9月10日 経済フロントライン
いま都心に住む若い夫婦を中心に住まいに対する価値観が大きく変わってきている。
家族向けのマンションといえば
これまでは70~80㎡が主流といわれてきた。
ところがいま都心では50㎡前後という
やや小さめの
いわゆる“コンパクトマンション”が人気を集めている。
東京目黒区の住宅街。
不動産関連の会社に勤める西村一宏さん(39)。
妻と小さい子供の3人家族。
子供の誕生をきっかけに48㎡のマンションを購入した。
間取りは1ルーム。
西村さん夫婦は共働きである。
購入の決め手は会社までの近さだった。
夫の一宏さんの職場までは歩いて5分である。
(西村一宏さん)
「支度は職場から近いのが最優先。
子育てをしているが仕事が不規則なので
保育園の送り迎えはなるべくやりたい。」
子育て中の夫婦を中心に広がるコンパクトマンション志向。
利便性に加えて住宅に対する意識の変化があると
専門家は指摘する。
(住宅専門誌「スーモ」 池本洋一編集長)
「不動産を“一生もの”と捉えなくなった。
自分たちのライフスタイルに合わなくなったら
貸したり売ったりすればいい。
立地のいいところであればかなうと
消費者もだいぶ勉強している。
その新しい価値観が“買っちゃえ”という後押しになっている。」
こうした意識の変化に対応して
不動産会社もコンパクトマンションの販売を強化している。
8月に売り出した中野区のマンション。
中心は56㎡で価格は6,000万円台の物件である。
家族でも住めるような間取りである。
(三菱地所レジデンス 城西事業部 永田純也グループ長)
「マンション価格が上昇傾向なので
よりコンパクトにして価格も手ごろに。」
コンパクトマンションの人気に目をつけ
新たな商品開発に乗り出す企業もある。
都市部の限られた空間に住む人のために補強されたのは
テーブルやソファーなど
これまでもリビングにあったものの新しい使い方である。
家具メーカー イケアのコンセプトは
“限られた空間のマルチユース”。
1人がけソファーはベッドに早変わり。
リビングを寝室として使うことができる。
一方 作業机は天板を乗せるとダイニングテーブルに。
仕事や読書、食事にも使える。
開発担当者は聞きとり調査を続けている。
都心のコンパクトマンションに住む家族を訪ね
さらに細かいニーズをつかもうとしている。
「こちらの部屋で困っていることは?」
「ベッドサイドテーブルがない。」
(イケア・ジャパン ヘレン・フォン・ライス社長)
「小さなスペースの暮らしに多機能な家具を提供できれば
我々は成長できるでしょう。」
リフォームなどをすることもなく間取りを変えられる商品も登場している。
部屋の中に作る“小屋”。
部屋を貸したり売ったりするときに
手軽に元の間取りに戻せるメリットもある。
(SuMiKa商品開発 名取良樹さん)
「リビングにある程度プライベートスペースを確保しようと
都心の狭小マンションで今後ニーズは増えてくると思う。」
I9月10日 経済フロントライン
2,000以上の町工場が集まる東京江戸川区。
3つの中小企業の間で工場同士をITでつなぐための議論が行われた。
「つながる町工場プロジェクト」
互いの作業状況を見える化し
1つの工場のように運用しようとしているのである。
参加したのは
溶接 ステンレス加工 可動部品の製造を行う会社である。
例えば3社が共同で流れ作業をすれば
これまでは前の工場が遅れると次の工場の作業が止まり時間のロスが生じていた。
計画しているシステムには
それぞれの作業状況をクラウドで管理
リアルタイムで把握できるので無駄を省いて進めることができる。
「ITの世の中だから
現場同士がしたことがそのまま実情がガラス張りになる。」
「今までは進捗状況を隠し合うというか
見せないことが自分たちに有利に働いていた時代が長かった。
このシステムはそれを全部消してくれる。」
システムが完成すれば
自分たちだけで新たな製品を開発することが可能になる。
高さを自由に変えられる台車など試作品作りも始まっている。
「僕らは3つで1つの工場みたいな感じ。
それがどんどん増えていくとものづくりのやり方が変わってくる。」
(今野製作所 社長 今野浩好さん)
「得意なことを持ち寄ることでおのずと幅が広がる。
ただ足し算ではなくて相乗効果。
できなかったことができる
作れなかったものが作れる。」
3社のうちの1つ
溶接を手掛ける町工場。
これまでは大手メーカーから仕事を受注するだけだった。
新たなシステムが完成すれば
下請けの枠にとどまらない事業展開が期待できる。
将来的には遠く離れた工場とつながることも夢ではない。
(エー・アイ・エス 社長 石岡和紘さん)
「町工場は決まった仕事だけやっていればいいわけではない。
非常に期待を寄せている。」
9月10日 経済フロントライン
徳島県小松島市。
ここにはITで幅広い顧客のニーズに対応している工場がある。
マンション用のドアを主に製造するメーカー。
年間10万種類もの製品を260人の従業員で生産している。
最大の特徴はオーダーメイドのドアを安い価格で作ることである。
工場の頭脳はサーバー。
人間に代わって生産計画を立てていく。
全国から寄せられるドアの注文。
コンピューターが図面を読み込み
最も効率的な工程と作業時間をはじき出す。
PT=ピッチタイムと呼ばれる数値は
1つの工程を1,7分で行うことを表している。
従業員が1,7分で組み立てを終えれば
