6月3日 経済フロントライン
外国人旅行者からの観光収入がGDPに占める割合(2015)は
日本 0,6%
アメリカ 1,4%
フランス 2,2%
タイ 12,3%
日本は観光でもうけそこなっていると言える状況である。
外国人述べ宿泊者数の割合(去年)が全国の1%にも満たない四国。
高松の旅行会社では
欧米などからの旅行者をなんとか呼び込もうとプラン作りを急いでいる。
ツアー企画の責任者 阿部友香さん。
遍路など
四国独自の文化を切り札にしようとしている。
(阿部友香さん)
「欧米の人は
スピリチュアル・ミステリアスな雰囲気や
わびさび的なところを喜ぶ。」
阿部さんがこの日向かったのは瀬戸内海に浮かぶ小豆島である。
ベルギーから招いた2人の旅行ジャーナリストに島をPRするためである。
やって来たのは日本人もあまり訪れることのない寺。
弘法大師空海が修行した場所とされ
1200年以上の歴史を持つ
西之瀧 龍水寺である。
金剛界曼荼羅・・・
胎蔵界曼荼羅・・・
突然の難解な話に戸惑うふたり。
続いて護摩行(ごまぎょう)の体験。
「デービッドさん
家内安全 御祈願のため御宝前に護摩供養。」
言葉はわからないものの
ありがたみは伝わったようである。
お焚き上げが始まるとふたりは炎をじっと見つめていた。
「これはいい体験。
旅行プランに組み込むべきよ。
住職のプライベートガイドに数十万払う人もいると思うわ。」
(あなぶトラベル 阿部友香さん)
「四国の魅力をもっと磨き上げる
選別してちゃんと案内する。
ふんばってやっていきたい。」
欧米人
なかでもお金と時間に余裕のある富裕層を呼び込もうという動きも加速している。
東京で開かれた旅行の商談会。
奈良県の担当者がアメリカの旅行会社に売り込んでいたのが
“世界遺産の貸し切りプラン”である。
(奈良県観光客担当者)
「神社全部を貸し切ることもできますよ。
お客様のために燈籠に灯をともします。」
春日大社を夜間貸し切りにし
貴族のような気分を味わってもらうというプラン。
価格は55万円から。
相撲発祥の地とされる奈良県葛城市での力士体験プログラム
1組10万円から参加することができる。
(奈良県 観光プロモーション課 阿部辰雄さん)
「これからお客様には何回も奈良を訪れてもらわないといけない。
それに耐えうるだけのたくさん体験がある奈良を目指したい。」
6月3日 経済フロントライン
東京 表参道。
欧米からの旅行者が注目する意外な場所がある。
東急プラザ表参道原宿のエスカレーター。
天井や壁が100枚以上の鏡で覆われている。
万華鏡の中に入っているような感覚が味わえると動画投稿サイトなどで紹介され
人気を呼んでいる。
(アメリカ人)
「聴いてはいたけど実際に見たかったの。
とても素敵。」
(フランス人)
「美しい場所ね。
ほかで見たことがない。
とても独特だわ。」
マニアの町秋葉原にも人気スポットがある。
(イギリス人)
「すごい。
こんなにたくさん。
ここに住んでもいいぐらいだわ。」
ガチャポン会館。
カプセル入りおもちゃの販売機が500台以上並ぶ専門店である。
日本らしいお土産として1万円以上買う人もいるそうである。
個人旅行で訪れることが多い欧米の旅行者をターゲットにしたビジネスも急拡大している。
ひとりひとりの要望に合わせてガイドが案内するサービスを行う会社。
ホームページに
ガイドのプロフィールや対応できる言語
そして利用者のレビューを掲載している。
料金は8時間で平均3万円ほど。
最近依頼が急増している。
(トラベリエンス 橋本直明社長)
「欧米の人は観光客向けに作られたものを見たいのではなくて
ありのままの日本人の生活や文化を見たいと感じている。」
このサービスを利用し明治神宮をガイドと一緒に訪れていたアメリカ人のドナ・ギャランテさん。
今回日本に始めてやって来た。
ギャランテさんがどうしても行きたかったのが渋谷のスクランブル交差点である。
