美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一の、これ基本でしょ? その2(熊本地震に関連して、オスプレイと川内原発)

2016年05月14日 12時09分59秒 | 由紀草一
〔編集者より〕由紀草一氏の、時事問題シリーズ第2弾です。今回のテーマは、熊本地震の救助活動にオスプレイを使用したことと川内原発の稼働停止の是非です。いずれも、錯綜したものを含む難しい論題です。由紀氏の、快刀乱麻ぶりをごらんください。



  熊本大震災の被災者の方々には、僅かばかりの寄付しかできない私から申し上げられることはありません。一日も早く元の生活に戻れますよう、祈るばかりです。
  もっとも、人ごとではなく、どうも日本は地震頻発期に入ったように感じられまして、首都圏で同じようなことが起きたらどうなるか、私も少なくとも今のような呑気な暮らしはしていられないことは確かでしょう。それにしても、本震と余震が入れ替わる(元の本震が前震になったんでしたっけ?)ような連鎖はどのようにして起きたのか、そもそも地震そのもののメカニズムも、ほとんど解明できていないようなので、当分は謎。
  と言えば、つい「科学が進歩したって、人間の力なんて所詮ちっぽけなものさ」と平凡な感慨が湧いてきそうになりますが、またそれは真実であっても、人間は、ちっぽけなできることを営々とやり続けるしかありません。これまでずっとそうしてきたように。
  関連して、個人的に興味を惹かれた話題が二つあります。他の分野でもそうなのですが、特に今回採り上げる領域では、私は全くの素人です。しかし、そういう者は世間には少なくないわけですから、恥も外聞もなく初歩的な疑問と愚考を述べて、皆様の教えをいただければ、それは他の人にとっても有益になるのではないかと思い、この一文を草します。

