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奥田英朗『我が家のヒミツ』その6

2016-11-25 05:33:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 パパの家には1時間近くいた。すっかり打ち解け、もっといたかったが、外が暗くなったのと、駅前のカフェに彩也香と若菜を待たせているので、帰ることにした。駅前のカフェに飛び込み、マラソンのゴールのように両手を広げ、二人に抱きついた。「アンナってパパがつけた名前なんだって。聞いたら教えてくれた。アンナ・カリーナっていうゴダールって監督の映画に出てくる女優がいて、パパはその女優がずっと好きだったから、その名前から取ったんだって。わたしずっと自分の名前が嫌いだったから、今日初めて悪くないなって思えるようになった」1時間以上、カフェでおしゃべりをして、続きはまたということで、それぞれ家路についた。高揚した気持ちは冷めることなく、街の景色までちがって見えた。
 家に帰ると、母が台所で夕食の支度をしていた。「わたしパパって呼ぶことにした。おとうさんだと被るから」「そう」「すっごいマンションに住んでた」「売れっ子演出家だからね。一人だし、いくらでも贅沢出来るんじゃないの。おとうさんが帰って来ても、今日のことは言わないように」「わかった」アンナは母にも聞きたいことがいろいろあった。離婚の理由とか、自分が生まれたときパパはどうだったとか。ただ、しばらく様子を見た方がよさそうだ。別れたのだから、いやな思い出の方が多いに決まっている。パパに比べて父は真面目で腰の低い人間だった。主婦相手に毎日頭を下げているうちにそうなったのか。怒りんぼうの父よりはずっといいが、物足りなく思うときもある。
 終業式の日、学校帰りに、彩也香と若菜を誘って恵比寿の稽古場へ見学に行った。入り口で劇団員らしき人に白川和樹の娘だと告げたら、話が通っていて、中に案内された。アンナは冷静を装うものの、内心は夢見心地だった。女の子は“運命”に弱い。占い好きなのもそのせいだ。降って湧いたストーリーに、今は完全に酔っている。アンナは自分もこの輪に加わりたいと思った。これまで将来何になりたいか具体的に考えることはなかったが、今決まった。女優か演出家だ。
 稽古が終わり、アンナはパパにクリスマスプレゼントを手渡した。雑貨店で買ったスヌーピーの手袋だ。パパは包みを開くなり、顔をくしゃくしゃにして、大袈裟なほどよろこんでくれた。そしてパパからもプレゼントがあった。手渡された紙バッグの中身は、バーバリーのマフラーだった。「きゃーっ」アンナは思わず声を上げ、パパに飛びついた。パパと別れ、彩也香と若菜と話しているうちに、中学の頃からカナダかオーストラリアへ留学するのが夢だったことを思い出した。急に気持ちが高ぶった。養女はともかく、パパにおねだりしたら留学費用を出してくれるかもしれない。
 家に帰ると母がすぐマフラーに気づき、「それどうしたの?」と聞いた。「パパにもらった。クリスマスプレゼント」アンナが答える。母の表情がまた曇った。「留学費用を出してもらうのはだめ?」「ちょっと、あなた、それ、白川さんに言ったわけ?」「まだ言ってないけど」「まだって--------。やめてちょうだい。アンナは江口家の子です。白川さんは血のつながった父親かもしれないけれど、アンナをここまで育てた父親はうちのおとうさんです。思いちがいをしないように」「勝手に決めないでよ」つぶやくように言い捨てると、自分の部屋へ駆け込んだ。反対されて、ますます留学したくなった。パパはお金持ちなのだ。
 夜の9時過ぎに父が帰って来た。「ねえ、おとうさん。わたし、来年オーストラリアかカナダに留学したいんだけど」「アンナ」母が咎めるように名前を呼んだ。「夏休みだけのサマースクールとか、そういうのはどうだ」「ちゃんと現地の高校で一年間勉強したい。うちにはそういうお金、ない?」「ないことはないけど」「出してくれる人がいたら?」「アンナ。やめてちょうだい。その話はあとでおかあさんが聞きます」母が目を吊り上げて言った。
 冬休みは毎日部活があった。いつもの3人が道場に残った。「わたし留学に絶対に行きたい。パパがお金を出してくれるなら、おかあさんに反対する権利なんてないはずじゃん。私の自由だよ」「パパは出してくれるって?」「それはこれからお願いするんだけど」「あのさあ、余計なお世話かもしれないけど、留学費用の件は、家族でちゃんと話し合った方がいいよ」若菜が奥歯に物が挟まったような言い方をした。「どういうこと?」「わたしさあ、アンナが本当のパパに会って、その人が演劇界の有名人でお金持ちだったって話を、うちのおかあさんにしたのね。そしたら横で聞いてたおとうさんが、同情するような顔をして、留学費用をねだるのはマズイんじゃないかって」「どうして?」「育ての親のメンツが立たないだろうって」アンナはバッグを担ぐと大股で道場を出た。小さな喧嘩は毎度のことだが、今回はいつも以上に腹が立った。パパが現れた以上、自分には父親を選ぶ権利があるはずだ。それは人が口出しすることではない。友だちでも、母親でも。(また明日へ続きます……)