人々が大勢行きかう映像をインターネットで見て
訪れたいと思ったと言う。
渋谷で立ち寄ったのはここだけ。
交差点を往復して満足したようである。
(ドナ・ギャランテさん)
「楽しかった。
お互いにぶつかることなくわたっているのに驚いたわ。
ほかでは味わえない体験だったわ。
世界中で有名よ。」
そしてこんな場所も欧米からの旅行者でにぎわっている。
東京台東区にある谷中銀座商店街である。
(イタリア人)
「路地やたくさんの店
地元の人の生活も見ることができる。」
(オーストラリア人)
「あちこち散策して
買い物をしたり写真を撮ったりするつもりよ。」
ドイツからやって来た観光客がカメラを空に向けていた。
何を撮っているかというと
電線である。
(ドイツ人)
「ドイツにも電線はあるがこんなにたくさんではない。
私たちにはとても変わって見える。」
多くの旅行者が求めているのが日本の庶民の暮らしを体験することである。
人だかりができていたのは店先でお酒を飲むことができる居酒屋さん。
イギリス人のグループがとなりの鮮魚店で買ったアユの塩焼きを肴にビールを飲んでいた。
「頭も食べるの?」
「丸ごと食べるみたいよ。」
「かんべんしてよ~。」
客の減少で悩んでいた商店街が
外国人旅行者の増加で活気を取り戻している。
(商店主)
「体も大きいからビールの量もたくさん飲む。
本当にありがたい。
外国の人が来ないと商店街は厳しい。」
6月2日 おはよう日本
パキスタンにある日本大使館ですしを握るのは
大使館の1等書記官 芦田克則さんである。
パキスタンで獲れたマグロやエビを取り寄せ
大使館主催のパーティなどで自慢のすしをふるまう。
外交官の芦田さんはあることがきっかけで任務としてすしを握るようになった。
以前アフガニスタンで勤務していたとき
各国の外交官を招いた食事会ですしを握ったところ
外交官たちは大感激。
会話もはずみ
外交交渉の根回しにすしが活躍したというのである。
(在パキスタン日本国大使館1等書記官 芦田克則さん)
「結構難しい内容や根回しがいるような話も非常に好意的にやってくれる。
すしがなければここまで教えてくれたり協力的になってくれなかったんじゃないかと。
まさに“すしの外交”というふうに実感しました。」
いまパキスタンでは中国がインフラ整備の支援に乗り出し存在感を強めている。
そんななか「負けてはいられない」と芦田さんは動き出した。
人気の情報バラエティ番組に出演し
現地の言葉で解説を交え
寿司づくりを実演して見せた。
(番組司会者)
「もうステキ!
彼の腕前は本当にすばらしいわ!」
すしを握り
交渉相手をとりこにする。
芦田さんは仕込みの手を休めることはない。
(在パキスタン日本国大使館1等書記官 芦田克則さん)
「われわれは“親日家”“知日家”を増やすのが仕事。
そのツール(手段)というか
アセット(財産)としてすしは“完全な武器”ですから。
どんどん“親日家”“知日家”を増やしていきたい。」
芦田さんはこのすしの握り方を独学で覚え
ホームパーティで寿司を出していたということである。
6月1日 国際報道2017
全米で今話題の写真集。
登場する人は全員100歳以上。
アメリカメディアから大絶賛されている。
(ワシントンポスト)
そのエネルギーと生き生きとした姿に驚かされる!
(CNN)
“1世紀”に及ぶ感動の写真に触れるべきだ!
アメリカで去年出版された写真集。
タイトルは
「もしも100歳まで生きたなら」。
生き生きとした写真に添えられているのは
“人生の教訓”ともいうべき言葉の数々である。
レス・フリッツさん(102)。
長年牧場で働き
一緒に働く子どもたちに人生を説いてきた。
ズルだけは…絶対するな
いつもフェアであることが大切だ
コツコツ働いて責任を果たすのさ
まるで西部の男の心得である。
毎日2キロ歩くというエリ・ゼブッカーさん(104)。
人生は・・・短い!
だから先のことを心配しても意味がないんだ
今を生きろ!
