美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

『二十四の瞳』と『陸軍』について (イザ!ブログ 2012・7・10掲載分)

2013年11月23日 07時55分17秒 | 映画
 映画『二十四の瞳』(一九五四)は、二〇一〇年末に亡くなった女優・高峰秀子を偲び、池袋新文芸座で昨年の三月十三日に上映された。思えば、東日本大震災の二日後である。当作品は、木下作品のなかで最も人口に膾炙しているのと同時に、彼の全作品の頂点を成し、さらには日本映画の最高傑作のひとつでもある 。

そう断言できるようになったのは、新文芸座で、往年の高峰秀子ファンたちと一緒にその大画面にすっぽりとつつまれて共に魂を揺すぶられる経験をしてからのことである。DVDを観たくらいでは、実のところそこまでの確信が持てなかったのだ。

そういったことと関連して、高峰秀子が市川崑との対談(一九七八年)で面白いことを言っている。「とにかく、首をズーっとめぐらせなければならないほどの大きいスクリーンで、映画を一度見て欲しいの。それから、大勢で同じものを見るというということねえ。茶の間でひっくり返って、一人でアクビしながら見るのと、ぜんぜん違うもの‥…。ちゃんと腰かけて、前向いてさ、後ろ向けないんだから。後ろ向けば、よその人の顔があるだけでさ。ぜんぶ一方を見て、大勢でものを見るってことは、何かの役に立つことだと思う。‥…うまくいえないけど。」まったくそのとおりである。言っていることがあまりにも的を射ているせいで、微妙なユーモアさえ感じられるくらいである。高峰は、映画鑑賞の核には、観客としての情緒の共有、あるいは感動の共有体験が織り込まれていることを彼女一流の直観的な語り口で述べているのである。


当映画館で配布された資料で確認してみたら、当作品の画面のサイズはシネマ・スコープではなくスタンダードであるという。しかし、私の実感としては、とても大きな画面で見たという印象が残っている。これは、当作品の主人公が個々の登場人物なのではなく、総体としての子供たちなのであり、彼らの合唱の歌声なのであり、さらにはそれを大きく包む小豆島の風土そのものなのであることを物語っているように思われる。作風のスケールの大きさがそういう錯覚をもたらす、ということである。そのことを、木下恵介は、理屈ではなく映像そのものによって観客にダイレクトに知らしめている。

ここに、木下恵介が映像の天才である所以の一端がある。大急ぎで付け加えておきたいが、これはどこかしら酩酊気分を自分に許しながら大言壮語するたぐいの物言いではなく、まったくの素で申し上げているのである。DVDでしか彼の映画を観たことがない方には、どうしても伝わらないところがあるような気がするのではあるが。

木下恵介の天才ぶりについて、高峰秀子は『私の渡世日記』で次のように言っている。「子(ね)年のくせに爬虫類の如く冷たく澄んだ眼光は、対象物をチラと見やっただけで間髪を入れぬ早さで分析し、彼一流の判断で処理してしまう。佐々木小次郎の燕がえしもなんのそのである。昭和五十一年現在、東京のテレビチャンネルは七つだが、木下恵介のチャンネルは数かぎりなく、彼の頭のテッペンから無数のアンテナが針ネズミのようにそそり立っているとしか思えない。彼の触覚は猫のヒゲより聡く、彼の感覚は矢のごとく鋭い。やはり「天才」というよりしかたがないだろう。」


また、「喜怒哀楽の明快な木下恵介は、スタッフにとって実にやりやすい監督である。気にいったカットが撮れると、感にたえたような表情で、『ああ、僕はなんてうまい監督だろう!』と叫び、俳優がいい演技をすると、それこそ手を打って、躍りあがって喜ぶ。秒きざみに変化する木下恵介の表情をポカンと見ているうちに、いつの間にか映画が出来上がってしまう、というのが実感だった。私は五歳の時から何十人何百人という映画監督に出会ったが、やはり木下恵介は性格的にも作品的にもずば抜けて多才で特異な演出家だ」とも言っている。木下恵介の仕事振りがまるで映画のようにまぶたに浮かんでくる見事な人物描写である(一緒に仕事をする人たちは、彼の一挙手一投足に振り回されて大変だったことだろう。成瀬巳喜男は、現場の人たちにそういう負担を一切かけない人であったようだ)。

