【Live Information】
人間にはもともと自然治癒力というものが備わっているといいます。
ぼくも、今ではすぐに薬に頼ったり病院へ行ったりしないようにしています。
たとえば熱を出したり膿が出たりするのは、自分の体が細菌と戦っている証拠なんですね。
これが過剰に薬に頼るようになると、体は自力で病と闘う必要がなくなり、持って生まれた自然治癒力が低下するといいます。
悩みや質問を受けた時、気づくと聞き役の人が相手の問題を解決しようとしていることがよくあります。
あっと気づくと、ぼくも時々そうなっていたりします。
「一緒に悩む」「寄り添う」、今はそんな言葉をよく耳にしますが、悩んでいる人より先に答えを見つけ、それを相手に提示することって、果たして寄り添うことになるんでしょうか。
もしかすると「解決してあげる」ことで、「自分は役に立つ人間」であると思いたいだけなのではないかな、と思うんです。
そして、それは相手の心の自然治癒力を奪っていることになっているのかもしれない。
そして、誰かに見つけてもらった答えは、体に染み渡りはしない。
相手より先に答えを見つけて優越感めいたものに浸るのではなく、ただ「聞くこと」を心がけていこうと思います。
【Live Information】
実は、正義は自分に向けるもの、ではないかと考えるきょうこの頃。
正義を他人に押し付ける時点で「相手を思い通りにしたい」思惑が透けて見える。
たとえば「ひとは変わらない、自分は変えられる」とよく言われます。(これは本当にその通りだと思っています)
ならば、正義を押し付けても、押し付けられた人は変わらないでしょう。
そこには、カドが立ち、居心地のわるさが残るだけ。
その正義は、自分の指針に使えばいいんじゃないかな。
いまあちこちで飛び交っている言葉や表現は、まるでクラス内のいじめを想起させるものが多い。
正義感があるようでいて、実は相手に向けての罵詈雑言でしかない言葉があふれ返っているのを見ると、正義感こそが争いの元になっているのではないかと思えてしまいます。
正義は他人に向けるものではなく、自分に向けるものだという気がしてなりません。
ぼくは正義を使いたくなったら、まずそれを「自分を磨く指針」に使おうと思います。
ちょっと表現はおおげさですけれど。
【Live Information】
ず~っと以前のこと。
当時、お店のバンドの一員として演奏させてもらっていた「A」というお店での話です。
他のライブハウスの店主(兼ミュージシャン)Bさんが、ひとりのぼくよりも少し若さそうな青年を連れてお店へやって来ました。
「A」のマスターと3人で話しているのを聞くともなしに聞いていると、その青年は「プロのミュージシャンになるために東京へ行きたいと言っている」らしく、「Aのマスターからも何か言ってやってくれ」とのこと。
話を継いだマスターが青年に向かって言ったことは、「やめとけ」「どうせ食えない」「東京はレベルが高いから通用しない」。
その少しあと、ぼくは長いことお世話になった「A」から離れることになるのですが(自分からやめますと言う前に「やめてくれ」と言われましたがw)、離れようという気持ちになった理由のひとつがこれです。(もっと大きな理由が他にいくつかあったのですが。)
Aのマスターはたしかにお店のバンドのリーダーでもありましたが、東京で活動もしたことがもなければミュージシャンとして生活したこともないのに、なにを根拠にそんなことが言えるのだろう、と不信感を持ってしまったんです。
こういうブログを長いことやっているくらいですから、ぼくが文章をつづるのが好きであることは容易に察しがつくと思います。時々、文章についてもお褒めの言葉(まあ、「感想」くらいの軽いニュアンスですが)を貰うこともあって、それはなかなかにウレシイものなのです。
ある週末の夜、とあるお店でくつろいでいると、偶然知り合いが数人入ってきました。
そのまま一緒にワイワイ話していたんですが、話の流れで、「ぼくの文章はけっこう好評wだから、老後は直木賞を目指すかな~www」と冗談まじりに笑ったら、そのうちのひとり(ぼくより年配の女性)が即座に真顔で「そんなの無理無理!」と。
先日もあるところで「無理するからダイエットは失敗すると思う。だから体重を落とすのは少しずつでいいから、無理のないやり方でやっている。」という話をしたら、これまた即座に「そんなのムリムリ」と笑われちゃったんですね。
「自分はこうしたい」というのに対し、「どうせ無理」「やめておけ」と言う人は、自分の生き方を妨げる人、エネルギーを奪う人だと思っています。