クララ・アンダーソンさん(111)がいま最も関心があるのは世界情勢のニュース。
常に目を見開いて
でも口は閉じて余計なことは言わないの
そうすれば
もっと多くのことを学べるわ
撮影したのはポール・モブリーさん。
広告写真を手掛ける世界的なフォトグラファーである。
この写真集のために全米を回った。
(フォトグラファー ポール・モブリーさん)
「(写真集の)彼はオレンジを栽培し
父親は奴隷でした。
空を見上げたら目がキラキラしてその瞬間を撮りました。
誰よりもきれいな目です。」
現在
100歳以上のアメリカ人は約7万人。
ポールさんは全米の農家をテーマに写真集を手掛けた際に
多くの100歳以上の人たちと出会い
魅了されたと言う。
(フォトグラファー ポール・モブリーさん)
「どんな有名人の撮影よりも
116歳の人と向き合うのは特別なことでした。
その“偉大な顔”に深く魅せられ
内面を写し取りたいと強く思いました。」
この撮影をきっかけに
自身の目標を“100歳まで生きる”ことに決めたというポールさん。
長生きの人たちにはある共通点があることに気づいたと言う。
(フォトグラファー ポール・モブリーさん)
「皆さん
自らが学んできたことを話したがり
人に分け与えようとします。
無口な100歳以上の人はいません。
いつも話が尽きないのです。
それに何より皆さんとても楽観的です。」
5月31日 国際報道2017
徳島県鳴門市。
第一次世界大戦中
ここに坂東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)があった。
収容されていたのはドイツ兵約1,000人。
中国青島で旧日本軍と戦い捕虜になった兵士たちだった。
もともと畜産や建設の技術を持っていた捕虜たちは
収容所の周辺に牧舎や橋を建設するなど数々の交流を重ね
地元で好意的に受け入れられた。
収容所での生活を捕虜自身が描いた画集が残されている。
競歩大会が行われゴールを目指す捕虜を住民が温かい目で見守る。
捕虜たちが仮装して開いた演芸会には地元の住民も多くつめかけたという。
オーケストラも結成された。
毎週のように演奏会が開かれるなか
1918年6月1日
アジアで初めてとされる「第9」が演奏されたのである。
総勢45人。
「第9」の全楽章を披露する1時間半の熱演だった。
こうしたエピソードはドイツでどのように伝わっているのか。
ドイツ西部のウィースバーデンに住むブルーノ・ハーケさん(86)。
父親のヘルマンさんは坂東俘虜収容所で過ごした。
ヘルマンさんが収容所から本国の母にあてた手紙には
「第9」の演奏を聴いたときの様子が綴られていた。
演奏は大成功でした
特に第3楽章にはほれぼれしました
なんとも言えない安らぎ
慰めの気持ちがあふれてきました
(ブルーノ・ハーケさん)
「父は演奏会の事を何度も語っていました。
父は私たちに
民族は違っても友好的な関係を結べることを教えてくれました。」
“交流の記憶を受け継いでいこう”というひともいる。
ドイツ北部のグレービンに住むシュテフェン・クラウスニッツァーさん(38)。
捕虜だった曽祖父のフランツさんは
収容所の近くで酪農の技術指導にあたっていた。
牧場で働いていた経験を生かし地元の牧舎に泊まり込むほど溶け込んでいたという。
(シュテフェン・クラウスニッツァーさん)
「戦時下にもかかわらず
住民が捕虜にとても親切で極めて人道的だったことが分かりました。
こんなことが実際にあったことにとても感動しています。」
シュテフェンさんはこの歴史から“今こそ学ぶものがある”と考えている。
5歳になる娘のアンソフィーちゃんが通っている幼稚園にはシリア難民の子どももいる。
アンソフィーちゃんが民族や宗教が違っても相手を尊重できる人間に育ってほしいと願っている。
(シュテフェン・クラウスニッツァーさん)
「私たちはシリア難民たちと平和的にやっていくべきです。
彼らから目を背けずきちんと向き合うべきです。
彼らがドイツになじんでくれればどこから来たかは関係ないのです。」
3月
鳴門市の合唱団がドイツを訪れた。
歴史的な収容所での演奏を記念するコンサートである。
地元の市民も合唱に加わる。
会場にはブルーノさんやシュテフェンさんをはじめ捕虜の子孫約50人も招かれた。
(ブルーノ・ハーケさん)
「100年後のきょう
この演奏を再び聴くことができて感動しました。」
(シュテフェン・クラウスニッツァーさん)
「100年前に生まれた日独の交流が今も忘れられず続いていることに感動しています。」
敵味方を乗り越えた交流を象徴する「第9」の旋律。
鳴門を遠く離れたドイツでも力強く鳴り響いている。
5月31日 おはよう日本
私たちの生活に欠かせない天気予報。
台風や大雨が相次ぐなか重要性が増している。
その内容や精度も進化している。
気象衛星による詳細な観測。
地球全体の写真が2分半に1度送られてくる。
台風の目やそれを取り巻く積乱雲の姿までもはっきりととらえる。
