美津島明編集「直言の宴」

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由紀草一の、これ基本でしょ その4 Brexitから民主主義を考える

2016年08月11日 19時08分34秒 | 由紀草一


ブレグジット(Britain+exit)即ち英国のEU離脱について、その政治的・経済的な是非を論ずることは私にはできません。結局のところ、英国にとって、また日本を含めた国際社会にとって、プラスであるのか、マイナスであるのか。そもそも、英国はいかなる条件でEUを離脱することになるのか、わかりませんので、それを詳細に論じるのは時期尚早でしょう。

私が面白く思ったのは、これに対する、日本の、様々な反応です。これはまちがった選択だ、というのが多いようですね。

ネット上で髙野孟氏のメルマガを見ましたら、6月21日付ロイター通信の論評が引用されており、要旨はぽぼそれに尽きています。「そこにあるのは、ナショナリズム、美化されたノスタルジア、エリートへの不信感、移民が犯罪を持ち込み雇用を奪うという警戒心だ」。これは確かにあるでしょう。同じような感情は、今までにもあったのだし、世界のいろいろな地域で見つけることができるでしょう。

ここから、問題が二つ出てきます。

(1)ロイターの論評氏や髙野氏は、ナショナリズム、などなどの感情を、当然のようにマイナスなものとみなしている。本当にそうなのか。
(2)髙野氏たちが正しいとしたら、そういう感情に動かされやすい国民を「主権者」とする民主主義を、どう考えるべきか。結果としてまちがいを犯しやすい、よくない政治制度だとすべきなのか。


(2)から先に述べます。「民の声は天の声」でしたっけ。民衆は常に正しく、少なくとも善なるもので、権力者こそが悪なんだ、と、日本では今まで、主にいわゆる進歩派が言っていましたっけね。ここへ来てそんなのウソだったんだ、これを口にした多くの人が、本音ではそんなの信じていなかったんだ、ということが暴かれたようです。

だってそうでしょう。ブレグジットはまちがっている、という見地からしたら、どうしてもそうなる。キャメロン前首相を初めとする政府は、ほとんどがEU残留を求め、離脱した場合には英国はどういう経済的な不利益を被ると予想されるか、データを挙げて国民を説得しようとしていた。民衆のほうが、ナショナリズムなんて古臭くてしょうもない方角の、決定をしてしまった。

「警戒心」を煽る右派の宣伝は、あったでしょう。だとしても、そんな宣伝に乗ぜられるほど民衆は愚かだ、ということに変わりはない。

念のために、すべての人に完全に正しい情報が与えられ、正しい判断ができれば……、なんて、理想じゃなくて、夢想に耽っちゃダメですよ。誰の目にもわかる完全に正しいことがあるなら、民主制も寡頭制も何も、そんな各種の制度自体がハナからいらない。相談もいらない。いろんな立場や考え方から、いろんな正義や利害が考えられてくるからこそ、選挙にもせよリーダーの決断にもせよ、集団としての決定の方法を定めておくことが必要になってくるわけで。

では、各種の制度の中でも、愚かな民衆に立脚していることがタテマエの民主主義はダメ、とすべきのか。そうとは言い切れないと思います。ここで、有名すぎるので気恥ずかしくなるのを抑えつつ、チャーチルの名言を思い出しておきましょう。

民主主義は、今まで試みられてきた他のすべてを除けば、最悪の政治形態と言われてきた」(It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried.)

民主主義は、ある特定の個人・集団だけが得をして、国の残り全部が不利益被るような施策は防げるだろう、少なくとも、そのためには一番有効であろう。それだけです。それだけで満足すべきなのです。「今まで試みられてきた他のすべて」の制度に、民主主義より後発の社会主義を加えても、できなかったことなんですから。

そして、民主主義の名において行われる害悪を最小限に止めるためにも、この断念は必要です

つまり、民主主義の究極の決定法と言うべき国民投票は、濫用してはならない、と言うより、最小限にしかやってはいけない。これははっきりしたようです。そこをより明確にするべく、どのようなところから今回の投票がなされることになったのか、ちょっと振り返っておきましょう。

国政に関する国民投票(referendum)は、イギリスでは、今回のを含めて今までに三回実施されました(一昨年の、スコットランド独立に関するものを含めて四回、と言う人がいますが、これはスコットランド住民のみの投票ですから、国民投票にはカウントしないほうが妥当なようです)。

最初のは、1975年、労働党の第二次ハロルド・ウィルソン内閣により、EUの前身であるEC(欧州共同体)離脱か残留かをめぐって行われたものです。ECへの加盟は、保守党のエドワード・ヒース内閣によって決定されたのですが、労働党は、加盟そのものには反対はしないものの、加盟条件を見直すべきだとしていました。