だれかが「こうしたい」ということに対しそれを否定するのは、おそらくその人が成功したり挑戦するのが羨ましく妬ましかったり、自分が取り残される気がするから自分やその仲間とずっと同じ世界に居てほしかったり、否定することによってその人を自分の思い通りにしようとしたり、自分の方がいろんなことが見えていることをアピールしたかったり、そんなことじゃないかな、と今では思っています。
乱暴に言ってしまうと、そういう類の人は「足を引っ張る人」ってことでしょうか。だから、ぼくはそういう人とは心の中で距離を取ることにしています。
「ぼくが何をやりたいか」、これはぼく自身が決めることです。
『ぼくがなにかやろうとして失敗したからといって、あなたになにかデメリットがあるんでしょうか?』、『ぼくを自分の意見に従わせたいのかもしれないけど、ぼくはあなたから1円たりとも貰ってはないんですが?』、ってことですw
最後の例は、まあいつもわりと言いたいことを言える間柄の人だったので、「ダイエットするのはぼくなんだからほっといてくれない? まず否定から入られるとあんまりいい気分じゃないよ」と、はっきりと、でも場が険悪にならないように言いました。すぐに「ごめんごめん」って言ってくれたからよかったです
本気でなにかをやろうとする時にそういう否定的な言葉が聞こえてきても、一切気にする必要なし、です。
どのみちそういうことをいう方々は、自分の言葉に責任を持って言っているわけではありませんから。
ただ、「そんなの無理」と言われるということは、自分の気持ちがどれくらい本気なのかを試されている、とも言えると思うんです。
「そんなの無理」と言われてあきらめるのは、その程度の決心だったということですね。
自分にもかつてそんなことがあったなあ。
ちょっとその頃の自分を思い出してしまって、自分の言葉が自分の耳に痛いですwww
【Live Information】
罵詈雑言や争いごとの根っこには正義感がこびりついている。
正義感の持ち主は、いつも誰かを見張り、罵倒し、責めている。
正義感がある方が、なぜか荒んだ気持ちになる。
正義感を他人に向けるのは、単なる「押し付け」。
しかも押し付けようとする「正義感の基準」は、押し付けようとする人の価値観でしかなかったりする。
正義感というものは、自分に向けるものなのではないかな、という気がしてならない今日この頃。
【Live Information】
ひとりでブラッとライブを聴きに行くのが大好きです。
やっぱりジャズのライブへ行くことが多いですね。
素晴らしいミュージシャンの奏でる素晴らしい演奏にひたっている時間は、まさに「至福」。
耳から入ってくる音楽は全身を駆け巡って気持ちを浄化してくれます。
目はミュージシャンの一挙手一投足に釘付けです。
ライブは、幸せなひと時です。
演奏が終わり、会計を済ませ、お店のドアを開けて一歩外へ出たときの、あの気分。
「やっぱり来てよかった!」
「楽しかった~~」
「今度はいつ来よう」・・・。
自分が演奏するときは、聴きにきてくださった方々が帰るときにそういう気持ちになるよう、ベストを尽くさねばならないのです。
たとえ地方の無名ミュージシャンであろうとも。
少なくともぼくは、残りの人生においてはいつもそういう気持ちで演奏したい。
年を重ねるごとに、演奏するごとに、そういう気持ちが強まってきます。
もっと若い時に、こういう気持ちになりたかったなあ。
【Live Information】
例えば音楽に関することで言えば、セッションのときなどに積極的にアドバイスをしてくれる人。
これが、聞くともなく聞いていると、ダメなところを指摘するだけだったり、未熟な点のある人を責めているだけだったり、自分の知識を開帳しているだけだったりするのはよくあることです。
ミュージシャン同士に限らず、音楽通と思われる年配のお客さんが若いミュージシャンにそういう類の「レクチャー」「親切なお説教」をしている場面にもときどき遭遇します。
共通しているのは、「求められてもいないのにアドバイスするために近づいてくる」ということ。
求められてもいないのにアドバイスをしたがる人。
音楽だけではなくて、たぶんどの世界にもいらっしゃるだろうし、そんなタイプの人はどんな小さな話題にも口をはさんできたりします。
ちょっと言葉は良くないですが、全くの門外漢でも、言うだけならどんな立派なことでも言えるものです。
歌えない人でも、美空ひばりさんやフランク・シナトラにケチをつけることはできますから。
