの方が低いかといえば、それは、家畜のえさのほとんどが、輸入だからである。「別に、家畜のえさまで、日本製でなくても」と普通の人なら言うであろうが。なぜか知らないが、農林水産省の人達は、家畜のえさまで、日本製にしたいらしい。

 ちなみに。日本がバブルの時の議論から、私は、日本で農業をすること自体が無駄だと思っているが。バブルの時の日本人はこう言っていました。「我が国の自動車は優秀で、今年は100万台輸出した」と。それは良いのだけれども。その一方で、「米は一粒たりとも、日本に入れない」「農作物の輸入自由化には反対だ」と主張していました。

 しかし、そしたら、東南アジア諸国はどうすればいいのだろう、と思いました。日本から、自動車を輸入して、じゃあ、東南アジア諸国は何を日本に輸出すればいいのだろう、と。自動車を輸入してもらいたいのなら、農作物ぐらい輸出させてあげるべきである、というのが、その当時考えた私の意見でした。

 ちなみに。日本の新聞記事を読んでいても、変な記事がいっぱい。

 スウェーデンのことを言って。「スウェーデンは社会福祉が充実している。日本もこれを見習わなければ」「中国は、経済発展している。日本も頑張らねば」「スペインでは、住宅保有率が、、、日本もこれを見習わなければ」

 よくわからないが。この人達は、すべての指標、すべての分野において、日本は世界で一番でなければならない、と考えているのであろうか、と疑問に思ってしまうのだが。

 ちなみに。日本の教育もこんな感じ。例えば、英語が得意で、数学が苦手な子どもがいたとしよう。

 欧米人なら、こういうであろう。「あなたは英語の天才だ。もっともっと英語の勉強をして、英語の大学に行くべきである」と。

 それに対して、日本人はこういうのである。「数学の勉強をがんばりなさい」と。

 なんか間違っていると思うけれども。大体こんなことばっかり言っているから、「日本人の子どもの学習に対する意欲が先進国の中で最下位」とかになるのである。あたりまえである。自分の苦手な勉強を一生懸命したい子どもはいない。普通は得意なことを一生懸命にやるのが、どの子どもにとっても、幸福を感じることのはずなのに、と。

 ちなみに。日本の携帯電話市場における、”ガラパゴス化”問題について。

 何が問題かといえば。日本の携帯電話が世界に比べて進化していて、世界の標準とずれてしまっていること、なのだそうだ。

 「世界に比べて、進んでいるなら、別に問題はないではないか」と思うが。彼らにとっては問題らしい。で、要するに、彼らの希望は、「日本の市場において、日本のメーカーのみの製品が売れるだけではなくて、世界市場においても、日本のメーカーが売れて欲しい」ということなのだそうだ。

 えらい、厚かましい希望だな、と思うが。選べるのは、二つしかない。「日本市場に、世界のメーカーが入ってくるのを認める代わりに、世界市場において、日本のメーカーが参入できるようにする」か、「世界市場に日本のメーカーは進出出来ない代わりに、日本市場において、すべて日本のメーカを占めること」か。

 しかし、後者の希望がかなえられるのは、ありがたい事ではある。もし、これは、日本がバブルの頃なら、この希望でさえ、「日本の非関税障壁」と言って、叩かれていたであろうことを考えると。

 ちなみに。携帯電話の世界シェアは、多い順に、フィンランドのノアキ29%、アメリカのモトローラが16%、韓国のサムスンが13%、ドイツのシーメンスが8%といったところらしい。別の細かい数字なんてどうでもいいが。このデータを見て気になるのは、これらの国以外の国は、このことについてどう考えているのだろう、という疑問である。韓国人は韓国のメーカのものを買うのかもしれないが。フランス人は、何のメーカーの携帯を買うのであろう、と。

 で、大抵の国の国民は、「我が国は携帯はダメだが、他の所で頑張ろう」もしくは、「他の所は出来ているから、良いや」と考えているのであろう、という推測がつく。しかし、なぜか知らないが、日本は、「全部出来ないとダメ」と考えているようである。

