美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

極私的田恆存入門 その2「一匹の立つ場所」(由紀草一)

2015年06月10日 00時57分59秒 | 由紀草一
極私的田恆存入門 その2「一匹の立つ場所」(由紀草一)


パウル・クレー「大聖堂(東方風の)」(1932)
*編集者記:上の絵画は、本文を読んでいるうちに、なんとなく浮かんできたものです。特段の関係はありません


いきなりですが、次の問いから始めましょう。人間が生きていく上での内面の苦しみとはどんなものでしょうか。

飢えや天災・人災による被害に対応するのは広い意味での政治、前回述べた九十九匹の領域に属することです。それは一応免れていて、その意味では安穏な生活が送れたとしても、すべてが満足というわけにはいかないのが人生です。細かく見れば、この世の中は思い通りにならないことだらけ。これはいわゆる大人が多かれ少なかれ抱かなければならない苦い感慨であるようです。

私たちは日々の勞働で疲れてくる。ときには生気に滿ちた自然に眺めいりたいと思ふ。長雨のあとで、たまたまある朝、美しい青空にめぐりあふ。だが、私たちは日の光をしみじみ味はつてはゐられない。仕事がある。あるものは暗い北向きの事務所に出かけて行き、そこで終日すごさなければならない。そのあげく待つてゐた休日には、また雨である。親しい友人を訪ねて、のんきな話に半日をすごしたいとおもふときがある。が、行つてみると、相手はるすである。そして孤獨でありたいとおもふときに、かれはやつてくる。

天気も仕事も友人も、元々自分のために拵え上げられたものではない以上は、それが当然だ、と簡単に答えは出ます。しかし、では、それらはいったいなんのためにあるのか? いやむしろ、自分はいったいなんのためにあるのか? たぶん一番怖いのは、それにはどうやら答えなどない、と思えることでしょう。

いや、急ぎ過ぎてはなりません。まさかこれだけで人生がいやになったりはしない。青空の下で十分に長く過ごせる日もあるし、孤独に飽きたちょうどそのとき友達がやってきて、四方山話で気が紛れることだってある。もっとも、それだけに、できないときには苦い思いをせねばならないわけですが。しかし、それはあきらめるしかないし、実際誰もがあきらめて過ごしています。

本当に苦しいのは人間関係の中で、報いられないと感じることでしょう。仕事の上で評価されないこと、愛する者から愛されないこと、など。まとめると、他人が自分を受け容れてくれず、結果、自分の居場所がない、そんな思いこそが辛いのです。そしてそのとき、内に向かっては「自分とは何か」という問いが切実に立ち上がり、外に向かっては、目の前の共同体を超えた他の場所、外界または他界、への憧れが湧いてくるのでしょう。

すると、ここで問題なのは、共同体そのものよりむしろ人間の自己意識だとわかります。実際のところ、人々からけっこう認められているように見える人でも、「今・ここ・の自分」には満足できず、「別の場所・別の自分」を求めることはあるのです。

文学作品から例を出しましょう。以前に自分のブログで森鷗外の訳したヘルベルト・オイレンベルク「女の決闘」を取り上げましたが、鷗外はもう一つ、同じ作者の「屋根の上の鶏」も訳しており、こちらのほうが国語の教科書などに取り上げられたので、けっこうよく知られています。こんな話です。

ある村に三代続いた仕立屋(鷗外訳の表記では、裁縫職)がいて、大人しい平和を愛する男であったが、大の政治好きでもあった。というのは、仕事が済んだ後新聞を読み耽っては、そこから得た知識をもとに、ビスマルクがどうたら、アフリカ情勢はこうたら、講釈を垂れるのが趣味なのである。女房が生きていた間は、彼女が少なくとも態度だけは熱心に聞いてくれた。それが死んで、自分の意見を尊重してくれそうな者がいなくなると、この趣向が内攻して激しいものとなった。新聞には毎日のように胸をドキドキさせるようなできごとが書かれている。それに比べると、平凡な自分の生涯が、つまらない、無価値なもののように思えてくるのだった。自分にはもっと値打ちがあるはずだ。どうにかして人々の注目を集めるようなことはできないものだろうか。と、思いめぐらして、教会の尖塔の上に取り付けられた風見鶏を盗むことを思いつく。その場所へ外から這い登るだけでもたいへんな難事だから、風見鶏がある晩忽然となくなっただけでも大騒ぎになる。しかし、犯罪ではあるので、自分がやったと明らかにすることができないのが難点で、仕立屋は、いささかの満足と大いなる失望の後に、破滅に至ることになる。