製造ラインがスムーズに流れる仕組みである。
コンピューターは各工程のピッチタイムを足し合わせ
ラインごとに最適な作業の割り振りを行う。
ラインの能力をフルに発揮することができ
製造コストを大幅に下げることで成功した。
以前 この会社は限られた種類のドアを大量生産していた。
今はオーダーメイドのドアを量産品並みの価格で生産。
きめ細かい顧客のニーズに応えることができるようになった。
(二ホンフラッシュ 社長 高橋栄二さん)
「大手の装置産業に負けないくらいの仕組みはできている。
同じサービス
同じ売り方をすれば大手に絶対負ける。
システムの威力だと思う。」
9月10日 経済フロントライン
IIと人工知能などを組み合わせるこどで生産性を飛躍的に向上させる第4の産業革命。
(安倍首相)
「第4の産業革命を実演させたい。」
18世紀
蒸気機関の登場で始まった第一次産業革命。
20世紀初頭
電力の普及が引き起こした第二次産業革命。
そして1970年代
コンピューターが世界を一新させた第三次産業革命。
それに続く大きな波が
日本のものづくりの現場を変えようとしている。
第4の産業革命でどんなものづくりが実現するのか。
スマート工場
蓄積したデータから人工知能が自動的に最適な製造を選択するようになったり
マス カスタマイゼーション(個別大量生産)
生産性が高まることで
オーダーメードの製品でも大量生産品並みのコストで製造できるようになる。
ITの活用によって
複雑で難しい作業を誰でもできるようにした工場がある。
北海道北広島市にある従業員80人の金属部品メーカー。
鉄道車両やスマートフォンなど大小さまざまな金属部品を製造していた。
現場の従業員の平均年齢は20代後半。
以前なら高い技術を身につけるには長い年月が必要だった。
しかしこの会社では新米でも即戦力である。
入社1年半の従業員が作っているのはスピーカー用のステンレス製部品。
様々な角度に折り曲げていく。
作業の強い味方がタッチパネル。
いわば電子マニュアルである。
金属を折り曲げる順番
そして機械に差し込む方法や長さなどを細かく指示している。
そのデータは熟練の職人たちの経験を蓄積し
はじき出された。
従業員は機械の指示どうりに金属板を差し込むだけで
寸分たがわず最適な加工ができた。
熟練の職人でも数時間かかった作業が
今は誰でもわずか数分でできるのである。
ワールド山内 社長の山内雄矢さん。
このシステムを導入したのは8年前。
熟練工が次々と退職し人口減少が進むなか
技術を継承しようと考えたのである。
金属の加工で特に難しいのは
同じ力を加えても種類によって曲がり具合が異なることである。
どこに穴をあければ一番ゆがみが少ないかなど
10万のサンプルで試験を重ねた。
そのデータに加え日々の作業によるデータも蓄積。
加工の精度は上がり続けている。
生産量は飛躍的に向上し
売り上げはこの5年で倍増した。
(ワールド山内 社長 山内雄矢さん)
「データが全部仕組みとして作られているので
3年後 5年後 10年後 20年後も同じことが出来る。
データは大事な財産であり大事な部分。
もっとものづくりの差別化をしていく。」
9月10日 キャッチ!
ニューチーク ブルックリンの一角にあるこだわりの酒屋。
店には小さなメーカーが丁寧に作ったお酒が並んでいる。
そのなかで最近品ぞろえを増やしているのが
ハチミツで作ったお酒 ミードmead。
店のオーナーのおすすめは野の花から採ったハチミツで作ったミードである。
「野の花の甘い香りがする。
その甘みはすっと消えていく。
とても甘口ですね。」
この数年 ミードの売り上げは年々40%伸びている。
作り手の数も4倍に増え
メディアも頻繁に取り上げるようになった。
8月 ニューヨークで初めてミード・バーもオープンした。
店には毎晩新しもの好きのニューヨーカーが押しかけている。
店を起ち上げたラファエル・ライオンさんは
ミードブームの仕掛け人の1人である。
(ラファエル・ライオンさん)
「世界最高のミードを提供したい。
ミードはハーブや果物と相性がいいから
いろんな楽しみ方ができるんだ。」
この店で出すミードはすべてラファエルさんの手づくりである。
甘口から辛口までさまざまなタイプをそろえた。
シャンパンスタイルの発泡性ミードも人気がある。
こうしたミードはラファエルさんは市内から車で2時間ほどの農場で作っている。
作り方はワインとほぼ同じ。
熟成期間は3か月~半年である。
原料のハチミツは近所の農家が生産するローカルのものを使っている。
古代エジプトでも飲まれていたミード。
9千年の歴史を持つといわれている。
中世の絵画にもミードが描かれている。
ところがブドウなどに比べ原料が高価だったため
その後大量に流通することはなかった。
そんなミードが脚光を浴びるようになったのは
ラファエルさん独自の工夫があった。
農場に自生する草花でミードに香りをつけることにしたのである。
他の酒には無い独特な味わいに仕上げた。
(ラファエル・ライオンさん)
「このミードは夏の終わりを記録したもの。
美味しくでき上がればまた来年も挑戦する。
そのときはもっとたくさん作るよ。」
ラファエルさんは自らが起ち上げたバーで新鮮なミードを味わってもらうことにした。
店の評判は口コミで広がっている。
(客)
「ミード作りには物語があって素敵ね。
野草探しもとても興味深いわ。」
「とてもおいしいね!
