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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

宮里立士・三島由紀夫『春の雪』論 (イザ!ブログ 2013・9・1 掲載)

2013年12月21日 09時18分10秒 | 宮里立士
三島由紀夫『春の雪』論



 三島由紀夫の「春の雪」は彼のライフワーク『豊饒の海』4部作の第1作である。

三島がこの連作を書き始めたのは昭和41年。その4年後、かれは市ヶ谷自衛隊駐屯地に乗り込み自刃した。そのことを思えば、すでに三島はこの第1作の構想を考えた当初から、自らの死を念頭においていたであろう。この4部作はつねに「死」と「転生」を予言する。ここではまず、本書冒頭の日露戦役の記述を掲げよう。

学校で日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もっとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえているだけであった。〉(『春の海』新潮文庫5頁)

家にもある日露戦役の写真集のうち、もっとも清顕の心にしみ入る写真は、明治三十七年六月二十六日の、「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真であった。セピアいろのインキで印刷されたその写真は、ほかの雑多な戦争写真とはまるでちがっている〉5~6頁)

第1作の主人公、松枝清顕は幕末、武人として奔走し、維新後、おそらく開明的顕官として国家に奉仕した祖父を「始祖」として戴く明治新貴族の後裔である。かれらの忠誠は祖父に集まり、国家ではない、まして、天皇にはない。しかし、それが松枝家にとっての負い目である。それゆえに、清顕は幼少時に羽林家廿八家の綾倉家に作法見習いに出される。それは田舎武家(薩摩)の、礼儀の知らない家風を羞じた所作であったであろう。しかし、これが、松枝家にとって、まさか、ほんとうに、わが家から、みやびな「おのこ」が生まれいずることになるとは、夢ゆめ想頭できなかった所業であった。その意味で、十三歳の清顕が新年賀会に、春日宮妃殿下の、お裾持ちをして躓いた光景は、松枝家の光栄を表し、不吉を予兆する。

春日宮妃は、お裾にまでふんだんに仏蘭西香水を染ませておいでだったから、その薫りは古くさく麝香の香を圧した。お廊下の途中で、清顕がちょっとつまずいて、お裾はそのために、瞬間ではあったが、一方へ強く引かれた。妃殿下はかすかにお首をめぐらして、少しも咎める気持はないというしるしの、やさしい含み笑いを、失態を演じた少年のほうへお向けになった。〉(13頁)

さて、父の松枝侯爵は、この賀宴でまのあたりにわが子を見、その華美な礼服に包まれたわが子の晴れの姿を眺めたときに、永年夢みていたことが、実現されたという喜びに涵った。それこそは、どんなに天皇を自邸へお迎えするほどの身分になろうと、侯爵の心を占めていた贋物の感じを、のこりなく癒やすものであった。そのわが子の姿に、侯爵は、宮廷と新貴族とのまったき親交のかたち、公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合を見たのである。〉(14頁)

『豊饒の海』とは、つねに「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」の、答えを求めつつ、答えのないドラマを展開する「物語」である。それは、だから、4部作のなかで、みやびからますらをぶりに転じ、卑猥で、空虚な物語に転生する。

三島はこの荘厳にして寒々しい景色を、清顕と綾倉聡子の夢物語から始める。

この不思議を縷々語りたい。


*****



綾倉聡子の家は「藤家蹴鞠の祖」に源を発し、和歌と蹴鞠の家として知られる公卿家である。

松枝侯爵は、自分の家系に欠けている雅びにあこがれ、せめて次代に、大貴族らしい優雅を与えようとし、父の賛同を得て、幼いころの清顕を綾倉家へ預けたのであった。そこで清顕は堂上家の家風に染まり、二つ年上の聡子に可愛がられ、学校へ上るまでは、清顕の唯一の姉弟(きょうだい)、唯一の友は聡子になった。〉(『春の海』新潮文庫29~30頁)

綾倉伯爵は京訛のとれない、まことに温柔な人柄で、幼ない清顕に和歌を教え、書を教えた。綾倉家では今も王朝時代そのままの双六盤で夜永を遊び、勝者には皇后御下賜の打物の菓子などが与えられた。〉(同30頁)

天孫降臨以来、つねに天皇家の傍らにあって、雅びを保守する家柄の綾倉家に訓育を施された清顕は、明治新貴族である自らの家に帰ると孤独であり、不吉な存在ですらあると思った。松枝家にとって、自分とは何者か。

彼はすでに自分を、一族の岩乗(がんじょう)な指に刺った、毒のある小さな棘のようなものだと感じていた。それというのも、彼は優雅を学んだからだ。つい五十年前までは素朴で剛健で貧しかった地方武士の家が、わずかの間に大をなし、清顕の生い立ちと共にはじめてその家系に優雅の一片がしのび込もうとすると、もともと優雅に免疫になっている堂上家とはちがって、たちまち迅速な没落の兆を示しはじめるだろうことを、彼は蟻が洪水を予知するように感じていた。〉(同20~21頁)

「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」として現れた自分を「優雅の棘」「一種の精妙な毒」と感じる清顕には、「今は、何事も興味がないのだ」

果たしてそうであろうか?