高峰秀子は、目の前の人間を虚心に見つめるうちにその本質が瞬時に分かってしまう。直観が人並みはずれて鋭い女性であったようだ。一般に、男よりも女のほうが、直観力において数段勝っているように感じるのではあるが。私を含めてのことだが、男は理屈で納得しないと安心しない傾向が強いように思われる。

本作品は個々の登場人物が主人公なのではない、という話にもどろう。


とするならば、高峰秀子扮する大石先生の、当映画において果たすべき役割はなんなのであろうか。それは、教え子たちを取り巻く抜き差しならないつらい現実や彼らの相次ぐ戦死に直面して、おのれの無力さを嘆きながら、魂の底から涙をふりしぼって泣き続けることである。大石先生役には、これといった大げさな劇的身振りが求められているわけではない。徹底的に受身であることによってもたらされる、不思議な包む力としか名づけようのないものを観客が感じ取ることができるように演じることが求められているだけである。しかし、演技者としてこの要求にきちんと応えるのは並大抵のことではないように思われる。というのは、人の心を深く動かす身体表現とはどういうものなのかについての、深い知恵と鋭い勘の持ち主でなければ、そういう要求にきちんと応えることなどできないからである。大石先生役のハードルは実のところきわめて高いのである。木下恵介には、高峰秀子がそのハードルをきっちりと越えられる力量の持ち主であることについての、ゆるぎない信頼感があったのである。また、そういう監督の心を高峰秀子は無言でしっかりと受けとめた。それが、この作品に秘められた語られざるもうひとつの内面劇である、といえよう。

当作品は、大東亜戦争をモチーフとする悲劇的叙事詩である。叙事詩は神の独り言であるといったのは民俗学者の折口信夫である。当作品の場合、神にあたるのは、悠久の小豆島それ自体であり、それをやわらかく包む瀬戸内の穏やかな海である。高峰秀子は、そのような自然神の依り代として魂の底からさめざめと落涙し続ける。その天地有情の世界によって、民族の悲痛な記憶に静かなカタルシスがもたらされる。


観客は、大画面に自分をゆだねることによってそのことの奥行きを体全体で深く感じ取る。だから、はじめて上映されてから五七年の歳月が流れているのにもかかわらず、上映会場には往年のファンがびっしりと詰めかけ、こらえ切れない嗚咽の声があちらこちらから遠慮深そうに漏れてきて、私のとなりの老夫婦が顔を涙でぐしょぐしょにぬらして頬を痙攣させることにもなるのである。単に過去をノスタルジックに振り返るという振る舞いの集合体にしては、会場で起こっていることがあまりにも生々しいのであった。私には、大東亜戦争にまつわる戦死者の荒魂(あらたま)が和魂(にぎたま)に少しずつ姿を変えていく変貌のプロセスの一端がつかの間現前したかのように感じられた、というのが正直なところだ。言わずもがなではあろうが、私がその場の情動に感応して、わが身が崩れてしまうほどにむせび泣いたことは申し添えておこう。われながら意外な反応であった。

壺井栄の童話『二十四の瞳』が反戦思想に重きを置いているせいか、当映画もこれまでしばしば反戦映画として語られてきたようである。しかし、私としては、いま述べたような評価を抱いてしまっている以上、当映画に「反戦」などという戦後民主主義の手垢にまみれた形容詞をかぶせることには到底賛意を表しえない。そのことをめぐって、いろいろと申し上げようと思う。