奥田英朗『我が家のヒミツ』その5

2016-11-24 05:51:00 | ノンジャンル
 今朝の朝日新聞に、福岡伸一さんが1859年の今日、ダーウィンが『種の起源』が刊行されたと書いていました。また進化論に照らせば、人間も生物の完成形ではないこと、宗教と進化論は矛盾しないことが述べられていました。福岡さんの文章は、いつも勉強になります。

 さて、また昨日の続きです。
 通夜の席で、正雄は河島の遺族席に目が釘付けになった。みんな顔が似ているのである。なにやら温かい気持ちになった。美穂が言っていたように、彼にも家族がいて、バックグラウンドがあるのだ。みんなが血でつながっている。来てよかった。これで真っ白な気持ちで営業を去ることが出来そうだ。会場に読経(どきょう)が流れる中、正雄は心がすうっと晴れて行くのを感じていた。
「アンナの十二月」
 江口アンナはこの冬で16歳になった。女なので法律上結婚できる年齢だ。自分は、独立の権利を得たのだ。アンナは16歳になったのを機に、ひとつ知りたいことがあった。それは自分の実の父親が誰かということだ。アンナの母親は、アンナが生まれてすぐに離婚し、子連れで再婚していた。だから今の父親とは血のつながりがなく、5歳下の弟、拓哉とは異父姉弟ということになる。それを知らされたのは12歳の誕生日の夜だ。いきなりドラマの主人公のような境遇に置かれ、アンナは黙って聞くばかりだった。とくに質問もしなかった。
 冬休み前の期末試験が終わるのを待って、アンナは母に言った。「ねえ、おかあさん、わたし16歳になったことだし、ここで一度、本当のおとうさんに会ってみたい」母の表情が一変する。「向こうも再婚してるの? わたしが会いたいって言ったら迷惑かな」「迷惑ってことはないと思うけど……」母は吐息を漏らし、「再婚してるかどうかは知らない。離婚してからは一度も連絡を取ってないから」と答えた。「どこに住んでいるの?」「東京だけど」「それは知ってるんだ」「うん……そうね」それから三日後、母から住所と電話番号を書いたメモを手渡された。「白川和樹という人です。連絡を取ったら、アンナと会うと言ってました。おかあさんと同い年の42歳で、今は独身だそうです。おかあさんとは大学の同級生でした。職業は演出家です。演出家というのは、お芝居の監督をする人です。劇団を主宰していて、本人も役者として舞台に出たりしています」なるほど、母は芸大の演劇科出身だ。そこで知り合ったのか。「おとうさんは知ってるの?」「知ってます。会わせてあげなさいと言ったのはおとうさんです」。その晩は熱が出た。ウィキペディアで検索したら、白川和樹の名でちゃんと載っていて、たくさんの情報があり、それ以外に写真もあって、ハンサムだったのだ。アンナはゆめを見ているようだった。実の父親にとうとう会える。
 翌朝、学校で親友の彩也香(さやか)と若菜(わかな)にこの件を教えると、二人は自分のことのように興奮し、抱きついて離れなかった。二人の意見にしたがい、実の父親はパパと呼ぶことにした。そして二人に励まされて、すぐに電話することになった。
 放課後、薙刀(なぎなた)の部活を終えてから、アンナはパパの携帯に電話をかけた。同じ部の彩也香と若菜も道場に残り、そばで見守ってくれた。パパはすぐに出た。「電話をくれてありがとう。勇気がいったと思います」「はい」「16歳になったんだってね。おめでとう」「ありがとうございます」「一応、親子なんだし、そんな丁寧な言葉遣いしなくていいよ」「はい」「昔のおかあさんに聞いたよ。ぼくと会いたいそうだけど、よかったら一度家に来ない? 場所は代官山だけど」「はい。行きます」電話を終えたら倒れそうになった。二人が駆け寄って支えてくれた。
 翌日は家の用事があると言って部活を休んだ。彩也香と若菜は補習を理由に部活を休み、その補習をサボって付き合ってくれた。代官山の駅を降り、住所を頼りに家を探すと、閑静な住宅街の中の荘厳なマンションにたどり着いた。インターフォンの前まで行き、ひとつ深呼吸して、部屋番号を押した。「アンナです」「どうぞ」部屋の前まで来て、チャイムを鳴らそうとしたとき、ロックを外す音がして、扉が開いた。「どうも、こんにちは」パパは笑顔で言った。ただし頬が小さく引きつるのをアンナは見逃さなかった。向こうも緊張している------。そう思ったら少し気がらくになった。アンナは豪華な室内に圧倒された。数々の美術品。アンティークな家具。「君のおかあさんに聞いたよ。アンナはいい子に育ってるって」。母はそんなことを言ったのか。半分はお世辞だろうけど。「もしかしたら、パパたちが離婚して、アンナを苦しめたのかもしれないね。大人の都合で振り回しておいて、その後のフォローもしてなかったし、その点については申し訳ないと思っている」「あの、わたし、怒ってないから」「そうなの? でもあえてよかった。アンナ、美人だね。学校でモテるだろう」「ううん。全然。パパこそモテモテでしょ」いきなりなごんだムードになり、アンナはうれしくなった。(また明日へ続きます……)