こうしたデータをもとに気象庁は台風の進路を予測。
今年7月からは
洪水や浸水の危険性を地域ごとに細かく示し
迅速な非難につなげるための情報も新たに発表される。
命を守る天気予報。
しかしかつて姿を消したことがあった。
そのことを示す資料がNHKに残されている。
今から76年前
昭和16年12月8日のラジオの番組表である。
午前6時台を見ると
放送される予定だった天気予報の欄に二重線が。
消されていた。
この日始まった太平洋戦争。
真珠湾攻撃の直後
軍が当時の気象台長にあてた文書である。
“直ちに全国気性報道管制を実施すべし”。
“天気予報などの気象情報は軍事作戦に深く関わる”とし
軍が国民から隠すよう命令したのである。
当時気象台の職員だった増田善信さん(93)。
16歳だった増田さんは
京都の日本海側にあった測候所で天気予報の作成などにあたっていた。
測候所には全国の気象観測データが毎日数字で送られてきていた。
昔も今も変わらない世界共通のルール。
これをもとに天気図を作成し
天気予報を発表していた。
ところが大戦を境に観測データはすべて暗号化された。
(気象台 元職員 増田善信さん)
「まず送られているのがこれ【青)だと
それに乱数(赤)を足すと
そうすると初めて元の電報が現れてくる。」
天気予報は作り続けたが住民に伝えることは禁止された。
冬場に天気が変わりやすい日本海。
天気予報が命綱となる地元の漁師から詰め寄られることもあった。
(気象台 元職員 増田善信さん)
「極めて厳しい気象現象が起こる可能性があると思われる時に
教えられないって言うのは本当に心苦しい感じでしたね。」
天気予報が隠されたことで多くの命が失われる事態も起きた。
山口県宇部市に住む大亀恒芳さん(83)。
8歳のとき天気予報を知らされないまま突然強い雨や風に襲われたという。
(大亀恒芳さん)
「雨が相当降っていましたね。
どんどん風が強いうえに雨が土砂降り。」
開戦の翌年
昭和17年8月の周防灘台風である。
九州の西の海上を北上し日本海へ。
満潮の時刻と重なり
山口県沿岸の周防灘などで高波が発生した。
軍は当初
気象台に台風の進路や警報をラジオなどで伝達することを禁止した。
大亀さんが家族で避難を始めたのは
台風が最も接近していた夜8時頃。
突然堤防が決壊したという知らせを聞いたからである。
非難の途中で通りかかった田んぼで高潮が流れ込んでくるのを目にする。
(大亀恒芳さん)
「稲の上10センチか20センチぐらいをドババーッと
恐ろしかったですよ。」
急いで高台へあがり家族全員ぎりぎりでで難を逃れた。
その時暗闇から助けを呼ぶ声を聞いたと言う。
(大亀恒芳さん)
「『助けてぇ!』ってこういう声です。
次の瞬間はもう死ぬかもしれない。
その時の人間の声ですからすごいですよ。
こんなことになるとは全然夢にも思わない。
天と地がひっくり返ったような状況ですから。
あすの朝まで命が助かるかなと。」
夜が明けると信じられない光景が広がっていた。
高潮や暴風雨などで多くの家屋が倒壊。
犠牲者は山口県を中心に1,100人以上にのぼった。
「あのとき天気予報がきちんと伝えられていれば奥の命が助かった」と考えている大亀さん。
今その大切さをあらためて感じている。
(大亀恒芳さん)
「当時の事を思ったら恐ろしいですよ。
情報が全く無かったんですから。
今その情報(天気予報)がバサッとストップしたら
それは大変なこと。
日本は平和な状況が続いていますから
この平和な状態がずっと続いてもらうように願っています。」
6月22日 編集手帳
次の演者がまだ現れないとき、
高座を務めている落語家は脱いだ羽織を舞台の隅に投げ、
噺(はなし)をつなぐ。
楽屋の前座がその羽織を引けば、
次の演者が来た合図である。
寄席には昔、
そういうしきたりがあったという。
将棋の世界にもどこかに神様がいて、
その人の羽織を引いたのかも知れない。
「神武以来の天才」という称号を受け継ぐ演者が楽屋に到着しましたよ。
長い間、
お疲れさまでしたね、
と。
最年長棋士の加藤一二三九段(77)が一昨日、
最後の対局に敗れて引退した。
と、
一夜明けたきのうは最年少棋士の藤井聡太四段(14)がプロ入りから無傷の28連勝を果たし、
歴代最多連勝記録に並んだ。
羽織を引く手が目に浮かぶ。
加藤九段は終局後、
予定されていた取材に応じることもなく、
無言のまま対局場を去ったという。
指し手の中に、
自分で自分を許せぬ悪手でもあったか。
テレビ番組で「ひふみん」と呼ばれて愛される人気者とは別の、
勝負師の顔を見た思いがする。
最近の将棋ソフトの強さには感心しても、
感動はしない。
人を感動させるのはやはり、
最善の一手を探し求めて命を削る生身の棋士である。
6月21日 編集手帳
方向を表す言葉はややこしい。
たとえば「北風」は北から南に向かって吹く風をいう。
これが潮流になると逆で、