お酒の楽しみ方が広がったよ。」
9月9日 キャッチ!
クマノミ、ナンヨウハギ、アマノガワテンジクダイ
フランスの水族館の人気者である。
子どもも大人も夢中になっている。
フランスには観賞魚が3千万匹いるとされていて
ある調査によれば8%の家庭に水槽があるということである。
魚はインターネットでも買えるが
愛好家の多くは専門店で購入する。
そこでは珍しい魚が高値で売られている。
(客)
「全部ほしいよ。」
「きれいだしいいムードだわ。」
魚の主な捕獲場所はフランスから遠く離れたインドネシアとフィリピンの海である。
ここでは漁師が禁止された手法で魚を捕獲している。
ダイバーが持つボトルには
水とシアン化合物を混ぜた毒薬が入っていて魚に振りかける。
魚は酔ったようになり
文字通りダイバーの手の中に落ちてくる。
この手法だと網を使うより何倍も魚が獲れるが
環境に甚大な悪影響を及ぼすと専門家は言う。
(ホルト・ドレ熱帯水族館 ドミニク・デュシュさん)
「1匹捕まえるのに1㎡位のサンゴが死滅することになります。
サンゴ礁は二酸化炭素を吸収し
生物多様性の保持に役立っています。
生態系を守ることはすべての生き物にとって重要なことです。」
この40年で約1,000トンのシアン化合物がサンゴ礁にまき散らされたと言われている。
しかしこの手法を使わずとも魚は捕獲できる。
パリに住むファブリス・オルタンさんは毎月2,000匹の観賞魚を輸入している。
主にインドネシアからだが別の国からも輸入する。
オルタンさんは魚の歩格方法を確認するため
毎年9か月ほどインドネシアで過ごす。
ダイバーと一緒に潜って品質をチェック。
ダイバーは手に持った網に魚を追い込んでいる。
認められている唯一の捕獲手法で
シアン化合物は一切使っていない。
(観賞魚 輸入業者 ファブリス・オルタンさん)
「ネットワークを作り捕獲業者から信頼できる方法で仕入れてます。
ベストな状態で捕獲された魚を入手しています。」
しかしこのようなルールをすべての輸入業者が行っているとはいえない。
サンゴを保護するためには養殖魚だけを買うのが好ましい、と
環境保護団体は言う。
クマノミやテンジクダイはヨーロッパで養殖されているが
愛好家が好む1,500種のうち10種にすぎない。
アメリカの環境保護団体などによる調査では
全米各地のペットショップで購入した89匹の熱帯魚のうち
半数以上からシアン化合物の陽性反応が出たということである。
(関西学院大学 文学部 田和正孝教授)
「1990年代後半と2000年代初頭に
インドネシアのスラウェシ島沖合の島々で漁業生活・漁村を見る機会を持った。
そのときも“魚毒”の問題が支配的だった。
大きな原因は小規模な生産者や貧困漁業者層が多数存在すること。
サンゴ礁島で水も得にくく農業は出来ないような小さな島々で
仕事としてはやはり漁業しかない。
漁船や魚網を持てない漁業者たちが大量に価格の良いものをとるため
シアン化合物などを使用し魚を捕り
たいへん価格が良い。
サンゴ礁や小動物などを痛めつけ殺してしまうようなことにつながる。
失うものがとても多い。
生物学者や海洋生態学者などが報告をして
我々も知っていかなければならない。」
日本観賞魚振興事業協同組合によると
日本でも1990年代には
毒物で捕獲されたとみられる熱帯魚が多く輸入されていたが
明らかに弱っていて数日で死んでしまう魚も多かったため
こうした魚を扱う現地の業者とは取引しなくなった。
現在ではほとんどないということである。
9月7日 キャッチ!
