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アレクセイ・ゲルマン監督『フルスタリョフ、車を!』

2012-04-26 05:13:00 | ノンジャンル
 アレクセイ・ゲルマン監督の'98年作品『フルスタリョフ、車を!』をDVDで見ました。
 「1953年冬ロシア、スターリンが人類の半数の運命を握り、側近ベリヤは次々と国民を収容所に送った。反ユダヤ主義の色濃い時代、当局のでっち上げた医師団陰謀事件でユダヤ系の医師が多数逮捕された。大粛清の再開か!それでも人々は生活し、国を誇りに思っていた。スターリン時代の終焉が近いとも知らずに‥‥。主人公のクレンスキー少将も陰謀の犠牲者だ。秘密警察は替え玉まで雇って彼を罠にはめる」「Part1」の字幕。ボイラーマンが夜帰ろうとすると、路上の車から現れた男たちに捕えられ、路の脇にある収容箱に監禁されます。解放されたボイラーマンが車に轢かれると、彼は再び拘束されます。
 クレンスキーの家の人々。鏡に写った少年が私で、いとこの姉妹はユダヤ人、両親は北へ移動させられた、と語る声。反シオニストの赤旗記事を誇らかに叫ぶ少年たちに、私は虐められます。
 軍医で少将である父はアカデミー会員で大病院の院長だと語る声。大勢の医師たちを引き連れ病院内を視察する父・クレンスキー。楽隊の演奏。車に乗り夜の町を走るクレンスキー。やがて車は衝突します。
 クレンスキーを探すカメラは浴場などを巡り、彼の家に着くと、妹からの伝言を彼に伝えますが、そんな妹はいないとクレンスキーは言います。旅券を取り上げられる男。市電に乗り、車に乗り換え、お茶を飲むクレンスキー。パーティでは、あなたは病気だと言われます。一人で屋外へ行き、「小鳥の少将、小舟で失踪」と繰り返し口ずさむクレンスキー。トラックから現れる大勢の男。クレンスキーは知人の女性の家に泊まらせてもらい、彼の家には大勢の男がつめかけ、部屋の中のものを次々と差し押さえていきます。
 「Part2」「毛皮店のボイラーマンは一昼夜ブタ箱で過ごし‥‥」の字幕。彼はまた収容箱に閉じ込められます。黒い車列。子供に囲まれ棒で殴られるクレンスキー。そこに現れた当局の者に写真を撮られ、彼は捕えられます。トラックの荷台に横たわって運ばれるクレンスキー。家では便座がなくなったので探してこいと言われ、私は反抗します。密閉された荷台に入れられたクレンスキーは、他の囚人たちにレイプされます。トラックを降ろされ、身なりを整えさせられて、収容所の診療所に着いたクレンスキーは、瀕死の男を診断させられますが、男は間もなく死にます。スターリンが死に、一旦家に戻る彼でしたが、トラブルの元と考えられ、息子からも当局に密告されそうになります。しばらくしてスターリンの死が公になり、クレンスキーは逮捕も処刑もされずに生き延びます。楽隊が演奏する中、シベリアから西への列車が発車します。ボイラーマンは「リバティ!リバティ!」と叫んで喜びますが、列車の中で他の乗客に襲われ、なぜ自分ばかりがイジメられるのかと泣き叫びます。貨物列車の荷台ではクレンスキーが他の乗客と食卓を囲み、頭に乗せたコップに酒を注いでもらうのでした。

 ほとんど脈絡なく様々なエピソードが続く印象で、ロシア版のフェリーニの映画を見ているような気になりました。縦の構図が多く、コントラストのきいた白黒の画面はやはり魅力的で「、銀幕」という言葉を思い出させる、そんな映画でもあったようにも思いました。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