アドバイスをしたがる人は、「自分はよく知っている」と言いたかったり、人を自分の思い通りに動かしたいだけなのだと思います。
裏返すと、自分のことを認めて欲しいのですね。
そういう人の存在を重く感じている人に必要なのは、「先輩の言うことは全部聞かねば」「年長者の発言だから尊重しなければ」という思いから離れてみることだと思います。
そして、求められてもいないアドバイスを送っている人は、「自分がアドバイスしたがるのは自分が満たされていないことのお知らせだ」と受け取ればいいのではないでしょうか。
自分もそういうことを言いたがる時期がありました。そういうときはえてして自分のことを認めてほしかっただけでしたね。
請われてアドバイスするにしても、ダメ出しするだけでは相手に何も伝わらない。
またアドバイスしたがる人の知識が正しいものとは限らない。(正しいか正しくないかというより、単なる受け売りの押し付けだったりしますね)
言い方って重要だし、実は「わかりやすく伝えられるかどうか」が自分の課題であることが見えてきたりします。
良くないところを「このようにするのは間違っている」と指摘するのではなく、解決するための手段を具体的に「こうしてみたら」と言えるようなりたいですね。
でもそれ以上に、相手に考えさせるようにすること、答え(つまり自分の考え方)に誘導しないこと、こういうことが大事なんじゃないかな、と今では強く思っています。
自分もやりがち、というか、まだたまに「余計なアドバイス」めいたことを言ってしまうことあるので、意識的に言わないようにしているところなんですけどね。(^^;)
楽器をはじめて、少しでも弾けるようになってくると、
ひとりで家で弾くだけではなくて、だれかと一緒にあの曲やこの曲を演奏してみたい、と思うのは当然。
そんなときには、ジャム・セッションです。
知らない人とでも音を出すことで繋がれることもあるジャム・セッション、楽しいですよね。
ジャム・セッションだといっても、みんなお金を払って来ています。
弾くだけでなくお金を払って聴いている人もいるということは意識に入れておかなくては、と近ごろ改めて思います。
だいじなのは演奏技術の上手下手ではないのです。
ステージに出るとき、はける時にはムダな時間をかけない。
曲と曲の間には必要最低限(チューニング等)以外の音を出さない。
のべつまくなしに弾き続ける人、どこでも見かけます。
ずっとガチャガチャ弾かれるとチューニングもできないし、セッションホストの方の指示が聞こえなかったりします。
こういうことに気をつけるだけでも場の空気がいい感じにしまってきます。
演奏以外にムダな時間を消費しているということは、しぜん演奏に使える時間がなくなっているということなんですから。
「お手本になる」というとおこがましいですし、そもそもそういうつもりもないのですが、縁あって長年演奏を続けている身でもあるので、自分からそういうことに気をつけていこう、と最近改めて思っているところです。
【Live Information】
管理栄養士をしている先輩がいまして。
企業やイベントなどの依頼を受けて、出張しての料理教室を催すことも多々あるようです。
ときには学生時代の同級生からの依頼もあるそうです。
で、時々言われるのが、
「お友達価格でおねがい~」
なんだそうです。
思わず先輩には、「そんなこと言う人が友達? それタカリですよねwww」と言ってしまいましたが・・・(^^;)
あるいは、付き合いがもう20年くらいになる車関係の会社の方から
「お待たせしないようにオイル交換を手早くしたら、『そんなにすぐできるんなら、それくらいサービスしてよ』って文句言われるんですよ~」
という話も聞きました。
誰かに何かを依頼するとき、予算が無いのなら無いで相談してみることもできるんですが。。。
そういうことを「遠慮なく相談できるのが友達」だと思うんです。
「友達だからタダで(あるいは『安くして』」とか「知り合いなんだから、(or応援してあげてるんだから)タダで」というのは、いつの頃からかわかりませんが、時々耳にする話です。
タダで描け、タダで弾け、タダでやれ、タダで、タダで、タダで・・・
昨今、タダ働きをさせようと「ボランティアで」(!)という言い方をしてくるケースも増えていると聞きます。
ボランティアの意味、わかってんのかな。(ボランティア=タダ働きをさせる、では決してない)
ただし、交渉をしてはいけない、という意味ではありません。
交渉していくらかでも安くなるならやっぱり嬉しいものだし、ぼくも「もうちょっとどうにかならない?(^^;)」と訊くことはあります。