まず、映画は原作としての文学作品の似せ絵ではないということ。そこには、文学作品こそが真の芸術であって、映画はそれに比べればせいぜい大衆芸能であるにすぎない、という映画蔑視がこれまで主流であった知識人的な事情が横たわっている。これはなにも遠い過去のことではなく、たとえば、映画批評の権威と化した観のある蓮見重彦が映画を論じるときのいけ好かない過剰な文体にも裏返された形で見透かすことができる。

文化人ではないが、政治家の映画蔑視については、高峰秀子自身腹に据えかねていたようである。彼女は『私の渡世日記』で次のように言っている。「女優という仕事の関係上、私はトップクラスといわれる政治家と対談や座談会などで同席することが少なくない。そんなときの彼らの開口一番のセリフはいつも決まっていた。『どうも‥…私は映画には縁がありませんのでねェ‥…』そして、その表情の奥にはいつも『たかが映画なんか』という薄笑いが浮かぶのを私は見逃さなかった。」彼女によれば、映画に多少なりとも関心を示した政治家は、宮沢喜一と大平正芳と佐藤栄作の三人だけだったという。では、当時の社会党や共産党の政治家はどうだったのか。いささか興味のあるところではある。

映画と原作の関係の話に戻ろう。端的に言えば、映画と原作とは「別物」である。文字表現としての原作を映像表現としての映画にそのまま「翻訳」することなど、原理的に不可能なのである。(ただし、文字表現と映像表現とをともに見渡す言語の本質論的な観点からは、両者を融通無碍に論じることが可能であろう)そういうわけだから、映画が原作をいかに忠実に再現しているのかを映画評論の機軸に据えるのならば、映画は常に原作に劣るに決まっている。それは、映画の観方としてあまりにも不毛である、というよりほかはない。というか、実はきわめて頭の悪い映画批評法である。映画はあくまでも映画なのである


このあたりの機微について、高峰秀子が役者の立場からとても味わい深いことをいっている。「 どうして役をつかむか」という一九五七年の『キネマ旬報』に載った彼女のエッセイからの引用である。少々長くなる。「映画の根本は何といってもシナリオである。シナリオが悪かったらどんな名監督だってよい映画は作れない。それと同じように俳優にとっても、役をつかむ唯一の手がかりはシナリオである。私は、シナリオを手にしたら、まず自分を計算に入れずに白紙の状態でそれを何度でも読む。何度も何度も読みかえしながら、自分の気持ちをそのシナリオの世界に溶け込ませてゆく。(中略)原作のある場合は、原作には一度くらい目を通すが、それ以上は読まない。そして、脚本からだけではどうしても理解できないところだけパラパラとひもといてみるくらいである。映画をみる人全部が、原作を読んでいるとはかぎらないし、自分の役だけ原作に忠実に演じようとしたら、ひとりよがりの、自分にだけわかったようなものになるだけだからである。(中略)俳優にとって大切なことは、監督さんがその映画にどういう意図をもっているのか、絵がらはどうなるのか、つまりどんな映画にするつもりなのか、を理解するということがある。つまりその映画の中に自分がどうおさまるべきか、自分をパートの一つとして考えて見る事である。自分だけ熱演したり、自分の気持ちをおしつけたりすれば画面からはみ出してとんでもない作品が出来上がる。たとえば「二十四の瞳」は風景と子供が中心なのだから、自分の演技も、それと同一化したものにならなければならない。ここで百面相をして力んだら、作品をぶちこわすことになる。(中略)また、原作のイメージだけからミス・キャストだとか何とか批評する人がいるが、これもおかしな話である。前に述べたように、映画は大衆を相手とするものであって原作ものはなんでもかんでも原作通りでなけばならないというキマリはない。映画として納得できればそれで成功であると私は思っている。」ここには、誠実に役者の分限を守り実行しようとする者としてのゆるぎなさ、真実味、迫力が感じられる。私が「高峰秀子はタダモノではない」という思いを深めたのは、この言葉に接してからである。