 日本人の希望とは一体何なのだろうと考える。「すべての分野で世界一でないとダメ」とか、「日本人が消費するものはすべて、日本人が生産するものでないとダメ。で、その上で、輸出も出来ないとダメ」と考えているのであろうか、という疑問を持つ。

 「ずいぶん、厚かましい期待だな」という疑問を抱かざるを得ないが。

 教育の話に戻るが。世界の普通の国の人達が、「数学が出来なくても、英語が出来れば良いではないか」と考える。しかし、日本は、「出来ない数学を頑張りなさい」となるのである。これが、日本が、日本政府が、なぜ知らないが、「自国の悪い部分についてばかり、報道したがるくせ」になっているのであろう。要するに、「これだけ、日本は悪い所があるから、国民は頑張らなければならない」という主張をするために、「日本の悪い所ばかり言うのである」と。

 「変な国」と思う。

 もちろん、日本にも、良いところはたくさんある。というか、おそらく、他国の基準からすれば、有り余るほどの利点があるように思われる。でも、「頑張りなさい」というために、意図的に、「我が国の欠点」ばかりが、叫ばれる、ということで。

 変なの、と思ってしまうのでした。

 別に、日本が、農業頑張る必要はどこにもないと思うが。

 ちなみに。この農林水産省の問題について書いていた本は、『日本は世界5位の農業大国』である。

 なんで、そんなに、「何もかも、頑張らないといけないのか」について、私には、分からないが。しかし、「国際貿易というものを何と考えているのだろう」という疑問は抱く。まるで、「鎖国している国の経済みたい」感じがする。江戸時代なら、これで良いかもしれないけれどもね。これだけ、国際貿易が前提となっている時代に。「農作物も完全自給されていないといけない」というのは、ナンセンスだと思う。

 ちなみに。消費者が、自国産を望むのであれば、自国産の製品を生産するのは、正しいと思っているが。しかし、家畜のえさまで、自国産であることを望む消費者がいるとは思えないので。

 ちなみに。携帯電話メーカーに自国のメーカが一社も入っていない、フランスとかの国がこの問題について、どう考えているかについては、知りたい所ではある。間違っても、我が国みたいに「自国の携帯電話メーカーがない、我が国はダメな国だ」みたいな事は考えていないと思うが。

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世界文明と日本との文化の型の違い2

2010-04-02 17:03:17 | Weblog

 神との対話を読んでいて気になっていた問題ではあるが。「キリスト教を信じない人は地獄に落ちます」というのは、重大な問題だと思う。私がキリスト教が嫌いになったのは、この問題が原因であるが。しかし、同じことはイスラム教も言っている。「アラーを信じないものは、地獄に落ちる」と。でも、仏教にした所で、上座仏教(小乗仏教ともいう)は、「出家しないと教えは分からない。だから、出家できない女性とかの人達は下等な存在である」と教えています。それを否定した(完全にかは知らないが)大乗仏教である、という訳で。

 で、結局、世界において、宗教に興味を持つ人の疑問の大半は、「神は我々に何を望んでいるのか」ということなのである。『神との対話』が言うように、この「神は我々に何を望んでいるのか」ということから、解放されるということは、重大な問題であるのだが。しかし、この神は、結論だけで、なぜ、それが重大な問題なのかについては、語っていない。

 「神は我々に何も望んでいない」と言えば、神学の大半がひっくり返るというが。しかし、問題はそういうことではない。問題は、なぜ、「神は何を望んでいるのか」ということを宗教的人間は気にするのかということである。問題は、「神は何も望んでいない」。問題は、「人間のために、神がいるのであり、神のために人間がいるのではない」と言うことである。これを会社経営に置き換えてみると、「人間のために、会社があるのであり、資本家の利益のために、会社があるのではない」ということである。

 論理的な意見からいえば、「トップ(一番上)中のトップ」と言えば、神のことあろう。で、世界の宗教者達は、「神が何を望んでいるか」に思考のエネルギーを使う。でも、そんなことは問題ではないのだ。人生の目的とは、上の人の命令をいかに忠実に実行出来るかという能力ではなく、自分達個々の人間の幸福なのだから。