自分は「安くして」というのにこちらが「安くして」と頼んだときは受け付けてくれない、とか、自分で引き受けておいて「安くしろって言われてこんなに安いギャラでやらされている」とあとからグチる人の存在は全く別次元の話だと思います。
またプロの側が「ギャラはいらんからそれやらせてくれ!」って自分から言うのは、その人の生き方の問題であって、これとはまた別の話ですね。
例えばぼくが自分の結婚式での演奏を友人のプロ・ミュージシャンに依頼するとします。
演奏料の交渉の時に、友人から、「ギャラとして3万(注:例です)いただくことにしてるんだ」という返事をいただいたとします。
「お祝いごとだし、友だちだから5万包んでおこう」というのが「オトモダチ価格」だと思うんです。
だって友達なら栄えてほしいですもんね。
ただしこれはあくまで自発的な話です。他人にこの考えを強要する気はまったくありません。
通常相手が提示した額を了承するのは全く失礼ではありませんし、普段は多めに出す必要なんてないと思います。「せっかくならたまにはアイツの店で買おうか」で充分だと思います。
「友達だから」「知り合いだから」「前から応援してるから」といってくる方々は、自分のトク(依頼される側の負担)だけを押し付けてきているだけなので、まあ知り合いではあるかもですが、決して「友達」でも「応援している人」でもないですね。
そういう人は、畳が破れたとき、カギが壊れたとき、ガラスが割れたとき、あるいは知り合いの肉屋や花屋や本屋へ買い物に行く時などなどなど、業者さんが友達だったり知り合いだったり応援している(ことにしている)人だったりしたら、すべて安くしてもらえると本気で思っているのでしょうかwwwwwwwwwwww
プロ(いわゆるその道の専門家)が身に付けている特殊技能の会得には元手(=仕入れ。目に見える見えないは関係ない)がかかっています。
どの業界、業種でもです。
そしてひと一人の時間を拘束するんです。
その人の技術に助けていただくんです。
ただし、依頼された側が、理不尽な依頼や気乗りしない依頼に対してはっきりお断りすることも大事だと思うんですね。
ぼくはそういう話がきたら速攻で事務的に丁寧にお断りして、それで仲がギクシャクするようであれば以後お付き合いをしないようにしておりますw
そういう価値観の方や、そんなことで仲がわるくなる方とは遅かれ早かれ繋がりが切れるでしょうし、そうなった方が以後お互いにシアワセに暮らしていけるからな~w
でも、心配しなくても、そのうち「タダで依頼し、それを受ける」側と、「対価を支払い、それを受ける」側とで住み分けがなされるでしょう。あとは好きな方を自分で選べばいいだけだと思うんです。
「才能がある」
「才能がない」
才能が有るのか無いのか、この問いを自分や他人に向けたことのある人って、自分も含めて少なからずいると思います。
才能が有ると、道が開ける。才能が無い人はいくら努力しても実らない。
いつしかそんなイメージを持つようになることも多々あると思います。
そもそも才能っていったいなんなのでしょうか。
言葉の意味としては、「持って生まれた天賦の能力」というのが一般的な認識でしょう。
もっとも、いくら才能があっても努力してこそ実を結ぶもの、という考え方もありますが。
とにかく、知らず知らずのうちに「才能とは一握りのいわゆる成功者だけが持っているもの」、つまり「凡人にはあまり関係のないもの」と思いこんでしまっていることが多いのではないでしょうか。
でもどこかで「自分にも才能があったらいいなあ」という淡い期待も持っているものだと思います。
30年以上も前、ある先輩がこう言っていました。
「好きになることが才能なんだ」
その時はその言葉に地味な印象しか抱かなかったし、「才能」ってもっと華やかで、特別なものだと思っていたので、「ふ~ん、そんなもんか」くらいにしか思いませんでした。
考えてみると、世の中には損得を抜きにして、理屈抜きに「好きになること」がたくさんあります。
音楽、料理、麻雀、書道、散歩、ペット飼育、切手収集、旅行、映画、車、文学、大工仕事、スポーツ、珈琲、山歩き、読書、プラモデル、植物栽培、写経、作画、ファッション、バイク、彫刻、ダンス、庭いじり、お菓子作り、お笑い、観劇、温泉、食べ歩き、美術鑑賞、寺院巡り、編み物、化粧、機械いじり、酒、アクセサリー、工芸品etcetc・・・
これらは趣味とも言えるし、生きざまとも言えるでしょう。