「ケインズ革命」あるいは「ケインズ政策」にその名をとどめるジョン・メイナード・ケインズの、経済学上の師匠だったアルフレッド・マーシャルは、「経済学者は冷静な頭脳と暖かい心を持たねばならない」と言った。「経済学者は」を「役者は」と入れかえたならば、女優高峰秀子は深くうなずいたことであろう、とつい妄想をたくましくしてしまいたくなるくらいに、彼女の先の言葉にはある絶妙のバランス感覚が感じられる。男優では、森雅之に同質のバランス感覚を感じる。

話が拡散した嫌いがあるので、ここまでをまとめよう。私が言いたいのは、原作の『二十四の瞳』が仮に反戦童話であったとしても、それを映画にしたものが同様にそうであるとは限らない。特に映像表現の場合、映像が表現してしまっているものが命であるから、それをきちんと受けとめたうえで、いろいろと論じるべきであるということである。

そのうえで申し上げるのであるが、映画『二十四の瞳』の映像思想は、「神の独り言」としての悲劇的叙事詩であるところにその核心がある。木下恵介の、骨がらみの庶民派映像作家としての本能がそういう理解を求めている、と私には感じられるのである。彼は、日本民族のそれぞれの家族が避けようもなく経験した大東亜戦争の悲劇を共同体験としての映像詩に昇華しようと試みた。その試みが成功を収めたのかどうかの判断は、庶民としての観客ひとりひとりに委ねられる。表現対象の「値踏み」を完全に一般庶民に委ね、一般庶民から掛け値なしの高い評価を得た作品には、「偉大な」という形容こそがふさわしい。


勝負は、観客が高峰秀子扮する「小石先生」「泣きミソ先生」とどこまでいっしょにさめざめと泣けるかどうかなのである。

そう。当映画館に集った人々の反応から察するに、『二十四の瞳』は、文句のつけようのないほどの偉大な作品なのである。木下恵介は、いまだに当作品において、その「勝負」に勝ち続けているのだ。

話をさらに進めよう。

戦局が極限にまでその厳しさを増してきた一九四四年(昭和一九年・『二十四の瞳』の十年前)に、木下恵介は『 陸軍』という戦意高揚映画を作っている。それについていささか触れておこう。木下恵介の手になる戦争映画の本質をくっきりとあぶりだしたいと思うからである。そのことを通じて、「反戦」という理念を戦後民主主義に通有する平板な意味合い(戦争が終わった後にのこのこ顔を出して「オレは実は戦争に反対だったのだ」などと申し出るのはつまらないことである)を超えて深堀りすることにもなるだろう。結論を先取りしておけば、木下恵介の戦争映画は、いわゆる反戦映画ではないけれど、より深い意味で反戦の色彩を強く帯びた映画である、となる。


当映画のアウトラインについては、一九九九年一月に発行された『週刊ザ・ムービー 1944年』に要領良くまとめられた記載があるので、それを引用しよう。

これは、弱虫の息子が、両親の励ましによって立派な兵隊として戦場に赴くまでの物語を中心に、福岡のある一家の三代にわたるドラマを描いた作品。題名が示すように陸軍の企画で製作された作品であるが、軍はこの映画のラストシーンに対して批判的であった。そのラストとは、それまで気丈な態度をとっていた母親が、戦地に向かっていく息子を哀しみの表情で送るシーンで、見る者にとっては胸に迫る感動的な場面である。脚本では詳しく書かれず、検閲は通っているのだが、完成した映画を見て、陸軍は「軍国の母はこんなに女々しくない」と批判したのだった。戦後、このシーンは木下が大胆に戦争批判をしたと評価されている。母親に田中絹代、父親に笠智衆が扮したほか、杉村春子、上原謙、東野栄治郎らが出演している。火野葦平の新聞連載小説の映画化である。

また、その記載の右に注として「『陸軍』が公開されるや、問題のラストシーンに怒った陸軍将校が、松竹撮影所にサーベル片手に怒鳴り込んだといわれている。陸軍の批判を受け、木下恵介監督は松竹に辞表を提出、戦後まで閉居することになる」とある。


