3月17日 キャッチ!
ヤンゴン中心部から約20km。
500世帯4千人ほどが暮らすアラアンソ村。
住民の多くは農業や畜産業で生計をたてている。
村の代表を務めているミャ・ライさん。
数十年にわたってこの村で暮らしてきたという。
この村が置かれている苦しい現状を話した。
(アラアンソ村代表 ミャ・ライさん)
「この村は電機がありません。
発電機を買える人は使っていますが買えない人は電池を使います。
それも無理な人はろうそくが頼りです。
水も問題で
人口に対して不足しています。
ため池を利用していますが雨が降らないと飲み水や生活用水にも事欠きます。
これがこの村の現状です。」
この村で暮らすテン・トゥエさん一家。
妻と3人の子どもの5人暮らしである。
水道がないため生活で使う水は妻が近くのため池までくみに行く。
暑さのなか重いバケツを担いで1日5往復。
わずか数十メートルの距離だが大変な作業である。
「不便ですが水をくまないと使えませんから。」
電気の供給がないため家の中には生活家電が一切なく
これまではろうそくで暮らしていた。
(トゥエさんの妻 テン・テン・ウィンさん)
「電気や水がある場所で暮らしたいです。
でも農村では期待できません。」
しかしこうした生活にも変化が出てきた。
最近では中国製の安い太陽光パネルが手に入り
わずかな時間だが電気をともせるようになった。
米を生産し生計を立てているテン・トゥエさん。
以前は年に2回米を収穫していた。
しかし最近周辺の開発が進んだため
これまで使用していたダムの水が工業用水となり
農作に使えなくなった。
このため乾季には収穫ができなくなり
年収は日本円にして54万円に半減してしまったという。
(テン・トゥエさん)
「二期作ができなくなったので収入は減りました。
家計は苦しいです。
蓄えの余裕はありません。」
こうした生活を少しでも良くしてほしい。
貧富の差を無くし国民の生活を改善することを掲げている新政権に
テン・トゥエさん一家は大きな期待を抱いている。
(テン・トゥエさん)
「以前の政府より新政府は我々に支援してくれると期待してます。
良くなると思っています。
全部発展させてほしいです。
子どもの教育を始め
経済 社会 生活 地域の発展
全部を向上させてほしいと思います。」
(経済アナリスト キン・マウン・二オ氏)
「道路や電気 水道などインフラ未整備の場所が多くあります。
教育や医療の面でも改善すべき点がたくさんあります。
新政権には頑張ってほしいが課題が山積していて難しい問題です。」
3月16日 キャッチ!
ミャンマーの経済都市 南部のヤンゴン。
1948年まで続いたイギリス植民地時代の名残が今も町中に残っている。
人々はこうしたヨーロッパを思わせる街並みを大切にしながら日々の生活を営んできた。
ところが今ヤンゴンのあちこちで見られるのが大規模な建設工事である。
町の中心部では新しいホテルや大型のショッピングセンターが目立つ。
3か月前にできたばかりのショッピングセンター。
店内には5年前の民主化以前には無かった外資系の店舗が多数入るなど最新の商品が並んでいて
週末は大勢の買い物客でにぎわう。
(買い物客)
「とても便利で皆うれしいです。」
「より多くの商品が選べて生活に幅が出ます。」
12日にはヤンゴン国際空港の新しいターミナルがオープンした。
これまでのターミナルの3倍の広さを誇る。
ミャンマーでは外資系企業が相次いで進出し
海外からの観光客は増え続けている。
新しいターミナルがオープンしたことで
ヤンゴンの国際空港の観光客などの受け入れ能力は
1年間に600万人と倍増する見通しである。
こうした好調な経済はミャンマーの人たちも実感できるまでになっている。
(市民)
「発展してきています。
交通を始め
多くがいい方向に変わっています。」
「より多くの事業ができるようになり就労者も増えました。」
著しい成長を続けるミャンマー。
日本の企業も注目している。
ヤンゴンの中心部から約20kmのところに建設されたティラワ工業団地。
日本とミャンマーの官民が共同で開発し
去年9月に開業した。
広さは約400haでミャンマー初の大規模な工業団地である。
敷地内の半分ほどはまだ建設中だが
すでに14の国と地域から64企業が契約を済ませ
7社が操業を開始。
今後はさらに敷地を拡張する計画である。
日系企業の進出はこの5年で5倍に増えている。
(MJTO 梁井崇史社長)
「日本の企業にとっては優秀な人を確保して
生産拠点としてはミャンマーは魅力的。」
3か月前工業団地の一角に工場を稼働させたぬいぐるみメーカー。
ミャンマーでは人件費が安く勤勉で優秀な人材が多いと聞き
進出を決めた。
従業員はミャンマー人ばかり約100人。
みな縫製の経験は全く無いが呑み込みが早いということで
最終的には今の3倍ほどの生産を見込んでいる。
この会社では安い人件費に期待するだけではなく
地元の人たちが働きがいを感じることができる会社にしたいと考えている。
(キュート ミャンマー社 立花準也取締役)
「世界に誇れるようなクオリティーのいいものをミャンマーの人たちと作っていきたい。」
日本をはじめ多くの外国企業が次々と進出し始めているミャンマー。
