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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

宮里立士氏・「屈辱」と「主権回復」―ひとつの雑感として (イザ!ブログ 2013・4・28 掲載)

2013年12月15日 00時38分20秒 | 宮里立士
安倍首相の肝いりで今年の4月28日、はじめて政府主催で、「主権回復」の式典が執り行われる。この日は61年前の1952年にサンフランシスコ平和条約が発効した日である。これによって、戦後の日本は主権、「独立」を回復した。

安倍首相としては、昨今の竹島や尖閣の問題にも鑑み、国家主権の意義を国民に喚起したい目的からこの式典を行うのであろう(安倍首相に批判的な人びとは改憲の地ならしと云うだろう)。しかし、この式典に沖縄から大きな異議申し立てが出されているとメディアが報じる。

″この平和条約発効日とは、沖縄がはっきりと、本土から分断され、米軍の統治下に置かれた「屈辱の日」であり、この日を基点に沖縄への米軍基地の集中が確定し現在まで続いている。にもかかわらず、この発効の日を式典として祝うのは、沖縄を「日本」のなかに入れていない証明である。また、未だに日米安保体制によって、日本は事実上、アメリカに従属している「現実」を糊塗する安倍政権の欺瞞的本質がここに現れている。″

当式典に対する異議申し立ては概ねこのように要約されるだろう。

沖縄の大手二紙(琉球新報、沖縄タイムス)が、盛大に「屈辱の日」キャンペーンを張っている。「狼魔人日記」というブログで知ったことである(blog.goo.ne.jp/taezaki160925)。「狼魔人日記」は、「沖縄在住の沖縄県民の視点」から沖縄の「世論」を批判するブログである。普天間基地のある宜野湾市在住の方のようで、このブログ主人の沖縄二紙に対する批判には私も概ね共感し、賛成である。

4月28日を「屈辱の日」と呼ぶのを私は最近まで知らなかった。もちろん、この日にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本が「独立」し、沖縄のみが米軍統治下に置かれて取り残された「民族分断の日」であり、沖縄にとっては大変残念な日であったということは、 子供のころから聞いていた。しかし、それゆえ、米軍統治時代、この日を沖縄の祖国復帰を念願する日、そして運動を盛り上げる日であったという印象を持っていた。

私は、昭和41年(1966年)2月生まれで、復帰の年に小学校に上がったばかりだった。そのため、復帰前、この日を沖縄県民がどういう気持ちで迎えていたかは直接には知らない。しかし、復帰後、この日が「屈辱の日」だったとは、身近な大人から聞いた覚えもない。中学生のときに読んだ沖縄の歴史を教える教科書の副読本に、サンフランシスコ平和条約の発効で沖縄のみ米軍統治下に置かれ、本土と分断されたという記述があり、ここから無念さが伝わったのは覚えている。

しかし、これは先の「狼魔人日記」のブログで紹介されていることであるが、沖縄の新聞も1952年の平和条約発効当時は、沖縄が本土から「分断」されたことには遺憾の意を表しつつ、それでも日本が独立を回復したことに喜び、いずれ沖縄も国力を回復した日本に復帰できることを期待する論調が主であったという(「自爆した琉球新報!「屈辱の日」で 」より)。

私自身、吉田嗣延という沖縄出身で、東京で沖縄の祖国復帰運動を実務面から支えた人物の自叙伝を読んだとき、吉田茂がサンフランシスコ平和条約受諾演説で沖縄、小笠原の日本の潜在主権に言及したことに吉田嗣延が感動したことが綴られていたのを目にしている。

沖縄は日米が直接、戦火を交えて米軍に制圧された。これこそ大変残念なことであるが、ポツダム宣言を受諾して米軍が進駐してきた日本本土とは占領のされ方が違った。そのため、当時の沖縄県民の多くも、沖縄だけ米軍統治下に残されることは、大変無念であるが現実的には致し方ないとも感じていたのではないか。だからその後の復帰運動で、この日を「屈辱」というより、沖縄の「祖国復帰」を念願する日と捉えていたのではないのか。

そのほかにこの日を「4・28沖縄デー」と復帰前に呼び、沖縄と本土の労働組合が連帯し、デモンストレーションを行っていたことも思い出す。「国際反戦デー」などと並んで、左派色の濃い行事であった。しかしここでも4月28日は「屈辱」というより、米軍基地を全廃したうえで「復帰」を実現するという位置づけの日であったと記憶する。いつから4月28日を「屈辱の日」というようになったのか? 

たしかに左派のなかには早くからこの日をそう呼ぶ者もいたであろう。しかし、これが一般化したのはいつからか。いや復帰後40年も経った今日、普通の県民のどれだけがこの日のことを意識しているのか。実際のところ、今回、安倍首相が4月28日に主権回復の政府式典を開催することを発表して、沖縄の新聞が大騒ぎして、はじめて意識しだした県民が大多数ではないのか。よく知りもしない日に屈辱感を持つであろうか。

ただ、私もこの日を「主権回復の日」と云われると、ほんとうのところ複雑な思いが湧く。保守系の団体のなかで4月28日を「主権回復の日」として祝日にしようという運動が十数年前からある。私も何回か聴衆として参加したことがあり、安倍首相も前回の政権下野の翌年だったと思うが、参加していた。 

主催団体、そして登壇者たちも、この日に十全な意味で日本が「主権」を回復したとは思っておらず、この日をいっそうの日本「独立(自立)」のための日と位置づける運動のように感じた。しかし、沖縄にとってこの日が祖国から分断された記憶の残る日であるとまでは思い及ばない雰囲気でもあった。そのため、この運動が本格化すると、沖縄から批判や苦言が出るだろうとは予想していた。しかし、その前段階の式典開催で盛大に「屈辱の日」キャンペーンが張られるとは思わなかった。

4月28日を「屈辱の日」と呼ぶ人びとは、沖縄に米軍の専用基地が集中している「現実」は、日本が事実上、アメリカに従属し、アメリカに都合よく「沖縄」が利用されていることを批判して、「屈辱」と呼ぶのであろう。このことは一面の真実を語っていると私も思う。その意味で日本は未だに「主権」を回復していないのかもしれない。しかしそれならば、この「現実」を脱するにはどうすればいいのか?