では、問題の「ラスト10分」をやや細かく見てみよう。母親役の田中絹代はその10分間を通して身体表現だけで、つまりほとんどせりふ抜きで、その心理的な陰影を余すことなく観る者に伝ええている。

気丈にも周りに、出征する息子を見送らない、息子の命はお国に預けてあるから、と言い放った母親(田中絹代)は、息子が家を出た後、エアポケットにはまりこんだような形でしんとした我が家に一人取り残される。戦陣訓をぶつぶつと唱えてはみるもののどこか浮かない。「軍国の母」に似つかわしいとは到底言えない心のうごめきを身のうちに感じ取るともなく感じ取っている。動揺が隠し切れなくなってきたところで、はるか彼方から進軍ラッパの響きがかすかに聞こえてくる。それに触発された瞬間に彼女の顔から「 軍国の母」のペルソナがずり落ちる。おもむろに外に出て、たすきがけをほどきながら、ラッパの聞こえてくる方角を本能的に確かめようとする。その視野に、同じく外に出てきた隣人が入るが一瞬それと気づかない。そのすぐ後にそれと気づいて気がなさそうに自動的にぺこりとお辞儀をする。(心そこにあらず、の微細な演出が冴えている)進軍ラッパの響きに誘われて身体がふらふらと彷徨いはじめる。彼女には、もはや戦地に赴く息子を一目見たいという一念よりほかになにもない。その一念が彼女の身体を導いている。途中けつまずいたりしながらも、ようやく進軍を取り巻く群衆に追いつく。熱狂的な群衆のなかで、小柄な母は息子の姿を行軍のなかに探し求めようとする。しばらくのときが経って、母はようやく息子の進軍に交じってともに行進する姿を探し出す。「あ、信太郎」というつぶやきとともに、伊藤久男と女性たちとの、悲壮感にあふれたマーチが響き渡りはじめる(伊藤久男は『イヨマンテの夜』が有名だ)。人垣をかきわけかきわけ、母はようやくのことで息子に追いつく。息子も母の姿に気づく。お互い、言葉を交わすわけにもいかず、万感の思いをこめてうんうんとうなずくばかりである。やがて、息子は胸を張りなおし、軍人としての自覚を取り戻そうとするかのように視線を母から前方に移す。息子の視線からはずれた母は、せりあがってくる思いに表情をくずす。なおも息子に追いつこうとするところで、母は、熱狂した群衆にもみくちゃにされ、アスファルトの地面にたたきつけられる。ようやく立ち上がった母は、こきざみに震えるちいさな両の掌を静かに合わせ目を閉じる。ジ・エンド。


おおよその感じは伝わっただろうか。(下にこのラスト10分の動画を掲げておきました)池袋新文芸坐の田中絹代特集でこのラスト・シーンを目の当たりにしたとき、私は不意打ちを喰らったような形で感動してしまい、終わってからしばらくはほの暗い館内の片隅で呆然としていた。そこには、時代の大波にもみくちゃにされながら生きていくよりほかにない、小舟のような存在であることをおのずから知り尽くしている国民の情感をわしづかみにして彼らに紅涙をしぼらせることに長けた、木下恵介の天与の才が鮮やかに示されていたのである。私は、『二十四の瞳』のみならず『陸軍』についても「民族の痛ましい記憶の共同体験としての浄化が織り込まれた叙事詩」であることにその本質を求めたい。いわゆる反戦映画であるなどとは到底言えないだろう。

また、このラスト・シーンには、木下恵介が文学の本質をきっちりとふまえた表現者であることも示されている、とも言えるだろう。本居宣長は、『排蘆小船』(あしわけおぶね)のなかできっぱりとこう言っている。「人の情のありていは、すべてはかなくしどけなくをろかなるもの也としるべし。歌は情をのぶるものなれば、又情にしたがふて、しどけなくつたなくはかなかるべきことはり也。これ人情は古今和漢かはることなき也。しかるにその情を吐き出す咏吟の、男らしくきつとして正しきは、本情にあらずとしるべし。」本居のこの言葉を『陸軍』に即して用いるならば、そのラスト・シーンにおいて木下は、「きつとして正しき」軍国の母がそのペルソナの下にひた隠しにしていた「はかなくしどけなくをろかなる」母の「本情」を鮮やかに描き切ったのである。そのことで、木下は、本作を人間の真実を表現した傑作たらしめた。そう言えるのではないだろうか。