こうした中でいくつか問題も見え始めてきている。
日系企業約130社が参加したセミナーが開かれ
ミャンマーの労働法について説明が行われた。
ミャンマーで人を雇用する際に問題となるのが手続き上のルールである。
ミャンマーでは雇用に関する法律が十分に整備されておらず
ここ数年頻繁に法律の改正が行われている。
このため労働時間や賃金の設定基準などが非常にわかりづらく
トラブルの原因になる可能性がある。
(セミナー参加者)
「いろんなところでかなりルールが違うということを実感している。
ミャンマーの場合不明朗なところがある。
理解したい。」
3月16日 おはよう日本
会田有志さん。
ケガの応急処置やリハビリの方法を学んでいる。
目指しているのは日本体育協会のアスレティックトレーナーという資格の取得。
合格率は10%程度ともいわれる難関である。
会田さんはこの資格を取ることで
東京オリンピックに携わる可能性が少しでも広がればと考えている。
(会田有志さん)
「日の丸を背負うことが小さいころからの夢。
東京オリンピックも近づいてきて
もしかしたら野球になるかもしれない。
今は必死にそれをモチベーションに頑張っている。」
会田さんは2006年 ピッチャーとして巨人に入団。
しかし思うような成績を残せず
選手としてオリンピック出場の夢は叶わなかった。
それでもオリンピックの夢はあきらめきれない。
現役引退した2009年
当時 野球はオリンピックから外れていたが
復活を信じてトレーナーの勉強を始めた。
会田さんがいつも持ち歩く参考書。
「何回見たかって
目から血が出るくらい。」
努力が実って4回目のチャレンジで筆記試験に合格した。
残るは実技試験。
試験を直後に控えて会田さんは勉強会に参加した。
本番を想定し
膝をけがした選手に対して制限時間内で正しくテーピングできるかテストした。
膝の負担を減らす巻き方ができているか。
巻く強度は適切か。
アスレティックトレーナーの資格を持つ仲間にチェックしてもらった。
「膝蓋骨(しつがいこつ)の外のふちにかかってしまうと痛いので
もう少し5mmくらい外でも。」
夢であるオリンピックに携わるために
会田さんは全力で走り続ける。
(会田有志さん)
「オリンピックに選手と違う形で行くチャンスをもらえるところまで来ているので
何が何でも資格を取ってやろうという気はある。」
3月16日 おはよう日本
今年5月三重県で行われる伊勢志摩サミット。
伊勢志摩サミットに備えて東海や北陸から集められた警察官。
要人の警護を担当する。
「サミット等をめぐる情勢は非常に厳しい。
警護の完遂は絶対である。」
要人を乗せた車の先導など実践的な訓練を重ねている。
テロの標的になりうる各国の要人をどう守るか。
41年前のある失敗が警察の警護の転換点となった。
昭和50年
当時の三木武夫総理大臣が佐藤元総理大臣の国民葬に参列したとき
駆け寄ってきた男にいきなり顔を殴られた。
警護の警察官はいたが
極力目立たないところに配置されていた。
その隙をついて男が殴り掛かったのである。
この時警視庁で警護の責任者だった橋爪茂さん。
今でも悔しさが忘れられないという。
(橋爪茂さん)
「特に厳重に警護しているつもりだった。
反省している。」
これを機に警視庁が発足したのが
SP(Security Polise)と呼ばれる専門の隊員である。
揃いのネクタイとバッジをつけ
一目で警護の警察官とわかるようにした。
参考にしたのはアメリカの大統領を警護するシークレット・サービス。
力強い姿を全面に見せ
身を挺して要人を守る。
(橋爪茂さん)
「できるだけ目立たないように
それではまずいというので
精強の部隊をを選抜して組織的な強化を図った。」
このSPが手本となって
全国の警察に今の警護のスタイルが定着した。
今回の伊勢志摩サミットでもその力が試されることになる。
どうやって要人の安全を確保するのか。
訓練に参加した愛知県警の警察官。
これまで警護の経験は全く無く
初めての現場がサミットである。
襲われる危険が高いとされる車を降りる場面。
要人に見立てた女性を守る。
「後ろ後ろ 後ろしっかり。」
最後尾の警察官は何度も後ろを確認するよう指導を受けた。
体が反応するまでベテランの警察官が教える。
狭い通路を通り抜ける際の訓練。
警護の隊形が変化する。
この時隙ができて要人が狙われる恐れがあった。
チームを組むのはサミットのため他の県から招集された警察官。
声に出して円滑なコミュニケーションを図る。
「狭い道出たところですぐ5番(車の)ドア開けと言いますから。」
「そのあと 2・3前。」
「きれいに隊形作れると思います。」
「ある程度 臨機応変に。」
今度は逆に車に向かって進む。
「5番(車の)ドア開け
2・3前。」
互いに番号で指示することで理想とされる隊形を維持した。
(訓練に参加した愛知県警の警察官)
「非常に緊張感がある。
自分にできるか100%自信が持てるかというと
まだそこまででない。
伊勢志摩サミット警護の無地完遂のためこれからも警護技術を磨きたい。」
テロをいかに封じ込めるか
世界が注目するなかで行われる伊勢志摩サミット。
要人の安全を守る警察の力が問われる。
3月15日 キャッチ!
