佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

らいおんの国とうさぎの国とサンゴの民

2015-08-22 | 平和

島ぐるみ会議」ってご存知ですか?

正式名称は「沖縄『建白書』を実現し未来をひらく島ぐるみ会議」。

「建白書」とは、2013年1月28日に、県民大会実行委員会の共同代表、沖縄県内すべての41市町村長、議会議長、県議会議長、県議会全会派代表等の直筆の連名で、安倍首相に提出されたものです。

そこに明記されているのは、次の3点。

(1) 沖縄米軍基地へのオスプレイ配備の撤回

(2) 普天間基地の閉鎖と撤去

(3) 同基地の県内移設断念

 

その「島ぐるみ会議」のパンフにこんな文章が載っていたそうです。

友人が教えてくれたので、私も皆さんにお伝えしたいと思います。

ドコとドコとドコのお話なのか、大人には一目瞭然。

こどもにはそれはわからなくても、お話そのものがきっと心に残るでしょう。

大きくなって、その意味に気づいてくれたら、それでいい。

 

 

あるところに、らいおんの国とうさぎの国がありました。

ふたつの国はその昔、大きな戦争をしてらいおんの国が勝ちました。

 

あるとき、らいおんの大臣がいいました。

「わが国の軍隊は世界一強い。わが国の軍事基地をうさぎ国にもつくって守ってあげましょう」

うさぎの大臣は賛成しました。

本当に守ってくれる保証はありませんが、いてくれるだけで安心できる気がするからです。

 

うさぎの大臣はいいました。

「南の方に小さなサンゴの島があります。そこに基地をつくりましょう」

もともとその島は、サンゴの民が暮らす王国でしたが、

うさぎ国が武力で脅かして手に入れた島でした。

 

らいおんの軍隊は、工事をはじめました。サンゴの島をブルドーザーで潰し始めました。

サンゴの民は、先祖代々の歴史と文化が受け継がれる場所を守るために必死に抵抗しました。

でも、銃と剣を持ったらいおん軍は基地をどんどんつくりました。

 

うさぎ国は、らいおん軍に長くいてもらうために基地にかかるお金を代わりに払うことにしました。

だけど、うさぎの民は自分たちの税金が外国の軍隊のために湯水のように使われているとは、

ほとんど知りません。

 

らいおんの大臣とうさぎの大臣は基地を使うにあたって、ある「約束」をしました。

それは、らいおんの軍隊が何をやってもいいという約束でした。

 

だから、らいおん軍はやりたい放題。

戦争で使う毒物で島を汚しても夜中まで戦闘機がビュンビュン飛び交っても、

らいおん軍が犯罪をおかしても、誰もサンゴの民を守ってくれません。

うさぎの民の安心とひきかえに、サンゴの民は不安な毎日を過ごすことになりました。

 

サンゴの民はらいおん軍に「早く出ていってほしい」と怒りました。

何十年も、何千回も、何万もの民が「私たちの土地を返してください」と訴えました。

 

でも、基地はいっこうに減りません。

「国にたてついたって、もうしかたがないさ」とあきらめて基地を受け入れる人さえ出てきました。

こうしてサンゴの民は長い間、基地のある生活を強いられてきました。

 

やがて月日が経ち、らいおん国は「新しい基地がほしい」といいました。

そこでウサギ国は、サンゴの島の東側の海に基地をつくると決めました。

「今度の基地は、200年は使える立派なものにするぞ」

 

それをきいて、サンゴの民の怒りが爆発しました。

大切な美しい海をつぶされるばかりか、朝も夜も不安な日々が子孫の代までもずっとずっと続くのです。

 

うさぎ国にしたがい基地を受け入れてきた人もこれには我慢できません。

「私たちの島の未来は、私たちが決めるんだ」

ツラい思いをしてきたサンゴの民が、心をひとつにして立ち上がりました。

 誇りと尊厳、そして島の未来を守るために。

 

 

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戦争が廊下の奥に立ってゐた

2015-08-22 | 平和

  戦争が廊下の奥に立ってゐた

http://book.ureagnak.com/bungaku_11.html

渡邊白泉の名前は知らなくても、テーマに掲げた「戦争が廊下の奥に立ってゐた」の詩を知っている方は多いかと思います。

 

友人が教えてくれたそのページにはそう書いてあったけど、

私は、渡辺白泉という名前も、この詩も初めて目にしました。

そして、なんだかゾクッとしました。

 

詩と言っても、俳句なんだそうです。

季語の無い俳句で、無季句と呼ぶのだそうです。

 

これは昭和14年の作品で、「時代がだんだんキナ臭くなり始めている事を敏感に感じて渡邊白泉はこの詩を詠んだのではないでしょうか」と評されていました。

また、「戦争は憲兵のこと」という解釈もあるようです。

暗い廊下の奥に憲兵が立っているという、それだけで不気味です。弾圧という言い知れぬ恐怖が身近にあることの象徴として書かれている…と。

いえ、そうではなくて、「廊下の奥に立つてゐた」のは赤紙を配達する郵便夫である、と論じる人もいるようです。

近所に配達された赤紙という具体的なものを「戦争」という抽象に転化させるだけの、若干の余裕と、残り時間が砂時計の砂のように確実に減っていくと感じさせる緊張感があったと語っています。

 

また、昭和13年には

  銃後といふ不思議な町を丘で見た

という句を詠んでいます。

 

俳句というより、やはり詩ですね。

映画のような1シーンが浮かんできます。

まるで中学生くらいの子どもが、タイムマシンに乗ってその時代の丘に降り立ち、

眼下の町を一望したら、

そこは今自分が住んでいる町なのに、風景がまるで違っていて不思議な感じを覚える。

家の形や街並みが違うのはわかるけど、

昔の写真を見ていたから、それは想像していた通りだけど、

生徒がいるはずの学校はガランとしていて、みんな軍需工場で働いていた。

お母さんたちは鉢巻をして、竹槍を持ってエイエイヤーと訓練していた。

あちこちで近所の人が集まって万歳三唱して若者を見送っていた。

子どもも大人もみんな同じ顔で、同じ方向を向いていた。

そんな不思議な町だった。

引率の先生が「これが銃後の町なんだよ」と教えてくれた。

そんなシーンが浮かんできました。

 

そして、昭和20年の終戦時に詠んだ句はこれでした。

 玉音を理解せし者前に出よ

 

 

 

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