奥田英朗『我が家のヒミツ』その4

2016-11-23 05:48:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 美穂は休暇を利用して、三泊四日で四国に行きたいと言い、てきぱきと旅行の算段を立て、翌々日には出発することになった。「クラリネット、どうする? 市の吹奏楽団のホームページを見たら、毎月第一土曜日がオーディションだって」「オーディションなんてあるんだ。じゃあだめだ」「オーディションって言っても、落とされるわけじゃなくて、レベルを判定して、それに合ったレッスンコースに振り分けられるみたい」「あ、そう」正雄は生返事をした。
 高松で市内観光をした。「あなた、写真撮ってあげる」「おれはいいよ」そこへ初老の夫婦がやって来た。「すいません、写真を撮っていただけませんか」と頼まれる。正雄が快諾し、二人並んだ姿を撮影した。「じゃあ、すいません。わたしたちも」美穂が老夫婦に頼む。正雄は拒否したかったが、他人の手前いやとは言えず、二人並んで立ち、さらには仏頂面も出来ないため無理に微笑み、写真に収まった。「夫婦の写真なんて、きっと20年ぶりくらい」美穂がおかしそうにデジタルカメラの画面をのぞいている。「ほら」と言って差し出されたが、正雄は一瞥しただけで顔をそむけた。その不機嫌そうな顔を見て、また美穂が笑っている。
 ホテルに帰って会社に電話を入れると、河島の父が倒れて、河島は今日から実家に帰っていると言う。「詳しくは知りませんが、クモ膜下出血で昨日、病院に担ぎ込まれたらしいです。お歳がお歳なので、このまま葬式なんじゃないかって、周りは言ってますが」河島の実家は愛知県だった。田んぼばかりの田舎だよと言っているのを聞いたことがある。葬儀は参列しないとまずいだろうか。自分の父親のときは営業局から多くの人間が駆けつけ、その中に河島もいた。美穂とは仕事の話になった。「もう充分働いたと思う。残りの会社員人生、楽しんだってバチは当たらないって」「でも定年まで7年だぞ」「あっと言う間。仕事だけが人生じゃないって」酒が入って、少し気持ちがほぐれた。考えてみれば妻と差し向かいで飲んだのは何十年ぶりか。久しぶりに妻に会社の愚痴をこぼした。「でも、いいところがないと局長までは上れないでしょう。家族だっているわけだし、河島さんを信じて、頼りにしている人もいるってこと」「何だよ、河島を庇(かば)って」「庇ってるんじゃなくて、誰にでも人生があるし、バックグラウンドがあるし、血のつながりがあるってこと」「洒落(しゃれ)たことを」「もう50を過ぎたんだから、いろんなことを許そうよ」言い合いのような形になったが、爽快な気持ちもどこかにあった。