労働党は、その名の通り国内の労働者保護が第一の党是ですから、労働者市場を含めた国内市場の、少なくとも部分的な開放の結果、国内産業及びその従事者(=労働者)への悪影響が懸念される欧州連合構想には、消極的か慎重にならざるを得ませんでした(その後、英国とヨーロッパとの関係の変遷につれて、英国保守党と労働党の政策も変わりましたが、現在の労働党はこの、1975年当時の立場に近いところにいるようです)。

そのため、ウィルソンは、政権を失った後の1974年の総選挙を、労働党内部の根強いEC加盟反対論を宥めるためにも、次の二つを公約して戦いました。①ECとの再交渉と、②その成果を踏まえたうえで改めてEC加盟の賛否を広く問うための国民投票。

翌年彼が連立内閣で首相に返り咲いてから実施された投票結果は、67%対33%の、ダブルスコアで残留派が勝利しました。

こうして英国は、主権者による直接決定というパンドラの箱を開けてしまったのです。

ただし、この時のも今回のも、国民投票の法文自体には法的拘束力をうたっていません(2011年の、選挙制度改革に関する国民投票のみ、政府は投票結果に拘束される、とされました)。「参考」に止めておいても、違反ではないのです。とは言え、結果を無視する、なんてわけにはいかない。それでは第一、なんのための投票だ、ということになりますから。

また、そのつどの特別立法によって行われる(まず国民投票のための法律を制定してからやる)もので、「~の場合には実施されなくてはならない」なんてものでもない。が、またしても「とは言え」なんですが、一度やってしまったものを、同じようなケースでやらないとしたら、やっぱり「なぜ今回はやらないのか」の理由が必要であるようにも感じられてくるでしょう。そう詰問する人は必ずいるでしょう。

その代り、政府の思い通りの結果が出たときには、国民投票はウルトラマンのスペシウム光線のようなものです。それがなくても怪獣には勝てるところを、最後をカッコよく決めるために使われる技で(このへんは呉智英氏が以前書いておられたことを勝手に変えて使っています)、最初から出せば三分ルール(ウルトラマンが地球上でウルトラマンでいられる制限時間)も気にせず簡単にすむだろうに、なんで出さないの? と幼い頃の私は思っておりました。が、やっぱり見世物にはスリルが必要で、それを経た上での勝利だからカタルシスもあるわけでして。

いやもちろん、国民投票はそれだけではない。国民中の有権者=庶民に、一国全体の問題について周知させる効果はある。知らない人はそれでもやっぱり知らないでしょうけど、やらないよりはマシでしょう。そして勝利の暁には、日本の安保法案について未だに言われているような、「その政策は民意に反しておるぞ」なる非難の声は封ずることができる。

生憎、現実は、スリルがスリルだけでは終わらないときもある。キャメロンは、政府要人のほとんどは残留派だし、自分がやったEUとの交渉では、ウィルソン以上の成果を挙げたのだという自負もあって、勝利を確信していたようですが。

あにはからんや、の結果が出たとき、法的な義務はないにもかかわらず、投票結果に従うこと、そのための指導者として自分は不適当だとして辞任を表明したのは、立派だったと思います。後任のテリーザ・メイも、自身も残留派でありながら、再投票などで以前の結果を覆すような試みはしない、と明言したのは、妥当としか言いようがない。

だってそうでしょう。二回目の投票で一回目とは違う結果が出たとしたら、どちらが「本当」なのか。「本当」にも二つの意味が考えられて、「どちらが国益のための正しい決定か」と「どちらが正しく民意を示しているか」。これを決定するために、三回目の投票が必要であるように考えられてきて、それをやると、三回のうちどれが「本当」かで……、以下、これが無限に繰り返されかねません。

本当は、「国益」にせよ「民意」にしろ、固定したものではなく、従って完全な「正しさ」などどこにもありません。だからこそ、投票その他の決定手段が必要になるんです、と、ここは肝心なポイントだと思うので、しつこく繰り返しておきます。

とは言え、というか、だからこそ、なんでしょう、たった一度の投票結果ですべて決定済みにしていいものか、という思いもどうしても消えない。殊に今回のような、48%対52%の僅差となると。この結果は、半分近くの国民がEU離脱には反対であることをも、明らかに示してしまっていますから。
国民投票の怖さはここにあります。国論だけではなく、国民そのものを二分しかねないところが。

もっとも、スイスのような、直接民主制で、年中国民投票をやっている国はどうなのか、もう慣れてしまっているから平気なんでしょうかね。「慣れの力」って、けっこう大きいですから。しかし、たとえそうだとしても、例えば永世中立のような根本的な国是を変えるための投票を将来やったらどうなるか、それは予想の限りではないんじゃないですか?