上橋菜穂子『炎路を行く人』

2012-04-25 04:33:00 | ノンジャンル
 '12年に発表された、中編『炎路の旅人』と短編『十五の我には』からなる本です。
 『炎路の旅人』の出だしのあらすじは次のようなものです。
 帝が天ノ神の子孫だと信じられてきた国・ヨゴ皇国をタルシュ帝国は滅ぼさんとしていました。侵入してきたタルシュ軍は、都のさまざまな場所にちらばっている〈帝の盾〉の家族の隠れ家を一斉に襲撃してきました。〈帝の盾〉とはヨゴ帝の近衛兵で、他国の軍が宮殿を侵したときには、命を賭してヨゴ帝を守りぬくことを本懐とする最強の武人たちでした。タルシュ軍は、手向かいをしない民には手をだしませんでしたが、近衛兵など、征服された国の長に忠誠を誓っている武人たちに対しては、のちに敵討ちや、国の再興を考える者が現れぬよう、その家族から親族に至るまで完全に虐殺するので有名でした。〈帝の盾〉の一人であるヒュウゴの父は、ヒュウゴに「天に恥じぬ武人になって、母と妹を守るのだぞ」と言い残して、帝を守るために出陣していきました。
 幼いヒュウゴは隠れ家から脱出する方法を自ら考え、大人に進言していましたが相手にされず、敵が先回りしているであろう裏口に殺到する他の家族らを尻目に母と妹を救い出そうとしましたが、自分たちだけが助かろうとするなどもっての他と言う母と、その母を追った妹は、裏口へ向かってタルシュ兵に殺され、ヒュウゴは燃え盛る隠れ家から逃れたところで気を失います。
 気が付くと、ヒュウゴは若い女性リュアンに助けられ、彼女に家に運ばれて来ました。ヒュウゴの首には空を飛ぶ魚が巻き付き、彼女の首にも同じ魚が巻き付いていて、その魚を通して、二人は相手の思いを伝えることができました。そこへリュアンの父親ヨアルが漁から帰って来て、ヒュウゴの持つ短剣を見て、彼が〈帝の盾〉の子だと知ります。そしてヒュウゴとリュアンの首に巻き付いているのはタラムーと呼ばれている生き物で、炎が好きで、限られた者しか目にすることができないこと、リュアンが幼い頃死にかけた時から不思議な能力を備えるようになったこと、2年前に自宅が火事に会った時からリュアンはタラムーを見ることができるようになったことをリュアンは教えてくれるのでした‥‥。

 上橋さんがあとがきで書いてらっしゃいますが、『炎路の旅人』は、『蒼路の旅人』の前に生まれたもので、『守り人』シリーズが『天と地の守り人』という大河物語の姿へ発展するきっかけとなった物語なのだそうです。その辺の事情をあとがきから引用させていただくと、「この物語(『炎路の旅人』)は、『蒼路の旅人』でチャグムをさらう、タルシュ帝国の密偵アラユタン・ヒュウゴが、なぜ、おのれの故国を滅ぼし、家族を虐殺した男の配下となって生きることになったかを描いた物語で、私の中にヒュウゴという男が生まれたことで、南の巨大な帝国タルシュが、命をもって立ち上がってきたのでした。同時に、ヨゴ皇国という、新ヨゴ皇国が派生していく元となった国の姿もありありと見え‥‥それが見えてきたことで、はじめて、北の大陸の国ぐにとチャグムがたどっていくであろう道が、私の中でくっきりと立ち上がってきたのです。しかし、ヒュウゴという男が、どういう男であるかを読者が先に知ってしまうと、『蒼路の旅人』でチャグムがさらわれたとき、読者は〈チャグムの気持ち〉に乗って読むことができなくなってしまいます。そうなってしまえば、物語の命が大きく損なわれてしまう‥‥ということで、『炎路の旅人』は書きおえた瞬間に、お蔵入りになる運命を持ってしまったのでした。」その後、「一冊の長編であった『炎路の旅人』を中編に書きなおし、さらに、これもまた、かつて生みだしかけたままお蔵入りになっていたバルサの若き日の物語を、しっかりと書きなおして加えれば、世に出す意味のある本になる、ということが〈見えた〉のです。」
 実際、そうしてできたこの本は読みごたえ満点のものとなりました。冒険譚、ローイングプレーイング・ゲームの好きな方には特にお勧めです。なお、あらすじの続きは、私のサイト 「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)の「Favorite Novels」の「上橋菜穂子(『炎路を行く人』以降の作品)」のところにアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