習近平指導部が成長の速度よりも質を重視する方針を掲げるなか
全人代で李克強首相は演説の中で
今後5年間の経済成長率の目標を年平均6,5%以上に引き下げる一方で
産業構造の最適化と高度化を加速すると強調した。
伝統的な労働集約型の工場で大量の製品を生産輸出することによって発展してきた中国企業。
いま人件費が高騰し工場の閉鎖や海外移転が相次ぐなか
どうやって生き残ろうとしているのか。
全人代の直前に広東省東莞で行われた中国政府主催のプレスツアー。
国内外の報道機関から60人以上の記者が参加した。
紹介されたのは工場の生産ラインを全て自動化した中国企業である。
携帯電話を作る工場。
去年9月に180台の産業用ロボットを導入し
かつて160人いた従業員はロボットを管理する技術者20人に減少。
ほとんど人手がかからないことから“無人工場”と呼ばれている。
日本円で約100億円の投資額のうち15億円を地元政府が補助。
さらに生産ラインのロボットやシステム全てを国内メーカーに発注し
国内産業の育成にも貢献しているという。
ロボットの導入で人件費の大幅な削減に成功し
不良品も減少。
利益は25%増加した。
工場の責任者は
生産ラインを改良し生産効率を上げればさらに利益が出ると見込んでいる。
(携帯電話 部品メーカー 黄河副総裁)
「現時点は完全には満足していません。
まだ改善すべきところがあります。」
中国政府は産業用ロボットの導入を積極的に支援していく方針である。
(広東省東莞市 徐建華書記)
「先進的な製造業を発展させ
金融支援や人材獲得によって産業構造の高度化を実施する。」
一方独自の技術を開発することで活路を見出す中国企業もある。
広東省深圳でオフィスで使われるOA機の心臓部にあたる部品を製造するメーカー。
280人の従業員を束ねる 付学森会長。
高画質のプリントに必要な精密部品の生産で抜きんでた存在だが
近年ライバル企業が次々と参入し危機感を募らせている。
(OA機器部品メーカー 付学森会長)
「競争は激しくなりましたが市場の拡大は困難です。
高い技術がなければ生き残れません。」
従業員が少ない中小企業が技術力を高めるにはどうすればよいのか。
付さんが参考にしたのは
小規模ながら高品質の製品を生み出し続ける日本の中小企業である。
現場に蓄積された専門的な技術を
積極的に開発に役立てる日本の製造スタイルを取り入れることにした。
競争に勝つため精密部品の精度を倍以上に高めようと考えた付さん。
生産ラインで働く経験豊かなエンジニアの意見を設計の細部に取り入れて
工作機械を改造。
工作機械の能力を限界まで引き出し
業界の常識を超える最新の部品を作り出すことに成功した。
(OA機器部品メーカー 付学森会長)
「中小企業は大企業より柔軟性があるので素早く行動することができます。
これから中小企業にとって技術革新がカギになります。」
3月14日 おはよう日本
新幹線の開業で
石川県にゆかりのないカップルの結婚式が増えた金沢。
金沢駅周辺の9つの主な結婚式場では開業から1年で57組が挙式。
開業前の約1,5倍にのぼる。
首都圏など県外からの問い合わせが今も続いている。
(ブライダル会社 山上睦代さん)
「関東方面からのアクセスが良くなり
親や親族に小旅行をプレゼントしたいと
金沢での結婚式を希望する人が増えている。」
ここまで人気が高まった背景には金沢の伝統に基づいた演出が楽しめることもある。
披露宴会場の前で行われたのは古くから伝わるお水合わせという儀式。
続いて新婦が石川県の嫁入り道具花嫁のれんをくぐって入場した。
鏡開きの酒樽には石川県の伝統工芸加賀水引をほどこした。
(参列者)
「金沢での結婚式は初めてだったがすごく厳かな雰囲気だったし
古風なきれいなものに囲まれてとても良かった。」
金沢での結婚式場ではいま県外カップルを取り込もうと競争が激しくなっている。
今年1月のオープンした式場。
北陸に初めて進出した東京の大手ブライダル会社が運営している。
(大手ブライダル会社 藤間葉子さん)
「北陸新幹線の開通による集客効果を期待して出店を決めた。
首都圏のカップルもターゲットになる。」
ここでは金沢らしさを全面に打ち出して差別化を図っている。
ひがし茶屋街の格子
観光名所の風景を会場に表現した。
さらに力を入れているのがデザートブッフェ。
並んでいるのは和菓子。
金沢で長年愛されてきた味を楽しんでもらう全国的にも珍しい取り組みである。
雨の日の多い土地柄から傘を飾りつけた。
こうした試みはカップルにも人気である。
(大手ブライダル会社 藤間葉子さん)
「金沢は激戦区になっているが
金沢に集客というところではやっていけるのではないか。」
新幹線開業をきっかけに増えている県外からの結婚式。
その動きはまだまだ広がりを見せそうである。
3月12日 経済フロントライン
今年1月 イランの制裁解除を受けて開かれたセミナー。
商社やメーカーなど企業の担当者約300人が詰めかけた。
