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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

特別寄稿・宮里立士氏 「晩秋の武蔵境」 (イザ!ブログ 2012・11・29 掲載)

2013年12月04日 04時13分16秒 | 宮里立士
                         

今週の日曜日に武蔵境へ、詩歌の演奏と講演のランチタイム“カフェ・トーク”という集いに行きました。テーマは、童謡「赤とんぼ」で知られる詩人の三木露風です。

三木露風とは、大正時代の初めに象徴詩人として出発し、デビューするやいなや、北原白秋と詩壇を二分する「白露時代」を築きました。しかし、その後、熱心なカソリック信徒となり、一連の「宗教詩」と呼ばれる作品を発表すると、大正後半には早くも文学界から敬遠され、昭和時代には文学関係者からも、「忘れられた詩人」とあだ名されました。現在では一般に、童謡「赤とんぼ」の作詞者としてのみ記憶されています。

三木露風は後半生を三鷹で過ごし、ここでその生涯を終えました。そのため、彼の遺稿は三鷹にある山本有三記念館に委託されます。私はかつて、ここで三木露風の遺稿整理の手伝いをしたことがあり、その縁でこういう集いにも声がかかります。

定員六十席の会場に五十人ぐらいが座っているといった感じでした。こういう催しの場合、どうしても年長者が多くなりますが、そのうち女性が七割で奥さんと一緒に旦那さんも楽しみに来ているという雰囲気でした。

まず三木露風の童謡がハープで演奏され、つぎに現在、三木露風研究の第一人者といえる福嶋朝治先生が三木露風の晩年の詩境を、「誠の道」への傾倒(これは露風が尊敬した近世の俳人、上島鬼貫の俳諧精神への追慕です)と、東洋的「気」の世界観のふたつに分けて語ってくれました。

露風の遺稿整理に携わったおかげで、彼の詩文の大半を読む機会を得ました。そしてここから露風が、基督教の一神教と日本の国学的伝統との接木を試みようとする、特異な宗教思想を抱いていたことを知りました。そしてこれをいくつかの論文にまとめました。

露風は、カソリック入信後も、日本の古典や「日本的なるもの」への探究に熱心で、むしろカソリックという「普遍」を通して、日本の「伝統」のオリジナリティーを主張しようとしたきらいがあります。そのため平田篤胤以後の、一般には日本の精神風土から逸脱した、窮屈で教条的イデオロギーとも目される、幕末の国学者を高く評価しました。

現在でもこのような一神教と日本の伝統に共通性を見ようとする主張は、牽強付会と一笑に附される傾向が研究の世界でもあります。しかし、それは内村鑑三をはじめとする明治のクリスチャンが、もとは武士でありながら、彼らがキリスト教に父祖の精神と共通するものを感じ取ったことにも繋がるものだと、私には思えます。

とはいっても、露風が晩年に辿りついた詩境、「誠の道」「東洋的『気』の世界観」は、この特異な宗教思想と繋がっているのか、いないのか? 

ここでいう「誠」とは、福嶋先生の説明では、「誠実」とか「至誠」という意味ではなく、「素直」「正直」という意味、つまり、技巧にとらわれない「まこと」を指します。また、「東洋的『気』の世界観」は、どう考えても汎神論的世界イメージです。先生が講演で例示した詩を見ても、そういう印象でした。もっともカソリックはプロテスタントとは違い、キリスト教移入前のヨーロッパの土俗的世界との妥協で成り立っている部分があります。だから、「一神教」の原理と、二重になる世界観を詩境として、露風が抱くに至ったことは、矛盾をきたさないのかもしれません。

しかし、そう考えていくと、それとは趣を異にする「赤とんぼ」の存在が気にかかってきます。

そもそも「赤とんぼ」の詩句は、まるで理屈の要らない、素直というよりも素朴な叙情です。また、そこが琴線に触れるがために、今でも老若男女を問わず、日本人に歌い継がれているような気がします。  

「赤とんぼ」は、露風の若いころの作品です。先の思想や詩境は、その後に彼に訪れたものなので、この詩歌を無理に理屈で繋げなくてもいいとも思います。しかし、結局、三木露風は素朴な情感をうたった詩歌で、後世に残った詩人だったということなのでしょうか。