イスラム教徒にとって大切な毎日の礼拝。
特に金曜日の昼間は皆でモスクに集まり神に祈りをささげる。
そして人々はイマームと呼ばれる宗教指導者の説教に熱心に耳を傾ける。
説教のテーマは
宗教上の戒めから日常生活の過ごし方まで
多岐にわたる。
装いを清潔に保つことを神も推奨しています
人々は知識と経験に裏打ちされたイマームの一言一言を胸に刻み
それを精神的な支えとして日々の暮らしを送っている。
しかしエジプトでは最近この見慣れた光景も異変が起きている。
イマームが手元の紙を見ながら説教をするようになったのである。
その理由とは・・・。
エジプト政府は今年7月
説教の内容を統一することを決定。
毎週 説教のテーマとテキストを発表し
全国のイマームたちに一律同じ話をさせることにした。
清潔さこそ教養ある人間のふるまい
テロと汚職に反対
背景には
2年前のアラブの春による混乱が広がって以降
エジプトで相次ぐようになったテロの発生がある。
一部のイマームたちがモスクを拠点に過激な思想を広めていると見た政府は
説教の内容によっては度々イマームたちを拘束してきた。
しかし事態は一向に改善されないため
説教の内容自体を統制することにしたのである。
エジプトのモスクには政府所属のイマームがいる。
彼らの多くは政府の統制に従った。
(政府所属 イマーム アデル・マラギ師)
「統一された説教は正しいやり方です。
国を混乱させる過激思想と戦うにはとても大きな影響力を持ちます。
もっと早く導入すべきだったと思います。」
しかしモスクに通っている信者の受け止め方は様々である。
(信者)
「説教の統一は過激思想を遠ざけます。」
「地域ごとに問題も違うので
地域に応じた説教をすべきです。」
エジプトのモスクには政府から派遣されているイマームの他に
アズハルと呼ばれる宗教機関から派遣されているイマームがいる。
イスラム教スンニ派が最高権威とするアズハルは
政府の統制に真っ向から反発。
傘下のイマームたちも一斉に反対の声を挙げた。
その1人 アズハル所属イマームのラビア・ガフェル師。
大学でイスラム教について教える傍ら
モスクでイマームを務めてきた。
日々 市民との対話や新聞やテレビのニュースをヒントに
何を伝えるべきなのか考え
今も説教のテーマや中身は自分で決めている。
イマームは経験に基づき自らの言葉で伝えなければ
メッセージの力は失われてしまうと心配している。
(アズハル所属 イマーム ラビア・ガフェル師)
「用意された説教を読むのではイマームが意欲や想像力を失い
説教にも訴求力が無くなります。」
信者の中には
説教が統制され魅力を失えば
逆に過激派に付け入るスキを与えてしまうと懸念する人もいる。
ホサム・ムハンマドさんは中学校の教師として
また3人の子どもの親として
若い世代にインターネットやスマートフォンが急速に普及する現状を見てきた。
(中学校教員 ホサム・ムハンマドさん)
「子どもたちが何を見てもやめさせることはできません。
過激派が子どもたちに思想を植え付けるのも簡単なのです。」
ホサムさんの子どもたちは毎日自分たちだけでパソコンを使っている。
(長男 アブデルモネム君 13歳)
「インターネットではどんなゲームやビデオも楽しめます。
お父さんがいない時は見たいものが何でも見られるよ。」
インターネットの利用を通じて
誰もが過激な思想に触れる可能性がある以上
対抗するには
今こそより説得力のある説教が必要だとホサムさんは考える。
(中学校教員 ホサム・ムハンマドさん)
「政府が書いた説教では解決になりません。
修業を積んだイマームの話の方がテロと戦う上では効果的で
みな言うことに従うでしょう。」
政府もここまで大きな反発を招くとは予想していなかったと思われる。
真っ先に反対の声を上げた宗教機関のアズハル
トップは大統領が任命することになっていて
ある程度政府の影響下にある。
にもかかわらず強硬な姿勢を見せているのは
宗教活動の根幹にかかわる問題だと認識しているからである。
一方 治安の安泰を最優先課題と考える政府としては
相次ぐテロに対し手をこまねいているわけにはいかないという切実な事情がある。
刑務所に収容されている受刑者の間で
過激派のリクルートが行われている可能性が指摘されている。
これに対してエジプト政府は
他の受刑者に影響を及ぼしそうな受刑者は独房に移すという対策をとっているが
受刑者それぞれの思想を完全に把握することは難しい。
さらに深刻なのがインターネットによる過激思想の浸透である。
当局も掲示板などへの書き込みを監視しているが
サイバー空間での活動を完全に把握するのは不可能に近い。
このためできることとして手を付けたのが
モスクでの説教に対する規制だったのである。
これまでも
過激思想を抑えるために宗教を力で抑え込むという方法は多くの国でとられてきた。
しかし抑え込めば抑え込むほど反発が強まり
過激化が進むというのがその教訓である。
一方で過激思想に若者が引きつけられていく背景には
教育を受けても仕事に就けず生かす場所がない
未来に希望が持てない、
といった経済的な苦境や
これを放置してきた政府への不満があるという指摘もある。
ただ経済状況の改善には長い時間がかかるうえ
状況が改善すれば過激派が必ず防げるという保証もない。
テロへの対処
若者の過激化の防止という課題は
いまやイスラム教徒を大きく変える
エジプトなどの国々だけでなく世界全体の課題と言え
国際社会としての取り組みが求められる。
9月7日 おはよう日本
中国南部にある広東省広州。
気温は連日30度を超え
厳しい暑さが続いている。
古い住宅が立ち並ぶ地区で
暑気払いのお茶が売れらている。
“涼茶”と呼ばれているが冷たいものではない。
1杯 約50円。
体から余分な熱を取り除き
調子を整える効果があるとされている。
10年前には国の無形文化遺産にも認定され
街の人たちからも愛されているお茶である。
「体調を整えるために涼茶を飲みます。
広州ではこうやって定期的に飲むんです。」
葉桂妹さん(71)は90年続く涼茶の老舗を守ってきた。
何種類もの薬草を煮だしてお茶を作る作業を毎日続けている。
「この薬草は腎臓にいいんです。」
70歳を過ぎた今でも店頭に立ち
地元の人たちの相談にものっている。
「体の調子はどう?」
「口内炎ができてしまいました。」
「体の中に熱がこもっているのが原因。
涼茶を飲めば治りますよ。
茶の成分が炎症を抑えてくれるんです。」
苦い味を敬遠する若者が涼茶を飲まなくなり
売り上げが年々落ち込んでいるが
それでも1日に300杯は売れるという。
地元の人たちの健康づくりになくてはならない存在である。
(葉桂妹さん)
「地元の人たちに愛されてきた涼茶を
これからも守っていきたい。」
若い人たちにも飲んでもらえるよう苦味を抑えた涼茶も開発中で