この仕立屋は仕事の腕と温和な人柄のおかげで、村落共同体の中で確固とした地位を占めていたのです。それがどうしてこんな愚かな振舞いに及んだのか。奥さんに先立たれて孤独になったことは大きな要素に違いありませんが、それは既婚者の半分近くが経験しなければならない不幸です。

一番大きいのは19世紀から社会の中で存在感を増してきたマスコミ、具体的には新聞報道であることは見やすいでしょう。これによって多くの人々が、自分が現に暮らしているのとは別次元の世界があることを知るようになりました。もちろんそれは情報として「知る」、ということですから、その中で「生きる」というのとは違います。それだけに、具体的な苦労など実感できませんので、ますますスリリングな、輝かしい世界のように思えるのです。そして、それに比べると、現実の生活があまりに凡庸で些細なことに満ちた、つまらないものにも思えてきます。

と、ネガティブなことばかり申しましたが、こういうことは近代化に付随して起きる必然の一部だと言えるでしょう。この時代になってから、すべての人が「国民」として、「国家」というデカ過ぎて個人の目にはよく見えないものも、いくらかは意識するように求められたのですから。もっとも、なぜ求められたのかと言えば、「国民皆兵」で、つまり兵士として使う都合からですが。戦争もまた、ごく最近までは、あるいは現在でも、特に男性の冒険心と功名心をそそる大イベントではあるのです。

それは当面のテーマではありませんので閑話休題。今現にある共同体から精神的にまぐれ出る際の原動力は、自己意識だということがここでのポイントです。自分で自分をもっと大きな、意味のある存在だと思いたいのに、他人はいっこうにそう見てはくれない。その思いは、時に人を駆り立てて、例えば地理上の大発見をさせたりもしますが、たいていは全く報われないまま終わります。そしてその「報われない」思いのために、自己意識はますます肥大します。ごく稀にではあっても、それに応じて無茶なことをして、自分にも他人にもろくでもない結果を招くほどに。

ところで、この自己意識自体の中に矛盾があるのも注目すべきでしょう。あるとき一人の人間が、自分が現に暮らしている共同体はちっぽけで、ほとんど価値がないものだ、と思い込む。しかしその理由は、自分自身をきちんと認めてくれないからなのです。つまり、本当に「こんな村、つまらんところだ」などと思っているのなら、そこで自分がどんなふうに遇されようと、どうでもいいはずです。それどころではなく、そういう人ほど共同体が、その中での具体的な人間関係が問題になります。そこで、自分の夢想する基準で、自分が「きちんと」認められることを熾烈に求めているのです。多少とも冷静さが残っていたら、そんな夢想に、他人が、たとえ家族といえども、まともに付き合ってくれるはずがない、とすぐにわかるのは、またたいていの人間が抱く悲しみではあるのですが。

仕事の上で低く評価されたときや、好きな相手から好かれないときには、最も端的に苦しまなければならないのですが、そうでなくても、人は多かれ少なかれ誰もがこの種のジレンマを抱える、と言えるでしょう。


以上を最も簡単にまとめると、例えば、「人から見られている自分」は揺れがちであり、一度揺れ始めたら容易に安定を得られない、ということになるでしょう。もっと突っ込んで考えると、他から与えられた場所には安住できない、と感じたとき、「自分」は本当に問題になる、ということかも知れません。いずれにせよ、これを扱うべきなのは政治などではない。普通の意味での宗教でもない、というのは、上の例でもわかるように、これは近代において一般化し顕在化した問題だからです。即ち、文学的な問題なのです。