そしてこんなにたくさんの「人間が好きになる可能性のある領域」がある中で、よりによって(ぼくを例にとれば)音楽、つまり聴くことと演奏することの両方を好きになるように生まれたのは、考えてみれば不思議なことです。
今では、これもひとつの『縁』だと思っています。
頑張らずに好きになったこと、ってそういう意味では「才能」なんですね。
頑張らなければ、努力しなければ好きでいられない状況はやはり「好き」とは言えないと思います。
もちろん日々の積み重ねを抜きにしてはより良い音楽にはならないでしょう。
また、そういう高みへなかなか到達できない時は、萎えたり落ち込んだりもするでしょう。
そんな時には、自分が音楽と出会い、好きになり、長い付き合いをしていることを思い返してみるのもいいものだと思います。
「音楽のない人生」は考えられないことが再認識でき、音楽と出会ったこと、音楽を好きになったことに対して改めて有り難く思えるのではないでしょうか。
そういう「喜び」は意欲的に音楽しつづけていける後押しをしてくれるものだと思っています。
【Live Information】
セッションの時に聞くセリフ。
「失敗してすみません」
「間違えてすみません」
「へたですみません」
失敗は悪いことでしょうか。
間違えられるのは迷惑なことなのでしょうか。
もしかして、「失敗したから叱られることを恐れて、先手を打って先に謝っておく」的な?
なにもしないよりはるかにまし。
鍵盤を押さえなければ、弦を弾かなければ、息を吹き込まなければ、物語ははじまりません。
大切なのは、ありのままの自分の音を出すこと、自分にできることを精一杯やること、だと思います。
いま「うまい人」だって、かつては「下手で、たくさん間違え、失敗ばかり」していた頃があったのです。
失敗は失敗、ミスはミスですが、それは「悪いこと」ではありません。
悪いことではないのだから、自分を責める必要はないのです。
「失敗」を「悪いこと」ということにすると、いずれ自分が失敗した人を責めるようになります。
誰かを責めるところにいい結果は生まれません。マイナスのループに陥るだけです。
だから「すみません」を言わなくても大丈夫です。
「ありがとうございました」でいいんです。
「失敗=悪」、あるいは「ミス=恥」と捉えなくても大丈夫です。
失敗やミスは自分にとっての「課題」や「弱点」を教えてくれるものなのです。
先日、不定期でライブも行っているとあるお店の店主と話をしていた時のことです。
ちょっと改まった感じで「ライブの時に写真を撮られて気にならない?」と尋ねられました。聞くと、「お客さまから、『せっかく聴いているのにシャッター音が気になる』という声をいただくことがあって、どうしたものかと考えているところ」なんだそうです。
また、別のあるお店での出来事ですが、「演奏が聴こえないくらい大声でしゃべったり、演奏中に演奏者の譜面台を倒しながらトイレへ行ったりした酔客がいて、とても困った」という話も聞きました。
自分にもとくにたいした見識があるわけではありませんが、「ステージに上がる側」「客席で聴く側」の両方を経験している身としては、以下のようにに思ってます。
まず写真について。
演奏中に写真を撮られることについては、自分が神経質な部類だという自覚があるにもかかわらず、不思議と気になりません。あるとすれば、「カッコよく撮ってもらわねば」という自意識過剰に陥って自滅するくらいですwww(これはもちろんぼくの自己責任)
とくに斬新な方法ではないですが、演奏中に撮影するにあたっては、
①盛り上がる曲・音量の上がる場面でシャッターを押す。
②バラードや、静かな部分では撮らない。どうしても撮りたい時はiPhoneなどの無音カメラアプリを使う。
③フラッシュについてですが、事前に「フラッシュはご遠慮ください」とアナウンスするミュージシャンは意外にいます。フラッシュはOKが出ている時以外は使わないほうが無難でしょう。ただし、自分たちミュージシャンの気が散る、という理由ではなく、他のお客さんへの気遣いであることもあるので、主催者やミュージシャンに事前に確認すればいいと思います。
ということなどに留意すればいいのではないでしょうか。
もちろん主催者側にあらかじめ撮影の可不可を確認して、という前提でですが。
演奏者にとっては、写真を撮っていただけるということはPRにもなるし、いろんなメリットがあるので有り難いことなのです。