セミナーではイラン進出の際に注意すべき点の説明も行われた。
(アメリカの法律事務所 弁護士)
「制裁が再び発動される可能性はある。
この事態を想定しないでイランに進出するべきではない。」
多くの日本企業がすぐにイランに進出することには慎重なのが現実である。
イラン市場のどう向き合うのか
いち早く動き出していた企業がある。
大手塗料メーカー 関西ペイントである。
関西ペイントの石野博社長は制裁解除の翌日
さっそく社員に進出への準備を支持した。
「アメリカ財務省のホームページで大統領令が出ています。
完全に解除と。」
「これをもって正式にいろんなことが動くけれども
銀行 船 保険も含めてどうなっているの。」
この会社は以前 自動車の塗料でイランに進出していたが
アメリカの制裁で撤退を余儀なくされた苦い経験がある。
海外での売り上げが6割を占めるこの会社。
中でも自動車の塗料は収益の柱である。
2月 石野さんは5年ぶりにイランを訪れた。
直接イラン側と交渉にあたるためである。
街を歩くとあらためてイラン市場の可能性を感じた。
「古い車がいっぱいあるからもっと車の数量がどんどん増える。
市場としては絶対拡大する。」
イランで現在生産されている車は年間100万台以上。
制裁解除によって今後さらに増え
塗料の需要も拡大することが期待されている。
石野さんは国内第2位の自動車メーカーを訪ねた。
経済制裁が解除されたばかりの工場で厳しい現実を目の当たりにした。
「こういうタンクを見ていると企業の名前が書いてある 下の方に。」
目にしたのはライバルであるドイツ企業の製品。
早くも製品の供給を始めていたのである。
さらに韓国製や中国製の製品もあった。
石野さんは「自分たちが撤退している間にライバル企業に先を超された」と危機感を抱いた。
「ああ やってるんだなと。
制裁が終わったのですごい競争が始まっている。」
どうやって巻き返していくのか
石野さんには切り札があった。
それは協力関係にある現地工場である。
ライバルメーカーはどこも持っていない。
石野さんの会社はかつて5億円かけてイランに自社工場を建設したが
経済制裁によって撤退を迫られた。
そのとき現地の会社にただ同然の価格で売却。
しかし会社の名前は残し協力関係は続けた。
将来に向けた布石を売っていたのである。
石野さんはこの工場を買い戻し
すぐに塗料の現地生産を始める戦略を描いている。
「我々が撤退してもローカルパートナーが守ってくれるという信頼感があった。
いろんな意味で再参入は大変なので
我々はアドバンテージがある。
いつでも設備を入れればもっと増産できるという意味では心強い。」
滞在最終日
石野さんはイラン最大手の自動車メーカーとの交渉に臨んだ。
イラン側はある条件を突き付けてきた。
(イラン自動車メーカー 副社長)
「私たちが海外企業を選ぶ際に最も大切なことは
その会社がイランにどう投資するかということです。
我々は原料をイラン国内からかいたいのです。」
求めてきたのは塗料の現地生産の拡大。
石野さんはすかさずアピールする。
「工場を拡張するためのスペースは十分あります。
制裁が解除されたので御社にさらなる支援を提供したいと考えています。」
イラン側は制裁中も関西ペイントが現地に工場を残したことを高く評価していた。
(イラン自動車メーカー 副社長)
「制裁下での支援と協力に感謝します。
我々は御社の現地工場との協力を拡大したいと思います。」
自動車の塗料を供給する契約を取りつけることができた。
(関西ペイント 石野博社長)
「我々のやってきた努力が彼らに認識されてすごいよかったと思う。
やっぱりコンペティションは非常に厳しいので負けないように
うちは全力でこのマーケットにコミットしていこうと思っている。」
3月12日 経済フロントライン
長年欧米諸国と対立してきた中東の大国イラン。
いま英語の学習が人気を集めている。
(生徒)
「英語を学習することは欠かせません。」
今年1月に経済制裁が解除され
多くの外国企業の進出が見込まれているからである。
イランへの投資を外国企業に呼び掛けるセミナーも連日開かれている。
(イタリア企業 幹部)
「イラン市場は大きな可能性を持っている。
誰もがその発展に期待している。」
日本企業もビジネスチャンスを逃すまいと動き出した。
(日本企業 社長)
「すごい競争が始まっている。
アグレッシブにやっていく。」
一気に開かれた中東最大級の市場。
経済制裁解除によって開かれたイランの石油市場。
解除直後にフランスのエネルギー大手トタルが石油の調達契約を結ぶなど
世界各国が動き出している。
日本の石油元売り大手のコスモ石油。
制裁解除の3週間後
会議でイラン産の石油の調達が議題にのぼった。
「イランは2月3月中には50万バレルに生産量を引き上げる状況です。
数量をコスモ側に増量してくれと要望がありました。」
(コスモ石油 原油外航部 中山真志部長)