日本がアメリカに依存しない国防体制を整備するしかない。それならば、自衛隊に背負わされている多くの制約を外し、米軍に依存しない国防体制に改めるべきとなるはずである。そのためには現憲法9条の改正も視野に入れなければならない。しかし、4月28日を「屈辱の日」と呼ぶ者のどれだけがこれを考えているだろうか。現憲法を「平和憲法」と言い習わし、自衛隊にすら反対していて、本当に「主権」が回復できると思っているのであろうか? 

今回の主権回復の式典には私も複雑な思いが湧くと、先に述べた。しかしこれを「屈辱」と声高に叫ぶ人びとには、もっとはっきりと違和感を持ち、不快感すら抱く。なぜなら「主権」が回復していないと抗議しながら、一向に「主権」回復を考えようとしないからである。

しかし、ここに「戦後日本」の70年近い倒錯した「現実」が反映されているかと思うと、式典への複雑な感情以上の、痛切の思いがこみ上げ、それをどう修復すればよいのか途方にくれる。サブタイトルに「雑感」と記したのはこの思いからである。
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宮里立士氏・吉田茂『回想十年 新版』を読んで浮かんだ偶感 (イザ!ブログ 2013・4・22 掲載) 

2013年12月15日 00時01分55秒 | 宮里立士
あるきっかけで、二十数年ぶりに吉田茂の『回想十年』を再読した。

今回、読んだものは昨年、毎日ワンズから刊行された新版と銘打たれたテキスト。全4巻の原著の第1巻を定本とし、適宜、割愛や他巻の一部を加えたものと凡例で断る。本のスタイルから見ても、一般読者向けに読みやすくしたもので、帯には「戦時中、獄舎に囚われていた男が、祖国再建の鬼と化し、大暴れする!!」との惹句が踊る。特に最後の「大暴れする!!」は大文字になっている。吉田茂のことをよく知らない読者にも手に取ってもらいたいという工夫が感じられた。




吉田茂といえば、敗戦日本を支え復興の基礎を築いた政治家というイメージが一般的だろう。それは高坂正堯の「戦後処理を通じて、日本の国際政治上の地位を回復すること」に成功した「大宰相」という吉田茂観に由来している。たしかに吉田茂は「戦後日本の形成者」(北岡伸一)であり、戦後日本に、“吉田ドクトリン”と呼ばれる経済優先の国家活動の指針を示し、これに基づき日本は経済大国とまでなった。しかし、それは国防、安全保障という国家にとって、根本の課題を覇権国家アメリカに丸投げしての結果でもあったとも批判される。吉田は『回想十年』のなかで語っている。

〈「独力防衛論」などは笑うべき時代遅れの議論というべく、また「再軍備」にもこの論と相通ずるものがある。この種の主張をあえてして自らその見当外れを知らぬに至っては、その迂愚ともに国政外交を断ずるに足らぬ輩であるというべきであり、日米安全保障条約が妥当適切な防衛策であることを知るべきであろう。〉(176~177頁)

〈しかるに世間には、この共同防衛体制をあたかも屈辱なるが如く感ずるものが少なくない。今におよんでも、対等であるとかないとか、議論を上下している。かかる人々は、現今の国際情勢を知らず、国防の近代的意義を解せぬもの、いわゆる「井底の蛙、天下の大なるを知らぬ輩」と評するほかない〉(260頁)

ここから吉田茂の「功罪」が問われ、戦後70年が経とうとする現在でも決着をみない。そのこともあって、改めて吉田茂本人の主張に耳を傾けたいと思った次第である。

最初に「日本外交の歩んできた道」が語られる。近代日本の外交は英米との協調を基本路線とし、それからの逸脱が日本の国際的孤立を招き、日本を破滅へと追いやったという。

戦後の日本外交を「対米従属」と批判する声は大きい。しかし、程度の差はあれ、敗戦前の近代日本外交も、実は「英米追随」的であった。国際政治学者の入江昭の『日本の外交』(中公新書 1966年)は、近代日本外交を学ぶうえで代表的入門書であるが(今では入門書の「古典」かもしれないが)、ここに日本政府、明治の元勲以来の、「現実主義的」英米追随の外交姿勢が批判的に指摘されている。不平等条約を押し付けられ、また、長い「鎖国」で外国との交渉に不慣れな近代日本にとっては、それは致し方のないことだったと私は感じるが、とにかく英米(当時は英国を先に置く)と交渉し、その「お墨付き」を得ることで、近代日本は国際的地位を固めていった。不平等条約も英米との交渉からその改正への道を開き、日露戦争も両国の支援があって勝利にこぎつけた。しかし、日本が強大になるにつれ、英米両国は日本を警戒し、特に米国は日本をときに敵視した。日露戦争の翌年、すでにアメリカのカルフォルニア州で日系移民排斥運動が広まった。その打開策として、日本は移民を自主規制する代わりに米国は排日移民法を制定しないという紳士協定が結ばれる(しかし結局、1924年に排日移民法成立)。

そしてこれとは別に日露戦争の2年後の1907年末に、米国は1年余りかけて大規模な大西洋主力艦隊による世界一周のデモンストレーションを行った。幕末の黒船を意識し、艦船を白く塗り、「グレート・ホワイト・フリート」と称したこの艦隊の大航海は、明らかに日本に対する威圧であった。これを「白船」と称した日本側の反応を、私はかつて論文にまとめたことがある。このとき日本政府はアメリカのこのデモンストレーションの意図を、欧米や中南米の在外公館に探らせ、実際に「白船」が日本の横浜に寄航したとき、それこそ官民を挙げて「日米親善」を演出した。その演出は米国の威圧に朝野ともに危機感を抱いた涙ぐましい努力であった。上陸した米水兵らをもてなす休息所が各地に設置され、酒も振る舞われた。後に対米強硬論者となる徳富蘇峰もこのとき日米友好に奔走した。しかしその一方で、上陸水兵たちの言動は注意深く監視され、内務省の記録には泥酔して暴れだす者、なかには遊郭にあがる者まで報告されている。