「いつも気遣って撮影しているんだけど、きょうはとくに神経質すぎる人が隣にいた」などいろんなケースがあるので簡単には言いつくせませんが、 「他にもお客さまがいらっしゃる」ことを意識に置いておけば大丈夫だと思います。また逆に「撮影を楽しんでいる方もいらっしゃる」人もおられることを許容するのも大事です。
結局、「お互いさま」ということではないでしょうか。
次に演奏中の大声のおしゃべりについて。
いろんな場合がありますが、ここは「今夜はライブである」ことを前提に営業しているお店について述べてみます。
簡単に言えば、生演奏を聴くのは映画館や美術館などと同じで、「不特定多数の方が集まる公共の場」で「お金を払い」「自分の時間を使って」楽しむことにほかなりません。演奏を聴かずに大声でしゃべり続け、他のお客さまに演奏が聴こえづらい状況を作る方は、「どうぞお帰りください」あるいは「来てもらわなくても構いません」と言われても仕方がないのです。(もちろん「よう喋る1000円札やなw」的な受け取り方もアリですwww)
または演奏者が一瞬でも演奏を中断せざるをえなかったり、演奏を躊躇しそうになるような行いをする方も同じです。
程度はお店の方の物差しで判断すればいいと思います。
もしぼくが客席にいれば、「うるさいから出ていってくれ」と、優しくですが言います。
だってふつうはお金を払った見返りに商品などを受け取るわけですからね。演奏をじっくり楽しみたいのに騒音で台無しにされるわけですから。買った物を台無しに(例えば壊されたり)されたら弁償してもらうのと同じです。
もうひとつ言えば、そういう迷惑な人を許容すると、その類友が集まってくるようになります。そしてちゃんとした方はお店からは離れていくでしょう。
ただし、客席に無言の行を強要している訳ではないのです。ホールとは違い、飲んだり食べたりしながら、盛り上がれば「Yeah!」と言いながら、そして演奏者の息遣いを感じながら、くつろいで演奏を楽しめるのがジャズ・クラブのいいところなのですから。
要するに、自分だけがその場にいるのではないこと、他にも楽しみに来ている方がおられる、ということは忘れずにいましょう、ということですね。
ついでに追記。
地元の人ですが、ステージへ上がる身、あるいは演奏する側(上手いとか下手とか関係ない)でありながら、ステージで他の方が一生懸命演奏しているのに客席で始終しゃべり続け、笑い続ける人を何度か見ています。こういうのは論外です。同じミュージシャンに敬意を持てないのかな。自分まで恥ずかしくなります。
当たり前のことを、読みようには上から書いているようにも見えるでしょうが、そのあたりはお許しください。(もともとエラそうな人間なのです(^^;))
あくまで私見です。いろいろな価値観があるのを分かっているうえで書いてみました。
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欲しかったものを買ったとき、
食べたいものを食べたとき、
読みたかった本を読んだとき、
行ってみたいところへ行ったとき、
たいていの人は満足感や喜びを覚えるでしょう。
時には「期待外れだった。。。」と残念がることもあるでしょう。
でもこれを、第三者に
「それ、たいしたことないよ」「それマズかったよ」「それ面白くなかったよ」「そこ、つまらないとこだったよ」と言われたらどう感じるか、という話です。
「良かった!」と思うのも「期待外れだった~」と思うのも、自分の心が自由に感じてよいことであって、第三者に良かったかどうか決められたくない。
『ライブに行かなかった人は「損しましたね」』とか『ライブに来ないと「損するよ」』式の表現によく出会いますが(流行りか?)、そのライブに行かなかった人がそのライブよりも程度の低い時間を過ごしたかどうかがなぜわかるのでしょう。
そのライブに行かなかったことをなぜ「損したね」と決め付けなければならないのでしょう。
自分が「ライブに行った!良かった!」ではいけないのでしょうか。
行かなかった人をなぜわざわざ貶める必要があるのか、全くわからない。
他にも、地方のミュージシャンであっても一応ステージに上がる立場にある人が「自分のライブに『来ないと損する』」・・・
同じ時間に他の場所で一生懸命演奏している人たちのライブに行くことは損なのか。
あえて言ってしまうと、他のライブへ行くのが損であるくらいあなたの演奏は素晴らしいのか、と思う。
そんなことたいしたことじゃないと思う人はそれでいいと思うし、考えを変えてほしいわけではないのです。
「損したね」「損するよ」が言えるなら、「損するよ、は嫌な言葉だ」も言ってもかまわないよな、と思っただけです。