正午前に始まったカフェ・トークが終了したのが午後三時。その後、駅周辺を散歩し、晩秋の武蔵境を堪能しました。中央線の国分寺に長年住んでいるため、新宿、東京に出るときは必ず、電車で武蔵境は通ります。が、ここで下車したのは、二、三度あったぐらいと、思い出す程度。そのため、せっかくの機会に武蔵境を散歩しました。




もちろん、駅周辺をあてもなくひとりで二、三時間ぶらぶらしただけで、碌に何かを見物したわけでもありません。武蔵境は四、五十年前は駅近くまで雑木林が生い茂っていたと、先の集いで司会者も話していました。しかし、今はきれいに舗装され、それでも、郊外の落ち着きが、何か晩秋の郷愁を誘う雰囲気でした。近くにちょうどこの雰囲気に似つかわしいお寺があり、覗き見ると境内の紅葉が印象的でした。

国木田独歩の「武蔵野」は、ここが舞台とは迂闊にも気づきませんでした。家に帰り(といっても、その晩は悪友から電話が入りそのまま大酒したので翌日夜)、駅北口から少し足を伸ばせば独歩の碑があることも知りました。

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宮里立士・書評『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』(古川隆久著) (イザ!ブログ 2012・11・25 掲載)

2013年12月04日 03時50分28秒 | 宮里立士
ブログ主人より。宮里立士さんは、ご自身が〔追記〕で述べているように、沖縄県出身です。彼は、自分自身の存在根拠を深堀りするようにして、沖縄という近代日本のアポリアに果敢に挑む論客です。日本近代史についての深い造詣に立脚したその論には傾聴すべきところが多いと感じています。当ブログの常連の執筆陣としてお迎えする所存です。

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                 書評 『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』(古川隆久著)

                                            宮里立士 

近年、昭和天皇に関する伝記、あるいはそれに準ずる著作が研究者の間でも書かれるようになってきた。本書もそのひとつである。昨年、中公新書として刊行された本書は、ベストセラーとなり、「新書大賞第2位」にもなったという。この本が売れた理由は端的に云って、本書冒頭の「はじめに」で、著者自身が述べる執筆動機が、多くの読者の共感を呼んだ点にあるのだろう。

古川隆久氏はここで「一九八〇年代までの昭和天皇論」は、両極端な評価に分かれている、という。すなわち、「自分のことより国家国民を思い、平和を希求した偉大な人物」、あるいは「国民の命や戦後の平和憲法など顧みなかった無責任で冷徹な権力者」という、「自分の政治信条(イデオロギー)に基づいた解釈」が大半だったと指摘する。これに対し、著者の古川氏は「昭和天皇の実像を知りたい」という欲求に可能な限り答えることを本書の目的としたいという。

昭和天皇が亡くなった一九八九年を契機に、「良質な一次史料の発掘が始まったことにより、史料状況はここ十数年の間に劇的に改善」され「冷静で客観性の高い研究が増えてきた」。しかし、それでも従来は個別研究にとどまっていた。そこで著者は、史料批判を踏まえて史料の付き合せによって、「あくまでも実証的」に歴史的文脈に即して、昭和天皇の全体像を描きたいと宣言する。

古川氏は、本書でまず、昭和天皇の思想形成過程に注目する。それはこの点に対して従来の史料や関連分野の研究が不十分だったからである。昭和天皇の「思想形成過程をふまえて政治との関わりを再検討」したいというのだ。

まず「第一章 思想形成」で、昭和天皇にとっての学校である「東宮御学問所」のこと、そして天皇がここで受けた教育について、細かく紹介される。昭和天皇の九歳の時の養育記録が史料として掲げられる。