「北流」とは南から北へ流れる潮のことである。
〈風は吹き来たり、
潮は流れ去る〉。
練習船の実習生はそう教わると、
航海訓練所の所長などを務めた荒川博さんが『風の名前 風の四季』(平凡社新書)に書いていた。
風は「北から」吹き来たり、
潮は「北へ」流れ去る…。
そう覚えなさい、
と。
風や潮よりも紛らわしい。
築地市場の移転問題が流れていく方向である。
小池百合子東京都知事が基本方針なるものを発表した。
これが、
どうにも分かりにくい。
市場をいったん豊洲に移した上で、
築地を再開発し、
5年後をめどに市場機能の一部を築地に戻すという。
二つの市場が並び立つ姿をイメージできる都民が何人いるだろう。
市場関係者には、
豊洲移転を希望する人もいれば、
築地残留を希望する人もいる。
どちらにも“いい顔”を取り繕ったと映らなくもない。
〈風は吹き来たり〉で、
都知事の座を射止めた小池氏である。
都議選を意識しての八方美人ならば、
やがて〈潮は流れ去る〉だろう。
5月31日
広島では従来の青果市場を通さない新たな野菜の流通が始まっている。
目を向けたのは
主に自分で食べるために野菜を育ててきたという規模の小さな農家である。
広島県産の食材にこだわった飲食店。
ソースをつけて食べるバーニャカウダには採れたばかりの野菜や山菜が使われている。
(客)
「おいしかったです
すごく。」
「野菜の香りがある。」
この野菜を作ったのはほとんどが“自給的農家”である。
主に自分たちで食べるために生産する小規模農家である。
広島県安芸高田市の山あい。
この自給的農家に目を向けた野菜の販売会社がある。
社長の有政雄一さん(48)は
8年前にUターン。
規模の小さな農家が多い地域で
これまでとは違う野菜流通の仕組みを作った。
自給的農家はほとんど出荷をしない。
それでも個々の野菜を集め一定量を供給することで
商品としての価値を生み出そうと考えたのである。
(有政雄一さん)
「ほとんどの場合は自家用で
消費されるのが少しで
近所に配られたり
あとは腐ってまた畑に返って肥料になってました。
もしかしたら市場流通しているよりもたくさんの野菜が各地域に埋まっている可能性があります。」
連携している農家は近隣の約60軒。
作る作物の種類をまかせることで
少量でも多品種の野菜集積を目指している。
週3日野菜を提供している永浜百合子さん(69)。
自家用だった野菜が売り物になることに喜びを感じ
最近では珍しい品種の野菜の栽培にも積極的に挑戦している。
焼肉に巻いたりサラダに使ったりするステムレタス。
カーボロネロという西洋野菜は
イタリア料理などで飲食店で需要があると聞いて作り始めた。
(永浜百合子さん)
「持っていったら喜んでくれる。
またいいものを作ろうかなという気持ちにつながりますよね。」
永濱さんは作る品種を以前の2倍以上に増やし
年間50万円以上の収入を目指している。
会社に集まる野菜は1日に約70種類である。
主な販売先は継続的に買い取ってくれる広島の飲食店である。
インターネットを使って
市場を通さず直接販売する。
販売サイトでは
大きさや量が一目でわかる写真に味などの特徴が伝わるコメントを添えて具体的に示す。
野菜を購入している飲食店では
珍しい野菜が手に入るようになったことで野菜を使った日替わりのメニューが増えた。
(飲食店店主)
「やっぱり鮮度という面では抜群に良い。
いろんな種類があるのは強みだと思う。」
販売サイトを起ち上げて4年。
今期の売り上げは3,000万円を超えて初めて黒字になる見通しである。
(有政雄一さん)
「飲食店の反応もそうですが
この野菜は求められてるわと。
おそらく必要な事業・流通形態になるはずだし
その担い手のひとつとなっていきたい。」
小規模農家の野菜を流通させる新たな仕組み。
農業の振興につながるのか注目されている。
この事業は“潜在的農業の担い手を呼び起こす仕組み”として注目されていて
有政さんの会社には全国各地から販売業者が視察に訪れているということである。
5月27日 経済フロントライン
アイリスオーヤマとは逆に
高級志向のニーズをつかんだ企業の戦略。
2年前発売されたトースター。
水を入れてスチームを発生させるのがポイントである。
表面はカリッと
中はふんわりと焼き上がる。
価格は22,900円。
それでも20万台以上売れている。
作ったのは14年前に設立されたバルミューダである。
去年の売り上げは55億円。
5年で約7倍に伸ばしている。
社長の寺尾玄さん。
1つの機能に徹底的にこだわり最高級の家電を生み出すのが戦略だという。
(バルミューダ 寺尾玄社長)
「『高いトースター欲しいですか』と聞かれたら
『いらない』といいます。
『世界一のバタートースト食べてみたくないですか』
『究極のチーzトースト食べてみたくないですか』と聞かれたら
それは興味あるなと思う。」
製品開発のために集めたのはさまざまな経歴の人材である。
工業デザイナーやプログラマー。