アレクセイ・ゲルマン監督『わが友イワン・ラプシン』

2012-04-24 05:57:00 | ノンジャンル
 アレクセイ・ゲルマン監督の'84年作品『わが友イワン・ラプシン』をDVDで見ました。
 「父から聞いた遠い昔の物語。貧しかったが、お互いに助け合って生きていた。ラプシンも父もアコーシキンも公園を通って通勤していた」のナレーション。カメラはカラーで部屋の中を写して行きます。
 「半世紀前」のナレーション。画面はモノクロになり、9才の私が父に命じられて電話をしています。私と父が住んでいた警察官舎。経理主任のジャチーエフと全権委員のトチリンが「褐色の疫病(ファシスト)」の一幕を演じます。1935年当時は大人気のコントでした。刑事課長のイワン・ラプシンはこの日に40才を迎え、皆から祝福されます。
 一瞬カラーとなり、森を通って通勤する父とラプシンとアコーシキン。薪の横流しが行われていて、アコーシキンを見た運び屋は逃げ出します。「これが殺しの発端になった」というナレーション。モノクロに戻り、市電に乗って辻馬車駅でラプシンが降りると、舞台女優のナターシャが今度娼婦役をやるので、本物の娼婦を紹介してほしいと言ってきます。ラプシンは娼婦のカーチカにナターシャを会わせますが、カーチカは途中で興奮し「自分は何も悪いことはしていない」と叫び始めます。
 2つの死体をトラックに乗せるのを指揮するラプシン。「お尋ね者のソロビヨフは3年前に逮捕され、市役所職員殺害の罪で死刑になりますが、脱獄し、ラプシンが追うことになった」というナレーション。
 薪を届け、停電となっている家で歓迎されたラプシンは、知人のハーニンから、アルダンの金鉱への旅に誘われ、今は飛行士の伝記を書いていること、妻が6日前に発作で死んだことを教えられます。ハーニンはラプシンと行動をともにすることになりますが、ラプシンの拳銃で自殺を図ります。家を締め出されたと怒るアコーシキン。ソロビヨフがつるはしで殺人を犯した現場にいた男に訊問するラプシン。ナターシャと食事をし、歌を歌うラプシン。失神していたラプシンは目覚めますが、それは国内戦で打撲傷を負い、その後遺症で年に2度ほど発作を起こした結果なのでした。
 「署員の半数がナターシャが出る劇を見に行きましたが、ナターシャは舞台から転落した」というナレーション。劇がはねた後、アコーシキンは結婚するため官舎を出ると言い出します。頭痛がすると言って家に帰ったナターシャを追って、彼女の部屋に入り込んだラプシンでしたが、彼女はハーニンが好きになったと言ったため、ラプシンは部屋を後にします。
 アコーシキンが官舎を出て行き、「ラプシンは冬の間中ソロビヨフを追跡した」というナレーション。ある日通報があり、記者を連れて現場に到着したラプシンは、ソロビヨフのアジトを急襲しますが、それは罠で、見張りについていたハーニンが撃たれます。ハーニンをトラックで病院に運んだ後、別の場所に潜んでいたソロビヨフを射殺するラプシンと、泣き叫ぶ女。
 回復したハーニンはモスクワの新聞社で働くために船に乗り、ナターシャも後を追うことになります。結婚に失敗したアコーシキンが戻ってくると、ラプシンは上級研修を受けることを決意し、楽隊を乗せた電車が進んでいきます。
 カラー画面になり、半分凍った川が写され、「町は広がっていった」というナレーションとともに映画は終わります。

 ラプシンの日常が淡々と描かれ、物悲しい行進曲が印象的で、コントラストのきいた白黒画面も美しい映画だったと思います。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』