日露戦後のこの二つの例が象徴する、アメリカの主張や行動に日本が受け身で対応するという図式は、その後も続き、これに日本はストレスを溜めていった。その挙句、フランクリン・ルーズベルトが登場し、国民党のプロパガンダもあいまって、露骨な中国びいきと日本潰しがはじまり、それに対抗する形で、日本の側に対米英強硬外交が台頭した。

たとえ、米英(ここではアングロサクソンと云い換えてもよいと思うが)の下位に立っても、彼らとの協調こそが日本にとって利益となるからこれを外交の基調にするという方針と、、この方針から不可避的に生じざるをえないストレスとをどう調整すればよいのか。現代まで貫く、近現代の日本外交のこのジレンマに、ほんとうのところ、吉田茂は答えていない。これが『回想十年』を再読して一番の感想だった。特に占領期の叙述に強く感じた。

吉田茂は、いかにもGHQの幹部と対等に、ときには相手を小バカにしたように、折衝をした風に述べている。マッカーサーはさすがにそうとは描けず、その命令に従わざるを得なかったことは認めている。が、それでも彼とのやりとりも「征服者」相手との交渉とは思われない、どこかユーモラスな調子である。もちろん、練達の外交官だった吉田は威厳を失わずに占領軍と交渉するすべも身につけていたであろう。しかし、それはお互い建前と解ったうえでのことではないか。こと政策に及べばGHQと日本政府は命令者と被命令者の関係であって、たしかに吉田は個別の政策に不服があれば、GHQ内部の対立や、人脈を利用して、これを若干は修正することもできただろう。しかしGHQがひとたび命令を下せば、これに従い実行するのが日本政府の役割だった。実際、憲法などはその最たるもので、この関係に基づき「改正」されたことは本書からでも伝わる。さすがに吉田もこれには忸怩たる思いがあったのは、その叙述から窺える。

〈改正草案ができ上がるまでの過程を見ると、わがほうにとっては、実際上、外国との条約締結の交渉に相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層「渉外的」ですらあった〉(228~229頁)

と、現憲法が戦勝国と敗戦国の「力学」によって成立したものであったことを示唆する。しかし、それでいて、「押し付け憲法」論に吉田は異議を唱える。

〈制定当時の事情にこだわって、あまり多く神経を尖らせることは妥当でないように思う。要は、新憲法そのものが国家国民の利害に副うか否かである。

国民としては、新憲法がひとたび公布された上は、その特色、長所を充分に理解し、その真意を汲み取り、運用を誤ざるように致すことが大切なのである。〉(248頁)


吉田はGHQ側の「どうしても不都合だというのならば、適当の時期に再検討し、必要ならば改めればよいのではないか」という言葉も紹介している。実際、民生局次長だったケーディスは30年が経っても占領下の憲法が未だ改正されていない事実を知り驚いたという(古森義久氏)。だが、衆参両院総員の3分の2の発議を経て、国民投票で半数以上の賛成が無ければ改正できない、という極めて厳しい改正条項を持つ現憲法の改正は至難の業だ。これを「押し付けた」当事者が、30年経って、この点を忘れたのか、惚けてなのか、まだ改正されていないと聴かされ驚くこと自体に、この憲法が、いかに無責任に作られたものだったかということが判然とする。実際、吉田も「軍備放棄」に関連して、枢密院の審議で、「国内に擾乱が起こった場合どう対処するか」と問われ、次のように答えたという。

〈占領軍が引き揚げた先のことは想像がつかない。歴史は繰り返すということもあるが、とにかく将来のことはわからぬ〉(233頁)

いかに改正が難しいからとは云え、なぜこのような憲法が「理想」のようにその後に語られ、今も存続しているのか。結局、占領体制の反省が十分に行われなかったせいではないだろうか。

その意味で、もはや今では吉田茂の「功績」が負債のようにのみ、重くのしかかってくる印象を自分は抱く。

吉田は、サンフランシスコ平和条約によって、日本が主権を回復した後も首相を続けた。これは占領期にGHQによって、日本に課された足枷を一番知る立場から、その是正に努めたいという意思の表れであっただろう。が、むしろその「居直り」が、占領期の継続のような「戦後」を生んでしまったのではないか。これは福田和也も云っていたが、もし吉田が、日本の主権回復とともに、もっと率直に、占領下の指導者としての苦悩を吐露し、それがいかに屈辱的であったか、近衛文麿のような盟友をも見殺しにせざるをなかった苦渋を公けの場で演説して首相を退任していれば、あるいはその後の日本の行き方、あるいは世論も違ったものになったかもしれない。

今年、サンフランシスコ平和条約が発効した4月28日に、はじめて政府主催の主権回復の式典が行われる。しかし、この式典に沖縄から反発の声が挙がっていると報じられる。それはこの日が、沖縄にとっては日本から分断され、米軍の支配下に置かれることが確定した「屈辱の日」であるからという。そして「沖縄」にだけ米軍を押し付ける構図はこのとき確定されたとも非難する。沖縄一般の声ではなく、沖縄のマスコミ、沖縄知識人の声と思われるが、これに調子を合わせ、むしろ煽る県外の識者もいる。そのなかには、最近、何かと日本の「対米従属」を強調する元外交官の孫崎享氏もいる。孫崎氏は、この「屈辱」が、昭和天皇の意向によってはじまったものだと沖縄のマスコミで高言している。

外務省高官であった人物が国家の正統性にかかわる存在に対して、安易な非難を吹聴してまわるとはどういうことであろう。このような精神構造の外交官がなぜ生まれたのか? 