社長の寺尾さんも以前はミュージシャンだった。
2月に発売したのは最高の炊き上がりを追求した炊飯器。
開発リーダーは元無線機器のエンジニアをしていた唐澤明人さんである。
家電を手掛けるのは今回が初めてだった。
業界の常識にとらわれず
ご飯を美味しくする方法をいろいろ試した結果
(元無線機器のエンジニア 唐澤明人さん)
「水蒸気で蒸すというのが食感がすごく出るのに気づいて
水蒸気を使っていこうと。」
唐澤さんが考えたしたのは斬新な仕組みだった。
釜を二重にしたのである。
水を入れた外側の釜で水蒸気を発生させ
内側の釜にいれた米をゆっくりと蒸していくという方法である。
無線機の回路を設計した経験が温度の制御システムに生かされた。
ごはんの一粒一粒が水分をしっかり含み
独特な味わいがあるという。
「おいしい卵かけごはんが食べたい」というニーズにも応えた。
(炊飯器開発リーダー 唐澤明人さん)
「喜んでもらえるのが感じられる製品なんで
今までなかった
他の会社でやっているときは。」
価格は41,500円。
保温機能がなく
3合までしか炊けないが
品薄になるほどの売れ行きである。
(バルミューダ 寺尾玄社長)
「われわれは最高の体験を提供しようと思っているわけで
“これはきた”“これはいい”ってところまで必ず追い込むようにしているので
なぜなら
そのぐらいやらないと客にいいなと思ってもらえない。」
5月27日 経済フロントライン
これまで多くの総合電機メーカーは
技術力を競い合って
ともすれば過剰ともいえる機能を製品に盛り込んできた。
あれば便利だが
機能が増えると価格も上がる。
機能を絞って価格を下げたり
定番商品に1つ工夫を加えることで
売り上げを伸ばしているメーカーがる。
重さわずか1,3kgの掃除機の価格は1万円ほどである。
(客)
「値段もいい。
倍の値段だったら買っていない。」
「シンプル
手ごろ
そんなに高機能じゃなくていい。」
これらの製品を開発しているのは宮城県に拠点を置く生活用品メーカー
アイリスオーヤマである。
社長の大山健太郎さん。
8年前に家電事業に参入し
商品の幅を次々に広げてきた。
去年
国内での家電の売上高は485億円。
会社全体の4割を占めるまでになっている。
(アイリスオーヤマ 大山健太郎社長)
「すぐに売上高は1千億円は超えると思う。
1千億円を超える家電メーカーはあまりない。
大手と称される次ぐらいには1~2年で間違いなく入ると思っている。」
家電の研究開発拠点があるのは大阪心斎橋。
あえて大阪を選んだのには理由がある。
希望退職などでシャープやパナソニックといった大手メーカーを辞めた技術者を採用するためである。
ヒット商品を売り出す秘密の1つが人材の組み合わせである。
開発チームには経歴の異なる社員をあえて配置している。
たとえば現在開発中の掃除機。
メンバーの2人は
ゲーム機メーカーから転職してきた森川廣基さん
そして生え抜き社員の河阪雅之さんである。
主に生え抜き社員がホームセンターに寄せられる客の声などをもとに開発方針を決める。
中途採用の社員が高い技術力でそれを実現し
新製品を生み出すのである。
現在人気を集めている掃除機は吸引力が特徴のサイクロン式だが
2人が開発しているのは従来の紙パック式である。
(生え抜き社員 河阪雅之さん)
「ホームセンターに来るおばちゃんは
『紙パックの掃除機ありますか?』って来る。
やっぱり根強いんだなと思って。」
目指したのは
高齢者でも扱いやすいよう徹底的に軽くすることだった。
一番の課題は最も重い部品のモーターの軽量化。
ここで力を発揮したのが中途採用の森川さんの技術だった。
森川さんは以前クレーンゲームの設計をしていた。
部品をなるべく減らして作るノウハウが掃除機にも生かされたのである。
8か月かけて実現したのが
業界最軽量クラスの1,8kg。
(アイリスオーヤマ 大山健太郎社長)
「“なるほど”という目線はアイリスの生え抜き社員が提案するが
それを具体的に商品化するときに
中途採用の社員は
過去に大手でもいろいろな失敗をしたりいろいろな技術を開発したりしている。
新しい発想でものをつくろうとしたときに
異業種交流のような発想が大事。」
開発が最終段階を迎えた日
河阪さんと森川さんはテレビ会議に臨んだ。
毎週 宮城県の拠点を結んで開かれる会議は
これも独自の製品を生み出す仕組みである。
社長をはじめ製造や営業など各部門の責任者が参加。
消費者が使いやすいか
量産は可能なのか
あらゆる角度から質問がぶつけられる。
「今回の計量化のポイントは
バキュームモーターの軽量化を行ったことにあります。」
しかし社長から思わぬ指摘が。
「軽くしたために騒音吸収が
それはどうなの?」
「騒音はちょっと大きくなってはいますが
実使用上大きな問題ではないと考えておりまして・・・。
「何デジベル?」
「72デシベルです。」
「それをもうちょっと下げることは出来ないのか?