2012-04-23 18:38:00 | ノンジャンル
 朝日新聞の特集記事『読んで感じる 時代の声』の中で紹介されていた、マイケル・サンデルの'09年作品『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』を読みました。
 '04年夏にアメリカを襲ったハリケーン・チャーリーは多大な被害を与えましたが、被害地域では生活に困る住民に対して業者による故意の値上げが広く行われ、それに対する非難が起こる一方、消費が抑えられ、商品やサービスの供給が増えるという理由でそれを擁護する人々も現れました。しかしその論法へは、切羽詰まった買い手に自由はないとして市場の論理を否定する意見も出され、こうした点からも、この事態は法律はいかにあるべきか、社会はいかに組み立てられるべきか、正義はいかに実現されるべきかというテーマを考えさせるものとなりました。
 それはPTSDに苦しむ退役軍人に名誉負傷勲章を与えるべきか、破綻した大企業を救済するために政府は支援すべきか、などの問題でも喚起されるテーマであり、多数の人を救うため少数の人を犠牲にする様々なケースでも考えられるものです。こうした問題について過去の人々がどのような考え方をしてきたかを検証しようというのが本書の目的です。
 まず、ベンサムの功利主義があげられます。彼は苦痛に対し快楽を最大化すること、つまり「効用」を最大にしようと考えれば、それらの問題を解決できると主張しました。しかし、その主張に対しては、「効用」のために個人の権利が犠牲になっていいのか、様々な価値を共通に表現する「通貨」が存在するのか、といった反論が存在します。ベンサムの理論を修正したのがミルで、人は自分に対して主権を持ち、「効用」を最大化するとしても個人の自由に介入してはならず、長期的観点から「効用」を考えるべきだとし、快楽も質の高いものと低いものに区別すべきだとしました。
 それに対し、自分を所有しているのは自分で、個人が自由に何でも選択していいという主張をしたのがリバタリアンと呼ばれる人々で、国家は個人の自由を守る最小限のことをしていればよく、したがって自分の腎臓を売ろうが、自殺をしようが、自分から望んで人に食べられようが、何でも認められるというものでした。
 一方、正義をめぐる議論が白熱してくると、たいてい市場の役割の話となりますが、典型的な自由市場の擁護論は自由を重視するものと、福祉を重視するものに分かれます。この議論で論点がはっきりする典型的なケースとして、徴兵と傭兵の問題、金をもらっての他人の子の妊娠の問題が語られます。
 次に紹介されるのはカントの考え方で、人間はそもそも理性的な存在であり、無条件に尊厳と尊敬に値するというものです。その主張においては、個人の尊厳が必ずしも保障されない功利主義も、自分を大切にしなくてもいいリバタリアンの考えも退けられます。そして理性的な人間は自律的に行動することが可能で、正しい目的をもって行動し義務を果たすことができるとしました。
 20世紀のアメリカの政治哲学者ロールズは、自分がどのような初期状態を持っているか分からない状態と仮定して個人に判断させ、その仮定のもとで選ばれるであろう状態、つまり基本的自由をすべての人に平等に与え、所得と富の平等な分配がなされる状態が公正なものであると考えました。自分のリスクを考えれば、そうした状態に行きつくとロールズは考えたのです。彼は社会的条件というものが能力や努力など全てのものに付きまとい、それを考えにいれずに行われる思考はすべて無効だと考えたのでした。
 これ以降も、マイノリティを救うためのアファーマティブ・アクションの是非、アリストテレスの政治思想、コニュニティ間での謝罪や補償、愛国心の是非、政治と宗教の問題、妊娠中絶と幹細胞をめぐる論争、同性婚の是非などについて論じられます。

 私個人としては、ロールズの考え方が一番腑に落ちました。アリストテレスの段など、難解で飛ばし読みしたところもありましたが、具体例で語られる部分は結構分かりやすかったと思います。「正義」に興味のある方にはお勧めです。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