もう一つ申しておきましょう。近代的な理念のうちでも大切だとされる「自由」だとか、「個人の尊重」、いやそれが大切ではないとは申しませんが、ただしかし、これらもまた広い意味での政治の世界に属するものだと知っておかねばなりません。それが証拠に、日本国憲法の条文にも、「職業選択の自由」や「婚姻の自由」というのが記載されています。それは具体的にはどういう意味かというと、「あなたがどんな職に就こうが、誰と結婚しようが、公に属する機関は容喙しない」、つまり、文句は言わないが、協力もしないというだけです。これがあるからと言って、日本国民の誰もが、なりたいと思ったら政治家にでもプロスポーツの選手にでも映画スターにでもなれ、どんな美男美女とでも結婚できる、なんて話ではありません。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする(第十三条)」のほうはどうかと言えば、あなたの生命や財産が不当な危険にさらされたときには、公的な機関はできるだけそれを守るように努めよう、と約束しているのです。もちろんこれはやってもらわなくてはならないことですが、しかし「幸福追求」の結果本当に幸福になれるかどうかまでは、誰も保証してくれません。

結局のところ、この社会で自分の望むものを手に入れて自分で満足できる自分になることは、自分一個の責任だ、と言われているのです。きっと昔からそうだったのでしょうが、社会が流動化し、例えば「親が仕立屋なんだからあなたも仕立屋になるのが当然だ」などというのは当然ではない、と広く一般的に考えられるようになった近代でこそ、現状に満足できない、だからと言ってそれを誰のせいにもできない個人が多く見られるようになったのは本当でしょう。


個人の内面の側から「自由」の理念を考え直しても、何か外側から束縛を受けている人以外には、大して値打ちのないものであることがわかります。「何をしてもよく、なんでもできる状態」、だからまた何もしなくていい状態が、人に幸福や満足をもたらすものでしょうか。一歩進めて、やりたいことがあって、それがやれる状態、と言ってみても、まだ足りません。空腹なときには食べ物がほしくなる。それが得られたら、とりあえず願望は満たされる。でも、それだけで、そこにはどんな「意味」も見出せません。「意味」なんてものを考えるから、やっかいなことになるんだ、というのは本当ですが、人間とは本来やっかいな生き物なのです。

こう言えば正解に近くなるでしょうか。人間が本当に望んでいること、それは自分がいるべきところにいて、やるべきことをやっている、と実感することなのだ、と。詳しく言い直しますと「私たちが欲するのは、事が起るべくして起つてゐるといふことだ。そして、その中に登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしてゐるといふ実感だ」。これに賛同していただけますと、本当にやっかいな問題も見えてくるでしょう。それは、この「べき」が、個人の内部からは出てこない ところなのです。

「人は個人として尊重されるべき」の「べき」でさえ例外ではありません。「そんなことはない。私は本当に、心から、尊重されたいと願っている」とあなたは言うでしょうし、それに嘘はないでしょうが、では、そう言うあなたは、他人を個人として尊重しているのでしょうか? よく考えるまでもなく、あなたの幸福や満足とは直接関わりのない赤の他人の場合には、せいぜい、その人の自由やら幸福追求を積極的には邪魔しない、それをもって「尊重」と呼んでいるのが関の山でしょう。憲法が謳っている「尊重」だって、実質的にはそんなものなのですから、それに罪責感など持つ必要はありませんが、他人がそんなあなたを過度に「尊重」することを求めるわけにはいきません。また、それはできません。あなたはせいぜい、何かの権力を得て、他人を従わせることができるだけです。

そういうわけで、自由を、「できる限り自分の好きなように振る舞うこと」と定義しなおしますと、それを求めるとは、権力闘争に勝ち、可能な限り他人を従える、ということになります。実際、「ごく限定された場所(例えば家庭)であっても、できるだけ人より優位に立ちたい」と思っているらしい人は、男でも女でも、けっこうたくさんいます。正直言って私は、そういうのが鬱陶しくてたまらないタチなのですが、私がどう思っても、何を言っても、人を動かす力はありませんので、それこそ自由にやってもらうしかありません。それでも、権力闘争に負けた場合には、どんな満足も残らない。これは動かし難い真実であることは、わかっていただけるでしょう。


結局、目に見える他者との関係によって織り上げられる実社会の平面に留まる限り、この迷宮から逃れ出る方途はありません。迷路の基本構造が、「自己意識は他者に支えられなければ存立し難いのに、それが発達すると他者の否定を指向するようになりがち」というアポリアにあるからです。