 日本人は、アメリカの軍人勧誘の仕事の「仕組みを作った人」を非難するであろう。まあ、仕組みそのものは公正だとしても。そういう仕組みを放っておく人達のこと、そういうシステムの上でしか、成り立たない、アメリカ人のトップの在り方について、非難するであろう。それは当然のことであろう、と思うが。

 問題は、個々人の幸福なのだ。それを追及するのが、多くの人間が存在する意味なのだ。これが日本人的発想なのであるが。一神教の人達は理解していないような気がする。だから。神が何を望んでいるかに気を取られて、「本当は自分達が何を望んでいるのか」ということを、置き去りにするのである。それが最大の問題なのであるが。

 「自分達自身が望んでいることを実行しなさい」 それが、『神との対話』の最も重要なメッセージであるような気がするが。しかし、一神教の人達はいまだに、「神が我々に望むこと」に気を取られている。で、それが、スピリチュアルな面における、人類の進歩を妨げている、と、『神との対話』の神は言います。一神教の教徒達が、どこまでそれを理解したかは知らないが。

 

 一応、書くことが尽きたような感じなので。また、これについては、面白い文章が思いつくまで、また考えてみます。

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世界文明と日本との文化の型の違い

2010-04-02 16:18:22 | Weblog

 先日私が旅行に行った時、バスの車内で以下のようなおしゃべりをしている人がいました。ユニクロは実力主義で給料が決まるという話について。ユニクロの倉庫の仕事らしいが。

 ユニクロの倉庫の仕事は、その仕事がどれだけ出来るかによって決まると。男女年齢関係なしに、と。で、上司の推薦がないと、管理職試験は受けられないが。その上司に嫌われる場合はどうするのかというと。月にいっぺんほど、他の店舗から店長が来て、「なんで、この人は優秀な人なのに、こんな給料なのだ」という視察が入るので、大丈夫なのだ、というお話でした。

 それを聞いて、私は、「いかにも、外資系的(ユニクロは外資系の会社ではないが)(欧米的なというべきかもしれないが)実力主義の公正さの評価をしている会社だな」と感じたのであるが。

 しかし、日本人がこの会社に、入社したいと思うかと言えば、それは別であろう、と。まあ、一応、女性が腰かけとして入るには、良い会社かもしれないが。男性が、「この仕事で一生食べていくぞ」として、働きたいと思う会社ではないという感じがしました。

 なぜなら、そりゃ、入社1年目の人の給料と、5年目の人の給料とでは、5年目の人の給料の方が高い会社でしょうが。5年目の人の給料と、10年目の人の給料が高いかどうかについては、疑問が残るということで。40歳過ぎたら、20歳の時より、おそらく(この評価基準では)給料は減っているであろう。倉庫の仕事というのは、体力勝負な部分があるからね。

 外資系の能力主義は、一見、公平に見える。しかし、こう考えてみると、人材集めの点からいえば、日本の年功序列も、意味があることが分かる。

 しかし、外資系の能力主義とは一体なんだろう、と思う。会社の目的からすれば、会社の役に立つ人に高い給料を与えるのは、当然のことである。しかし、それで、人間が動くかと言えば疑問な点が多いような気がする。

 話は、変わるが。最近読んだ本にこういうことが書いてあった。ある日本人がある欧米人を日本観光につれていった。その欧米人が園芸に興味のある人なので、それにまつわる所について、連れていったがそういう内容に感銘を受けた風ではなかった。しかし、日本の街路樹の弱った木に、丁寧に、添え木をしているのに、感動していた。欧米では、日本よりも、はるかに高い金をかけて、町の木の手入れをしているが、弱りだした木については、「見苦しいから」という理由で、簡単にその木を切ってしまうらしい、と。その点、日本の町の木は、健康な時は、大したお金もかけられていないが、一旦弱ると、高い金をかけて、丁寧に扱っている、と。

 欧米的実力主義は、「会社に利益を与えた人に、利益を与えよう」という意味では公正だと思うが。それは、「会社に利益に与えない人は、首にしてしまいます」というのと、同じだと思う。