アレクセイ・ゲルマン監督『戦争のない20日間』

2012-04-22 07:25:00 | ノンジャンル
 アレクセイ・ゲルマン監督の'76年作品『戦争のない20日間』をDVDで見ました。
 上陸し野営地で休暇のことを話す少佐たち。敵機の空襲があり、その後穴から這い出す兵士たち。黒々と走る汽車をバックにタイトル。
 列車内の通路で空中戦の自慢話をする若者。ある男は除隊した教師と妻が浮気をし、休暇で帰ると警察署長から事件は起こさないでくれと言われ、教師の母に息子を殺しに来たと村中に言いふらされたという男は、自分からの手紙が来てからは教師と別れたという妻宛に、作家である少佐に妻が感動するような手紙を書いてくれと頼みます。悲し気な歌を歌う男たち。
 少佐が日中の満員の客車から降りると、知人が迎えに来てくれていて、少佐の前の妻が疎開先の劇場のディレクターと再婚したこと、そして彼女の現在の住所も教えてくれます。戦死した友人の遺品をその妻に届け、取り乱した妻から早く帰ってくれと言われる少佐。前の妻の元を訪ねると、今の夫と幸せに暮らしているという彼女に、少佐も何も恨んでないと言います。その一家の夕食に招かれ、戦場の話を聞かれる少佐。二人きりになると元妻は机に向かってばかりいたあなたのせいで別れることになったと言います。
 雪の町。劇場の衣装部で働く女性が話しかけてきて、6才の息子がいて、夫は戦前に出ていったと言います。彼女の私用に付き合い、タバコ談義をする二人。画面がワイプした後、道端で音楽に合わせてダンスする子供たち。市街電車に乗り、もうすぐ訪れる元旦の過ごし方を聞く女性。彼女は自分の家を教え、電車を降りると、4ヶ月も前線の夫から手紙がないという女性が現れ、少佐は極秘作戦に参加しているのだろうと彼女を慰めます。
 大晦日のダンスパーティ会場。そこで出会った知人は、軍の新聞記者として開戦2日目に前線に行き、ミンスクの戦いで腐肉の中から這い出たのに、懲罰委員会にかけられたと嘆きます。
 劇場での映画の撮影で、女性兵士のヒロインの扱いが事実と違い過ぎるとディレクターに指摘する少佐。仲間とガレキの上に寝ていると、仲間からカメラを渡され、記念写真を撮ろうとして、空爆に会う少佐。孤児を連れて来た老女は、味方に合流するまでの不安を語ります。
 武器工場で意気向上のために行われた講演会で演説する少佐。明日前線に帰ることになった少佐は、衣装部の女性の家に行くと、彼女の部屋の時計が音を刻む中、彼女とキスし、夜を過ごします。
 翌朝目覚めると彼女はアイロンをかけていて、父の後妻を憎んでいたが、今では恥ずかしく思っているという話をし、また彼女にせがまれて彼女を抱くと、外に雨が降る中食事をし、用事のある彼女とそこで別れることになりますが、彼女は風邪をひかないでというのが精一杯で、言いたかったことが思い出せないと言い、別れのキスをします。
 楽隊が演奏する中、前線への汽車に乗り込むと、大勢の見送りの中、汽車は出発します。軍の新聞記者をしていたという少佐の知人もモスクワ宛に手紙を書くと言うのでした。いつまでも汽車を追う一人の少女。
 画面は一転し、ぬかるみの中を前線へ向かって行進する部隊。少佐がトラックの荷台から降りると、大佐が負傷したと知らされ、数人とともに師団司令部へと徒歩で向かいます。途中で迫撃砲の攻撃を受けた少佐は、穴の中であと3発で攻撃がすめば自分も衣装部の彼女も運があると言い、実際攻撃は3発で終わるのでした。その攻撃で中尉は負傷しますが、無事回復し、少佐らは遥かな前線へと向かい、最後に少佐のモノローグで「ベルリンまでの道は遠い」と語られるのでした。

 黒が基調の白黒画面が水墨画のような美しさで、たまに輝く光が印象的でした。少佐の日常的なエピソードの数々が淡々と描いていたと思います。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/