ここに至り、改めて戦後外交のはじまりについて考えたいと思い、本稿を草した。




〈コメント〉

Commented by kohamaitsuo さん
ケーディスの驚き自体が現行憲法の形成過程の無責任さをあらわしているという指摘、サンフランシスコ条約以後の吉田の「居直り」が占領時代と同じような「戦後」を作ったという指摘、とても具体的でいいですね。単に戦後レジームの元凶として吉田を批判するのではなく、当時の状況によく想像力を馳せた文章だと思います。
孫崎元外交官のような反日論客が、なぜ大きな顔ができるのか。沖縄に自分の言論の活路をあえて見出していくところに、本土知識人特有のとても薄汚れたものを感じます。昔からいましたね。次は三里塚だ、それ次は沖縄だ、それ次は慰安婦だ、と、自分の実存に関係のない政治課題をねつ造していく連中。そのあたり、伝えられていない沖縄住民の平均的な意識のあり方なども絡めて、さらに続けて書いていただくとありがたく思います。


Commented by miyazatotatsush さん
kohamaitsuoさま
懇切なコメントありがとうございます。
占領期の吉田茂について言えば、私はあれ以上、どうにも仕方が無かったし、よくがんばったと思っています。
問題は、拙文でも触れたとおり、主権が回復した後、吉田が居直ったことだと思います。吉田のパーソナリティーもあって意固地に、「憲法は渉外的に作られたが、押しつけではない」とか、「独力防衛論など時代遅れだと」と言いつのったツケが廻り、しがらみとなって、今日の我々にも未だ纏わりついているように感じます。
そしてここから派生する矛盾が集約的に現れているのが、遺憾ながら、「沖縄問題」だと思います。ただ、大多数の沖縄県民は良かれ悪しかれ、現状では沖縄に米軍基地が多いことはやむを得ないと考えていると思います。しかし、沖縄のマスコミや沖縄知識人は、ヘンに本土にコンプレックスを持っていて、反中央的ポーズを取りたがるので、これが「沖縄の声」のように伝わってしまいます。それに本土で行き場を失った左翼が、沖縄になだれ込み吹きだまりのようになって、困ったものです。
コメントでご指摘の「自分の実存と関係のない政治課題のねつ造」とは、自分流に言い直せば、「大きな問題を持ち出して、自分が本当に苦にしている問題をごまかす」ということだと拝察します。ダメ知識人の典型的な自己欺瞞だと思います。孫崎某も自称、「アメリカの陰謀」(苦笑)で外務省を失脚した腹いせのつもりで、いろいろアジっているようです。彼の言説は沖縄のごく一部にしか届きませんが、先ほど言ったような沖縄のマスコミや沖縄知識人と共鳴すると、いかにも外部には、沖縄を代表する主張のように聞こえ、これが政治的、歴史的に日本の中で複雑な立場に立つ沖縄の今後にも大きな影響を及ぼしかねないため、憂慮しています。
この問題については、これからもしばらく続けたいと存じます。
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宮里立士氏 「四等国」大使の戦略的思考――孫崎享を批判する (イザ!ブログ 2013.2.15 掲載)

2013年12月09日 06時38分58秒 | 宮里立士
尖閣諸島をめぐり日中間で緊張が高まった昨年9月28日に、中国はアメリカ有力紙に「釣魚台諸島は中国に帰属する」という意見広告を出しました。「ポツダム宣言に基づいて、日本は尖閣諸島に主権を持っていない」。これが中国の主張の根拠です。

七十年近く前の、日本の降伏・占領を規定した宣言を持ち出し、日本の尖閣諸島領有の不当を訴える中国の主張は、われわれ日本人には異様に映ります。

たしかに我が国は、ポツダム宣言を受諾して降伏文書に調印しました。しかし、これは休戦協定です。その後、サンフランシスコ平和条約によって、日本は「独立」し、この平和条約に基づき領土も確定されました。たしかに中共政府は中華民国とともにこの平和条約に調印していません。しかし、中華民国とは翌年に日華平和条約を結びました。また、中共政府とは、1972年に中華民国との国交を破棄し、日中共同声明で中国を代表する政府として国交を開きました。そして1979年に日中平和友好条約を結んでいます。これらはむろん、サンフランシスコ平和条約の延長線上に則ったものです。そこに今日、いきなり「独立」以前の、日本の被占領国時代のポツダム宣言を持ち出すとは、どういうことでしょう? 

つまり中国政府は、自分たちがアメリカとともに「戦勝国」であり、日本は現在でも、「我々」の指示に従うべき「敗戦国」だと主張しているわけです(有馬哲夫「『沖縄も中国領だ』と周恩来は考えていた」『新潮45』2013年2月号)。

その証拠に、その後の11月14日、モスクワで、ロシア、中国、韓国三ヶ国の研究機関により開催された「東アジアにおける安全保障と協力」をテーマとした国際会議でも、中国外務省付属国際問題研究所の副所長が、カイロ宣言、ポツダム宣言の規定に基づき、北方領土、竹島、尖閣諸島のみならず、沖縄までも、「敗戦国」日本の領土とは認めないと説きました。さらに、新たな対日共同戦線をアメリカも引き込んで創設する必要があると説きました。

しかし、この異様に見える中国の主張に呼応する発言を繰り返す日本側の「国家エリート」が存在します。その代表が孫崎享(うける)氏です。

孫崎氏は昨年、尖閣問題で日中間が緊張したとき、「棚上げ」論を積極的に主張し、耳目を集めました。氏は「14世紀にはその(中国の)軍事力が尖閣諸島一帯に及んでいた」という、あやふやな史実を挙げました。そして『環球時報』などの中国共産党のメディアにも登場しました。彼の「棚上げ」論の直接の論拠は、カイロ宣言、ポツダム宣言の有効性です。