「会話時の発音にやや問題があるが、知的、精神的にごく普通に成長。真面目な性格、対人関係良好。生物や相撲に関心を持ち研究心旺盛」(7頁)。

昭和天皇の「お人柄」として多く語られる特徴が、ここですでに表れている。このころは少年として、「ごく普通に成長」していたことが解る。その東宮御学問所で「帝王学」、すなわち、倫理学を教えた人物は杉浦重剛である。杉浦は在野の国粋主義的教育家として知られていた。だが、彼の御学問所での講義録を検討した古川氏は、杉浦が昭和天皇に教えた「帝王学」とは、天皇神格化とは無縁な内容であったという。

「杉浦は、儒学を一つの柱とし、広く古今の歴史をふまえるなど、普遍性の高い内容によって、天皇としての心得を説いた」(15頁)。

そしてこれが後に昭和天皇の内面にあって、徳治主義へと昇華されたと指摘する。

また、東洋史学者の白鳥庫吉は実証的な教科書『国史』を使い、神代は歴史ではなく「神話」として教え、後醍醐天皇批判も講義した。明治期の代表的西洋史の実証的学者の箕作源八の著作『西洋史講話』『フランス大革命史』での講義も行っている。

「法制経済」の授業を受け持った清水澄(とおる)(後に最後の枢密院議長となる)は、天皇主権説に立ちつつも、美濃部達吉の天皇機関説に極めて近い立場に立って「不敬という批判を招かない範囲で西欧基準の国家論を導入しようとした」(23頁)法学者。

しかし、天皇主権説と国家法人説の両立には論理的に無理があったと、古川氏は指摘する。昭和天皇も実はこれに気づいていた。このことが後の天皇機関説事件のとき、昭和天皇自身に引き裂かれるような矛盾を強いることになり、延いては、戦後の「天皇の戦争責任」問題にまで尾を引くことになったと、著者は述べる。

陸海軍将官による軍事講話を聞き、フランス語を学び、国文漢文や美術史、数学などの当時の中学、高等学校にある授業も受ける。そして、関心の深い生物学については、その分野の研究の生涯の師となる服部広太郎から学ぶ。

「要するに、東宮御学問所では、国際社会のなかでも立派に通用しうる天皇の育成がめざされた」「杉浦や白鳥は全体として、天皇の絶対化、神格化という当時の政府の公式見解とは異なる、合理的、普遍的な天皇観・国家観を教授」。

「君主制維持のためには君主個人のカリスマ性も重要な要素」とも教授した。昭和天皇は杉浦から天皇たる考え方(徳治主義)や振舞い方、白鳥から天皇が神の子孫ではないこと、清水から天皇機関説を受け入れる素地を教えられたと、「東宮御学問所」の教育内容を古川氏は総評する。

次に皇太子時代の一大イベントとなった「訪欧旅行」について、古川氏は叙述を進める。昭和天皇は、この旅行を「いちばん楽しく感銘が深かった」(24頁)と後年、語っている。

この外遊の成功は、当時、政治問題にまで発展した香淳皇后との結婚にまつわる「宮中某重大事件」の決着にもつながる。また、外遊は天皇に英国王室への親近感を醸成させ、かつ第一次世界大戦の戦禍の悲惨さを目の当たりにさせた。初めて自らで買い物や地下鉄に乗る経験もする。そして外遊中の振舞いが日本に伝えられると、皇太子人気も巻き起こる。国民の、「裕仁皇太子によって、政治の民主化が進むであろうという期待」はふくらんだ。「こうした世論と裕仁皇太子の心境は、帰国後の皇太子の行動に大きな影響を及ぼしていく」(38頁)。

裕仁皇太子は立憲君主制の維持は当然としながらも、天孫降臨神話は否定し、大衆的な立憲君主制国家を作りたいと考えた。そうして、「君臨すれども統治せず」という政治思想を抱いての「摂政就任」。しかし、これらが陸軍との乖離を生んだことも記される。生物学から得たダーウイン進化論の受容と大正デモクラシー期にすでに現れた「大衆天皇制」的状況から裕仁皇太子自身、欧州流の考え方(生活スタイル)に大きく傾き、自らの「神格化」にも否定的となる。皇太子になってからも学界を代表する学者から、かなりリベラルな進講を受ける。そして国民の天皇・皇室への素朴な憧れによって、裕仁皇太子は国民の「アイドル」ともなる。