「長い間 西側先進国による原油開発が行われていないので
中東の中では魅力的な産油国。」
実は日本とイランは石油を通じた深いつながりがあった。
いまから63年前の昭和28年
日本の石油元売り大手 出光興産がイランから石宇の輸入を行った。
当時イランは石油の利権をめぐりイギリスと対立していた。
イギリスがペルシャ湾を海上封鎖するなかで
思いきった輸入はイラン側の喝さいを浴びた。
(出光興産 出光佐三社長(当時))
「卑屈なことなんかやらずに堂々と日本人として行動する。」
こうした両国の親密な関係を背景に
2004年 日本は中東最大級の埋蔵量を誇るアザデガン油田の開発権益の獲得に成功。
ところが同じ頃イランが秘密裏に核開発を行っていた問題が表面化した。
(アメリカ ブッシュ大統領(当時))
「イランは悪の枢軸を形成し世界を脅かしている。」
イランを激しく非難するアメリカの厳しい圧力を受け
結局日本は2006年 アザデガン油田の権益の大部分を手放すことになったのである。
あれから10年
日本がイランの油田権益を再び手にするチャンスはあるのか。
(イラン国営石油 アリ・カルドール副社長)
「日本の石油元売り会社にイランからの輸入量を
経済制裁前の水準に戻すことを提案した。
それを行うことで開発権益の交渉は新しいフェーズに入るでしょう。」
3月12日 経済フロントライン
都内で約40年にわたって営業している駄菓子屋。
仕入れから販売まですべてを夫婦2人で切り盛りしている。
しかし今は少子化の影響に加え
コンビニなどに押されているという。
(犬塚宏さん)
「2人の年金
ここの売り上げの利益
合わせてやっと食べていける。」
(妻 美佐子さん)
「続けていきたいと思っているがどうなるか
いつまでもつか。」
昔ながらの駄菓子屋が減ったと言われるなかで
思わぬところで駄菓子が人気を集めている。
都内にある居酒屋。
店内には100種類以上の駄菓子が並んでいる。
テーブルチャージ500円で取り放題。
当初は懐かしさを感じる40~50代の人をターゲットにしていたが
意外や意外
若い女性客が多く訪れるようになった。
「甘いものとしょっぱいものが交互に食べられるのでいいですね。」
「金額気にせず駄菓子を好きなだけ取れる。」
一方 本来のターゲットである子どもたちに駄菓子の魅力を伝えようという新たな試みも始まっている。
去年11月 お菓子の卸売業者が倉庫を利用して始めた巨大な駄菓子屋。
この売り場を考え出した菓子卸業 大町 社長の秋山秀行さん。
子どもたちに合わせたこだわりの売り場づくりを心がけている。
陳列は低い位置に。
小さな商品1つ1つに値札を付け
子どもたちが買い物しやすくしている。
「なんかびくりした。
いっぱいありすぎて。」
「いっぱい食べたい。」
秋山さんは去年 全国の駄菓子メーカーなどに呼び掛けて
その魅力を広く伝えようと団体を起ち上げた。
きっかけは駄菓子をアピールするために参加したフランスでのイベント「日本文化を紹介するフェスティバル」。
ラムネやガムなど日本の駄菓子に目を輝かせる現地の子どもたちに驚いたからである。
(菓子卸売業 大町 社長 秋山秀行さん)
「世界にこういう駄菓子はない。
『日本の駄菓子チョコレートはおいしい』と。
日本のお菓子の技術は世界最高水準
値段が最低水準
面白さは最高水準。」
さらに駄菓子の分野に新たに乗り出したところもある。
いもけんぴのメーカーである。
これまでの主な購買層は40代以上である。
子どもに食べてもらわないとこの先の需要が落ち込んでしまうと危機感をつのらせていた。
(菓子メーカー渋谷食品 社長 渋谷伸一さん)
「小さいころから食べたことがないものは大人になっても買わない。
駄菓子コーナーは特に子どもが買いに来る場所ですから。」
子どもが食べやすいよう様々な工夫を重ねている。
「今までは正方形に切っていた。
今回はへん平にした状態で。
やっぱりお子さんが食べるときに安全なサイズになったのかなと。」
メーカーでは4月からの試験販売を目指している。
(菓子メーカー渋谷食品 社長 渋谷伸一さん)
「駄菓子コーナーに残る商品として商品を作っていきたい。
新たな市場
新たな価格を自分たちで作っていく。」
3月11日 おはよう日本
東日本大震災で70人を超える子どもたちが亡くなった宮城県石巻市の大川小学校。
そのなかで奇跡的に助かった当時小学5年生の少年は
被災直後 学校が津波に襲われる様子を証言し
悲劇が広く伝わった。
しかしこの5年間は少年にとって苦しく厳しいものだった。
只野哲也さんは数多くの国際会議や会合に招かれ震災当日の様子を証言している。
「私は大川小が津波や地震の恐ろしさを後世の人々に伝えていくきっかけになってほしいと思っています。」
5年前の3月11日 大川小は津波に襲われた。
108人の全校児童のうち74人が犠牲となった。
只野さんは当時小学5年生だった。
奇跡的に助かった1人として震災直後インタビューに応じた。