ここを逃れるために苦し紛れのように考え出されたのが「他界」です。どこか目に見えない場所にあって、そこなら今現にある「ここ」ではどうしても満足のいかない「自分」とは決定的に違う「自分」になれる、想像上の場所です。人間が多少なりとも文明・文化を持った場所なら世界中どこでもこの観念が見られるのは、人間が必ず「自分・と・その周囲」という概念の枠を通してこの世を見ること、いやむしろ、この枠こそが人間世界と呼ばれるものを形作っている基盤であることの証拠になるでしょう。

ただしかし、この観念が嵩じて、人間にとって本当の価値は他界にこそあり、目に見える世界のほうはどうでもいいのだ、にまで至れば、いろいろと問題が起きそうです。死ねば誰もが「他界」へ行く、そこでなら必ず自分は自分が思い描いているような自分なれる、今はその準備段階だ、として、苦しいことがあっても、よく耐えて、他人に迷惑をかけずに生涯を送れる人もいるでしょうが、すると、人間が努力すれば多少は変わる見込みのあるこの世の悪が存続するのを助けてしまう結果にもなる、などはよく指摘されます。マルクスの宗教批判は、つまりそういうことですね。

それ以上に、他界を過剰に希求する心性は、それ自体がこの世の権力闘争に敗れた結果、他人に支配される惨めな状態に陥っていると思っている者たちの、陰にこもった復讐心の表れだ、ということは、ニーチェやD・H・ロレンスが夙に指摘したところです。だから、立場が逆転して、彼らのほうが権力を奪取したら、もっとひどい支配を他人に対してするでしょう。さらに、社会的な支配者にはならなくても、自分は俗界を超えた真理を知っているのだと思い込んだら、それだけで、知らない者より優越しているのだから、彼らに対して生殺与奪の権がある、などとも思い込むことがあります。仮定の話ではありません。戦前の右翼テロや、最近のオウム真理教事件を思い浮かべれば、十分でしょう。

宗教心やそれに近い観念からこのような毒素を除染し、人が生き生きと過ごせるよすがとするのにはどのようにしたらよいのか。以下が一つの回答例です。


人間にはすべてを知り、見通すことはできません。絶対に正しいことも、わかりません。なんとも頼りない存在ではあるのですが、しかしそれは本当に悪いことなのでしょうか。

例えば自然科学の分野で絶対の真理が発見されたなら、後の人がやるべきなのはそれを覚えることだけであって、創造的な能力などもう用がないことになります。実際は万有引力の法則でさえ一個の仮説に過ぎないので、新たな仮説とその検証とに、人はいつでも創造的に取り組むことができるのです。

日常生活でも同じことです。絶対に正しいことはわからないので、人はいつも、自分に与えられた範囲内で、類例に依りながらではあっても、結局は自分で決断して、新たな行為(特に何もしないことを含めて)に踏み出します。それでどうなるかもわかりません。やる前から結果が100パーセントの確率でわかっているなら、人はもう何をする気もなくすでしょう。それくらいなら、次には、生きていく意欲もなくすでしょう。つまり、「分からないこと」は、人間が生きていくための必須の条件なのです。

長年仕事をしてきた仕立屋は、慣れきった仕事で、めったに失敗しないので、よくわからなくなっているだけで、実際は常に新たな服を生産し続け、結果として、これまた慣れているので特別に意識はされませんが、ことさらに文句は出てこない程度の満足は客に与えていたのです。その安定はいつか壊れるかも知れない。それは誰にもわかりません。その点で、これはこれでけっこうスリリングじゃないかと思えるんですが、残念なことに、世間の大多数と同じく、できるだけ安定を守ることが彼の義務なのです。そして、義務を果たした挙句、その義務をも含て、自分のやったことがつまらなく思えてきてしまったのです。

どこでまちがえたのか。それは結局、自分のやったことの価値が、ひいては自分自身の価値が、全体としてよく見えるはずだ、見えなくてはならない、という思い込みからです。

こういう人に申し上げたいことがあります。マスコミというのは、事実を伝えるのではなく、物語を伝えるのです。というのも、できごとの意味は、後から振り返って見出されるものですが、その後付けの意味によってまとめられた叙述が、できごと=人間のやったことそのものであるかのような錯覚によって、新聞報道などは成り立っています。古来より物語というものはあったのですから、それをマスコミの発明というのは不当でしょう。しかしそのおかげで、人間のやるあらゆる行為には意味があり、かつそれは人にも自分にもわかるはずだ、という思い込みが定着したのは事実です。