ここまでの叙述と分析を踏まえ、古川氏は昭和天皇の政治思想は、大正デモクラシーの代表的な論者である吉野作造の主張と軌を一にするものだったと述べている(71頁)。

国民の大きな期待に包まれて即位し、これに応えんとした昭和天皇であったが、即位早々に難問に直面する。それは張作霖爆殺事件とロンドン軍縮条約問題であった。

中国の主権を尊重する協調外交の立場をとる昭和天皇から観て、張作霖爆殺事件に対する田中義一首相の取り組みには不信感を募らせるだけだった。「統帥権の独立」という概念がひとり歩きする以前のこの時代、「海外出兵の可否は首相の管轄事項」(101頁)とも考えられていた。

そのため軍事に関わる問題に首相は大きな責任を負った。当時の輿論も田中内閣に批判的であり、「ここで政治に介入しなければ、政党政治を擁護するはずの昭和天皇の政治責任が問われる」(113頁)。そこで天皇は田中を叱責し、辞任に追い込む。

しかし、この行為と、その前後における昭和天皇の政治的態度を、古川氏は、天皇が道徳的な政党政治を追求した結果であったと、好意的に解釈している。

ロンドン軍縮条約問題に関しても、「統帥権干犯」を唱える海軍軍令部首脳に対し、浜口内閣の方針を支持、激励し、反発する軍令部を抑えて調印に漕ぎ着けさせる(因みに「統帥権干犯」という言葉はこのときはじめて登場した)。

ただ、海軍軍令部を抑えることには成功したが、このとき露呈した高級軍人の視野の狭さと、そのプライドの過剰なほどの高さを政治が見誤った場合に、事態収拾が困難になるということを、教訓として汲み取れなかった点に、後年、陸軍の本格的な政治介入を阻止しえなかった一因を、古川氏は見ている。またこの問題で、右翼の宮中側近攻撃が始まる。これもまた、その後に続く昭和戦前期のクーデター、テロ行為を含む民間在野勢力の政治行動へと受け継がれる。

しかし両問題を収拾した直後、一九三一年には満洲事変が起こり、政府、参謀本部は現地軍の独断専行をついに止めえなくなる。この事変の際、昭和天皇は最善を尽くしたか、と古川氏は問い、天皇は陸軍不信をたびたび表明したが、結局は適正なる処断はしなかったと、批判的に叙述する。

しかし、昭和天皇が陸軍に不信感を抱いていることを陸軍側が知り、以後、両者は相手に不信感を増大させるという悪循環をくりかえす。五・一五事件、天皇機関説事件、二・二六事件へと続く時代は結局、この悪循環を拡大し、より深める過程であったと、著者は指摘する。この、天皇にとっては、心労がたまる状況で、古川氏は、昭和天皇が「儒学御拝聴」を希望したこともここで記す。これは、天皇が近代的知識、教養を身につける人でありつつ、「徳治主義」をも併せて身に付ける君主であったからだという。

引き続く日中戦争から太平洋(大東亜)戦争開戦の時期に、自らと価値観を共有する側近を身近に失い、最後はひとり陸軍と対立するのみとなった天皇は、それでも日米交渉に期待をかけ、武力行使を強く否定し、御前会議で異例の発言をも試みるが、政府と陸海軍統帥部が揃って開戦を上奏すると、首相の東條英機にギリギリまでの交渉を要望しつつも、天皇はこれを認める。

戦争初期の予想外の戦果に昭和天皇も喜びながら、しかし早期終結を指示する。が、戦局の急速な悪化によってその機会は失われ、サイパン島陥落後は、もはや日本の勝利はありえずと観念する。それでも昭和天皇は、一回でも局地戦に勝ち条件付き和平に持ち込みたいという、いわゆる「一撃講和論」をとることで沖縄まで陥落させ、いよいよ本土決戦を覚悟する事態となる。