木下恵介の戦争映画は、いわゆる反戦映画ではないけれど、より深い意味で反戦の色彩を強く帯びた映画である、という最後の論点に触れよう。

『陸軍』で田中絹代が演じた銃後の母の「本情」は、次の詩にこめられている、最前線で戦い露と消えていった名もなき兵士の魂にじかにつながっている。


アッツの酷寒は  
私らの想像のむこうにある。  
アッツの悪天候は  
私らの想像のさらにむこうにある。  
ツンドラに  
みじかい春がきて  
草が萌え  
ヒメエゾコザクラの花がさき  
その五弁の白に見入って  
妻と子や  
故郷の思いを  
君はひそめていた。  
やがて十倍の敵に突入し  
兵として  
心のこりなくたたかいつくしたと  
私はかたくそう思う。  
君の名を誰もしらない。  
私は十一月になって君のことを知った。  
君の区民葬の日であった。   

(詩集「白い花」(秋山清)より「白い花」昭和十九年)

この詩について、詩人の故吉本隆明は、こう述べている。「アッツ島玉砕の詩で、表面だけ見ると戦争詩、戦意を高揚した詩と受け取れるかもしれないが、そうではない。人間らしさを守ろうとする感情が、少しのうそもなく書かれていると思える。」(『詩の力』新潮文庫)

「人間らしさを守ろうとする感情」が避けようもなくそこに織り込まざるをえないあらがいの身振り、それをあえて反戦的なものと名付けるならば、その意味においてだけ、私はこの詩が反戦詩であることを肯おう。それとまったく同じ意味においてだけ、『陸軍』さらには『二十四の瞳』が反戦映画であることを私は肯おう。先に「木下恵介の戦争映画は、いわゆる反戦映画ではないけれど、より深い意味で反戦の色彩を強く帯びた映画である」と申し上げた所以である。「本情」の表出は、この世においては、どこかしらあらがいの様相を呈さざるを得ないものと思われる。その「あらがいの様相」が、楽天的な戦後民主主義のあずかり知らぬものであることはいうまでもない。

だから、戦後に生きる私たちが、反戦の思想的源泉を求めようとするのならば、戦中のただ中にわが身を一度は投じてみなければならないのである。そうして、ひとまず戦中とともに滅亡し、その灰の中から蘇ったものだけが、反戦の思想的肉体を成すはずである(この知的営みは、想像力の上限の活用を要するだろう)。

映像作家として、木下恵介は、そのことを熟知していたように思われる。彼の映像表現は、その核心において、戦中と戦後との断絶を内包していない。なぜなら、彼はその映像を庶民にさらし続けることで、表現者として庶民と喜怒哀楽を共にしたからである。

そのことを馬鹿にできる資格を持った戦後知識人が、果たして何人いるというのだろう。

私は、庶民の生活実感から遊離した前衛芸術家気取りのキザな気風を持った表現者を心の底から嫌い抜く者である。ここが私の左翼嫌いの根源である、と最近気づいた。あの小津安二郎は、人から「芸術家」と呼ばれるとがっかりした表情を浮かべたそうだ。で、「親方さん」と呼ばれると会心の笑みを浮かべたそうだ。私は、そういう小津がとても好きである。

http://www.youtube.com/watch?v=LU_Y52wNNK8 『二十四の瞳』(ダイジェスト版)



『陸軍』
 *全編をご覧になるのはちょっと、というお方は、ラスト10分だけでもご覧ください。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松田聖子 あなた (イザ!... | トップ | 消費増税、是か非か  「橋... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

映画」カテゴリの最新記事