ただ、ほんとうに音楽を好きな人が発する言葉とはどうしても思えない。
せめて自分は、そういう表現をしないようにしよう、と改めて思いました。
少し溜まっていたものを吐き出した気分です。
深くこだわりたくはないので、そういう言葉や、言葉を発する人とは適切な距離を置かねば。。。(^^;)
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【Live Information】
ただ夢中で好きなことに没頭していればいい。
それが周りの目には「頑張っている」「努力している」と映っている。
だから、夢中で好きなことをやっている人は、自分で自分のことを「頑張っている」とは言わない。
そのかわりに周りの人たちが、「あの人は頑張っているね」「努力しているね」と言ってくれるんだと思う。
頑張ろうとして頑張るのは、つらいだけ。
評価を得たくて頑張るのは、苦しいだけ。
頑張らなければできないことは、やめてしまうことも大事な選択肢だと思う。
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伝わらないのは、伝え方ばかりに問題があるのではなくて、受け取る側の受け取り方もある。
だから伝わらなくても、もう気にしない。
どう受け取るかは相手の自由なので、どう受け取ってもらえるかを気にしてもしかたない。
言い方がわるかった、と気に病むのは、相手に嫌われないようにしているだけなので、それも気にしない。
離れていく人は、遅かれ早かれ離れる縁なので、離れていくことも気にしない。
・・・みたいなことですね。きょういろいろ話していて思ったことのひとつは。
だからここ1年の間に思った、「言い方がわるかった、ごめん」というのは全部撤回(笑)。
もう好きなように受け取っといて~~(^^)
音楽に関しても似てるな、と思う。
伝わらないのではなく、受け取ってもらっていないだけ。
逆に自分が「受け取れない」「それはない」と思っていたことでも、
「そういうのもアリね」と思うだけで共演感が格段に増すというか、自分の幅が広がるというか。
受け入れられるかどうか、受け取れるかどうか、は自分次第だと思います。(デタラメでもOK、ってことではないです)
自然体でいて、すべて自然に受け入れて、できることを真摯にやっていこう、と思わせられるのが、この第4土曜のライブです。
セカンド・セットは、恒例の「恐怖のリクエスト・タイム」。
リクエストするお客様側も全力のこのレギュラー・コーナー。
お客様の全力のリクエストを受けるのはある意味コワいけれども、格別な楽しさがあります。
必死で音に喰らいついて、苦悩苦悶しながら演奏するぼくを温かく見守ってやってください(^^;)
8月26日(土)
♫山本ヒロユキ(piano) & 皆木秀樹(bass)
◆岡山GROOVY
岡山市北区田町2-5-23
086-221-7721
◆チャージ3000円+別途飲食代
◆20:00開演(2回ステージ)
※シットイン可です
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【Live Information】
だれかのライブを聴きにいったり、セッションなどでだれかと演奏することが、日常的にあります。
そのあと感想を求めらることもあれば、自分の感想を出演者に伝えたくなることもあります。
「いい雰囲気だったよ」「楽しかったよ」
でも、、、
「いえいえ、あんなの全然ダメです~」
「聴かれると恥ずかしいです」
「まだまだ自分なんて・・・」
・・・etc
あるいは演奏の時に、「あ~全然ダメ~」と、凹んでいる人もよく見かけます。
こないだ、冗談交じりで「全然ダメなものをチャージ取って聞かせたんか」って返してしまいましたけど
謙遜のつもりなんだとは思います。
ぼくもそう言っていた時期はあったので、気持ちはとてもわかる。
でも、自分で自分にマイナスな自己暗示をかけて、なにか良いことが起きるのかな。
とくに演奏中。
自分で自分にマイナスな自己暗示をかけても絶対良い方向には行きません。
つい自分のミスや不出来にばかり気を取られて凹むのもわかりますけどね。
ぼくは、そんな時は、気持ちを「いいこと」「楽しそうなこと」にシフトさせるとか、
初心に返るとか、集中しなおすとか、
つまりプラスなことで心を満たそうとこころがけています。
少なくともマイナスな自己暗示には陥らずにすみます。
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