  第一に、オスプレイ問題。同機はもともと評判が悪かった。何しろかつてはアメリカで「後家製造機(widowmaker)」なる不名誉な称号を冠されていたということで、現在の反米軍基地運動の標的のようになっていた。それが、今回、短い期間ではありますが、震災被害者の救援活動に使われた。これはオスプレイの評判を上げて配備しやすくしようとする、政治目的からではないか、という疑問と批判が、いくつかのメディアや共産党・社民党から出されました。
  具体的にはどういう問題があったのか。朝日・毎日・琉球新報などの論説をまとめて、その後に私見をつけ加えます。
  (1)日米どちらの側から、アメリカによる災害支援を申し出たのか、不明。
  17日から18日(以下の日付はすべて4月のものです)にかけて、安倍首相や中谷元・防衛相は、米側からの申し入れがあったとしたが、あちらのメディアでは、日本の要請によって出動したのだ、とある。琉球新報が米国務省に訊ねると、「外交上のやりとりの詳細を明らかにするのは控えたい」とのみ回答したそうです(『琉球新報』25日)。
  これについては、昨年4月に改訂された「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」には「日本における大規模災害への対処における協力」も謳われており、それに則った処置ですから、どちらが先に申し出たのかは、あまり重要ではないと思います。
 (2)オスプレイの使用は必要だったのか。
  オスプレイは主翼のプロペラの角度を変えることで、従来のプロペラ機とヘリコプターの長所を兼ね備えるようにしたものです。つまり、スピードと航続距離は飛行機並み、それでいて垂直離着陸やホバリング(空中で停止すること)もできる。遠距離で、飛行場がない場所への物資・人員の輸送には絶大な効果が期待できる。これは事実のようです。
  しかし今回は、普天間基地米海兵隊のMV22「オスプレイ」四機が、まず普天間基地から岩国基地に到着し、そこから熊本県南阿蘇村の白水運動公園まで物資を輸送したのです。岩国から公園までは約200キロですから、「遠くまで、早く運べる」というオスプレイの特性を生かす余地はなさそうです。自衛隊には、積載能力ではオスプレイを上回るヘリコプターであるCH47「チヌーク」があることですし。
  それで実績はというと、オスプレイは16日から23日までの6日間で、のべ12回飛行、総量で36トンの物資を運んだそうです。一回当たり平均3トンということですね。同機の最大積載量は9トンなのだから、三分の一しか使わなかったことになる。さらに、自衛隊はチヌークを70機保有していながら、使ったのは18機のみ。
  これらからすると、オスプレイ投入は、災害支援のためには不要であった時と場所で、同機の安全性と有用性をアピールするためになされたのではないか、と例えば共産党の井上哲士議員などは言うのです(『しんぶん赤旗』28日)。どうですかね、これ?
  今のところの私の感想は、以下。
  オスプレイ単独なら、確かになくても済んだのかも知れませんが、これは、チヌークその他と同様、日米双方の、各種輸送機中の一つとして使われたのです。「災害を他の政治目的に利用するとは、けしからん」というのは、わかりますけど、感情論です。糾弾されてしかるべきなのは、「ほとんど役に立たなかった」「むしろ邪魔だった」ときで、そうではなく、救助活動全般の中で、他のヘリコプターと同様の役割を果たしたのが事実ならば、排斥すべき理由は特にありません。
 (3)さかのぼって、オスプレイ反対論者は、「こんなの、高額で、危険なだけで、ものの役には立たない」と言いたいので、またそれでこそ、在日米軍全体の象徴として相応しいので、多少とも「役に立った」という情報は否定したい。この動機は明らかにあります。
  結論から見ると、ついにアメリカ共和党大統領候補となったドナルド・トランプ氏と一致するみたいですね。「もっと金を出さねえと、日本からも韓国からも米軍は引き上げるぞ」と言ってますから。反対派の皆様は、引き上げてもらったほうがいいんでしょう?
  日米同盟を大切にしたいいわゆる保守派のほうでは、対抗上、オスプレイの安全性を言い立てる。この構図は、後述の、原発問題とそっくり同じです。
  「事故率」とか、いろんな数字が飛び交っていますが、ここは素人の強みで、最も大雑把に申しましょう。今のオスプレイ、殊にMV22型は、米軍使用の航空機中で、そんなに事故を起こしやすいというほどではないが、それほど安全、とも言い難い。旅客機だってたまには事故を起こすのだから、これは当たり前でしかありません。そして一般庶民にとっては、現に起きたことは百パーセント、起きなかったことは零パーセント、これ以外にはありません。
  MV22は、昨年11月、ハワイで訓練中に着陸に失敗し、乗組員一人が死亡、二十一人が重傷を負っています。国内では平成16年に沖縄国際大に米軍ヘリが落ちましたが、これは従来型のヘリであるCH53。両事故とも、軍人以外の一般人が負傷したわけでもない。現に大事故が国内で起きて、何人も巻き添えになった原発事故と違い、オスプレイ反対運動がいまいち盛り上がらないのは、そんなところが理由でしょう。
  一方、有用度はというと、普天間基地のオスプレイは、平成25年、フィリピンの台風災害救助のときに大活躍したのだそうで。迅速に、大量の物資と人員を送れるという長所が、遺憾なく発揮されたのでしょう。これ、日本ではあんまり報道されていないように感じるのは、私が無知だからですか? 
どちらにしても、今後も近隣諸国の役に立つことがあり得るなら、日本に置いておく意味はあるでしょう。「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と、日本国憲法前文にも書いてあることですし。
  国内でも、オスプレイは、山や孤島の多い我が国の災害救助・防衛にはうってつけでしょう。それに、やがては現行の、回転翼によるヘリコプターは時代遅れになり、すべてV型になる、という人もいます。そうだとすれば、受け入れるも何もない、米軍が去ったとしてもなお、日本の軍事基地にはオスプレイ型の輸送機が置かれることになるでしょう。日本が完全な非武装にならない限りは。それは反対派の窮極の目標なのかも知れませんが、今これを受け容れる日本国民はそんなに多くはないようです。
  もちろん、そうであればなおのこと、安全対策には万全を期してもらわなければならない。また、普天間基地にしろ、来年からCV22型のオスプレイ(構造や性能はMV22とほとんど同じだそうです)配備予定の横田基地も、住宅密集地域にあるのだから、事故のときの被害が大きくなると予想されるのは本当でしょう。できれば基地は、人口密度の低い場所に移転してもらうに越したことはない。もっともこれは、オスプレイ以前から言われていたことですね。
  それでも、人間のすることに百パーセントは原理的にないので、なお起きてしまう事故については、我々一般庶民は、自動車事故で年間一万人死んでいても、自動車をゼロにしようとは言わないように、やむを得ぬリスクとするかどうか、それが最後の問題でしょう。

