佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

ビキニデー

2009-03-12 | 平和

友人が今年もビキニデーに参加したと、メールで知らせてくれました。
そして、ビキニデーや第五福竜丸の事実を知らない人があまりにも多いので、職場の新聞に記事を投稿したそうです。
その記事は転送歓迎とのことなので、私のブログでも紹介させて頂くことにしました。


第五福竜丸って知っていますか?
2009年3・1ビキニデーに参加して・・・            
                                          黒坂操

どうして3月の寒い時期にビキニなの?ビキニデーに参加した20代の参加者の率直な意見です。

今から55年前の3月1日、ヒロシマナガサキに原爆が落とされた9年後、太平洋上の楽園と呼ばれた美しい国、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカは水爆実験を行いました。
「ブラボー」と名づけられた水爆の爆発威力は、広島原爆の1000倍に相当する、とてつもないものでした。「ブラボー」の爆発により珊瑚礁が直径2キロメートルにわたってえぐられ、その跡は今も残っているそうです。
破壊され、放射能に汚染された珊瑚礁の微粉末は、何万平方キロメートルにわたって舞い上がり降り注いだのです。

当時、その灰は「死の灰」と呼ばれていました。第五福竜丸はこの海域でマグロ漁していたため、乗組員全員が「死の灰」を浴びたのです。
「死の灰」を浴びた第五福竜丸は約2週間後、静岡県焼津港に戻りましたが、23人の乗組員は全員放射線障害になっていました。また、当時の日本人の栄養源であったマグロが被爆したことによって、家庭にも大きな衝撃を与えました。

事件から半年後、乗組員で通信士だった久保山愛吉さんが手当ての甲斐なく、急性放射線障害で亡くなりました。
このことも、当時、大きく報道され、2つの原爆により大きな被爆したヒロシマナガサキについで、3度目の核兵器による被害に日本列島に怒りが広がりました。毎年、ヒロシマとナガサキで行われている原水爆禁止世界大会はこの事件をきっかけに始まったのです。

久保山愛吉さんは東京の病院で家族に「原水爆の被害者はわたしを最後にして欲しい」という言葉を残して亡くなりました。お父さんが骨となって東京から静岡に帰る列車の中で、まだ小さな娘さんは「暑いから」と言って遺骨をうちわでずっと仰いでいたそうです(涙)

第五福竜丸は、地球上から核兵器をなくすシンボルとして東京「夢の島」にあります。
日本人として、一度確認しておく必要があるのではと私は思います。


去年はじめてビキニデーに参加したこの友人は、とても大きな衝撃を受け、当時その思いをメール等で熱心に語ってくれました。
それは、第五福竜丸乗組員だった大石又七さんが事件の真相を伝えたいと20年以上も被爆体験を語り続けている姿を見て、「知ることの大切さと知ったことを伝える意味についてあらためて考えさせられたから」だそうです。

私も実はほとんど知らなかったのです。第五福竜丸という漁船が、ビキニあたりで、アメリカの核実験による死の灰を浴びたらしいと、その程度の知識だけ。
被爆の程度も、その後の乗組員のことも、そこから原水爆禁止運動が始まったことも全く知りませんでした。
その後、本や映画で少し学び、また、こちらへ越してくる前に、友人の案内で東京にある「第五福竜丸展示館」に行きました。

 

 

 


 


第五福竜丸は予想以上に大きな船でした。
下から見上げると、その巨体が「俺をしっかり見ろ!」と訴えてるようでした。


俺は荒波の中を 男たちを乗せて進んだ
男たちは 大きなマグロをたくさん漁った
俺は たくさんのマグロと 男たちの笑顔を乗せて 元気に港へ戻るはずだった
しかし あの時
俺も 男たちも マグロも みんな死の灰を浴びた
マグロは みんな食べられずに捨てられた
男たちは苦しみ 一人が死んだ
時が過ぎ 一人 また一人と 何人も死んだ
だが 俺は死なない
ずっと ここに居て死の灰をあびたこの体を晒しものにし続けてやる
男たちがみんな死んでも 俺が 男たちにかわって 証言し続けてやる


そんな声がきこえてくるようでした。
映画や本では得られない、実感とでも言うのでしょうか?

いつも思うのですが、
現場に立ったり、ご本人の肉声で体験談をお聞きしたり、遺品を手に取ったりすると、
理屈抜きに伝わるものってありますね。

それが真実の持つ力なのでしょうか?
歴史の真実に、私たちはもっと耳を傾けねば・・・

 

 

展示館の裏庭にある「マグロ塚」
本来は築地市場の一角に造られる予定だったのですが、築地市場の移転・改築計画が流動的なため、「塚」そのものは現在こちらに仮設置されています。

東京の築地市場の正門の横の壁に、一枚のプレートが掲げられていて、そこには、
事件から丸45年が過ぎた平成11年3月1日、「核の被害が二度と起こらないことを願い、歴史的事実を記録しておくために作られた」と書かれています。

コメント (2)
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