実際には行為のさなかにいる者には全体的な「意味」は見えません。だからこそ人間は、仕立屋その他の立場で、何ごとかをなし続けることができるのです。

前述の「他界」とは、意味そのものの世界であり、それこそが「あるべき世界」だなどとみなすから、それは結局「今・ここ」の現世の、個々人の願望を反映したものに過ぎなくなるのです。それとは関わりのない、即ち究極の価値や絶対の正義は、「分からない」ままに、別次元にあると考えられるとしたら、それによって、自己と他者の織りなすこの世界を相対化することができるでしょう。自分はとてもちっぽけで、その「意味」など探してもほとんど見つからないのですが、共同体だって、国家でさえも、物理的に巨大なだけで、意味・価値ということになれば同じようなものです。

だとすれば、そこでどれほど高く評価されたとしても、本当の支えにはならない反面、低く評価されても、自分が完全に否定されたなどと思い込むことはない。あとは自分が直感的にやるべきだと感じ、やることに多少なりとも喜びを感じることを、やっていけばいい。ニヒリズムでもヤケクソでもない、上に書いたように、それが結局普通の人間の生き方なのです。

以上はもちろん、人間性全体の中の一匹(1パーセント)について言えることで、世間の評価を全く気にせずに生きていけるような人はまずいないのですが、それだけに、決定的に道を踏み外さないために、その一匹をどこかに感じていることは大事です。

たんなる認識者の眼には、時間は消滅し放しである。かれには過去・現在・未來が見えてゐる。が、全體が見えてしまつたものに、全體の意識は存在しない。いひかへれば、過去も現在も未來もないのだ。たゞ模糊たる空間があるだけだ。自分が部分としてとゞまつてゐてこそ、はじめて全體が偲ばれる。私たちは全體を見ると同時に、部分としての限界を守らなければならない。あるひは、部分を部分として明確にとらへることによつて、そのなかに全體を實感しなければならない。

自分を信じつつ、同時に自分の思い通りにならない現実も信じることはできるのです。繰り返しますが、現実が決して完全には自分の思い通りにならないことが、人間が生き続けることの条件なのですから。ありふれた譬えですが、水に抵抗があるので、人はそこで浮かぶことも、泳ぐこともできるようなものだと言っていいでしょう。

それ以上に、現実は個人の願望を阻害することで、個人の外部の「枠」を作り、その中の「自分」を成立させます。また人間は、自分は相対的な、限界のある存在だと知ることで、その反対側に、無限を、絶対を観念することもできます。それは個人にしかできないことであり、かけがえのない「自分」の存立基盤であり、存在理由にもなるのです。


田恆存の主著「人間・この劇的なるもの」は、震えるように繊細な感性と、大胆な逆説と飛躍で構成された稀有の評論文学です(かつて西尾幹二先生がおっしゃっていた評言をお借りしました)。また、それまで田が展開してきた悲劇論や日本文学史論、シェイクスピア論、D・H・ロレンス論、J・P・サルトル論、などなどを集大成したものでもあります。

私はそのほんの一部から読みとった信じられることを、上で自由に展開しました。いわゆる解説より、私のような凡庸な人間に、田の投じた言葉の石がどのような波紋を立てたか、お目にかけるのも一興かと思いまして。少しも面白くない、まして、なんの参考にもならない、という人には、最初か、何度目かを問わず、ご自身の頭脳と心でこの稀有の人間論にぶつかる知的好奇心を試みるよう、お勧めするしかありません。

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1 コメント

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Unknown (D)
2016-01-30 00:29:27
武藤彩未がなぜ売れなかったのか、わからない時点で、あなたは、ある種のセンスが足りてないです。彼女はあなたのいうように、かわいく、パフォも上等、頭もいい、いうことないように見えますね。でも、可憐のころからそうでしたが、”初々しさがない”悪く言うとおばさんくささがあって、これはアイドルとしては、致命的でした。これはわかる人にはわかる感覚で、しかもそう感じる人が結構多いから売れないのです。

正直みていて痛々しいからだれもあまり口に出して言わないだけですよ。
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