彼の論旨を、朝日新聞のPR誌『一冊の本』昨年11月号に特別寄稿した「尖閣問題、『棚上げ』こそ正しい道」から引用しましょう。

「日本の領土問題は、日本が第二次大戦で敗れた戦後処理の問題と深く関与している。」「〝ポツダム〟宣言受諾が戦後日本の出発点である。このポツダム宣言は第8項において、 『カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ我等(我々)ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ』としている。さらにカイロ宣言では、『満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト』となっている。」
(以上、前掲『一冊の本』13頁 但し引用文中の( )は引用者注記)

それゆえ、中国の主張には有効性があると孫崎氏は唱和します。これに対し、拙文の最初に挙げた「『沖縄も中国領だ』と周恩来は考えていた」の筆者・有馬哲夫氏は、中国の主張に次のように反駁します。

「中国はアメリカと同じポツダム宣言を出した側、つまり『我々』=『ルール』を作る側』に自らを位置づけている。しかしながら、むろん日本は、中国が『我々』に含まれているとも『ルールを作る側』にいるとも考えていない。日本が戦争で負けたのはアメリカによってであって、中国(国民党)に負けたとは思っていない。まして、戦争中延安あたりをさまよっていた毛沢東の中国(共産党)に負けたというのは論外だ。」「ポツダム宣言の『我々』とはアメリカのことで、蔣介石はこの宣言案を追認しただけだった。」                       (前掲『新潮45』141頁)

有馬氏はこれらのことを指摘した上で、現在中国は自らを「戦勝国」の立場に置き、ここから「ルールを作る側」として、本気で尖閣について領有権を主張している。いや尖閣どころか、「沖縄」にまで自国に権利があると考えていると述べています。これに日本はどう対抗すればよいか。

「日本はこれまで押し付けられてきたルールに盲従していては、現在だけでなく将来も不利な状態に置かれるということだ。経済、科学、技術、文化、外交など、現在持っているあらゆるものを使ってなんとしても『ルールを作る側』に回らなければならない。」                 (前掲『新潮45』147頁)

実際、中国はニューヨークの国連本部で、「日本は第二次世界大戦後の国際秩序に挑戦しようとしている、これを米中は共同で阻止すべきだ」という「論理」でロビイスト活動を展開していると、青山繁晴氏も語っています。

ちなみに国連を戦後の日本人は国際平和を実現するための組織と教えられてきました。が、実は「戦勝国」が第二次大戦直後に画定した世界秩序を維持するための組織です。その証拠に日独を対象とした「敵国条項」が国連憲章に未だに存在します。

このような話を聞くと、「平和国家」を目指して努力してきた日本の戦後とはなんだったのか、という徒労感が湧きます。我々日本人は戦争に負けたため、日本はなんだかアメリカには頭が上がらない国になっているとは気づいています。しかし、この「頭が上がらない」とは、もっと根深い国際社会の枠組みのなかに構造化された問題だったのです。そして、このことから、有馬氏の説くように、「ルールを作る側」に日本はなんとしてでも回らねばならないことにも気づかされます。

ところで、先の孫崎氏に話を戻せば、氏の著書『戦後史の正体』は、戦後日本の対米従属路線を強く批判した本として、昨年、一部で話題となりました。これは20万部以上の売り上げを記録したそうです。その後も著書を立て続けに出し、今年に入ってもその人気は衰えないように見えます。しかし同書を繙くと、日本の対米従属をなぜかアメリカの対日工作の謀略話として展開するため、はっきり云って、「トンデモ本」の印象を拭えません。『戦後史の正体』の冒頭部分から少し引用します。

「少しでも歴史の勉強をすると、国際政治のかなりの部分が謀略によって動いていることがわかります。」  (『戦後史の正体』11頁)

孫崎氏が同書で挙げる日本の「対米従属」の事例の多くは、我田引水の「深読みのし過ぎ」。しかも孫崎氏の場合、自らの主張を一次資料から解き明かすのではなく、二次文献や一般書、当事者の後年の回想録などから、自分に都合よく論理を飛躍させます。このことについては何人かの論者が具体的に批判しているので(池田信夫氏、潮匡人氏、佐藤優氏)、ここではいちいち取り上げません。というか、同書を読み進めると批判するのもバカらしくなり、その「トンデモ」ぶりに脱力します。なぜならそれらの記述が論証不能なまま、アメリカとその意を受けた日本側協力者の「見えない動き」によって、アメリカに都合がいい結果が生まれた「ようだ」と、思わせぶりな書きぶりで話を進めるからです。

たしかに戦後の日本はアメリカの意向に逆らえず、結果的に「対米従属」を続けてきたように感じます。しかし、それは、別に謀略や対日工作などというおどろおどろしい話を持ち出さなくとも、現在に至るまでの戦後の日本が、それこそ「ポツダム宣言」に規定された国際秩序の枠組みのなかに自らを閉じ込め、国家の最重要な安全保障(国防及び諜報関係)をアメリカに丸投げしてきたからです。「戦勝国」のアメリカの意向に逆らえないのは当たり前の話です。

ここまでくると、日本がアメリカから本当に「独立」するためには、戦後の国際秩序を変更、あるいは修正し、自ら「ルールを作る側」に回ることの重要性に思いが至ります。しかし孫崎氏はそうは考えず、アメリカの力は後退する、だから今度は中国に付けと主張します。しかも日本の再軍備や集団的自衛権の行使にも反対します。そして、アメリカに代わる東アジアの「覇権国家」の中国に組せよと云います。「対米従属」に代わる「対中従属」の勧めをしているとしか読み取れません。

その証拠に、氏の中国重視は現在の財界主流のそれと一致します。氏は『戦後史の正体』で、戦後の財界が「対米従属」路線の有力勢力で、政治家に圧力をかけ続けてきたと述べています。しかし、現在の財界は中国を刺激する政策に圧力をかけます。経団連の米倉弘昌会長がその典型例です。