時代に合わせた取り組みを行っている。
涼茶の専門店はかつては大通りに何軒も軒を連ねていたそうだが
最近では清涼飲料水などが好まれるようになって
店じまいするところが増えているという。
9月6日 首都圏ネットワーク
オリンピックでメダリストに送られる花束ビクトリーブーケ。
大会ごとの特徴がある。
アテネオリンピックで贈られたのは
平和を象徴するオリーブのブーケだった。
バンクーバーオリンピックでは緑のブーケ。
カナダで失業中の女性たちが作ったものである。
“未来への希望を持ってほしい”という願いが込められている。
8月 江東区でビクトリーブーケのデザインを競うコンテストが開かれた。
テーマは
“東京オリンピック・パラリンピックでメダリストに贈るブーケ”。
「東京大会でブーケが採用されたときデザイン関わりたい」
と考える個人や業者から100点超の応募があった。
東京オリンピックのエンブレムに使わrている市松模様をモチーフにしたもの
菊を使ったブーケなど
1つ1つに作った人の思いが込められている。
(来場者)
「日本的な花を使うといい。」
「オリンピックのイメージがどんどん身近になる。
今度の東京オリンピックが楽しみ。」
コンテストに特別な気持ちで臨んだ人がいる。
森田義男さん(44)。
団結を意味する“ユニオン”と作品を出品した。
(森田義男さん)
「選手が主役なので
花を添える気持ちで。
自分がデザインしたビクトリーブーケが同じ場所にあったら
すごい喜びだろうなあと思う。」
森田さんの作業の現場は都内の福祉作業所。
発達障害や知的障害の人たちの自立を支援するために
花のアレンジメントを教えている全国でも珍しい施設である。
(施設の利用者)
「楽しい 癒される心が。」
「うまくできた。」
この作業所では
障害者に励みにしてほしい、と
東京オリンピック・パラリンピックのビクトリーブーケを作ることを目標にしている。
森田さんに取っても大きな目標である、
森田さんは6年前に脳卒中で倒れた。
今も記憶障害があり
ブーケ作りはたやすい作業ではない。
ブーケ作りではまず長さの違う花を同じ長さに切ってそろえる。
しかし1本の花を切るのに集中してしまうと
しなくてはいけない作業を忘れてしまう。
作業を忘れる度に指摘を受けながらも
必死で取り組む森田さん。
そこにはある理由があった。
妻 佳子さんの存在である。
病に倒れて以来ずっと支えてくれた。
その佳子さんに少しでも自立した姿を見せたいと考えている。
(森田義男さん)
「ここまで回復したんだというアピールになる。
ビクトリーブーケを作ることで感謝を伝えたい。」
コンテスト前日
森田さんは出品するビクトリーブーケの制作に取り組んだ。
マリーゴールドの花を金メダルに見立てたブーケである。
しかし1つのことに集中してしまうあまり次の作業を忘れてしまい
花を組んでいくことができない。
作業を始めて6時間
ようやくブーケが完成した。
(森田義男さん)
「苦労した分いい経験になった。」
コンテストの当日
森田さんは妻の佳子さんを会場に招いた。
“ユニオン”と名付けたブーケ。
妻が教えてくれた助け合いの心が
世界に広がってほしいという願いが込められている。
(妻 佳子さん)
「歩くのもままならない時期もあったので
よくこんなことができるようになった。」
コンテストで森田さんは入賞することは出来なかった。
しかし森田さんが目指すのは4年後。
東京大会を彩るブーケ作りを目指して
花と向き合い続ける。
(森田義男さん)
「自国でオリンピックが開催されるなんて
生きているうちにあるかないかのチャンス。
自分の中の理想に近いものを作りたい。」
9月3日 経済フロントライン
カリフォルニア州ロサンゼルス郊外にある ホーソン空港。
アメリカでは
定額で飛行機が乗り放題になるビジネスが行われている。
カリフォルニア州で始まった世界で初のビジネス。
月額で約20万円払えば
州内13の空港を結ぶ定期便に何度でも乗ることが出来る。
頻繁に飛行機に乗る人にとっては
大手の航空会社を利用するより割安になるという。
予約も簡単。
スマホのアプリで日付を選び
出発・到着する空港を決めるだけ。
離陸の15分前までに空港に着けば搭乗することが出来る。
仕事などでこのサービスを良く利用する男性。
「おかげで半日の予定で会議に出られます。
移動が快適になり
時間も大いに節約できます。」
主な利用者は
シリコンバレーとロサンゼルスの間を往復するビジネスマンや弁護士など
会員は3,000人を超えた。
(サーフェア CEO ジェフ・ポッターさん)
「利用者が何を求めているのかを良くきけば成功し
成長を続けられます。
数か月以内にヨーロッパにも進出します。」
こうした定額ビジネスはアメリカで急速に広がっている。
(テレビCM)
「毎月1ドルで高品質のひげそりを自宅に届けるよ
そう たった1ドル!」
ひげそりの替え刃を定期的に届けるビジネス。
320万人が利用している。
他にも
月に6,000円払えば
好みの服やアクセサリーを1か月間身に付けることができるサービスなど
定額で利用するのがトレンドになっている。
今では定額ビジネスに参入する企業をサポートするビジネスまで現れた。
ズオラ社では
定額ビジネスにつきものの日割り料金の計算や
サービス内容の変更といった複雑な経理処理を自動で行うソフトを開発。
販売している。
顧客は世界最大手の半導体メーカーから
大手旅行サイト
老舗のメディアまで
800社にのぼる。
(ズオラ社 最高マーケティング責任者 デビッド・シーさん)
「消費者と企業の関係は劇的に変わり
モノは“所有”ではなく
“利用”するものになりました。
今後 ほぼ全てのビジネスが定額の要素を取り入れるでしょう。」
定額ビジネスの仕組みを取り入れることで
大きな成功をつかんだ人がいる。
ネバダ州リノで毛糸の販売店を経営する ザンダー夫妻。
奥さんの趣味だった編み物を仕事にしようと会社を作ったが
他者との差別化を模索していた。
そこで活路を見出したのが定額ビジネスだった。
(ローラ・ザンダーさん)
「これが今 販売数が伸びていて利益率も高い商品です。」
ザンダー夫妻が考えたのが
定額料金を払った人に
オリジナルの毛糸や編み方の手本などが入った袋を毎月届けるビジネスである。
中身は開けてみるまで分からない。
サプライズが手芸ファンを引きつけ
利用者が急増。
7,000人を超えた。
(利用者)
「何が届くのか
いつも楽しみなの。
これからも続けるわ。」
定額ビジネスの力で売り上げを大きく伸ばしたザンダー夫妻。
3年後には年間15億円まで増やしたいと考えている。
(ジミー・ビーンズ・ウール ローラ・ザンダーさん)
「定額ビジネスならより早く桁違いの顧客を獲得できます。
ものすごく可能性があると思います。
ワクワクしますね!」
9月1日 キャッチ!
