美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

日本軍の失敗から私たちが学べること(その2) サイパン島陥落

2014年06月09日 02時50分15秒 | 歴史
日本軍の失敗から私たちが学べること(その2) サイパン島陥落

インパール作戦が行き詰まり中止された昭和十九年(一九四四年)七月四日、中部太平洋ではサイパン島が失陥しようとしていました。しかし、「サイパン島陥落」と言われて、ピンとくる現代日本人はおそらくほとんどいないのではないでしょうか。それ以前に、太平洋の地図をパッと広げられて「どこがサイパン島か指差してみろ」と言われるとまごつくだけでしょう。ましてや、「ガダルカナル島は?ラバウルは?」と詰め寄られると万事休すということになるのではないでしょうか。もちろん、身に覚えがあるので、そう言っているのです。太平洋の島々に思いを馳せることって、なかなかありませんからね。その意味で、まずは下の図をご覧いただいて、お互い地理感覚を養いましょう。常識的なレベルでの地理感覚抜きで歴史を論じてもしょうがないですからね。


太平洋戦争激戦地

上の図の赤い印が、日米軍の激戦地です。それらの戦いを時系列順に並べてみましょう。

まずは、図の右端中央のパール・ハーバーから。これはもちろん、昭和十六年(一九四一年)十二月八日ハワイ真珠湾奇襲攻撃です。ご存知のとおり、(空母を撃沈しなかったことなど問題点はいろいろとありますが)日本軍の圧勝でした。

次は、その左ななめ上のミッドウェー島です。昭和十七年(一九四二年)六月五日のミッドウェー海戦で、日本軍は、空母四隻を失って大敗を喫しました。この戦いが、大東亜戦争における海戦のターニング・ポイントとされています。

次は、図の真ん中下のガダルカナル島です。前回詳しく述べたガダルカナル島の死闘は、昭和十八年(一九四三年)二月一日日本軍の撤退開始という形で終結しました。この戦いが、大東亜戦争における陸戦のターニング・ポイントとされています。

次は、図のいちばん上のアッツ島です。昭和十八年(一九四三年)五月二九日、三〇〇〇人の日本軍守備隊が全滅しました。太平洋戦線における日本側のはじめての玉砕でした。

次は、図の左端中央のインパールです。インパール作戦については、前回詳述しました。昭和十九年(一九四四年)七月四日、大本営は同作戦を中止しました。

その次が、図のほぼ中央のマリアナ諸島です。マリアナ諸島全域が激戦地であったと言っても過言ではありませんが、サイパン島がその中心です。昭和十九年(一九四四年)七月九日、サイパン島の日本軍は全滅し、米軍スプルーアンス大将は勝利宣言を発しました。

以下、地図中の激戦について年表風に触れておきましょう。
昭和十九年(一九四四年)十月二十五日、日本海軍、レイテ沖海戦敗北
昭和二〇年(一九四五年)三月十七日、硫黄島の日本軍守備隊全滅
(同年三月十九~二〇日、東京大空襲)
同年六月二三日、沖縄の日本軍全滅

さらに、その後の大戦の流れを記しておきましょう。

同年八月六日、広島に原爆投下
同年同月八日、ソ連の対日参戦(スターリンによるヤルタ会談の密約実行)
同年同月九日、長崎に原爆投下
同年同月十四日、ポツダム宣言受諾決定
同年同月十五日、天皇、「戦争終結」の詔書を放送

話を、サイパン島陥落に戻しましょう。当たり前のことですが、反攻に転じた米軍は、いきなりサイパン島を攻撃してきたわけではありません。日本軍の、太平洋の西半分に伸びきった戦線を着実に縮小させるように、システマティックかつ計画的に攻めてきたのです。次の図をご覧ください。



                  勢力圏と戦線と絶対国防圏

米軍の反攻が、ガダルカナル島から始まったことは、前回申し上げました。反攻の第一手として、そこが絶妙のポイントであることが上の図から分かりますね。そこを攻略した後、米軍統合参謀本部は、ふたつの反攻ルートを検討しました。ひとつは、「ソロモン諸島→ラバウル→ニューギニア→フィリピン諸島→台湾→日本本土」ルートで、もうひとつは、「ギルバート諸島→マーシャル諸島→トラック諸島→マリアナ諸島→硫黄島→沖縄→日本本土」のルートです。前者は、南西太平洋方面軍を率いるマッカーサー陸軍大将の主張であり、後者は、それ以外のすべての太平洋地域の指揮権を持つニミッツ太平洋方面最高司令官やキング作戦部長の主張でした。マッカーサーとニミッツの対立関係は有名です。ガダルカナル島を巡る作戦の主導権はとりあえずニミッツが握ったのですが、その後の反攻ルートをめぐるふたりの主張は、平行線をたどっています。統合参謀本部はミニッツ寄りの姿勢を示し、“ラバウル攻略は物的人的資源の耐えがたい消耗を招く」と結論づけました。しかし、ニミッツ・反攻ルートについても、日本本土進攻計画は時期尚早としました。