清顕には独りだけの友人、いや親友がいた。本多繁邦である。

本多は年よりも老けた、目鼻立ちも尋常すぎて、むしろ勿体ぶってみえる風貌を持ち、法律学に興味を持ち、ふだんは人に示さない鋭い直観の力を内に隠していた。そしてその表面にあらわれるところでは、官能的なものは片鱗もなかったけれど、時あってずっと奥処(おくが)で、火の燃えさかって薪の鳴っている音がきこえるような感じを人に与えた。〉(同18頁)

本多は大審院判事を父に持つ厳格な家庭の子弟。父はドイツで法律を学んだ人である。そしてそういう明治人に、ありがちな、自分では国粋的に生きている積りが、実はドイツ流を範例と仰ぐ人生を身につけてしまったひとである。そこには松枝家と対極的な生活があった。

本多繁邦はよく松枝侯爵家と自分の家を比較して、面白く思うことがあった。あの家では西洋流の生活をして、家のなかにある舶来物は数しれなかったが、家風は意外に旧弊であり、この家は生活そのものは日本的でいて、精神に西洋風なところが多分にあった。〉(同74頁)

清顕は「無防備で官能的な行動」に憧れる。これに対し、本多は「人生の当初はやくも軒下に隠れる」保身を身に着けた人間であった。外見も気質も似通っているところのないふたりであったが、「もしかすると清顕と本多は、同じ根から出た植物の、まったく別のあらわれとしての花と葉であったかもしれない。」(同18頁)

下司の勘繰りをここで働かせれば、所詮、ふたりは近代の明治成功者の子弟に過ぎず、何ら誇るべき家系を持たぬ、ただの「成り上がり者」「俗物」の子倅である。そしてこの根無し草の負い目を意識するとしないと、ここからふたりは共有した別の人格として生まれ出たことが『豊饒の海』4部作全体のテーマを占める。それは「貴種」として転生する「行動者」と、それを捜し求める「観察者」が交錯して、けっして「合一」しないテーマである。

本多にとっていかなるときも、「友情」を名目に清顕の心の中に入ってゆかないこと。これがふたりの約束であった。

場合によったら、友の死苦をさえ看過せねばならぬということ。とりわけそれが、隠すことによって優雅になりえている特別の死苦ならば。〉(同44頁)

清顕の目が、こういうとき、一種切実な懇願を湛えてくるのが、本多は好きでさえあった。すべてをそのあいまいな、美しい岸辺で止めておいてくれ、と望んでいるその眼差。……この冷たい破裂しそうな状態のなかで、友情を取引にした情けない対峙において、はじめて清顕は懇願者になり、本多は審美的な見物人になる。これこそ二人が暗黙にのぞんでいる状態であり、人が二人の友情と名付けているものの実質だった。〉(同44頁)

旗のように風のためだけに生きる。自分にとってただ一つの真実だと思われるもの、とめどもない、無意味な、死ぬと思えば活き返り、衰えると見れば熾(おこ)り、方向もなければ帰結もない「感情」のためだけに生きること。〉(同21頁)

「その無益さが、いわば自分の生まれてきた意味だ」と思われた清顕が、思わぬ隙から聡子に懸想することで「無防備で官能的な行動」に目覚める。「今は、何事も興味がない」筈の清顕が行動を起こすことで、『豊饒の海』第1作の『春の雪』はようやく始まる。


*本人のご申し出により、続編は他日を期したいとのことです。(2013・12・21 記す)
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宮里立士  晩夏の「怪談」――中韓系のアメリカ大統領が誕生する!? (イザ!ブログ 2013・8・30 掲載)

2013年12月20日 11時11分11秒 | 宮里立士
晩夏の「怪談」――中韓系のアメリカ大統領が誕生する!?



国連事務総長の潘基文氏の韓国での発言、「日本の政治指導者は極めて深く自らを省みて、国際的な未来を見通すビジョンが必要だ」。

いやー、驚きました。国連の事務総長って、中立を旨とするんじゃなかったっけ?