そのときメールの着信音が鳴った。営業局全員への一斉メールで、河島の父が亡くなったという知らせだった。社にいた加藤に電話すると「明後日の午後、営業と総務から20人くらい行くみたいです。場所は愛知県の江南市。植村さんは旅先だし、欠席してもいいんじゃないですか」「いや、おれも行くわ」正雄は咄嗟(とっさ)にそう答えた。嫌いな男でも不義理はしたくないし、欠席することで周りに詮索されるのもいやだった。電話を切り、席に戻ると、美穂が自分も行くと言い出した。「一人で残ってもつまんないし、何年振りかで原田さんたちにも会いたいし、いいでしょ。邪魔しない。うしろで立ってるだけ」正雄は承諾した。
 河島の実家に向かう鉄道は、のんびりとした景色の中を進んでいた。式場は悲しみに包まれているといった感じではなかった。河島の父親は天寿を全うしたと、親戚も思っているのだろう。「河島君はどんな子供だったんですか?」会話の流れで、正雄はついそんなことを聞いた。「そりゃええ子やったわ。親戚の中でもいちばん勉強が出来たし、運動も得意やったし、小学校では児童会長もやっとるし」「そうやったな。わしらの自慢の甥っ子やった」「大学も東京の早稲田に行ったし、就職した会社もみんなが知っとる一流会社やし、わたしも鼻が高かった」礼服に着替え、一階に降りて行くと、加藤が近寄ってきて耳元で言った。「実は先日、河島さんに呼ばれて少し話をしました」「うん。それで」「おれが営業局を任されることになったから、これからもよろしく頼むって」相変わらずの“人たらし”めと半分思い、半分は安堵した。正雄は歩を進めた。美穂もうしろをついて来た。人影に気づき、河島が振り返った。「河島。大変だったな。お悔やみ申し上げます」夫婦で頭を下げた。「なんだよ、来てくれたのか。奥さんまで」河島は一瞬、頬をひきつらせたが、すぐに白い歯を見せた。「こんな場所で言うことじゃないけど、今度営業を去ることになるから、うちの部の連中をよろしく頼む」やっと言えた。それも自然に。「水臭いことを言うな。頼みたいのはこっちだ」互いに苦笑した。しばらく見つめ合う。「ありがとう」河島が頭を下げた。正雄は無言で同じだけ頭を下げた。(また明日へ続きます……)

奥田英朗『我が家のヒミツ』その3

2016-11-22 04:35:00 | ノンジャンル
 今日はaikoさんの誕生日。今年で41歳。早くいい人を見つけて、結婚してほしいと思ってるのは、私だけでしょうか?