いささか話が詳細に渡りましたけれど、要するに、ニミッツの反攻ルートとマッカーサー反攻ルートのいずれも、日本の膨張した戦線を着実に少しずつ縮小させる計画的なものであることを確認したかったのです。また、サイパン島攻略が、米軍にとって必然的なものであったことも、おおむねお分かりいただけるのではないでしょうか。

なかなかサイパン島攻略の話にストレートに入れなくて申し訳ありませんが、もう一点、図中の「絶対国防圏」に触れておきましょう。これに触れるには、まず、一九四三年(昭和十八年)九月五日のイタリア降伏の影響について話す必要があります。『太平洋戦争』から引きましょう。

イタリアの枢軸脱落で、ドイツはその下腹から連合軍の脅威を受ける形となり、日本が期待したドイツによる英国打倒、その結果にもとづく米国の戦意喪失という場面は、もはや望むべくもなくなった。イタリアの敗北は、地中海の制海権、制空権が、連合軍の掌中に落ちたことを意味する。(中略)さらに地中海で不要となった連合国艦隊、とくに英艦隊のインド洋回航が見込まれ、イタリアの降伏は、太平洋の戦局にも重大な影響をおよぼすことが予想された。

「電撃」ドイツ軍の足手まといのような存在で、ヒトラー総統の頭痛の種であり続けた弱いイタリア軍でしたが、降伏してしまうと、その影響は甚大だったのです。また日米の戦局も攻守ところを変えて、日本が守勢に回ることが確実でした。それに加えて、船舶事情・造船事情・陸上兵力・航空兵力もすべて憂慮すべき状態でした。長期展望なき(戦略なき)作戦計画のツケが回ってきたと言っていいでしょう。そこで、日本政府は、同年九月三〇日、従来の″長期不敗″を改め、「今明年内に戦局の大勢を決する」ことを目途とし、絶対確保すべき要域を「千島、小笠原、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む太平洋及び印度洋」と定めました。防衛戦を縮小して内を固めようとしたのです。それが、絶対国防線です。

絶対国防線に含められた「内南洋」とは、南洋諸島のことです。一九一八年一月十八日、ベルサイユで開かれた第一次世界大戦の講和会議で、日本は赤道以北の太平洋諸島の統治を委任されることになりました。南洋諸島は、日本の委任統治領になったのです。一般的な「南洋」という言葉と区別するために、 日本が統治する南洋群島を当時「内南洋」と呼びました。また、その外側のフィリピン、ボルネオ、ジャワ、シンガポール、ニューギニア、ソロモンなどを「外南洋」と呼びました。そうして、内南洋の主だった島に支庁が置かれました。当時の日本が、本気で内南洋を統治しようとしたことが、そのことからもうかがわれます。グアム島に支庁が置かれなかったのは、同島が、一八九八年以来ずっと米国領であったからです(一九四一年に日本軍が占領しましたが、一九四四年に奪還されました)。



               戦前における日本の委任統治領

サイパン支庁がマリアナ諸島を管轄し、パラオ支社・ヤップ支社・トラック支社・ポナペ支社がカロリン諸島を管轄し、ヤルート支社がマーシャル諸島を管轄しました。つまり内南洋は、マリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島の三つの諸島で構成されていました。そのうち、マーシャル諸島は、絶対国防線から外されました。しかし、海軍のトラック確保のためには、マーシャル諸島という前衛拠点が必要となります。実際、日本が絶対国防線を設定した四ヶ月後にマーシャル諸島来攻を敢行した米軍を、日本軍は迎え撃っています。その意味で、絶対国防線はけっこうあいまいだったのです。

ところで、上の図を見ていると、サイパン島が、ほかの内南洋地域と日本本土とをつなぐ中継地の位置にあることが分かります。そういう位置にある地域は栄えることになっていますね。実際そうだったようで、Wikipediaは、当時のサイパン島の繁栄の様子を次のように伝えています(一部、表現・表記を変えてあります)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E5%B3%B6#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E7.B5.B1.E6.B2.BB.E6.99.82.E4.BB.A3

