美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

木下恵介生誕100年記念企画映画 原恵一監督『はじまりのみち』 (イザ!ブログ 2013・6・10 掲載)

2013年12月16日 06時43分14秒 | 映画
昨日、立川のシネマシティで、原恵一監督の『はじまりのみち』を観ました。原監督は、当作品の脚本も担当しています。彼は、アニメ映画では巨匠と称しても過言ではないほどの存在のようで、クレヨンしんちゃんシリーズや『河童のクゥと夏休み』(2007年)などが代表作です。年齢は私より一歳下の五三歳、群馬出身とのこと。実写映画は、今回が初めてだそうです。

当作品は、映像作家・木下恵介の原風景をその母親との交流を通して描いたものです。ほんの数日間の出来事によって、それを凝縮された形で描いています。

あらすじを述べながら、折に触れ感想を挟みましょう。

まずは、恵介の故郷の浜松の夜明け前の浜辺が映し出されます。そこに設置された真っ白なスクリーンに、彼のデビュー作『花咲く港』(1943年)のモノクロの映像が映し出されます。彼は、この浜辺でこの映画のロケの多くを撮ったのです。

次に、恵介が松竹を辞めるまでの経緯が描かれます。陸軍が後援し、情報局国民映画として木下恵介が製作した松竹映画『陸軍』が封切られたのは昭和一九年(1944年)十二月七日でした。陸軍省内の強硬派は、ラスト10分で、戦地へ赴く長男の伸太郎(星野和正)の出征を見送る母わか(田中絹代)が取り乱している姿が延々と続いているシーンを目にしてカンカンに怒ります。そうして、「軍国の母としてふさわしくない」「女々しい」と批判しました。

次回作として予定されていた『神風特別攻撃隊』について、松竹が木下恵介(加瀬亮)を監督として起用するのなら、その企画の進行を認めないと、当時の検閲機関であった情報局に申し渡されます(木下恵介が撮ったなら、『神風特別攻撃隊』はとんでもない傑作になったことでしょうに)。困り果てた城戸四郎(大杉漣・城戸は松竹映画の土台を作り上げた人)は、恵介をなんとかなだめすかそうとするのですが、彼は、「どこに、愛する息子に向かって『御国のために立派に死んでこい』という母親がいますか」と城戸に詰め寄り、映画製作を取り巻く現実に絶望し、辞表を出して、故郷浜松に帰り、病身の母たま(田中裕子)が療養していた静岡県気賀町の親戚の家に身を寄せました。たまは、前年の暮、恵介の東京の家にいたとき、空襲のストレスが高じたせいか、脳溢血で倒れたのでした。

それから半年後の昭和二〇年(1945年)六月十八日、B29約50機の空襲によって、浜松町の中心部は一面の焦土と化し、恵介の父周吉(斉木しげる)と母たまが精魂をこめて築き上げた食料品店「尾張屋」も灰燼に帰してしまいました。尾張屋は、地元では名の通ったお店だったようです。

米軍の本土上陸もありうるという切迫した情況のなか、母たまをもっと奥まった場所へ移さなければと考えた恵介は、木下家の持山がある静岡県周智郡気多村勝坂に一家で疎開することに決めました。

問題は、母親たまの移動方法でした。バスで、という提案もあったのですが、振動が激しすぎます。それでは、病弱な母が持ちこたえることができるかどうか、おぼつかない。結局恵介は、リヤカーで静かに運ぶことに決めました。父は、それを無謀だとして息子を諦めさせようとするのですが、恵介の決意は固かったのです。彼は、真夜中の十二時に、すぐ上の兄敏三(ユースケ・サンタマリア)と便利屋(濱田岳)とともに、家族の見送るなか、たまを載せたリヤカーを引いて出発します。

恵介(本名は正吉)と敏三はリヤカーの引手と後押しの役を交互にしながら坂道を登って行きます。運び屋は荷物の担当です。やがて夜明けを迎えます。母は、朝日に向かって静かに合掌します。息子二人も黙ってそれに倣います。静かで美しいシーンです。

昼になり強い日射しを避けるためのたまの蝙蝠傘がやがて降り出した雨を避けるためのものに変わります。雨足は次第に強くなりいつしか土砂降りになります。前夜から十数時間歩き続けてきた足が、極度の疲労と土砂降りとで、ますます重くなってきます。仰向けになったたまの顔には、土砂降りで跳ねた泥が容赦なく降りかかってきます。