 さて、また昨日の続きです。
「正雄の秋」
 どうやら次期局長の内示が河島にあったらしい。その情報を耳にした夜、植村正雄は帝国ホテルのバーで一人で酒を飲んだ。正雄と河島は会社の同期入社だった。大学を出て大手機械メーカーに就職し、今年の春でちょうど30年となった。その間、ともに営業畑を歩き、ずっと競わされてきた。課長になったのも、部長になったのも同時期である。だから言ってしまえば、今日は二人の昇進レースに決着がついた日ということになる。正雄は河村と反りが合わなかった。何かと言うと派閥を作り、部下に対しては兄貴風を吹かせ、上役には自己アピールに余念がない。そんな河島は正雄と正反対の性格と言えた。いざ敗けたとなると、いろいろな思いが頭をよぎった。結局、役員たちは河島を選んだのである。これが一番のショックだ。正雄は実績では河島を上回っていると思っていた。とりわけ東南アジア市場を開拓したのは正雄の功績である。それが評価されなかったのだ。そして役員への道も閉ざされた。ホテルのエントランスでは、ドアマンが正雄を見つけ、「タクシーですか」と笑顔で近づいてきた。人のやさしさが身に沁みた。
 翌朝は6時に起床した。妻の美穂は夫の様子が少しちがうことに気づいたのか、一瞬何か聞きたそうな顔をしたが、黙って台所へと行った。社会人2年生の娘は、仕事と自分に夢中だ。大学4年生の息子はまだ2階で寝ていた。銀行に就職が内定し、今は遊び納めといったところか。先送りすると余計に告げにくくなると思い、軽い調子で言うことにした。「営業の新しい局長な、河島に決まったらしいわ」「いいんじゃないの。これまで頑張って来たんだし。あまり忙しくない部署がいいわね。あなた、少し休んだ方がいい」家を出ると空気が冷たかった。いつの間にか秋も本番だ。季節の変化は急にやって来る。
 正雄は会社でポーカーフェイスを通すことにした。10歳下の加藤は正雄が一番信頼する部下だった。局長には人事権がある。河島が人事権を握るとなると……、加藤が正雄の忠実な右腕だということは、河島も充分知っている。営業から正雄と一緒に追い払うということも大いにあり得る。正雄は上司の原田に昼食を誘われた。
 「役員会も紛糾したそうだ。しかし最後は社長が決めた。そうなると、多数決というわけにもいかなくなる」そうか、社長の意向か。それなら誰も逆らいようがない。河島は社長の取り巻きの一人だった。「早速これからのことだが、河島の局長就任で、おまえは営業を離れることになる。おれが用意できるポストはふたつだ。ひとつは総務局次長。もうひとつはゼネラル設備の専務。子会社への天下りってことになるが。2週間、時間をやるから、その間にゆっくり考えてくれ」「加藤まで異動ってことはないですよね」「そりゃないだろう。あいつは営業の重要な戦力だ」。
 夜は加藤と酒を飲んだ。「ぼくは河島さんの下で働くの、あんまり気乗りしませんね」酔いは回ったが、乱れることはなかった。正雄が愚痴を言わなくて済んだのは、代わりに加藤が怒ってくれたからだ。この男と別れるのかと思ったら、ますます心の中に秋風が吹いた。
 美穂は「そうだ、市の吹奏楽団に入れば。前からやりたがってたじゃない」と言う。「おれのクラリネットは中学生レベル」「練習すればいいじゃない」。美穂は正雄を銀座に誘ったが、正雄が「疲れている」と言うと、「一人になりたい?」と言って一人で出かけた。局長人事の内示から2日経って、少しは冷静になるかと思えば、逆でますます苦しくなった。53歳という半端な年齢も、苦しみに拍車をかけた。あと5歳若ければ、迷わず退社し、新天地を求めただろう。
 銀座はパスしたが、天気がいいので駅前商店街には出かけた。「お一人で散歩ですか」。通勤電車でよく一緒になり、何度か会話を交わしたことがあった吉田が声をかけてくれた。「夫婦で家庭菜園をやってるんですよ。植村さんも野菜作り、どうですか?」。日常の小さな幸せで吉田は満足している。自分にはこれまで無用だった価値観だ。自宅に戻った正雄は押し入れから久しぶりにクラリネットを取り出した。吹くと力のない音が出た。
 週が明けても、会社で河島にお祝いの言葉をかける機会はなかった。原田が「おい植村。おまえ、今度の人事の発表があるまで休め」藪から棒に言った。「どういうことですか?」「おまえ、消化していない有給休暇が何日もあっただろう。総務からの提案で、営業局の有給消化率を少しでも上げるために、ここで植村部長に休んでもらおうって、そういう話になったんだ。だから1週間ほどまとめて休め」正雄は困惑した。仕事もある中、1週間は無茶である。(また明日へ続きます……)