 ある、日本人の人(島田伸介さん)は、「企業は顧客満足度を目指すが、顧客満足度は、みんなが考えていることなので、それでは差がつかない。だから、従業員満足度を考えるべきだ」ということを書いていたのですが。しかし、日本には、昔から、従業員満足度という発想はあります。

 ある日本の電気メーカー(旧名ナショナルという会社の事だったと記憶しているが)の社長さんは、バブルかそのちょっと前ぐらいの頃、「私達の目標は、世界中にわが社の製品を売って、従業員数をどんどん増やしていくことである」と言っていましたが。

 その時は、「傲慢な意見だ」と思いました。なぜなら、その会社は、その会社の製品を安い値段で売る小売店に対して、圧力をかけて、安い値段で売らせないようにしていた、会社だったからです。でも、この企業の発想を今の、日本語でいえば、「顧客満足度より、従業員満足度」ということでしょう。その企業の社長にとっての目標は、顧客満足度ではなく、従業員満足度であった、ということです。

 これは、ある意味、非常に奇妙な考えに見えますが。一つの考えであると思います。しかし、こんな意見を言う会社が、世界的電気メーカーなのだから、ある意味すごいと言えばすごいです。

 日本的、理想の従業員とは、自分の頭で考える従業員の事でしょう。しかし、欧米的従業員とは、上の与えた目的を忠実に実行する従業員のことでしょう。アマゾン(インターネット注文による、商品の販売会社)で言えば、「目的の物を、すばやく、出荷させられる能力」だけが、重要なことであって。「アマゾンが、日本に税金を納めていない問題については、何も考えるな」ということでしょう。

 アメリカにはこういう問題があります。要するに、上の与えた目的を達成する能力だけが問題なのである。後のことはいらない、と。

 例えば、アメリカの貧困について書いてあったある漫画仕立ての本には。

 アメリカの軍隊で、一番人気のある仕事が、一般軍人が唯一なれるホワイトカラーの職である、貧困層の高校生に対する軍人勧誘の仕事である、と。で、その仕事も、勧誘する人数の少ない人は容赦なくその仕事から外される、と。いう話を書いていたのですが。

 しかし、アメリカ人から見れば、これは公正な制度なのでしょう。みんなに入口を開いておいて、その能力のない人はその仕事から外される、というのはね。

 でも、日本人からすれば、「アメリカ人の醜い側面」にしか見えない。勧誘する側だって、本当は軍人にならせることが良いことだなんて、ほとんどの人は思っていないはずである。しかし、それをさせる。それが、アメリカ的公正さだという。それはアメリカの欺瞞ではないのか、と。日本人は思う訳である。

 その目標が正しいかについては、考えるな。あなた方は、自分達の目的にそう行為だけすれば良いと。感情については、どこかにおいておけ、という訳である。

 日本では、投資信託等の勧誘の仕事が、勧誘数に応じた給料の部分があることについて問題にしている人がいましたが。要するに、アメリカ人からすれば。投資信託が顧客の利益につながるかなんてどうでも良い。ただ、上の与えた仕事、「投資信託をたくさん売れ」というのが、どれだけ、達成できるかだけが問題だ、ということでしょうね。

 従業員満足度を考える、日本の経営と。会社の利益、もっと正確にいえば、一番上の人間、会社を支配する人間にとっての利益だけを目的とする経営との違いというのは、何だろう、と考えてしまいます。

 なんか、「神様に関する問題」を考えてしまうのだけれども。

 日本の神様とは、「人間のため」に存在するのであるが。欧米的神様、というか一神教の神はこういう神です。「神の言うことを聞かないと、あなたは地獄に落ちます」という神です。これを、会社にあてはめると、「トップの言うことを聞かない従業員は解雇されます」ですね。で、日本的神とは、「従業員のために、会社の社長は存在する」ということで。

 そう考えてみると。日本的会社と、日本的神は、別におかしな神でもおかしな経営でもないことが分かります。

 (とりあえず、投稿)

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