  第二に、現在国内で唯一稼働している鹿児島県の川内原発に関して。
  これを停止すべきだという意見は、ネット上ではけっこう盛んです。比べて大手マスコミは比較的冷静だな、と思っていたら、さすが、というべきか、これもまたネット上の記事ではあるんですけど、朝日新聞デジタル版29日「時時刻刻 地震、原発を止めず大丈夫? 川内停止要望5000件」がありました。
  原発に対する不安があるのは事実でしょうから、採り上げること自体を不当とは言えません。それが不安をいっそう増す効果はあったとしても、言論が自由な社会が払うべきコストというものです。その言説にどの程度の妥当性があるか、考えて発表する自由もあるわけですから、考えてみましょう。
以下の引用はすべて、前述の「時時刻刻」からです。
  18日、田中俊一・原子力規制委員会委員長は、臨時委員会の後でこう語りました。

  我々が納得できる(川内原発を停めるべき)科学的な根拠はない。止めるべきだとの声があるから、政治家に言われたからと言って止めるつもりはない。現状はすべて想定内。今の川内原発で想定外の事故が起きるとは判断していない。

  根拠はないことの根拠は、原発内で記録されているガル数(揺れの勢いを示す加速度の単位)で、16日のマグニチュード7.3の本震時で8.6ガル。福島原発事故以後の原発耐震設計の基準値は620ガル、さらに川内原発では緊急停止させる設定値を160ガルとしていて、それをはるかに下回っている。だから今のところ安全。以上。
  これでは反対派は納得しません。いや、どんな根拠を持ってきてもダメでしょう。だって、「想定外」のことが起きたらどうするんだ、に返す言葉はありません。そりゃまあ、想定していない、つまり考えていないんだから、当り前です。それでいてそれは、五年前には現実に起きてしまったんです。
公平を期すために言いますが、このような状況を作った責任の一端は、東電など、原発を設置・運営している側や、いわゆる原発推進派にもあります。反対派に対抗するため、という理由はあったにもせよ、安全性を過度にアピールし続けていた。さすがに、危険性はゼロとは言わなくても、原発事故の確率は一億年に一度と言う話は昔聞きました。
  え? 今もありますか? どういう計算式なのかは知りませんが、やめたほうがいいですよ。原発に脅える人々を安心させるためにはこれでいいんだ、ですって? 本当に安心したとしたら、それがウソだったと感じられたら最後(一億年に一度しか起こらないことが、今年起きることは、一億分の一の確率であり得るんだから、ウソではない、って「正論」は、庶民には通用しない)、あなたの言うことは二度と信用されなくなりますよ。それが今現に起きていることなのです。
  それを踏まえて、前出の田中委員長の言葉をもう一度見てみましょう。彼は原発そのものの安全性なんて、デカ過ぎて抽象的に思えることを言っているのではない。具体的な現在の川内原発について、今までのデータを積み上げて作った基準からみて、安全だ、とするのです。
  「止めるべきだとの声があるから、政治家に言われたからと言って止めるつもりはない」とは、なかなかカッコいいですね。無知な大衆は最初のうち、新しい科学技術をやみくもに怖がる。やっかいなのは、同じく無知な者が権力者になって、権力で科学の発展を妨害する場合です。今までの科学史上何度もあったことで、菅直人もまた、法的・制度的になんの裏付けもない「要請」で、浜岡原発を止めさせたことで、この轍を踏んでいるのだ、ということでしょう。
  田中委員長は正しいのかも知れない。それでも、一億分の一くらいというハッタリが崩れてしまった今は、原発への信頼を勝ち取る、なんてわけにはいかないのは前述の通り。効果と言えば、原発反対派の恨みを買うぐらいでしょう。原子力規制委員会は、今まで、日本から原発を失くすことを狙っているのではないかと思えるほど厳しい規制をして、言わば頼もしい味方のように思えたのに、ここへきて、「科学者の良心」なんて利いた風なのを振りかざして、裏切るのか、と。