イタリア北西部 地中海沿いに広がるチンクエテッレ(5つの土地)。
5つの集落が小さな入り江に点在。
青い海に映えるカラフルな家並みが特徴的である。
19世紀後半に鉄道が開通するまでは
船でしかアクセスできなかったこの地域。
古くから芸術家たちに愛され
特産のワインはその希少さから重宝がられたという。
チンクエテッレは1997年にユネスコ世界遺産に登録された。
しかし1000年以上にわたって続いてきた素朴なたたずまいが
いま異変に見舞われている。
集落の1つ
人口300万人ほどのマナローラ地区。
毎朝 観光客が大挙して押し寄せる。
町のメインストリートは大勢の観光客で占拠されている状態である。
港から細い路地まで
あっという間に人であふれかえってしまう。
このような事態になったのは
近年 近くの町の大きな港に
多い時で6,000人を乗せた大型クルーズ船が寄港し始めたからである。
チンクエテッレを訪れた観光客の数は
今年7月までで去年より20%増加。
地元住民の生活にも大きな影響が出ている。
アレッサンドロ・クロバーラさんは先祖代々のブドウ畑を引き継いで
10年前からワインを生産している。
「以前は住民が家族みたいだったが
それが変わった。
今は皆が憩う場所さえないね。」
マナローラ地区の中心部にあるレストランの経営者 モニカ・アンドレオッティさん。
店はもともと住民の大切な憩いの場だったが
今は朝から夜まで観光客の対応に追われている。
(レストラン経営者 モニカ・アンドレオッティさん)
「忙しくて地元の人の相手もできません。
ゆとりがあった頃が懐かしいです。」
増加した観光客によって
昔ながらの生活ができなくなったマナドーラの人々。
大切にしてきた住民同士のつながりも保ちにくくなっている。
こうした状況になったからこそ
地元の人たちがより大切にしている行事がある。
毎年8月に行われる祭り「聖ロレンツォの日」である。
夜に始まる祭りに向けて
集落の老若男女が自ら集い
準備にいそしむ。
町の通りに飾るのは手作りの燈籠。
作業する住民の中にモニカさんの姿があった。
(レストラン経営者 モニカ・アンドレオッティさん)
「この祭りは観光ではなく住民のためのものです。
だから子どもから老人まで住民全員が手伝うのです。」
日が落ちると祭りの始まりである。
山の手の教会から聖人の像につき従う行進が
港に向けて町中をゆっくり進む。
行進とともに歩く人や
道路の脇で見守る人。
この日のために帰郷する人もいるという。
元々は宗教色の濃いこの行事。
今では地元の絆を確かめる機会になっている。
行進が店に差し掛かると
接客中のモニカさんも手を休め静かに行列を見守る。
祭りのクライマックスは港での花火。
色鮮やかに照らされる
夜空と海と美しい家並み。
住民たちは地区への誇りと愛着を新たにした。
(レストラン経営者 モニカ・アンドレオッティさん)
「大事な祭りの夜
行進や花火を見守るため
家族たちがこの地に集まります。
生活のため観光業も必要ですが
ここが私たちの居場所なのです。」
観光客の波にのみ込まれるチンクエテッレ。
住民たちは戸惑いながらも
自分たちの故郷を守ろうとしている。
9月1日 おはよう日本
料理を引き立てる可愛らしい梅の花。
食器のふちに描かれた色鮮やかな椿の花。
これらはすべて砥部焼の食器である。
人気の観光地 松山市の道後温泉にあるホテルのレストランで使われている。
(ホテルレストラン担当 町田均さん)
「特に女性には大変ご好評いただいております。
料理を食べて気になって食器を購入した方もいます。」
これらの作品を手掛けるのが
砥部焼の制作者集団「とべりて」である。
メンバーは女性7人。
3年半前に結成され
この道30年以上のベテラン絵付師から
教師から転身した作家まで
さまざまである。
週に1回 会合を開いて出てきたアイデアを作品作りに生かしている。
砥部焼の特徴と言えば藍色の素朴な模様。
200年以上の歴史を持ち
食器など日用品として広く人気がある。
ところが最近は大量生産された製品との競合などで販売が伸び病んでいる。
砥部焼を100年先まで残したい。
現状に危機感を持ったとべりての女性たちは
新しい発想が必要だと考えたのである。
(とべりて 白石久美さん)
「あんまり砥部焼に興味がない人にちょっと振り向いてもらいたい。
今まで砥部焼にかかわりのなかった世代にも響く作品かなと思う。」
とべりての作品の魅力は
女性ならではの視点を生かしたデザインと実用性にある。
例えば鮮やかなオレンジ色の花。
そして淡い青と白のコントラスト。
これまでの砥部焼にはあまりなかった色合いである。
絵柄も定番の唐草模様ではない。
食器だけではない。
「何気ない会話から生まれた作品もある?」
「あります。
女性向けの第一弾“カッサ”です。」