ドイツも降伏し、日本のみ絶望的に戦う状況で、天皇は武装解除と責任者処罰を「巳むを得ぬ」と受け容れ、早期講和論に転換する。このときの天皇は、神がかり的な狭義の「国体論」を否定しながらも、なおかつ、その胸中には父祖から受け継いだ「皇統」の護持はあくまでも貫こうとする意志があったと、古川氏はいう。そして、ポツダム宣言受諾のために、二度にわたり下した「聖断の意図」を古川氏は、以下のように説明する。

昭和天皇は、青少年時代に受けた教育を通して、先祖が築き上げた日本をさらに繁栄させねばならないという「自分の歴史的責任」を自覚していた。また、

「国民あっての国家、天皇は一身を犠牲にしても国家国民に尽くすべきであるという観念をよく承知しており、一方で、科学者として、協調外交路線の支持者として、普遍性の追求という考え方から、天皇機関説論者となり、いわゆる国体論に違和感を抱いていた。そのため、国家存亡の危機において、自分の一身より国家国民のことを考えての「聖断」が可能となったのである。」(311頁)

しかし、この「聖断」に時間がかかったことが戦争被害を飛躍的に増大させ、ここから戦後、昭和天皇の「戦争責任」問題が生じたとも付け加える。

敗戦直後、昭和天皇はマッカーサーと会見し、この戦争の日本側の全責任が自分にあることを直接表明した。しかしすでに「東京裁判」に、昭和天皇が出廷する事態を防ぐための水面下の動きも日本政府、宮中で始まっていた。

また、敗戦後においても、なお圧倒的多数の輿論が天皇制を支持していることを知った連合国軍最高司令部は、天皇免責を決定し、昭和天皇もいわゆる「人間宣言」などを発し、戦後体制へ速やかに順応することで、「象徴」というかたちで日本国憲法下でも天皇制は存続し、昭和天皇も留位した。そして戦後の全国巡幸によって、昭和天皇は新たに日本復興の象徴の役割を果たす。が、「退位論」も長く燻り続ける。

昭和天皇は日本国憲法下でも、占領期には、沖縄の位置づけや講和に関して占領軍に自らの意向を伝達し、独立回復後も大臣らの「内奏」を受けた際に、自身の意見を率直に語っている。これを「天皇の政治関与」と批判する者もいるが、古川氏は「政治権力」を失った天皇の「政治的発言」には何らの拘束力もなく、実際これだけで占領軍が動くわけはなく、政府や大臣に対しても強制力はなかったと、その政治的影響を消極的に評している。

そして、昭和天皇の「後半生の主題は戦争責任」であったとして、戦後に天皇はそれにどう向き合ったかを中心に古川氏は論述を進める。

古川氏は、戦後のNHKの世論調査の推移から、象徴天皇制は国民多数に安定的に支持されているが、昭和天皇に対しての「尊敬」「好感」は「戦争責任」の問題もあってか、過半数を超える程度しかないと指摘する。この問題は天皇の在位中にことあるごとに蒸し返され、それは亡くなるまで続く。一九七一年の二度目の訪欧では、これがために各地で抗議運動にも直面した。天皇はその立場から、「戦争責任」の問題に間接的な「謝罪」しかできず、これに自身も苦しめられた。

沖縄の祖国復帰に深い関心を寄せ、沖縄訪問を強く願ったのは、戦争中は事実上本土決戦を遅らせるために、戦後も日本を西側陣営にとどませるために、沖縄を犠牲にしてきたという認識が昭和天皇に強かった」からである(369頁)。

しかし、訪沖して沖縄への思いを表明する機が熟したときにはすでにその体調が許さず、この願いは叶わなかった。その名代として訪沖した皇太子(今上天皇)が代読した「おことば」には「痛み」という強い表現があり、これは昭和天皇の沖縄県民への事実上の「謝罪」の表明であった。

一九七五年の訪米に際しては、改めて日本の戦後復興に協力したアメリカに感謝の念を伝え、日米の関係強化の意思を明らかにした。が、このときも外国人記者から「戦争責任」について質問を受ける。

中国の最高実力者の小平が初めて訪日した際には、会見冒頭、独断で自らの戦争責任に踏み込んだ発言をして小平に衝撃を与えた。また植民地支配の反省から、全斗煥韓国大統領の訪日の際にも事実上の謝罪発言を行った。「昭和天皇は訪米を機に、戦争や植民地支配の相手国への配慮や謝罪を、あるときは憲法の枠を超えてまで行った」(376頁)。