(平成23年5月 只野哲也さん 当時小学5年生)
「津波がメキメキメキと来ててやばいと思って
前向いて山の斜面をちょっと登った時津波にのまれた。」
学校が津波に襲われた時の状況を語り
大川小学校の悲劇が広く伝わるきっかけになった。
それから5年 只野さんは使命感から求めに応じて証言を続けてきた。
(只野哲也さん)
「自分のあの時に死んでいたかもしれないし
なぜ生き残ったのか
死ななかったのかと考えると
一生懸命伝えなきゃいけない。
伝えなきゃいけないというのが一番大きいですね。」
しかしいま高校では震災の話題を自分から話すことなないという。
証言を続けることは只野さんにとって少しずつ重荷となっていた。
震災直後から只野さんの心のケアにあたってきたNPOここねっと。
去年3月 会議で発表した後に開かれたNPOのメンバーを交えた慰労会で
只野さんは突然涙を流し始めた。
只野さんは証言する度に津波の記憶をよみがえらせていたのである。
(NPOのメンバー)
「俺だって全然回復していないのに
回復しているとみられるのがとってもつらいんだ
という話をしてくれた。」
「震災後 小学生らしい時間を過ごしていなかった。
小学生の時のことは封印していた部分もあるし
我慢していたところもある。」
さらに只野さんは周囲の声にも心を痛めていた。
NPOのメンバーが只野さんとのやりとりを記録したもの。
壁があるのに話しても通じるのか
否定する声が聞こえてくるとつらい
遺族の中には小学校で起きたことを思い出したくないという人も多く
証言しないで欲しいという声もあがっていた。
また被害の実態を知らない人の中には証言すること自体をからかうような声もあったという。
(只野哲也さん)
「『有名人だね』とか言われると
いや別にそういうつもりで出ていない。
人それぞれ捉え方があるし感じ方もあるからしょうがないけど
あまりそう捉えてほしくない。」
只野さんはいまも定期的に大川小学校を訪れている。
傷んだ校舎をていねいに掃除している。
(只野哲也さん)
「ここの黒板 小学校のときは大きく感じたけど今はすごく小さく感じる。」
「昔の楽しかった震災前の思い出を思い出したりとか
震災のときのつらい悲しい思い出を思い出したりする。」
決して消えることがない悲しみと恐怖。
それでもその体験を“みんなの代わりに発信し続ける”。
震災から5年
只野さんの決意である。
(只野哲也さん)
「慰霊碑の同級生の名前を見つけたときに
『俺はちゃんと頑張ってるのかな』とか
みんなができないことを俺が今してるから
その1つ1つを大切に思い
かみしめて生きていかないといけない。
つらいのもあるけど
伝えなければ。」
只野さんは今後も活動を続けながら
将来は消防士を目指して
災害から人を守る仕事に就きたいと話している。
3月11日 おはよう日本
仙台に本拠地を置くプロ野球の楽天。
震災1か月後に嶋基宏選手や田中将大投手などが避難所をまわるなど
球団として被災地の支援を続けてきた。
震災から5年
いま大切にしているのが子どもたちの笑顔である。
3月6日 50人の子どもたちを対象に野球教室が開かれた。
3月から新たに子どもたちを指導することになった鉄平さん。
震災当時 鉄平さんはチームのキャプテンだった。
チームの先頭に立ち
積極的に被災した子どもたちと触れ合った。
今年1月に現役を引退。
これからは野球を通じて子どもたちの成長を後押ししたいと考えている。
(鉄平さん)
「子どもたちには無限の可能性がある。
その可能性を広げてあげたい。」
震災後 球団は様々な支援をしてきた。
毎年被災地の子どもを招待。
さらに寄付金を募り
一昨年 福島県相馬市に屋内運動施設 相馬こどもどドームを建設した。
原発事故の影響で外で遊ぶ機会が少なくなっていた子どもたちに思いきり遊んでもらいたいと考えた。
いまは岩手県大槌町の子ども用のグラウンドに人工芝を敷く計画を進めている。
さらに5月の大型連休に行う子ども向けのイベントの準備も始めた。
今シーズンから球場の一角を改修し大きな広場ができる。
そこでどんなことが出来るのかアイデアを出し合った。
話し合いの結果 5月3日に運動会を行うことになった。
子どもたちの笑顔のためにこれからも球団は支援を続ける。
(営業本部長 森井誠之さん)
「5年を境にこうしようというよりも
この先何をやっていこうという通過点。
この先までずっと続けていかないといけない。」
子どもたちの笑顔を守りたいという活動が
5年経った今も広がり続けている。
(元楽天 田中将大投手)
「5年経ちましたけれど
まだまだ復興に向けて時間は必要だというふうに思うので
震災があったことは風化させてはいけないと思いますし
自分自身のプレーする姿を楽しみにしてくださっている方がいればとても光栄だと思いますけれども
そういった方々のためにも
活躍している姿
いいニュースをそういった方々に届けられるように
しっかりと頑張っていきたいと思います。」
3月10日 キャッチ!