最近は体をほぐすのに使う若い女性に人気の“カッサ”を砥部焼で作った。
手のぬくもりが陶器に伝わり
肌触りもやさしい仕上がりになっている。
さらに愛媛県のキャラクターをかたどったピンバッジも開発。
幅広い世代の関心を呼んでいる。
伝統の良さを残しつつ
従来にない作品を全国に広げたいと考えている。
男性の砥部焼職人もとべりての挑戦を後押ししている。
(砥部焼職人 大西先さん)
「いろんなグループで集まると
1つのことをするのにもいろんなアイデアが出てくる。
女性が頑張っているのを見て
男性も新しいことにチャレンジしていけば
この砥部もうくゆくはまた
本当にいい時代が来るのではないかと思う。」
(とべりて 山田ひろみさん)
「時代に合ったものを女性とか若い人
やりたいと思う人がどんどんやっていっていろんな砥部焼がある。
お客様も
いろんなものがあるから楽しいって言って来てくれる産地になるのが一番。」
8月31日 キャッチ!
光は信じられないほど明るく
爆風で駅が壊れた。
建物の下敷きになり意識を失った。
長崎に原爆が投下された8月9日に合わせ
アメリカ ニューヨークで開かれた追悼集会。
あるアメリカ人女性が
生死の境をさまよった被爆者の生々しい証言を紹介した。
朗読したのは作家のスーザン・サザードさん。
これまで何度も長崎を訪れ
多くの被爆者の体験談に耳を傾けてきた。
(作家 スーザン・サザードさん)
「アメリカ人は原爆の被害についてあまり知らないし
理解もありません。
でもすべての国に取って重要な歴史です。」
なぜアメリカで被爆者の声を伝えようとするのか。
きっかけは30年前のある被爆者との出会いだった。
高校生の時 横浜に留学していた経験のあるサザードさんは
アメリカで被爆者が講演する際に通訳を頼まれた。
それまでは原爆や被爆者についてほとんど知らなかったという。
その時に出合った被爆者の谷口さん。
原爆が投下された当時 16歳だった谷口さんは
背中一面に大やけどを負い
瀕死の状態になり
3年7か月もの間入院を強いられた。
その後 自らの体験を語って
核兵器廃絶を求める運動の先頭に立ってきた。
そんな谷口さんの話にサザードさんは衝撃を受けた。
(作家 スーザン・サザードさん)
「被爆した時の少年の気持ちを想像すると
それは圧倒的だったでしょう。」
谷口さんの話を聞いて
「いつか被爆者の話を本にまとめて伝えたい」と考えたサザードさんは
2003年から長崎を訪れ
被爆者の証言を集めるようになった。
原爆が投下された当時 16歳だった永野悦子さんは
疎開していた妹と弟を長崎に呼び戻した時に被爆。
きょうだいを亡くした。
自分のせいで亡くなったという後悔をずっと抱えて生きてきた。
13歳だった吉田勝二さんは
被爆で顔にケロイドが残り
1年以上も人目を気にして外に出ることもできなかった。
その後 差別を受けながらも自らの体験を積極的に語り
核兵器廃絶を訴えながら
2010年 78歳の生涯を閉じた。
そしてまた自分の人生を変えた谷口さんと長崎で再会。
被爆当時の話だけでなく
その後の人生をどんな思いで生きてきたのか
詳しく話を聞いた。
長崎を訪問中にサザードさんが話を聞いた被爆者やその家族
そして専門家などの数は40人近くにのぼった。
(作家 スーザン・サザードさん)
「私たちが狭い視点で歴史を見ていたことに気付かされました。
被爆した後も人生は終わりません。
その後70年も続けていることを知ってもらいたい。」
サザードさんは被爆者たちの証言をもとに
去年 1冊の本を出版した。
「ナガサキ:核戦争後の人生」
取材と事実確認を慎重に進め
完成まで12年の歳月をかけた。
殺してくれ 殺してくれ
きょうだいの代わりに私が死ねばよかったと今も考える
アメリカではほとんど知られることのない被爆者の生の声と
彼らがたどった過酷な人生がつづられている。
サザードさんのもとには読者から数百もの感想が寄せられている。
日本はひきょうにもハワイを攻撃したのだから当然の報いだ
原爆のおかげで私は死なずに済んだ
これまでのアメリカの立場を代弁するような内容が見られる一方
寄せられた感想の4分の3が
原爆の悲惨さを初めて知ることができて良かった
被爆者の話を広め核廃絶を進めるべきだ
などといった好意的な反応だった。
本は反響を呼び
今年5月 綿密な調査に基づいたノンフィクション作品に与えられる
全米規模の賞であるJ.Anthony Lukas Prize Projecto賞を受賞。
5月のオバマ大統領の広島訪問に対する国民の反応を見ても
サザードさんは「少しずつアメリカ社会が変化してきたのではないか」
と感じたという。
(作家 スーザン・サザードさん)
「オバマ大統領の広島訪問後
多くの人が原爆について語るようになりました。