そのへんを検討しながら。」
「はい
承知しました。」
試行錯誤は最後まで続いた。
(アイリスオーヤマ 大山健太郎社長)
「われわれ生活者にとって今の家電製品は満足していない。
不満があるということはそこにビジネスチャンスがある。
家電市場は何兆円というビジネス。
我々にとってもやりがいがある。」
5月27日 おはよう日本
20世紀を代表するバンド
ビートルズ。
その作品の中でもとりわけ完成度が高いと言われるのが
アルバム「サージェント・ぺパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」である。
このアルバムが発表されてから50年。
当時は革命的とされた作品は
今も時代の象徴として人々を魅了し続けている。
ポピュラー音楽史上 屈指の名盤と言われる Sgt,Pepper"s Lonly Hearts Club Band。
1967年にリリースされたこの作品は
アルバム全体で1つの作品と位置付けられる
“トータルアルバム”という概念を確立したとされている。
5月26日
50周年の記念盤が世界中で同時に発売された。
最先端のデジタル技術で臨場感あふれる音を実現したというこのアルバム。
大量に仕入れたレコード店では
(客)
「聴くのが待ち遠しいよ。」
「手に入らないかもしれないから
初日に買いに来たよ。」
アメリカ ロサンゼルスのビートルズの専門チャンネル。
「きょうは2017年5月26日。
50周年記念盤が発売される日だ。」
(ラジオDJ クリス・カーターさん)
「50年も経って誰が聴くのだろうと思うかもしれないけど
実際には音が新鮮になってみんな聴くんだよ。」
このアルバムは
マルクスやボブ・ディランなど
時代を象徴する人たちを配置した印象的なジャケットでも知られている。
デザインを担当したアーティストのジャン・ハワーズさん。
どんな人物を登場させるのかさまざまな意見が飛び出し
ジョン・レノンは当初
キリストとヒトラーを置きたがったという。
(アーティスト ジャン・ハワーズさん)
「ちょっとやりすぎだった。
彼も若くて浅はかなところがあったんです。」
実はビートルズの選んだリストには女性はおらず
12人の女性はハワーズさんたちのアイデアで後から加えられた。
ハワーズさんは
「色鮮やかなジャケットはビートルズが体現していた時代の雰囲気を上手くとらえていた」と振り返る。
(アーティスト ジャン・ハワーズさん)
「幸福感・成長・完全雇用
そんな雰囲気の時代で
ビートルズはその象徴だった。」
当時の若い想像力やエネルギーがつまった作品は
50年が経った今でも特別な存在であり続けている。
5月25日 キャッチ!
中国では近年
都市部ではペットを飼う人が急増していて
2020年には市場の規模が日本円にして3兆5千億円を超え
10年間で15倍になるとも言われている。
6日に上海で開かれたペット博覧会。
犬や猫のための商品を扱う業者が全国各地から集まるこのイベントは今年で6回目を迎えた。
去年よりブースが2割増えた会場に詰め掛けたのはペットを連れた多くの飼い主たち。
中国のペットの数は今や1億以上にのぼるとされ
市場のすそ野は拡大する一方である。
美容関係のブース。
(ブース担当者)
「経済が発展しているので
ペットへの愛情や関心はますます高まっています。」
大手保険会社も“ペット新時代”といううたい文句でペットの医療保険に参入した。
そしてなんといっても注目はペットの健康関連商品である。
消化を助ける効果がある中国原産のサンザシなどの原料を使ったペットフードが人気を集めていた。
(来場者)
「エサ代だけで月に1万5,000円。
ペットにはお金を惜しまないわ。」
しかしペットの体調が悪くなったらどうするのか。
上海の住宅街の一角にある動物病院。
足腰を悪くしたペットの予約でいっぱいだというこの病院は
中国の伝統医療を施す専門病院である。
中国医学を身につけた獣医師で現場責任者の金日山さん。
治療を施すペットの数は年間5,000以上だという。
この日病院にやって来たのはゴールデンレトリバーのスヌーピーくん(13)。
高齢で足腰が弱り自ら歩くこともままならないという。
治療方法はお灸。
人間と同じように腰を繰り返し温めてもらう。
(飼い主)
「効果が出ているよ。
完治してほしいね。
病気は重いけど奇跡を願うよ。」
そして中国医学の定番
はり治療である。