日本の委任統治領となった後、サイパン島は内地から南洋への玄関口として栄え、サイパンで産出された砂糖の積み出し港としての役割にとどまらず、同じく日本の委任統治領であるパラオやマーシャル諸島、カロリン諸島などとの間での貿易の中継地点としても発展した。この時期に、プランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、日本(主に沖縄県出身者)や台湾、朝鮮からの移民が移住した。

その間、準国策会社の南洋興発株式会社(本社所在地はサイパン島・チャランカノア)がサイパン島、ロタ島、テニアン島に製糖所を建設し、アジア最大の製糖産地として発展させた。設立者(社長)の松江春次は、「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれ、彼の功績が称えられて、彩帆(さいぱん)神社境内に「彩帆公園(現砂糖王公園)」が造園され、現職社長としては異例の寿像が建立された。

一九四三年八月の時点での人口は日本人(台湾人、朝鮮人含む)29,348人、チャモロ人、カナカ人3,926人、外国人11人となっていた。


サイパン島には、約三〇〇〇〇人の無辜の民間人がいたのです。そこが、それまでの戦いと大きく異なる点です。内南洋全体で、一九三九年頃には七〇〇〇〇人以上の民間人がいたそうですから、本土帰還の流れを勘案すれば、一九四三年八月時点で、内南洋全体の約半分の人口がサイパン島に集中していたことになりそうです。その後、本土疎開がなされたので、戦闘開始段階での在留邦人は約二〇〇〇〇人と推計されています。

この二〇〇〇〇人がどうなったのか。サイパン島の戦いに関して、私はそれがいちばん気にかかります。というのは、私は以下のように考えるからです。近代国民国家の戦争は、それが追い詰められてやむを得ず始めたられたものであろうと、なんであろうと、国益を守るためになされるべきものです。君主の私権のためになされるべきものではない、ということです。そうして、国益の核心には、無辜の一般国民の生命を守ることがあります。つまり、無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを絶った戦争に、義はない。だから、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければなりません。つまり、私は大東亜戦争のそれぞれの局面にできうることならば義とのつながりを求めようとするがゆえに、二〇〇〇〇人の行方が気にかかるのです。言いかえれば、「速に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す」という開戦の詔勅の精神をあくまでも尊重しようということです。これは、大東亜戦争が、大和民族にとって壮大な失敗体験であったことと必ずしも矛盾しません。失敗経験を重ねたりそれに巻き込まれたりしながらも、義を求めようとすることは可能であるからです。そういう姿勢を保持しえたならば、私はそこに義を認めようと思っています。

たとえば、硫黄島の死闘における栗林忠道中将の作戦思想に、私は義を認めます。なぜなら彼は、兵隊たちの命を決して粗末にしないという原則を貫き通すことによって、理にかなった作戦を展開することができたからです。「兵隊たちは一般国民ではなかろう」というのは屁理屈にほかなりません。兵隊たちの命を決して粗末にしないという原則を貫き通す姿勢に、無辜の一般国民の生命を守る精神が保持されているのです。たとえ絶体絶命の閉塞状況においても、人は合理性を貫き通すことによって、義とのつながりをキープしうるのです。そうして、あくまでも合理性を貫こうとすることにおいて、精神の強靭さが発揮される。それこそが、本当の精神主義なのではないかと私は考えます。硫黄島の戦いについては、ほかの戦いと同様に、いろいろな議論があるようですが、私はそう考えます。



                 サイパン島

では、二〇〇〇〇人は日米両軍の死闘のなかで、いったいどうなったのでしょうか。ふたたび、Wikipediaから引きましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.B1.85.E7.95.99.E6.B0.91.E3.81.AE.E6.9C.AC.E5.9C.9F.E7.96.8E.E9.96.8B

戦闘の末期になると、多くの日本人居留民が島の北部に追い詰められ、アメリカ軍にとらえられることを避けるためバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。多いときでは1日に70人以上の民間人が自決したといわれる。民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、当時の多数の日本人が信じていた「残虐非道の鬼畜米英」や帰国船撃沈事件の恐怖イメージのためにほとんど効果がなかった。また退避中の民間人に米軍が無差別攻撃したため、民間人の死傷者が続出していたことも影響した。サイパン島の日本軍が民間人に対する配慮を欠いていたことも自決の原因として指摘される。この点、テニアンの戦いでは日本軍が民間人に対し自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかったのと対照的である。
(中略)
戦闘終了後、アメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容した。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人となっている。逆算すると8,000人~10,000人の在留邦人が死亡したとみられる。