ところで、先の「尖閣棚上げ」論との関連で孫崎氏は、「沖縄は琉球王国時代、冊封体制の下で長く中国の朝貢国だった」、だから、その間、沖縄は中国の支配下にあったと考えられるとも云います。それに対し、沖縄が日本に「編入」されたのは、たかだか百五十年足らずである、とも。

「日本が琉球王国を強制廃止し、琉球藩を設置したのが一八七二年、明治政府が琉球藩廃止を宣言して鹿児島県に編入したのが一八七九年である。」  (『日本の国境問題』12頁)

研究者の間で「琉球処分」とも、近年では「廃琉置県」とも呼ばれる、近代黎明の一連の琉球・沖縄をめぐる動きを、孫崎氏はこのように記します。しかし、このまとめ方はいささか強引です。琉球藩が設置されたのはたしかに1872年です。これは明治政府が次の「沖縄県」設置を睨んだ布石であり、1879年に行われた鹿児島県への編入とは「沖縄県」設置のための一時的措置です。孫崎氏の書きぶりから、私は、「日本」による「沖縄領有」の不当性を強調している印象を抱きます。

孫崎氏の言説からは、中国の立場からの「日琉離間工作」の臭いがただよいます。「日琉離間工作」とは、アメリカが米軍統治時代、「オキナワ」を恒久的に支配下に置くため、しきりと日本本土と沖縄の異質性を強調した政策を批判的に指した言葉です。孫崎氏が先に挙げた「冊封体制」とは、前近代東アジア特有の国際秩序です。主権国家間の関係を原則とする近代の国際法秩序とまったく異なる論理による国家間の交易体制です。もし、この体制での朝貢国を、「中国に属していた」として、現在の国際関係に持ち込めば、それは、韓国・ベトナム、さらにはもしかしたら日本以外の中国の周辺国がほとんど、「中国に属す」根拠にされかねません。現に中国は相手によって、この「根拠」をちらつかせます。孫崎氏の言説からは、意図的かどうか知りませんが、そういう「ニオイ」がたちこめます。

それから孫崎氏が何やら得意げに持ち出す、「カイロ宣言」も国際法上、有効性に疑問が出されています。「カイロ宣言」とは、米英中首脳のカイロ会談のときに出された新聞発表(プレスリリース)です。この「宣言」には署名も調印の日付もありません。もちろん、「宣言」を保証する公文書も存在しません。そのため、法的拘束力のある「コミュニケ(宣言)」といえるかどうか疑義のある「声明」です。そしてこのとき、「中国」を代表したのは中華民国の蔣介石です。つまり、孫崎氏は日本に不利になる国際法の解釈から、これが「国際世論」の現実と声高に唱えているのです。

ポツダム宣言を受諾した敗戦直後の、米国を主とした連合国の占領下にあった日本のことを、卑しめて「四等国」と云う者が、当時、戦勝国側、そして日本人のなかにもいました。

我々は「独立」して日本がその状態から脱したと思っていました。が、どうも孫崎氏にかかれば、日本は未だに「戦勝国」に自国の領土確定を委ねられている、被占領状態の「敗戦国」のようです。となれば、現在日本も未だ「四等国」ということなのでしょうか。孫崎氏は、その「四等国」のイラン大使を勤め、あまつさえ防衛大学校教授に「天下った」国家エリートです。

孫崎氏は、日本の集団的自衛権行使、「国防軍」創設にも反対します。その理由は、「覇権国家」として衰退するアメリカの「傭兵」に日本の「軍事力」が使われるだけだからだそうです。氏は日本人には「戦略的思考がない」、ゆえに日本に主体的「軍事力」は持たせられないと考えているようです。孫崎氏は「戦略的思考」という言葉が大好きなようで、しかも、日本人には「戦略的思考」がないと何度もくりかえします(『日米同盟の正体』『日本人のための戦略的思考入門』など)。ここから氏は、日本に、衰退するアメリカと訣別して、今後新たに「覇権国家」として台頭する中国の「風下に立つ」ことを推奨します。

「日本が自己の領有権を更に強固なものにするために粛々と国内法を適用すれば、中国も同様な手段をとる。中国はしばしば『座視しない』と発言している。双方が『国内法を粛々と適用する』という立場を貫けば、軍事衝突にまで発展しかねない。長期的に見れば、軍事的に日本が勝利するシナリオはない。」「日中関係は今歴史の岐路にある。今こそ棚上げ論の持つ意義を真剣に再考する必要がある。」    (前掲『一冊の本』15頁)

孫崎氏は現在の外務省主流にはびこる、強いものに媚びる「事大主義」を強く批判します(『戦後史の正体』50頁)。しかし、この批判に「まさに孫崎さんが、(その)事大主義者」であると、佐藤優氏は答えます。「あるときまで、孫崎さんは米国を最重視する事大主義者でした。現在は中国を過大評価する事大主義に陥っています」(「孫崎亨・元外務省国際情報局長のイラン観について」『みるとす』2012年12月号 引用文中の( )は引用者補記)。

佐藤氏は、孫崎氏が外務省国際情報局長のとき、国際情報局分析第1課の主任分析官だったそうです。そして、佐藤氏は孫崎氏とイランをめぐる問題で根深い対立があるようです。

孫崎さんの最大の問題は、イランに対する事大主義です。孫崎さんのイラン観が現実の日本外交に影響を与えるようになるとわが国益に大きな害を与えると私は危惧しています」     (前掲『みるとす』19頁)。

しかし、この件は佐藤氏と孫崎氏の問題です。私の立ち入るべき問題ではないでしょう。ただ、私から見ても孫崎氏の奇っ怪な言動に不可解を覚える点が多々あります。このことは改めて書きましょう。