(獣医師 金日山さん)
「はりは多いと20本くらい。」
治療を受けているのは自宅で転んで首を痛めたというスピッツのジェミーくん(9)。
最近週に4回は通っている常連だが
針を刺されると「ワン!」。
動物への針治療は実は中国では長い歴史がある。
いまから2600年余前の春秋・戦国時代。
乱世が続いたこの頃
軍事力として重要な役割を果たしたのが馬だった。
歴史書には
“馬の健康管理の手法が研究された結果
馬への針治療が行われるようになった”と記されている。
針治療を受けるペットの表情はさまざま。
痛みにじっと耐えるネコ。
数十本の針もなんのそのというイヌ。
慣れた様子でリラックス。
患部の血行をよくするために針を刺したあと電気で30分ほど刺激を与える。
治療代金は針とお灸セットで1回約4,000円である。
(飼い主)
「これで70数回目の針治療です。
最初は大丈夫でしたが
この子も毎日針を見てだんだん痛いものだとわかってきました。」
(獣医師 金日山さん)
「6~7年前まではペットが病気になると捨ててしまう人がいた。
いまは数十万かけてでも治そうとしている。」
豊かさとともに生活が変わってきた中国。
ペットへの愛情もますます深まっている。
5月24日 国際報道2017
東京のIT企業が開いた就職説明会。
場所は韓国の地方都市テジョン。
対象は韓国人学生である。
この企業は毎年のように韓国人の学生を採用していて
より優秀な人材を獲得しようと現地での説明会を積極的に開いている。
(東京のIT企業 人事担当者)
「即戦力という意味では韓国人の方が優秀。
ハングリー精神というか気持ちが非常に強かった。」
日本以上に学歴が重視される韓国。
TOEIC平均スコアは日本より100点以上高いほか
就職に有利な資格を持ついわゆる“スペック”の高い学生が多いと言われる。
ところがいま韓国は空前の就職難。
対卒者の就職率は50%余。
若者の失業率は約50%に足している。
努力しても報われない韓国社会を地獄に例え
“ヘル朝鮮”という言葉まで流行している。
そのため
“脱ヘル朝鮮”
海外に活路を見出す学生が急増し
日本にも熱い視線が向けられているのである。
(日本への就職を希望する学生)
「韓国にはいま働きたい学生が多いのに採用する企業はあまりありません。」
「韓国での就職に何度も挑戦しましたが失敗してしまいました。
日本の方が韓国よりも就職できる確率が高いと思って
日本で就職しようと考えました。」
5月 韓国の政府機関の主催で行われた海外向けの就職フェア ソウルキャリアビジョン2017では
日本企業89社が参加。
来場した就職希望者は約9,000人と去年の2倍近くに増加した。
日本企業への就職を仲介する専門の会社まで登場している。
この日は模擬面接が行われていた。
面接官役を務める日本人スタッフが細かな言葉づかいを指導する。
この会社では日本への就職率は今後さらに高まると見ている。
(ISL人材開発院 金瑞穂課長代理)
「やる気・実力・学力に特化いている点で
日本企業による韓国人採用が増えていると思う。
勉強した技術を持って日本で羽ばたいてほしい。」
6月7日 編集手帳
歌人の窪田空穂(うつぼ)は、
瓦礫(がれき)の野と化した東京の街をさまよい歩いた。
1923年(大正12年)9月、
関東大震災の直後である。
娘を亡くした被災者に出会ったらしい。
悲痛な一首を詠んでいる。
〈梁(はり)の下になれる娘の火中(ほなか)より助け呼ぶこゑを後(のち)も聞く親〉。
わが子の残した
最後の声である。
親の耳から消える日はあるまい。
何の災害であれ、
事故であれ、
そういうものだろう。
長野県下諏訪町の会社員、
河西勝基(かさいかつき)さん(21)の記事を読んだ。
今月3日、
富山県立山町の北アルプスに小型飛行機が墜落した事故で亡くなった4人のうちのお一人である。
自宅に電話があった。
飛行機が墜落したこと、
警察に連絡したこと、
機体に挟まれて身動きができないことを、
父親の均さん(55)に伝えた。
「おやじ、
俺、
絶対に生きて帰るから」。
その言葉を最後に通話は途絶えた。
“後も聞く親”がここにいる。
〈焼け野の雉(きぎす)〉という。
巣のある野を焼かれたキジは、
わが身を忘れて子を救いに戻ると、
語り伝えにある。
いますぐ、
息子のもとに飛んでいく翼をください。
沈黙した受話器を握りしめて、
その人は天に祈ったことだろう。