すると、どうも、間接民主主義である代議制のほうがマシなようだな、と思えてきませんか? これについて、高野孟氏も引用している成田憲彦氏の意見は、急所を突いているようです(『讀賣新聞』6月26日、「論点スペシャル」)。

代議制の大きな利点は、政府責任のシステムが使える点だ。もし国民投票で誤った選択がなされた場合、誰が責任を取るのか。この点で行き詰る。代議制なら、代表者や党派に責任を取らせることで、方向転換が可能になる。

よく、「政治家が悪いと言うけれど、そんな政治家を選挙で選んだ国民にも責任があるじゃないか」と言われ、正論のようではあるんですが、国民にどうやって責任を取らせるのかわからないので、話が終わってしまいます。

ところで、国民はこの場合、無責任でいいんだ、と憲法に明記されていることはご存知でしたか? 第十五条の4項です。「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」。だから選挙人=選挙権があるすべての国民は、買収や利益供与によって投票するのでない限り、ヒトラーを選んだとしても、「公的にも私的にも」責任を問われることはないのです。

再び、責任を取らせようったって、具体的にどうするんだ、でだいたい話は終わりますから、あまり深くは考えられないのですが、これは「君主無答責」原則を主権者たる国民に応用したものだと見ることができます。君主は、間違えたとしても、その責任は問われない。立憲君主国にはよくある規定で、大日本帝国憲法下の日本もそうでした(部分的には、天皇が「国家元首」から「象徴」になった今でもそうです)。

で、ここからが私の言いたいことなんですが、国内では至高の決定力である主権sovereigntyの持ち主は、間違いは犯せない。間違った、とはっきりしても、認めることができない。「至高」の度合いが低くなるから、と言うか、そういうのはもう「至高」ではないからです。

そんな存在に、実質的な選択・決定をさせるのは非常にまずい。逆から見ると、人間が、個人でも集団でも、決して間違いを犯さない方法は、たった一つ、何もしないことです。これがイギリス王室の「君臨すれど統治せず」の原則であり、日本も、多少の例外はあっても、明治以来それでやってきたのです。
国民は、天皇と違って、議員を選挙で選ぶという政治上の決定を実際にしますんで、「何もしない」わけではありません。でも実際の政治は、選ばれた者たちがやる。そこで何か間違いがあったら、それはその政治家の責任であるから、引責辞任させたうえで、新たな政治家に訂正させればよい。それで取り返しがつく。「間違いを犯すような政治家を選んだ責任」は、あったとしても、遠い所にあるんで、忘れることができる。なんだか幾重にも欺瞞が働いているような気がしますが、あまり深く考えなければ、最悪の事態はなんとか防げそうではありますね。

他にいい代替案が見つからない以上は、政治は当分、これでやっていくしかないのではないでしょうか?

それでも、日本で国民投票をやらなくちゃいけない場合があります。憲法を改正する時。何しろこれ、条文に明記されてますんで(日本国憲法第九十六条)。

ここへきて、進歩派とか護憲派と言われている人たちのうち何人かが、これはどうも危ない、と言い出していますね。参議院選で、改憲派に三分の二超の議席を与えるほどバカな国民に、憲法を決めさせるなんて、というわけで。まあ、私も「危ない」の部分は同意見ではあるんですけど。しかし、「国民主権」を憲法の三大原則の一つだとしたのは彼らのお仲間だったはずなんで、それにはきちんとケジメをつけてもらわないと、どうも信用できない。

いずれにしても、「国民投票はやめよう」とか、「過半数による決定じゃなくて、せめて国会と同じ三分の二以上にすべきだ」などと唱えるのはいいですが、そう変えるのにも既定の方法で、つまり国民の過半数の賛同を得なくてはならないわけですから。「一般国民はバカなんだ」の前提では、どのみちよい結果が期待できないわけでしょう。

私は、憲法九条改正論者です。しかし、国民投票の結果否決されたら、しょうがない、だからと言って日本を脱出したくもないので、従うしかない。自分が絶対に正しいとは思っていませんから。いや、思ってますけど、それがすべての人に認められるとも、認められるべきだとも思っていませんから。他のより少しはマシな制度である民主主義を守るためには、そこは覚悟するしかないでしょう。

もうけっこう長くなりましたので、(1)のナショナリズムについて述べるのは、次回にしたいと思います。ご親切に拙文を読んでくださっている方々は、どうぞご期待ください。

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