お釈迦様のお話になりますが、
ある時、弟子の阿難尊者がお釈迦様にお尋ねになられました。
阿難尊者
「仏様とはどういう方ですか?」
お釈迦様
「それは、米という仏、魚と言う仏、 野菜と言う仏、 我々が日々口にするもの全てが仏である。
これらは我々の命の犠牲となり、生きとし生けるものの生命を生かしてくれている。これが仏である」と申されました。
感謝しても感謝しても食べ物の恩と言うのは言葉に尽くすことが出来ないのだ。
だから、仏である食べ物には、心から感謝して食べよ。
私はいつもこの説話に感動している。
食べるときは、「(命を)頂きます」。
食べ終わったら、「ご馳走さまでした」という。
本当のご馳走さまの言葉は、もっと他にあるのではないだろうか?と思うようになってきた。
皆様、食事をされますと必ず用を足すという行為が残りますが、
この行為は、食べ物が人間の血となり、肉となり、そしていらなくなった物が大便や小便になる。
食べ物の最期の姿です。
その大便は、人間でいいますと食べ物の屍(しかばね)ではないでしょうか。
生き物であったものが人間の食べ物となり、生命が終わる。
最後に残るのは、人間のつとめとして御霊の供養ではないでしょうか。
そこで、私は誦えごととして
(大の用便後水を流す前に、身支度を整えて)
次のような言葉でお祈りします。
「お食物(しきもの)のみたま達に感謝いたします。有難うございました。
みたまの安かれを祈ります。ご馳走さまでした。」
合掌にて水を流す。
この言葉を誦えることにより運勢が上がるのです。
大便は大きな便りと書くでしょう。
汚いと思わないで下さい。
供養は、人間だけができる尊い行いではないでしょうか。
南無大師遍照金剛