十七時間ほぼ不眠不休で歩き続けた末に、四人はようやくのことで宿屋のある気多村気田に到着します。しかし、一件目の地元でいちばんいいとされてい宿屋は、病人がいることを嫌ってか、すげなく「満員です」と彼らの宿泊を断りました(どうやら、木下監督は、その宿屋のことをのちのちまで恨んだようです)。次に訪ねた「澤田屋」(主人・庄平(光石研)、妻こまん(濱田マリ)、長女やゑ子(松岡茉優)、次女義子(相楽樹))は快く四人を受け入れてくれました。宿に入る前に、恵介がたまの顔や手足に降りかかった泥を丹念に手ぬぐいで拭き取る姿を、「澤田屋」一家は深く記憶に刻み込んだとのことです。この長回しのシーンは、確かに印象に残ります。このシーンのために、あまり実物と似ていない加瀬亮が木下恵介役に抜擢されたのではないか、とさえ思うくらいです。加瀬亮の優しさに満ちた繊細な手つきがとても魅力的です。




気田から目的地の勝坂までは、トロッコ列車を利用すればよい。ただし、それが発車するまで、四人は澤田屋で二泊しなければなりません。時間的に余裕の出来た恵介は、気晴らしに気田川の川原に行きます。彼の目に、女教師(宮崎あおい)と日の丸の小旗を持った十二人の生徒たちの群れが遠景として飛び込んできます。恵介は、思わず映画の四角の枠を右手で作って、構図を練る仕草をします。恵介の視線に気づいた女教師が、怪訝そうに彼に一瞥をくれたときの彼のちょっと戸惑ったところがいい味を出していました。この場面は、もちろん『二十四の瞳』(1954年)へのオマージュです。宮崎あおいの羽織袴姿の美しさが印象に残ります。



川原に座って、川の流れを眺めていた恵介のところに、運び屋がやってきます。そうして、目の前の相手が木下恵介だとは知らずに、自分が『陸軍』を観たこと、ラスト10分の母親わかの姿を観ていて感動のあまりに泣いてしまったことを率直に述べます。「ああいう映画を観たい」とも。失意の恵介は、その言葉を聞いて男泣きをします。事情を知らない運び屋は、恵介に「お前は変わった奴だな」と声をかけます。げんきんで、ひょうきんなだけの印象だった運び屋が一気に魅力を発散するシーンです。このとき、便利屋の話の流れに合わせて、『陸軍』のラスト10分がほぼそのまま上映されます。私は、原監督の、当作品に寄せる深い思いを感じておおいに心を動かされました。

勝坂にたどり着いた恵介は、疎開地での暮らしを始めます。しかし、彼の様子は、どことなく浮かない感じです。恵介の心事を察した、言葉の不自由な母たまの強い勧めに促されて、恵介は映画の道に戻ることを決意します。片時も映画のことを忘れられない自分を、恵介は自覚するのです。リュックをしょって、その決意を胸に秘め、白い上下と白い帽子を被った恵介が暗いトンネルに入っていくと、彼の戦後の名画の名場面の数々が走馬灯のように浮かんでは消えていきます。そこに映し出された木下映画は、その美しさが際立っているように感じました。登場した順に列挙すると、『わが恋せし乙女』(1946)の井川邦子、『お嬢さん乾杯』(1949)の原節子、『破れ太鼓』(1949)の阪東妻三郎、『カルメン故郷に帰る』(1951)の高峰秀子と小林トシ子、『日本の悲劇』(1953)の望月優子、『二十四の瞳』(1954)の高峰秀子と子どもたち、『野菊の如き君なりき』(1955)の有田紀子と田中普二、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957)の高峰秀子と佐田啓二、『楢山節考』(1958)の田中絹代と高橋貞二、『笛吹川』(1960)の高峰秀子、『永遠の人』(1961)の高峰秀子と佐田啓二と中代達矢、『香華』(1964)の岡田茉莉子と乙羽信子、『新・喜びも悲しみも幾歳月』(1986)の加藤剛と大原麗子。以上です。作品としての完成度を神経質に気にかけるさかしらを遠く超えた、原監督の木下恵介に対する深い思いがこんこんと泉のように湧いてくるさまが、観る者を圧倒します。



『日本の悲劇』(1953年)。望月優子と佐田啓二。

若い方が、この映画を観て、木下映画に少しでも興味を持っていただければ、これに勝る喜びはありません。外国で高く評価された日本映画もけっこうですが、日本人にしか分からない日本映画ももう少しだけ大切にされていいのではないでしょうか。そうして、世の中にいささかなりとも潤いのようなものが生まれてくれば、少しはごくふつうのひとびとの生きにくさが減るのではないか、などと気の弱い夢想をしてしまいます。

最後に、木下恵介自身の言葉を掲げて、この文章を終わります。

愛するもののためにコジキになったってがん張りぬけるさ、おれは―――と思う。          
(「底力」毎日新聞(夕刊)1955年一月四日より)


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