また昨日の続きです。
パパの家には1時間近くいた。すっかり打ち解け、もっといたかったが、外が暗くなったのと、駅前のカフェに彩也香と若菜を待たせているので、帰ることにした。駅前のカフェに飛び込み、マラソンのゴールのように両手を広げ、二人に抱きついた。「アンナってパパがつけた名前なんだって。聞いたら教えてくれた。アンナ・カリーナっていうゴダールって監督の映画に出てくる女優がいて、パパはその女優がずっと好きだったから、その名前から取ったんだって。わたしずっと自分の名前が嫌いだったから、今日初めて悪くないなって思えるようになった」1時間以上、カフェでおしゃべりをして、続きはまたということで、それぞれ家路についた。高揚した気持ちは冷めることなく、街の景色までちがって見えた。
家に帰ると、母が台所で夕食の支度をしていた。「わたしパパって呼ぶことにした。おとうさんだと被るから」「そう」「すっごいマンションに住んでた」「売れっ子演出家だからね。一人だし、いくらでも贅沢出来るんじゃないの。おとうさんが帰って来ても、今日のことは言わないように」「わかった」アンナは母にも聞きたいことがいろいろあった。離婚の理由とか、自分が生まれたときパパはどうだったとか。ただ、しばらく様子を見た方がよさそうだ。別れたのだから、いやな思い出の方が多いに決まっている。パパに比べて父は真面目で腰の低い人間だった。主婦相手に毎日頭を下げているうちにそうなったのか。怒りんぼうの父よりはずっといいが、物足りなく思うときもある。
終業式の日、学校帰りに、彩也香と若菜を誘って恵比寿の稽古場へ見学に行った。入り口で劇団員らしき人に白川和樹の娘だと告げたら、話が通っていて、中に案内された。アンナは冷静を装うものの、内心は夢見心地だった。女の子は“運命”に弱い。占い好きなのもそのせいだ。降って湧いたストーリーに、今は完全に酔っている。アンナは自分もこの輪に加わりたいと思った。これまで将来何になりたいか具体的に考えることはなかったが、今決まった。女優か演出家だ。
稽古が終わり、アンナはパパにクリスマスプレゼントを手渡した。雑貨店で買ったスヌーピーの手袋だ。パパは包みを開くなり、顔をくしゃくしゃにして、大袈裟なほどよろこんでくれた。そしてパパからもプレゼントがあった。手渡された紙バッグの中身は、バーバリーのマフラーだった。「きゃーっ」アンナは思わず声を上げ、パパに飛びついた。パパと別れ、彩也香と若菜と話しているうちに、中学の頃からカナダかオーストラリアへ留学するのが夢だったことを思い出した。急に気持ちが高ぶった。養女はともかく、パパにおねだりしたら留学費用を出してくれるかもしれない。
家に帰ると母がすぐマフラーに気づき、「それどうしたの?」と聞いた。「パパにもらった。クリスマスプレゼント」アンナが答える。母の表情がまた曇った。「留学費用を出してもらうのはだめ?」「ちょっと、あなた、それ、白川さんに言ったわけ?」「まだ言ってないけど」「まだって--------。やめてちょうだい。アンナは江口家の子です。白川さんは血のつながった父親かもしれないけれど、アンナをここまで育てた父親はうちのおとうさんです。思いちがいをしないように」「勝手に決めないでよ」つぶやくように言い捨てると、自分の部屋へ駆け込んだ。反対されて、ますます留学したくなった。パパはお金持ちなのだ。
夜の9時過ぎに父が帰って来た。「ねえ、おとうさん。わたし、来年オーストラリアかカナダに留学したいんだけど」「アンナ」母が咎めるように名前を呼んだ。「夏休みだけのサマースクールとか、そういうのはどうだ」「ちゃんと現地の高校で一年間勉強したい。うちにはそういうお金、ない?」「ないことはないけど」「出してくれる人がいたら?」「アンナ。やめてちょうだい。その話はあとでおかあさんが聞きます」母が目を吊り上げて言った。
冬休みは毎日部活があった。いつもの3人が道場に残った。「わたし留学に絶対に行きたい。パパがお金を出してくれるなら、おかあさんに反対する権利なんてないはずじゃん。私の自由だよ」「パパは出してくれるって?」「それはこれからお願いするんだけど」「あのさあ、余計なお世話かもしれないけど、留学費用の件は、家族でちゃんと話し合った方がいいよ」若菜が奥歯に物が挟まったような言い方をした。「どういうこと?」「わたしさあ、アンナが本当のパパに会って、その人が演劇界の有名人でお金持ちだったって話を、うちのおかあさんにしたのね。そしたら横で聞いてたおとうさんが、同情するような顔をして、留学費用をねだるのはマズイんじゃないかって」「どうして?」「育ての親のメンツが立たないだろうって」アンナはバッグを担ぐと大股で道場を出た。小さな喧嘩は毎度のことだが、今回はいつも以上に腹が立った。パパが現れた以上、自分には父親を選ぶ権利があるはずだ。それは人が口出しすることではない。友だちでも、母親でも。(また明日へ続きます……)