〔追記〕
孫崎享批判は『表現者』47号(2月18日発売)にも寄稿しました。よろしければ、あわせてこちらもお読み願えれば幸甚です。
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宮里立士 「毒を喰らって三年有余後――第二次安倍晋三内閣発足に向けて」 (イザ! ’12・12・28掲載)

2013年12月05日 22時57分13秒 | 宮里立士
前回の総選挙の直後に、私は以下の文章を「毒を喰らわば……」と題し、自分のミクシィ日記(現在は開店休業状況)に書きました(平成21年8月31日)。

読み返してみて、我ながら案外、民主党政権とその後の日本政治の展開の「読み」として、間違いがなかったことに少し自信を持ちました。

そこで読みにくい箇所に少し手を加え、美津島明さんのブログに改めて投稿します。

*******

               「毒を喰らわば……」

総選挙は下馬評どおり、民主党の大勝、自民党の歴史的惨敗に終わった。事前予測で民主党の議席三百越えがマスコミで大騒ぎされていたので、別に驚きもしなかったけれど、一度も政権を担当したことのない党に、フリーハンドを渡すことに不安を覚える保守層の揺り返しも若干あろうかとも思った。が、前回の「小泉選挙」同様、勝ち馬に嬉々として乗るのが当世風なのだろう。

まぁー、麻生さんに同情する立場から見ても、選挙のタイミングを逸して土壇場になって解散に踏み切って大失敗だったという観は拭えない。民主党は単独で衆議院の安定多数を取ったのだから、当分は総選挙はないのだろう。そうなると保守派の一部で危惧されている外国人参政権問題や、現代の「治安維持法」人権擁護法の制定、国会図書館に「先の大戦」での日本の戦争犯罪を暴き立てるという「恒久平和調査局」を設置する案などは、どうなるのだろうか? 

靖国神社と別個の無宗教国立戦没者墓苑の設立は選挙期間中にすでに次期(鳩山)首相が表明していたが、民主党内の保守派はこれに協力するのだろうか? 今はとりあえずその動向を見守るしかない。

安全保障面の不安も保守派から提出されている。連立を組む予定の社民党が非核三原則の法制化を、「悲願」だかなんだか知らないが提唱している。日本を「敵」と勝手に見なしている北朝鮮が核ミサイルを実戦配備しようというご時世にこんな浮世離れした提案をどうあしらうか? その辺で民主党の実力が問われそうだ。核政策で今の日本政府ができる、一杯一杯の政策は、核を「持たず、作らず、持ち込ませず」の、「持ち込ませず」を本当のような、そうでないような、やっぱり核となんらかの形でつきあっているというニュアンスを示すぐらいだろう。それともかつてアメリカが戦慄した「キューバ危機」のような状態に、本気で「空想的平和主義」のみで対峙するだけの気力があるのだろうか?

「緊密で対等な日米関係を築く」という民主党のマニフェストに不安を覚える向きもある。しかし、これは考えたら主権国家として当たり前の主張で、ではそれをどういう文脈で主張しているかという点に眼を向けるべきだ。たとえば現在、アメリカが日本からグアムへの膨大な米軍移転費用の負担を、日本に押しつけようとしている。こんなものは精査して、日本側が負担せざる得ないものと、そうでないものを、ちゃんとアメリカ側に説明すべきである。

別にアメリカは慈善事業で日本に軍事拠点を置いてきたわけではない。アメリカの世界戦略の必要から米軍基地を置いてきたまでだ。もちろんそれが日本の国益になるならそれはそれで仕方がないが、そのために日本の自主防衛体制が疎かになるのなら、なんの国益か解らなくなる。

自民党の安全保障政策には確かにそのきらいがあった。昨今、中国が毎年異常な軍事費増強を続けている。これに対し、近年日本の防衛費の削減が続き、この調子では数年後にはもはや中国の量を日本の質で守ることすらできない危機的状況にあるという。

これらのことはすべて自民党政権下で進んだことだ。そして更によく考えてみれば先に危惧された外国人参政権問題云々のことも、すでに自民党内で議論されてきたものだ。はっきりいって今の自民党と民主党に程度の差はあれ、どこに本質的違いがあるのだろう? 

もっと言えば、所詮、政治屋(政治家にあらず)は、国民のレベルに合わせないと国会議員に成り上がれない。ということは、国民の「民度」の問題となってくる。

勝手な放言のようだけれど、実際ここまで来れば、「行き着く先まで歩いてみるしかないなぁー」、と考える。これからは、かつては日本的美質でもあった「日本的あいまいさ」ではすまない新たな世界へと、我が国も乗り出すしかないのだろう。

〔付記〕
私は、安倍晋三総裁に率いられた自民党が大勝したことを喜ぶ人間です。

経済には疎い者ですが、美津島さんのブログから教えられるように、今のデフレ不況を脱却するために安倍総裁がインフレターゲット政策を積極的に掲げていることに共感を持ちます。そして何よりも、安倍総裁の外交安保政策の多くの部分は、自分の考えと重なっています。

しかし、上記の「毒を喰らわば……」のなかで、民主党が社民党と連立を組んだおかげで、最初に安全保障政策で躓き、これがケチの付き初めとなって、やることなすことすべて裏目に出たように、「自公政権」という枠組みで、安倍総裁の政策のどれだけが実行できるか、不安も覚えています。

今回、先の文章を再び人の眼に晒そうと思ったのも、「自己満足」をしたかったからではまったく無く、安倍政権が、前民主党政権の轍を踏むことのないように願い、投稿しました。
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宮里立士  「理性の君主」昭和天皇が抱いた逆説的な認識  (イザ!ブログ 2012・12・9 掲載)

2013年12月04日 23時21分36秒 | 宮里立士
「理性の君主」昭和天皇が抱いた逆説的な認識
――『昭和天皇』(古川隆久著 中公新書)の書評の補論として――           
      宮里立士

