7月12日付 読売新聞編集手帳
作家の中勘助は子供のころ、
「を」の字が好きだった。
どこかしら女性が座った形に似ているからだという。
紙に幾つもいくつも「を」の字を書いたと、
自伝的小説『銀の匙(さじ)』で回想している。
勘助少年に限らず、
ひらがなに想像をめぐらす感性が子供には備わっているのかも知れない。
国語学者の笹原宏之さんが、
きのうの本紙夕刊(東京管内)『変幻字在』と題するコラムで「あ」の字について書いていた。
「あじさい」と「紫陽花」から受ける印象の違いに触れた文章で、
ひらがなの花には「カタツムリがいそう」と感じる人が多いとか。
「あ」の字がカタツムリの形に見えるから――
ある小学1年生はそう話したという。
東北北部は平年より17日早く、
南部は14日早い梅雨明けである。
東北の「あ」の字たちも今年は、
雨の似合うその花をおちおち楽しむ暇がなかっただろう。
蒸し風呂のような避難所の生活に耐えている人を思えば泣き言はいえないが、
街を歩くのにも気合を要する炎暑がつづく。
勘助少年が夢想したのとは似ても似つかぬ無粋な尻ながら、
涼しい木陰で「を」の字になりたいときもある。