パパの家には1時間近くいた。すっかり打ち解け、もっといたかったが、外が暗くなったのと、駅前のカフェに彩也香と若菜を待たせているので、帰ることにした。駅前のカフェに飛び込み、マラソンのゴールのように両手を広げ、二人に抱きついた。「アンナってパパがつけた名前なんだって。聞いたら教えてくれた。アンナ・カリーナっていうゴダールって監督の映画に出てくる女優がいて、パパはその女優がずっと好きだったから、その名前から取ったんだって。わたしずっと自分の名前が嫌いだったから、今日初めて悪くないなって思えるようになった」1時間以上、カフェでおしゃべりをして、続きはまたということで、それぞれ家路についた。高揚した気持ちは冷めることなく、街の景色までちがって見えた。
家に帰ると、母が台所で夕食の支度をしていた。「わたしパパって呼ぶことにした。おとうさんだと被るから」「そう」「すっごいマンションに住んでた」「売れっ子演出家だからね。一人だし、いくらでも贅沢出来るんじゃないの。おとうさんが帰って来ても、今日のことは言わないように」「わかった」アンナは母にも聞きたいことがいろいろあった。離婚の理由とか、自分が生まれたときパパはどうだったとか。ただ、しばらく様子を見た方がよさそうだ。別れたのだから、いやな思い出の方が多いに決まっている。パパに比べて父は真面目で腰の低い人間だった。主婦相手に毎日頭を下げているうちにそうなったのか。怒りんぼうの父よりはずっといいが、物足りなく思うときもある。
終業式の日、学校帰りに、彩也香と若菜を誘って恵比寿の稽古場へ見学に行った。入り口で劇団員らしき人に白川和樹の娘だと告げたら、話が通っていて、中に案内された。アンナは冷静を装うものの、内心は夢見心地だった。女の子は“運命”に弱い。占い好きなのもそのせいだ。降って湧いたストーリーに、今は完全に酔っている。アンナは自分もこの輪に加わりたいと思った。これまで将来何になりたいか具体的に考えることはなかったが、今決まった。女優か演出家だ。
稽古が終わり、アンナはパパにクリスマスプレゼントを手渡した。雑貨店で買ったスヌーピーの手袋だ。パパは包みを開くなり、顔をくしゃくしゃにして、大袈裟なほどよろこんでくれた。そしてパパからもプレゼントがあった。手渡された紙バッグの中身は、バーバリーのマフラーだった。「きゃーっ」アンナは思わず声を上げ、パパに飛びついた。パパと別れ、彩也香と若菜と話しているうちに、中学の頃からカナダかオーストラリアへ留学するのが夢だったことを思い出した。急に気持ちが高ぶった。養女はともかく、パパにおねだりしたら留学費用を出してくれるかもしれない。
家に帰ると母がすぐマフラーに気づき、「それどうしたの?」と聞いた。「パパにもらった。クリスマスプレゼント」アンナが答える。母の表情がまた曇った。「留学費用を出してもらうのはだめ?」「ちょっと、あなた、それ、白川さんに言ったわけ?」「まだ言ってないけど」「まだって--------。やめてちょうだい。アンナは江口家の子です。白川さんは血のつながった父親かもしれないけれど、アンナをここまで育てた父親はうちのおとうさんです。思いちがいをしないように」「勝手に決めないでよ」つぶやくように言い捨てると、自分の部屋へ駆け込んだ。反対されて、ますます留学したくなった。パパはお金持ちなのだ。
夜の9時過ぎに父が帰って来た。「ねえ、おとうさん。わたし、来年オーストラリアかカナダに留学したいんだけど」「アンナ」母が咎めるように名前を呼んだ。「夏休みだけのサマースクールとか、そういうのはどうだ」「ちゃんと現地の高校で一年間勉強したい。うちにはそういうお金、ない?」「ないことはないけど」「出してくれる人がいたら?」「アンナ。やめてちょうだい。その話はあとでおかあさんが聞きます」母が目を吊り上げて言った。
冬休みは毎日部活があった。いつもの3人が道場に残った。「わたし留学に絶対に行きたい。パパがお金を出してくれるなら、おかあさんに反対する権利なんてないはずじゃん。私の自由だよ」「パパは出してくれるって?」「それはこれからお願いするんだけど」「あのさあ、余計なお世話かもしれないけど、留学費用の件は、家族でちゃんと話し合った方がいいよ」若菜が奥歯に物が挟まったような言い方をした。「どういうこと?」「わたしさあ、アンナが本当のパパに会って、その人が演劇界の有名人でお金持ちだったって話を、うちのおかあさんにしたのね。そしたら横で聞いてたおとうさんが、同情するような顔をして、留学費用をねだるのはマズイんじゃないかって」「どうして?」「育ての親のメンツが立たないだろうって」アンナはバッグを担ぐと大股で道場を出た。小さな喧嘩は毎度のことだが、今回はいつも以上に腹が立った。パパが現れた以上、自分には父親を選ぶ権利があるはずだ。それは人が口出しすることではない。友だちでも、母親でも。(また明日へ続きます……)