                  まえおき

11月24日に古川隆久氏の『昭和天皇「理性の君主」の孤独』の書評を書き上げ、美津島明さんのブログに投稿しました(翌日にブログアップして頂きました)。しかし、拙文を読み返したとき、本書の内容紹介に力が入りすぎ、書評としての論旨が十分に展開されていないことに気づきました。そこで改めて補論というかたちで、これを展開したいと思います。

          *

先の書評の最後に、本書の古川氏の論調に「若干の疑問が残った」と記した。

その疑問とは、「昭和天皇を『理性の君主』と強調しようとするあまり、陸軍(部分的には海軍)を、図式的に「悪玉」に仕立てていないか」、「本書の『歴史的文脈』が、やや安易に戦後的価値観に依りかかっていないか」の二点であった。しかし、これは率直にいって、やはり本書への「批判」というべきだった。「疑問」という言葉にこれを和らげたのは、古川氏の本書結論に深く共感するところがあったためである。

すなわち、「天皇・皇室というものが、日本の国家と国民、さらには世界の平和と発展に寄与し得るはずだという認識が昭和天皇にあった」。そして「森羅万象すべてを理性で解き明かすことができるとは限らず、しかも、理性だけでは人間社会は維持しきれず、天皇は、国家において、そうした信仰や信念に相当する役割を果たしてきており、これからも果たし得る、という認識が昭和天皇にあった」という結論である(395頁)。

しかし、その一方で古川氏は本書で、昭和天皇への政治責任追及の声に、「一般住民すべてが国民という、いわば国家の正式なメンバーとなる、近代国家においては、貴族や武士などごく一部の人々しか政治に関与できない前近代の国家と比較して、指導者の業務が飛躍的に多くなり、問題も解決方法も複雑になる。近代国家の指導者は、一人で長期間適切に業務をこなすことは不可能なのである。しかも昭和天皇は世襲君主であって、望んでその地位についたわけではない」と述べて、その立場を擁護する。

そして、「天皇にすべての最終権限を集中した旧憲法の制度設計はそもそも不適切だった」と指摘する(393頁)。

ここには古川氏が君主制を合理的とはいえない、「前近代」的存在である、と観ていることが窺われる(古川氏は「近代国家において、君主は象徴的な存在にとどまるべき」とも述べている)。

この古川氏の結論と指摘を念頭に改めて本書のテーマを考えた。すると、先の結論の引用部分、「森羅万象すべてを理性で……」の前に置かれている古川氏の文章、すなわち「天皇機関説事件の際や終戦直後の昭和天皇の発言や、その背景となっている生物学者たちの議論が示唆しているように」、という箇所が気にかかった。

昭和天皇は生物学研究を通して「進化論者」になったと、古川氏はいう。その当否はともかく、昭和天皇がダーウィンを尊重していたのは、自らの執務室に彼の胸像を、リンカーンの胸像とともに置いていたという逸話からも察せられる。その天皇が進化論を肯定していたことは多くの史料から明白である。古川氏は本書で、戦前の代表的な生物学者の丘浅次郎が執筆し、ロングセラーとなった『進化論講話』の大正三(一九一四)年の増補修正版に追加された「進化論の思想界に及ぼす影響」という章に注目する。そこでは丘の、「『信仰は理会力〔理性〕の外に立つ』もの」で、「人類という種を維持繁栄させるためには、信仰、宗教のような非理性的な観念が必要だという見解が示されている」(199頁)。

これに続けて、丘が「極めて面白い」と評するドイツの生物学者ヘッケルの著書『生命の不可思議』(上下二巻として、岩波文庫に収録)の学説を古川氏は紹介する。それは結局、生命発生の時期と原因とは不明であるという学説である。そしてこの説は現在の生物学でも踏襲されているという。これを受けて古川氏は、「昭和天皇の思想は当時の自然科学の動向から大きな影響を受けたものだった」ことを踏まえて(200頁)、「理性だけでは人間社会は維持しきれず、天皇は、国家において、そうした信仰や信念に相当する役割を果たしてきており、これからも果たし得る、という認識が昭和天皇にあった」という結論を抽き出したのである。

先に「若干の疑問」として挙げた二点から私は、古川氏が「丸山真男流の『戦前無責任体制』論」に依拠し、この戦後的視点から「歴史評価」を下しているのではないかと疑った。しかし、これは誤りだったようだ。

「世襲君主」という己れひとりの意思では身動きできない立場に同情する視点から、昭和天皇の「戦争責任」追及を擁護しようとする主張は、戦後の穏健リベラリストの多くに見られた。また、皇室祭祀の執行に端的に現れる「天皇の宗教的権威」から、その「尊厳」を、近代個人を超えた存在価値として重んずる論説も、戦後にも一部に一定の有力なものとしてあった。しかし、古川氏は本書で、これらをおそらく意識しつつ、異なる視点から両者を止揚する見解を述べようとしている。ここに私は、古川氏の現代の歴史家としての「誠実さ」を感じとった。古川氏は、昭和天皇という、未だ「歴史」となりきっていない存在に対し、自身の歴史家としての「評価」を本書で披露したのである。

ここまで考え直したとき、私が本書に「若干の疑問」を内包しつつ、深い共感を寄せた理由もはっきりと解った。

すわなち、「理性の君主」である昭和天皇は、その立場ゆえに、「孤立」を強いられた。しかし、その「孤立」のなかで、昭和天皇は理性を超えた、天皇の存在理由を認識することができた。これが本書で古川氏が辿りついた結論だったのである。

「天皇」(ここでは「君主制」と置き換えてもいいであろう)という、近代政治の通念では「前近代の遺物」とも観念される存在を、「進化論」という、ある意味で優れて「近代的」な観点から捉え直し、昭和天皇がここから「理性」の限界とそれを超えた「天皇」の存在意義を逆説的に感得したという天皇の自己認識のダイナミズムを説くところに、私は本書のユニークでオリジナルな魅力を感じたのであった。

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