奥田英朗『我が家のヒミツ』その2

2016-11-21 05:24:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 夜は孝明と二人、家で晩御飯を食べた。孝明は「お袋が、来週の土曜日、埼玉の家で一緒に食事をしようって言ってるんだけど」と気乗りしなさそうに言った。敦美は、子供がいたらいいんだけどね、と言いそうになって口をつぐんだ。敦美は結婚した当初は子供が欲しかったが、どうやら授かりそうにないと感じ始めてからは、徐々にその気持ちが薄まり、子どもがいなくても仕方がないかと思うようになった。孝明は敦美と一緒にコンサートに行きたいと言った。「いいよ。でも寝ないでね」「寝ないさ」「前に寝たことあったじゃない」「あれは疲れてるときだったから」「じゃあ、疲れてないときに誘う」「うん、そうだね」孝明は苦笑いしている。
 水曜日、大西さんが抜糸にやって来た。ブラボー! 土曜日は楽しかったですよ。心の中で話かける。もはや大西さんは敦美の精神安定剤だ。敦美はつい「30代の頃は何をしてたんですか?」と聞いてしまった。「ぼくの30代は、寝てたけどね」「寝てたんですか」「それはたとえだけど、少し蓄えがあったから、出来るだけ無為に時を過ごしていたことは事実」「どうしてそうしようと思ったんですか?」「人間なんて、呼吸をしてるだけで奇跡だろうって。ましてや服を着て、食事をして、恋をして、ピアノを弾いて--------」大西さんが思わずピアノと言い、そこで言葉を止め、敦美を見た。「君、何の話をさせるのよ」「すいません。すぐに準備します」敦美は恐縮して診察室へと走った。
 気にしているせいか、不妊に悩む夫婦の話題が目に付くようになった。敦美は、どうしても子供が欲しいと奔走する人たちの意思は尊重しつつ、自分とは種類がちがうなあと距離感を覚えるのも事実だった。
 土曜日の午後は、大西さんのコンサートに一人で行った。孝明が「来なくていいよ」と言うので、埼玉の実家で晩御飯を食べる件はパスした。演奏はやっぱり素晴らしかった。演奏が終わったとき、真っ先に立ち上がり拍手をした。大西さんがこちらを見た。きゃっ、まずい。敦美は慌ててパンレットで顔を隠した。
 夜、孝明は10時過ぎに帰ってきた。「お義母さん、何か言ってた?」敦美が恐る恐る聞くと、孝明は「別に何も」と答え、柴犬のように目を細めた。この顔は機嫌のいい印だ。話題は大西さんのことになった。「そろそろ大西さんも怪しむんじゃないの? どうして自分の都合のいい日を、この事務の女の子はピンポイントで指定してくるんだって」「そうね。でも、怪しんでくれたらうれしい」大西さんとの日々は、敦美の中ではもはやゲーム化していた。
 翌日の日曜日、義姉から電話があった。孝明は休日出勤だ。「ゆうべね、母が孝明をつかまえて、子供が出来ないのなら、早いうちに病院に行って診てもらって、それで問題があるのなら治療を受けてほしいって言ったの。そしたら孝明ね、自分たちは自然に任せる、検査すら受けたくないって、怖い顔で突っぱねたのよ」敦美は驚いた。「子供が出来ないのは誰のせいでもないし、単なる巡り合わせに過ぎない。よそとちがうからって、そんなことでおれたち夫婦はしあわせを見失ったりはしない、今度その話をしたら、おれは二度とこの家の敷居をまたがないって、そう言ったのよ」敦美はにわかには信じられなかった。「かっこよかったのよ。女房は自分が守るって、そういう決意が表れていた。孝明が一人で来たのって、きっと自分の母親に向かってそれを言いたかったからじゃないかなあ。父も横で感動してたみたい」電話を切ったらとめどなく涙があふれた。
 大西さんが治療にやって来た。経過は良好だ。この日は受付で診察カードを出すなり、「今日は何か聞きたいことあるの?」と先回りして言って来た。「あ、ええと……大西さんの人生で諦めてきたことって何ですか?」「これまた突拍子もない」「すいません。わたし、結婚してますが、どうやら子供が出来そうになくて……」「そう。ぼくも子供がいないけど、諦めるも何も、生まれてこのかた人生の青写真を描いたことがない。設計図がないから、手にしたパーツの寸法が合わなかったとしても、じゃあ別のを探そうとなる。だから気にもならない。プランAしかない人生は苦しいと思う。一流の人はどんなジャンルでも、常にプランB、プランCを用意し、不測の事態に備えている。つまり理想の展開なんてものを端(はな)から信じていない。あなたも……」ここで敦美の胸の名札に目をやった。「小松崎さんも、プランBやCを楽しく生きればいい。そう思いませんか?」「思います」敦美は胸が熱くなり、大きくうなずいた。「ところで、先週の土曜日、ある場所で小松崎さんにそっくりの女の人を見かけたんだけど、あれは他人の空似なのかなあ」「他人の空似でお願いします」「わかった。それで行こう」ずっとファンだったピアニストの大西さんが、目の前で、肩を揺すって笑っている。(また明日へ続きます……)