大本営は「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し、当時の日本の新聞各紙も上記『タイム』の記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。(中略)半数以上の民間人がアメリカ軍によって保護されたことは一般国民には伝えられなかった 。

戦闘終了後にアメリカ軍が生存者に対して行ったアンケート調査では、サイパンの日本兵が民間人にガダルカナルの戦い(日本の民間人がいなかった)で民間人がアメリカ軍に虐殺され女子は暴行された話を語っていたことが、サイパンの日本人民間人がアメリカへの投降を躊躇わせた原因として挙げられている。


民間人二〇〇〇〇人のうち、約半数は米軍に保護されることによって一命を取り留めたのでした。ということは、単純な引き算ですが、約半数の一〇〇〇〇人が戦闘の犠牲になった。『太平洋戦争』によれば、スプルーアンス大将がサイパン占領を声明した一九四四年七月九日に、約四〇〇〇人の日本人(そのほとんどが民間人)がサイパン北端に追い詰められたそうですから、そのなかの少なからぬ人たちが、バンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決したことになります。

サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した、という主張がおもに保守系の論客からなされる場合があります。その場合の論拠は、どうやら田中徳祐氏の『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』のようです。私は未読ですが、実際にサイパン戦を戦った者の証言ですから、そこには、自ずからなる説得力があるのでしょう。

また、児島襄の『太平洋戦争』においても、サイパン戦における米軍の民家人に対する虐殺行為や米軍兵の日本人に対する憎悪の強さがきちんと書き記されています。

サイパン米軍の″掃討前進″は徹底的だった。どんな小さな洞穴、くぼみ、草むらも見逃さず、前方に動く影には容赦なく銃弾を浴びせた。このため、日本兵だけでなく、水を求め、かくれ場所をさがしてさまよう市民も、すくなからず射ち倒された。
                     *
七月三日、第二海兵師団第二連隊は、ガラパン町(精糖・水産・牧畜等で繁盛したサイパンの中心地で、料理飲食店が九五軒を数えた―――引用者注)に入った。かつて繁華を誇った町も、いまは焼け焦げた柱とトタン板が散乱する瓦礫の街だった。人間と動物の死体が路上にころがり、死臭が霧のようにたちこめていた。
                     *
米兵たちは、日本人を憎んでいた。その憎悪が、呵責ない掃討作戦を支えていた(後略)。


「鬼畜米英」のイメージを叩き込まれてそれを素直に信じていた人々が、兵と民間人の区別なく無慈悲に掃討作戦を繰り広げる、赤い顔をした阿修羅のような巨漢の群れに臨んで恐怖のどん底に叩き込まれ、パニックに陥ったとしても何の不思議もありません。また、戦場という命のやりとりをする極限状況において、圧倒的な優位にあることからくる不埒な征服感に突き上げられ、日本の女性たちを強姦する不届者の米兵もおそらくいたことでしょう。戦争には、人間の暗黒面を誘発する側面があることはつとに語られています。

だから、サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した、という主張には、たとえ田中徳祐氏の著書における数々の証言の真偽をカッコに入れたとしても、傾聴に値する側面があるものと思われます。

しかし、だからといって、″「生きて虜囚の恥ずかしめを受けるなかれ」という戦陣訓の縛りによって、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺した、と私たち日本人が信じてきたのは誤りだった。それは、戦後のGHQに叩き込まれたウォー・ギルド・インフォメーション・プログラムによる洗脳にほかならない″と主張するのは、私には極論であるように感じられます(そうであってくれれば、分かりやすくていいのですが)。

私が申し上げたいのは、サイパン島民間人二〇〇〇〇人の約半数を死に至らしめたのは、米軍だけではないということです。むろん現象としては、そういう様相を呈します。敵味方に分かれて戦争をしているのですから、それは当然のことです。しかし、大東亜戦争の展開過程を見渡すならば、失敗に次ぐ失敗を積み重ねてきた軍の上層部こそが、彼らを追い詰め、死に至らしめた張本人たちである、という感慨を私は禁じえないのです。また、そこには、戦争の義の問題も深く絡んでいます。