好調な経済成長のもと活気あふれるベトナムの街並み。
人々の普段の食事に欠かせないのが路上の屋台である。
日本でもおなじみのフォーなど安くておいしい料理の数々が手軽に楽しめることから
ベトナムの人々の生活に深く根付いている。
一方ここ数年は高価な和食レストランも急増。
ホーチミン市内には400店以上が出店している。
用意されたメニューも定番の刺身やてんぷら、うな重など
その豊富さにまるで日本にいるかのような錯覚を覚える。
健康志向の高まりもあり
ベトナムではいま和食を好む人が増えている。
週末ともなれば人気の店は家族連れなどでごった返す。
(客)
「我が家では月に3~4回は和食を食べていますよ。
ほかの料理と違って油分も少なく健康に良いですね。」
ベトナムの食文化に浸透し始めた和食だが
現地の一般的な料理と比べて価格は4~5倍とまだまだ割高である。
こうしたなか和食を代表する寿司を低価格で提供する屋台が注目されている。
一般的な和食レストランの半額ほどで寿司が食べられるとあって
若い世代を中心に人気を集めている。
グエン・ホン・リンさん(43)は市内の一角で屋台のすし店を開いている。
20年以上市内の和食レストランで板前として腕を磨いてきたリンさん。
客からの注文を受け手際よくすしを握っていく。
長年自分の店を持つことが夢だったリンさんは
和食の素晴らしさをより多くの人に味わってほしいと
3年前にベトナム人にも親しみのある屋台を始めた。
(すし店経営 グエン・ホン・リンさん)
「うちのすしは新鮮な魚と色鮮やかな野菜の組み合わせが売りなんです。」
リンさんのこだわりは新鮮なネタの提供。
毎朝精力的に市場や日本の食材店をまわって仕入れている。
さらにベトナムの人が飽きないようにメニューにも工夫。
すし以外にも鍋や焼き肉など和食専門店にも引けを取らない豊富なメニューである。
こうした工夫が受けてリンさんの屋台は多い時で300人ほどの客が訪れている。
(客)
「見た目もきれいでどれもおいしいわ。」
「開放的な店で路上に座って食べるのはまさにベトナム文化です。」
最近ではうわさを聞き付けた現地の日本人も訪れるようになっている。
(日本人客)
「ホーチミンにもいっぱい和食レストランがあるが
遜色ないほどおいしい。」
(すし店経営 グエン・ホン・リンさん)
「ベトナム人の和食への関心は高く
好んで食べる人は日々増えています。
豪華な和食レストランではなく路上ではあるけれど
日本の食文化を大切にする店を他の都市にも広げていきたいです。」
屋台で味わう本格的な日本の味。
ベトナムの食文化に新たな風を吹き込んでいる。
3月10日 キャッチ!
カンボジアのアンコール王朝の最盛期を築いたと言われる国王を描いた演劇
「ライ王のテラス」が3月4日から東京で上演されている。
宮本亜門さんの演出で
石造りの城塞アンコールトゥの建設にかけた王の苦悩と思いを舞台化している。
三島由紀夫最後の戯曲で50年ぶりの上演。
鈴木亮平さんが主演ということでも話題となっている。
三島由紀夫は1965年にカンボジアを訪れ
カンボジア最強の王として知られるジャヤー・ヴァルマン7世の栄枯盛衰の物語に魅せられて
この戯曲を4年かけて執筆した。
アンコール王朝の栄華を誇ったアンコール・トム。
その中心で異彩を放っているバイヨン寺院が作品の舞台である。
巨大な観世音菩薩を4面に掘りつけた仏塔が立ち並ぶ遺跡は
世界文化遺産にも登録されている。
主人公は12世紀末アンコール王朝最盛期を作り出した最強の王ジャヤー・バルマン7世。
長い戦いに勝利しその宴席
王は「カンボジアの勝利と平和は御仏と民のおかげだ」と語る。
そして感謝のしるしとして巨大なバイヨン寺院の建設を決める。
寺院の建設は進んでいくが王はライ病により衰えていくというストーリーである。
王の病は日増しに悪化。
若く美しく強靭な肉体は徐々に崩壊していく。
そしてついに寺院は落成の日を迎える。
(宮本亜門さん)
「大学のときからこの作品を誰が上演してくれないかという思いから
自分が演出したいと思っていた。
やっと上演できて幸せです。
バイヨンの天空にそびえる塔を見たときエネルギーに圧倒されて
なんと美しい王国だと。
現世には無いような空間だった。」
宮本亜門さんは東洋人初の演出かとしてブロードウェイで「太平洋序曲」を上演するなど
これまでミュージカル、歌舞伎、オペラなど
ジャンルを超える演出家として内外で高い評価を受けてきた。
いまアジアを題材とした三島由紀夫の戯曲を手掛けることには特別な思い入れがあるという。
三島由紀夫が何を感じ何を考えたのかを知るために
宮本亜門さんは30年近く前にアンコール遺跡を訪問。
そして今回の公演のために去年バイヨン寺院を再訪した。
(宮本亜門さん)
「この作品が書かれたのは安保闘争の大変なときだった。
不安に満ちたときだったと思う。
三島由紀夫は人間として生きるとは死ぬとは
そして自分は何を軸に生きるか
思想なのか、企てること、作ること
そうではなくて生きているということを大事にしたいのか。
日本が揺れ動くときに自分は感じたかったし
観客にも何かを感じてほしいという思いがあったんだと思う。」
今回の舞台では日本人キャストとともに
カンボジアでオーディションを行い
伝統文化を継承するカンボジアのアーティストたちも参加している。
1970年代ポル・ポト政権下の処刑や強制労働で
都市部の市民や知識人を中心に150万ともいわれるカンボジア人が死亡。
舞踊家や楽師も多くが命を失ったのである。
作品中の舞踊は宮本亜門さんと打ち合わせを重ね
今回の作品のために共同で作り上げた。
(舞踊家 コン・チャンシナーさん)
「ポル・ポト以前の芸術文化は素晴らしいものでした。
しかしポル・ポト時代に衰退しました。」