  あるいは、田中委員長は間違っているのかも知れない。そもそも、事故以前に、原子力発電なんて科学技術は、今の、そして今後の、人類にとって必要なのかどうか。「電力は必要不可欠だろう。それにしても、去年の夏はあんなに暑かったのに、原発なしでも大丈夫だったではないか。危険で、なくていいものなら、なくすのが一番ではないか」なんてのは、わりあいとよく聞く意見ですね。これも科学に対する無知から出るとは言えるでしょうが、「科学はただ進歩するだけで本当にいいのか?」なる感覚は、割合と根強い。よくテレビの、SFアニメの題材になりましたし。
  別に馬鹿にしているわけではありません。どんな先端科学技術でも、危険が大き過ぎる上に、他のもので代替可能なら、つまり、今の場合で言うと、他の発電方法で支障がないなら、使わないほうがいいに決まっている。それがまちがいだと言うなら、原発はなんのために要るのか、明らかにされなくてはならないでしょう。日本全体のことはしばらく措くとして、今現在の九州では。
 まず、電力は足りるのか? 「九電の予想では今夏に2013年並みの猛暑になっても、電力需要に対する供給の余力(予備率)は14・1%。川内原発の供給力を単純に引くと、最低必要とされる3%を下回るが、昨年の計画並みに他社から融通を受ければ、余力は計算上6%を超える」とのこと。
  気になるのは、これ、通常時の計算ですよね。被災地復興のための電力は、考えなくてもいいんですか? 原発を停止しても、原子炉に冷却水を送るポンプに使う電力は必要で、それは外部から持ってくるしかないわけですが、計算に入れるほどのものではないんですか? などなどは本当にわからないので、詳しい人の教えを請いたいです。
  たとえ電力そのものは大丈夫だとしても、費用は確実に嵩みますでしょう? そこを『時時刻刻』は、「なぜ原発にこだわるのか。当面の発電コストが火力などより安く、経営面でうまみが大きいからだ」と表現しています。「(九州電力は)原発の停止で経営は悪化したが、『切り札』(幹部)の川内原発が再稼働し、月100億~130億円ほど収支が改善した」。
  まるで九電が儲けるために危険なことをやっているんだと言いたげですが、ここは素直に、原発を一か月停めたら百億から百三十億のコスト高になる、ととっていいでしょう。それは結局、電力消費者、つまり一般住民が払うしかないんじゃないですか。九電が飲み込むとしたら、従業員の給与を下げるか(労働条件が悪化する)、設備費を削るか(安全対策の劣化を招きかねない)するでしょうから、最終的に地域社会や住民に悪影響が出る可能性は高い。そうではありませんか?
  それから、いったい、いつまで停めればいいのか。地震が収まるまで? 今度のような群発だと、その時期の見極めは難しそうですね。いや、不安がっている人がいるから停めろ、ということなら、もう大丈夫、と思って原発の運転を再開したら、とたんにまた大地震、なんてことだって、あり得なくはないし、それも不安の種にはなるんだから、考慮のうちに、つまり、想定のうちに入れるべき、ってことになりませんか? もちろんこれは、「原発は未来永劫再稼働してはならない」というのと同じ意味です。
  別に意地悪ではないですよ。というか、実際に、一度停めたものを再開しようとしたら、「要望」を出した五千人のうち何人かは、「まだ早い」と文句を言うんじゃないですか? だって、反対派の最終目標は、原発の全面廃止なんだから、そう「想定」されますよね。彼らの望み通りになったら、九州の人々は、地震による被害に加えて、高い電力を、なんらかの形で、今後ずっと支払い続けなければならないことになりますけど、不安解消代としてなら出してもいい、と考える人もいるんでしょう。
  それで、私の、今のところの結論。いかにも、原発なんぞという険呑なものは無くしたほうがいい。ただ、それに代わる安価で安全で安定供給可能なエネルギーを見つけるために、電力会社には儲けてもらって、うんと研究費を出してもらわなければならない。それ以前には、安全対策を今まで以上にしっかりやってもらう必要がある。これにもまた金が要る。だから、今は川内原発は停めないほうがいい、というものです。どうですか、これ? 

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