こういうことを観念的にぐだぐだと言っていてもしょうがありません。具体的にお話ししましょう。

まずは、島にいたら戦争に巻き込まれていることが分かっているのに、なぜ二〇〇〇〇人もの人々が、米軍上陸時に島にいたのか、という点について。その点については、日本政府も気づいていました。米軍のサイパン島上陸(六月十五日)の四ヶ月ほど前に、兵員増強の輸送船の帰りの船を利用して、内南洋に住んでいる婦女子・老人の日本本土への帰国が計画されました(十六歳~六十歳の男性は防衛強化要員として帰国が禁止されました)。その計画によって、日本への帰国対象者はマリアナ諸島各島からサイパンへと集結しました。しかし、三月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水艦に撃沈され、五〇〇名の民間人ほぼ全員が死亡する事件があったため疎開はなかなかはかどりませんでした。そのほか、六月四日沈没の「白山丸」などでも多数の民間人犠牲者が出ています。アメリカ海軍は、太平洋戦争開戦当初から民間船への無差別・無警告攻撃を行う無制限潜水艦作戦を実施していたのです。そのため、二〇〇〇〇人もの民間人が米軍上陸時に島にいることになってしまったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.B1.85.E7.95.99.E6.B0.91.E3.81.AE.E6.9C.AC.E5.9C.9F.E7.96.8E.E9.96.8B

では日本軍は、なにゆえ米軍の無制限潜水艦作戦に対処できなかったのでしょうか。それは、端的に言えば、米軍にマリアナ諸島近海の制海権と制空権を握られていたからです。

さらに、ではなぜ米軍にマリアナ諸島近海の制海権と制空権を握られていたのでしょうか。それは、昭和十七年(一九四二年)六月五日のミッドウェー海戦で空母四隻を失って大敗を喫してからずっと、太平洋の島々の攻防戦において負けがこみ、日本の勢力圏が着実に縮小し続けたからです。

つまり、サイパン島民間人の帰国がうまくいかなかったのは、負け戦が続いたことの当然の帰結であった、と結論づけざるをえないのです。

以上を踏まえたうえで、『太平洋戦争』からの次の引用をご覧ください。それは、六月二十四日に参謀本部が下した、サイパン放棄に関する記述が見られる「機密戦争日誌」からの孫引きです(ちなみに、「機密戦争日誌」は、大本営陸軍部の第二〇班(戦争指導班)の参謀が、毎日の業務を交代で記述し、庶務将校が清書した、第二〇班としての業務日誌です。第二〇班の業務は、戦争指導に関する事務と大本営政府連絡会議に関する事務でした。だから、当日誌には、当時の政府と陸軍さらには海軍が、戦争指導についていかに考え、いかに実行しようとしたかが記録されている、と言えるでしょう。これに類する記録は、政府側にも海軍側にも残されていません。だから、当日誌は、当時の政府と陸海軍の戦争指導について知り得る第一級史料であるといえるでしょう)。

海軍は『あ』号作戦に関し陸軍と協議の上、中止するに決す。即ち帝国はサイパン島を放棄することとなれり。来月上旬中にはサイパン守備隊は玉砕すべし。最早希望ある戦争指導は遂行し得ず。残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ。

継戦中の戦争指導者たちの口から、「最早希望ある戦争指導は遂行し得ず」という事実上の敗北宣言の言葉が洩れているのには、正直ビックリしてしまいます。また、なんと無責任な、という思いも禁じえません。そういうお話しをする前に、引用文中の海軍の「あ」号作戦に触れておきましょう。

軍令部によれば、「あ」号作戦とは「我が決戦兵力の大部を集中して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を撃滅して敵の反攻企図を挫折」させようとする決戦方針でした。小沢中将が、その任務を遂行する第一艦隊(空母九、戦艦七など)の総責任者となりました。当初決戦海面は、パラオ近海とされていましたが、米軍のサイパン攻略が明らかとなった段階で(上陸は六月十五日未明)、小沢部隊はサイパンに急進しました。

六月十九日午前10時に火蓋を切られたマリアナ沖海戦は、米軍側の″マリアナの七面鳥打ち″という俗称からもうかがわれるように、惨敗に終わりました。一年がかりで養成した日本母艦部隊は、わずか二日であっけなく壊滅してしまったのです。敗因は、いろいろとあるのでしょうが、航空部隊搭乗員の未熟さが決定的でした。これまでの戦いで、日本軍は、あまりにも多くの有能な熟練搭乗員の命を失ってしまっていたのです。