(舞踊家 コン・チャン・シッティカーさん)
「運よく何人かの先生が生き残り
次の世代を教え
その世代が先生になり私たちを指導してくださった。」
(舞踊家 ジュムワン・ソダージィヴィーさん)
「カンボジアの独自性として
若い世代は文化継承の義務があります。」
(宮本亜門さん)
「時代を超えて人は自問自答を常にしている。
生きるとは死ぬとは何を大切にして生きるかということを
王も現代人の考えた。
いま混沌とした時代だからこそ三島の考え方に会わせたかった。
世界で最も大きな観光地になろうとしているバイヨンは
王の精神を受け継いできているのか。
観客に投げかけたい。」
3月10日 おはよう日本
福島第一原子力発電所から約20kmにあるJヴィレッジ。
Jヴィレッジは日本サッカー強化の拠点で
2006年のW杯直前には日本代表の合宿が行われ
多くのファンが訪れた。
しかし現在は原発の廃炉作業拠点として使われている。
この場所で震災前も今もシェフとして料理をふるまっているのが西芳照さん。
現在は原発の廃炉作業を行う人たちのために食事を提供している。
震災前は合宿を行う日本代表に料理を出していた西さん。
その腕が認められ
3大会連続でW杯に同行した。
震災から5年
今なお元に戻っていない現状にもどかしさを感じるという。
(西芳照さん)
「信じられないような光景になっている。
なんとも言えない気持ち。」
西さんは福島県の沿岸部 南相馬市出身。
地元は被災し
さらに親友も亡くした。
生きている自分にできることは何か。
一時東京に避難したもののすぐにJヴィレッジに戻り働き始めた。
(西芳照さん)
「18歳まで福島の南相馬市小高でお世話になって
35歳から50歳までJヴィレッジにお世話になった。
ここに戻ってきて何かしら役に立つことをすることが僕の使命。」
震災後から着るようになったユニフォームの背中には復興の願いを込め「DREAM」と刻んだ。
震災後に資産は地元のイベントに積極的に参加した。
Jヴィレッジの真の復興には周辺地域に活力を戻すことが欠かせないと考えたのである。
地元のもち米を使うなど地元産の食材にこだわった。
さらに地域を盛り上げようと
3月5日 Jヴィレッジ近くに新たな飲食店をオープンさせた。
親交のある代表選手や元監督からお祝いの花も届いた。
この日店には西さんの予想を上回る450人が訪れ盛況となった。
「日本代表のシェフが作ったからおいしい。」
できることをひとつひとつ積み重ねる。
西さんはそれを胸に刻みJヴィレッジが再開する日を待つ。
(西芳照さん)
「ここが再開すれば近隣の人たちもやっと以前のような生活に戻れる。
そのときにみんなでここにいて
オープンの喜びとか再開した喜びを分かち合いたい。」
Jヴィレッジは2019年4月の全面再開を目指し
翌年の東京オリンピックでは日本代表が事前合宿で使う見通しである。
3月5日 おはよう日本
思い思いにレコードを楽しむ人たち。
誰でも気軽に懐かしの音楽を聴くことが出来るレコードサロンである。
「古いレコードだから
針を上げたときのあの感触がなんとも言えない。」
「1回来るとはまっちゃって来るのが楽しみになてくる。」
山形県天童市の中心部にある市民文化会館。
その一角にあるのが天童レコードサロンである。
市が運営しているこの場所では約2万枚のレコードを無料で聴くことが出来る。
レコードサロンを管理する菅野昭義さん。
音響機器を製造する企業を定年後
レコードの知識をかわれ4年前からここで働いている。
(天童レコードサロン管理人 菅野昭義さん)
「音が自然であること
音に温かみがあることがレコード音楽の良さだと思う。」
宝探しのように懐かしの1曲を求める人たち。
口コミなどで常連が増え
レコード好きが集う憩いの場所になった。
選んだレコードは菅野さんの手によって順番に再生される。
レコードにはリクエストした人たちそれぞれの忘れられない思い出が詰まっている。
♪ 女の港 大月みやこ
佐藤のり子さんが26年前に発表会で3,000人を前に歌った記憶。
「足がガタガタ震えた思い出がある。
私も若かったので声にも張りがあったと思う。」
♪ 愛と青春の旅立ち ジョー・コッカー&ジェニファー・ウォーンズ
五十嵐宏さんの若かりしころの失恋の思い出。
「悲しいものでも自分の思い出。
今となってはいい思い出なんでしょうね、きっと。
青春の1ページとしてこれがあったというのを思い出したい。」
(天童市レコードサロン管理人 菅野昭義さん)
「思い出の曲を聴くと昔のことがよみがえる。
すごく癒しの空間という形にもなるし
それが音楽の持つ良さではないかと思う。」
菅野さんはある場所に向かった。
同行するのはかつて住んでいた家に眠るレコードを寄贈したいと
菅野さんに連絡をしてきた沼澤伝寿郎さん。
沼澤さんがかつて暮らしていた家は雪で1階部分が埋まっていた。
2人で懸命に雪を掘り起こす。
雪かきをすること約1時間。
ようやく室内に入ることができた。
室内には段ボールやケースにまとめられたレコードがきれいな状態で見つかった。
(沼澤伝寿郎さん)
「懐かしいなあ。
おれが歌ったやつだからよ。」
菅野さんはその足で沼澤さんをレコードサロンに誘った。
♪ 東京の灯よ いつまでも 新川二郎
20代のころ町内の文化祭で歌い1位になった曲。
「おかげさまでいい目に合わせてもらった。
このままだまって捨てられてしまったら終わりだからね。
このレコードも。」
(天童市レコードサロン管理人 菅野昭義さん)
「レコードをいただいただけじゃなくて
沼澤さんの思い出も一緒にいただいて
こちらにレコードとして展示出来ることが本当にありがたいことだなと思います。」
思い出がよみがえるレコード。
懐かしの音楽に包まれた場所である。