これまで被爆者について理解がありませんでした。
被爆者は歴史上 唯一の核攻撃を受けた人たちで
彼らの思いを1人でも多くのアメリカ人に届けたい。」
8月31日 おはよう日本
水深15mの海の中。
壊れた扇風機
欠けたティーカップ
海底に眠る震災の爪痕をめぐるダイビングツアー“復興ダイビング”である。
インストラクターの飯田紗世さん。
宮城県女川の海を案内している。
女川駅前に完成した商店街。
ここに飯田さんの働くショップがある。
(飯田紗世さん)
「魚が戻ってきている
復興してきている
海を感じてもらったりとか
お客さんがいらっしゃるときに合わせた
今の海の中を感じてもらえたらいい。」
女川町の隣の石巻市で生まれ育った飯田さん。
高校を卒業後会社に就職し女川町で働いていた。
ところが震災の津波で町の中心部は壊滅。
飯田さんの自宅も津波に襲われた。
片づけをしていた飯田さんががれきの中で見つけたのが
趣味だったダイビングの機材だった。
(飯田紗世さん)
「見つからなかったらダイビングやめようと思っていたので
これは潜れってことかと思った。」
ダイビングで被災地の役に立てないか。
そこで会社を退職。
プロの資格を取り
津波で流された物の回収作業を始めたのである。
(飯田紗世さん)
「震災がもうターニングポイントですね。
震災があって
海に潜るダイバーなのに
海に潜っていろんなものを探したりとか
行方不明の人を見つけたりとか
そういうことがただ普通に潜っているだけだとできなかったので。」
海の中には津波に流されたまま5年余が経過した車などが今も残されている。
流された住宅の窓枠
大切な人から送られたはがきのアルバムも見つかった。
拾いきれない思い出の品や生活の跡。
その一部でも見てもらうことで震災の記憶を伝えられないか。
そんな思いで取り組んだのが復興ダイビングだった。
ショップには週末を中心に全国各地からダイバーが訪れる。
この日は5人が参加した。
(参加した人)
「水中とかも復興というか震災のあとが見られるという話を聞いていたので
それを見たいと思った。」
飯田さんはまずダイビングの前に震災について説明している。
800人以上が犠牲になった当時の町の被害や
復興状況などについて
参加者からの質問に答えている。
そして沖合のダイビングポイントへ舟で向かう。
(飯田紗世さん)
「撤去しきれないものが残っていたりするので
水底とかよく見ると
茶碗があったりとか。」
水深15mほどのポイントに潜ることにした。
参加者が撮影した写真に
絡まった電線が写っていた。
漁業で使っていた網も津波で流されたものと思われる。
一方で 震災から5年余がたち
生き物も戻っていた。
(参加した人)
「大きな地震があったと身にしみて感じた。」
「まだそんなに変わってないんだなというのは実感した。」
がれきが撤去され
復興が進む被災地。
そんな今だからこそ
飯田さんは震災が色濃く残る被災地の海に来てほしいと思っている。
(飯田紗世さん)
「震災があったから
こういうものがまだあるということをわかっていただけるだけでもいいのかなと。
これからどんどん新しくなってくる町とか海を
その人自身の目で見て感じてもらえればいいと思う。」
この復興ダイビングは
がれきがたくさん残っている場所は危険なため
実際に見ることが出来るのは比較的撤去が進んだ安全な場所に限られるということである。
飯田さんは復興ダイビングに取り組む一方で
がれきの撤去も続けていて
繰り返し潜って被災地の海の変化も感じてほしい
と話していた。
9月7日 編集手帳
マドレーヌを紅茶にひたして口に含んだとき、
遠い幼年期の記憶が隅々までよみがえる。
全編を読みおおせたことのない身で口幅ったいが、
フランスの作家マルセル・プルーストの長い長い物語『失われた時を求めて』である。
当方が口にしていたのは卵かけご飯と麦茶だが、
記憶が突然よみがえる感触をささやかながら味わった。
3日前、
朝刊をひらいたときである。
殺風景な学生寮の一室。
よく通った定食屋のテーブル。
理髪店の待合席…。
ファンは皆それぞれに“両さん”と過ごした時間を、
場所を懐かしく思い出しているだろう。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が終わるという。
型破りな警察官・両津勘吉を主人公に、
秋本治さんが40年間にわたって「週刊少年ジャンプ」に連載してきた人気ギャグ漫画である。漫画誌にはとんとご無沙汰の身だが、
青春時代の古なじみであるあの愛すべき、
一本につながった太い眉に会えないと思うと、
やはりさみしいものがある。
17日発売の号が見納めという。
〈月光や遠のく人を銀色に〉(星野立子)。
飛び切り明るい人の別れにふさわしく、
その夜は満月である。