これで、サイパン島守備隊は、自国の艦砲射撃や航空部隊の援護を受けられなくなりました。それで、先の「機密戦争日誌」の文言が繰り出されることになるのです。しかし、東条参謀総長は「サイパンは難攻不落です」と海軍側に胸を張って言明していたのではなかったでしょうか。それを思うと、児島襄の次の激しい言葉はもっともであるという思いを禁じえません。

しかし「サイパン確保の自信あり」の公言はどうなったのか。参謀本部の自信は、海軍に頼ってのことではなく、陸軍独力で島を保持できる意味のはずだった。それなのに、かくもあっさり放棄を決めるとすれば、参謀本部の公言は世にも無責任な虚勢であり、サイパン三万人の将兵と二万人の市民は、ただその虚勢のために砲火にさらされたことになる。東条首相はサイパン邦人に対して激励電報を打つことを提案したが、あまりにしらじらしい措置だとして、大本営政府連絡会議で否決された。

私は、軍指導部が負うべき責任は、上の児島襄の激語にとどまるものではないと考えます。軍指導部は、「最早希望ある戦争指導は遂行し得ず」という事実上の敗北宣言をしています。とするならば、指導部が考えるべきは、自分たちの、指導者としての失敗の責任を深く反省した上で、この失敗した戦争をなるべく早く終わらせて、兵士と無辜の一般国民のこれ以上の犠牲を防ぐにはどうしたらよいのか、です。それは、国体の護持を図ることと結局は同義です。その実現のために、指導部は、身を挺するべきだったのです。

しかるに指導部は、敗北宣言を発した舌の根も乾かぬうちに、「残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」と口走っているのです。これは、最高責任者としてのノーブレス・オブリージュ(高貴な者であるがゆえの責任)を放棄し、失敗のツケを国民に回そうとする恥知らずの言葉であるのみならず、大東亜戦争から義を奪う言葉でもあります。なぜなら、さきほど申し上げたとおり、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければならないからです。「残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」という言葉を発する精神は、それと正反対のものです。

その「一億玉砕」には、当然、サイパン島民間人二〇〇〇〇人が含まれます。つまり軍指導部は、サイパン島民間人二〇〇〇〇人の玉砕を是としたことになります。だからこそ、約一〇〇〇〇の民間人がアメリカ軍によって保護され一命を取り留めたことは一般国民には伝えられなかったのです。アッツ島で玉砕したのは将兵でした。サイパンの戦いでは、将兵のみならず民間人まで玉砕し、かつ、そのことが称揚されたのでした。救いようのないほどの酷い敗北をあえて称揚しようとする構えは、ボロ負けの敗者に特有の倒錯的な精神勝利法であると認識したほうがよいのではないでしょうか。むろん、その死それ自体は、掛け値なしに悼まれるべきですが。

このように筋道を立てて考えれば、サイパン島民間人二〇〇〇〇人を追い詰め、その約半数を死に至らしめ、バンザイクリフやスーサイドクリフから身を躍らせることを余儀なくさせたものの正体は、上陸した米軍であるというよりも、むしろ当時の日本の戦争指導部であると結論づけるほうが、正鵠を射ていることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

そこから汲み上げることができるのは、日本人の(すくなくとも近代以降の)権力思想には、民草の命を奪うことを美名の下に是とする暗黒面が存するという認識ではないかと思われます(それは、デフレ期にブラック企業が猖獗を極めることと通じているような気がします)。にもかかわらず、われわれ近代人は、国家権力の存在を自らのものとして引き受けるほかないと考えるところで、おそらく、私は反権力思想なるものと袂を分かつのではないかと考えています。

ひとつ付け加えなければならないことがありました。サイパン島攻略の成功によって、米軍は、日本本土を戦闘機で爆撃することが可能になりました。それを技術的に可能としたのは、B29長距離爆撃機の登場です。B29は、三万フィート以上を飛び、高射砲弾を受ける心配が少なく、戦闘機による迎撃も困難なほどの高々度を飛びます。サイパン島から、新兵器のB29が飛び立ったならば、東京・大阪・名古屋・北九州を含む日本列島の約半分が、その射程に入ってしまうのです。当時の日本の戦争指導部は、「本土決戦による一億玉砕」などと沈痛な面持ちで妄想をふくらませて息巻いていましたが、サイパン陥落は、将棋のたとえを使うと、相手から大手を指されるに等しかったのです。
                                                                                     (この稿つづく)

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