記者会見で「昭和史を自分で書かないのか」との問いに、「今のところ考えたことはありません」と答えた昭和天皇は、しかし側近相手に語った回顧談を天皇自身が校閲した「拝聴録」と呼ばれる回顧録が残されているという。残念なことに、これは現在「行方不明」とも古川氏は述べている。

最後に「おわり」として古川氏は、次のように昭和天皇の生涯をふりかえる。

昭和天皇は、「理性の君主」として、自らの「理想実現に尽力」した。が、戦前において、それは「旧憲法と国民に裏切られる」という「孤独」に追いやられた。それでも天皇は、「君主としての責任を自覚」して努力を続けた。古川氏は「天皇にすべての権限を集中した旧憲法の制度設計はそもそも不適切だった」と、戦前の体制に否定的に論及する(393頁)。

このことにより昭和天皇は、戦後、「戦争責任と向き合う」ことを強いられる。しかし、それでも天皇が終身、在位する道を選んだ理由とは、「天皇・皇室というものが、日本の国家と国民、さらには世界の平和と発展に寄与し得るはずという認識」と、「森羅万象のすべてを理性」で解き明かすことはできないこと、すなわち、「理性だけでは人間社会は維持しきれず、天皇は、国家において、そうした信仰や信念に相当する役割を果たしてきており、これからも果たし得る、という認識が昭和天皇にあった」からと結論する(395頁)。

本書を読み終えて、私は、昭和天皇の人格形成を明らかにしようと努めた点に本書の第一の大きな意義があることを感じた。そしてその形成過程において育まれたものによって、昭和天皇が政治にいかに向かい、いかなる政治行動を取ったのかを、本書は史料に当たり、かつ広範囲に先行研究を参照することで明らかにした。そのことで、新書ながら重量感溢れる叙述に成功していると私は感じた。

しかし、若干の疑問も残った。それは、昭和天皇を「理性の君主」と強調しようとするあまり、陸軍(部分的には海軍)を、図式的に「悪玉」に仕立てていないかという疑問である。そしてそれに付随し(というより、この図式の前提として)、本書の「歴史的文脈」が、やや安易に戦後的価値観に依りかかっていないかという疑問も感じた。本書を読み通しつつ、どうしても時々、丸山真男流の「戦前無責任体制」論が頭に浮かんでしまったのである。 

〔追記〕

私は昭和天皇に敬愛の念を抱いている人間です。しかしながら、沖縄出身の人間として、昭和天皇と沖縄をめぐる、微妙で複雑な問題を、どうしても一方では、考えざるをえないとも思っています。

敗戦直後、日本に潜在主権を残しつつ、沖縄の米軍駐留を日本全土の防衛に活用しようとしたとされる、いわゆる「昭和天皇の沖縄メッセージ」は、現憲法第九条で日本が非武装化され、共産主義勢力に軍事的に対抗できなかった当時の日本では苦肉の選択であったと、私は考えています。なぜなら、敗戦直後で占領下にあるという、日本が国家としてもっとも立場の弱いとき、実際に米軍と戦火を交えて攻略された沖縄を護るためには、「潜在主権」の主張以上のことは、管見によれば、現実問題として不可能だったからです。

しかし、この問題が現在でも未だに尾を引いているのは、ひとえに独立回復後、あるいは沖縄の祖国復帰後の、日本国及び日本国民(沖縄県民も含む)の怠慢が原因であると、私は考えています。沖縄における「潜在主権と米軍駐留」にまつわる責任をひとり、昭和天皇に負わせようとする論者が少なからず存在するのは、嘆かわしい限りだと考えております。

今上天皇、皇后両陛下は、今年、「全国豊かな海づくり大会」への出席のために十一月十七日から二十日まで沖縄を御訪問されました。両陛下が沖縄に深い関心を寄せていることはよく知られています。これは昭和天皇の無念の想いの継承だと、自分は考えています
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