〈事務総長および職員は、この機構(国連)に対してのみ責任を負う国際的職員としての地位を損ずるいかなる行動も慎まなければならない〉(国連憲章第100条)

潘氏の今回の発言はこの100条に抵触するのではと指摘されています。

潘氏については、事務総長本来の仕事は何もせず、自己宣伝めいた活動ばかりにかまけている無能総長との噂は聞いていましたが、ここまでの脱線人間だとは知りませんでした。

そこでウィキペディアで、どんな人物か少し調べてみました。

やはりヒドイですね。「国連の主要なポストに自国民を起用したことから縁故主義」と内部からも批判される。国連主催のコンサートの場で、日本海をわざわざ「東海」と紹介するパンフレットを配る。」「韓国人の国連事務総長として韓国の国力伸張に貢献できるようベストを尽くす」(事務総長就任後の最初の訪韓の際のコメント)。しまいにはニューズウィークから、「世界中で名誉学位を収集して歩き、見事なまでに何も記憶に残らない声明を発表し、事務総長として影響力を発揮できたかもしれない貴重な機会を無駄にすることに費やしている」「世界で最も危険な韓国人」と酷評される始末。

捉えどころのない如才のなさを、「油をさしたウナギ」と外交官時代、韓国内でも酷評されていたようです。

「慰安婦問題に対しては米国下院の決議案を支持する姿勢を堅持」というのは、案の定というか、腹立たしい。しかし、情けないのは、日本政府がこんな反日オソマツ人間の事務総長推挙に加担していたということです。

(佐々江賢一郎〉。

日本の外務省は日本にとって、やっぱり、「害務省」ですか?

こんな韓国がらみの困った話で最近深刻なもののひとつに、アメリカ・グレンデール市に「慰安婦像」なるものが建てられた「事件」があります。ウソをホントに信じ込ませるプロパガンダを目の当たりにすると、かの国のロビイスト活動がいかにアメリカで浸透しているか、改めて憂慮させられます。実際のロビイスト活動は、アメリカ人がしているそうですが、もちろんカネは韓国(政府?)から流れ、しかもこれを支援する層に、急増するコリアン系アメリカ人の存在があると聞きます。

ところで、最近、そんな甘ちょろいどころの話ではない、ゾッとする「怪談」を聞きました。

アメリカの中国系・韓国系社会の最終目標は、「中国系・韓国系の大統領をつくる」こと

青山繁晴さんが、この8月15日前後、アメリカのニューヨークに出張して聞いた話です。Youtubeにアップされていましたが、削除されていたので、青山さんのファンの方が自分のブログで文字起こししたものを下記に貼り付けます(ちなみに青山さんがアメリカ・ニューヨークの財界人にインタビューしたところ、かれらのすべてが、「我々はTPPには興味はない。あれはオバマ周辺の話に過ぎないと言っていたそうです」。

〈「中国系・韓国系の住民を増やして、それによって、あの、でっち上げた従軍慰安婦の少女像なるものをつくられたりしますが、そういう目先のことだけじゃなくて、あるいはそれよりもですね、やがて中国系合衆国大統領、韓国系合衆国大統領」を生もうとしている。〉〈アメリカにだけすがって、日米同盟だからといって日本は、子々孫々もやっていくんですか。」〉(ブログ「ぼやきくっくり」さんの中から引用)

これがただの夏の「怪談」話で済めば良いのですが……。

でも、無能で危険な人間が国連事務総長にまで出世できる「国際社会」を見ていると、だたの「怪談」で済ませられない恐ろしさに背筋が寒くなりました。

〈コメント〉

☆Commented by kohamaitsuo さん

 この記事を読んで、私は次のように思いました。
 アメリカはいまや、独自の建国理念を失って、「世界のアゴラ」となりつつあります。古代アテナイの「アゴラ」が衆愚政治の典型を作り出したことは、周知の事実です。
 国防長官や国務長官が、シリアに対する軍事介入を一種の威嚇手段として
示唆してみはするものの、内外の情勢からみて、実質的にはこれは不可能でしょう。
 アメリカは、「言論の自由」を最大限に保障するシステムを完備させてはいますが(だからこそ)、国際社会に対する独自の意志を実現させる力を衰弱させているのです。だれかが大きな声で何かを言えば、それが通ってしまう。相対主義の行き着く果てです。
 今のアメリカに、東アジアの歴史と現実を、日本人が考えるとおりに正確に認識してもらうことを期待するのは無理というものです。韓国は、そのことを鋭敏に察知して、自国のナショナリズムのために利用できるものは利用しようという狡猾な(しかし幼稚な)行動に走りまくっているのだと思います。
 事態がそうであってみれば、日本もアメリカの「アゴラ」状況を大いに利用すればよいのです。もっと声を大きくすべく、金とエネルギーを注いで、宣伝合戦に徹すればよい。それが外務省を「害務省」から脱却させる有力な手立てだと愚考いたします。そのためお予算も少しはつくようですね。


☆Commented by ぱんたか さん

 ですので、あの古森義久さんが腹に据えかねたのでしょうか、タイトルからして紳士らしからぬ『いつまでもアメリカが守ってくれると思うなよ』(幻冬舎新書)を書きましたね。


☆Commented by miyazatotatsush さん
小浜さま、ぱんたかさま

コメントありがとうございます。
少し調子が悪く、お返事が遅くなりました。
私は反米論者ではありませんが、日本もそろそろアメリカに頼ってばかりではいけないと思います。
中韓はもっと、戦略的に対アメリカ政策を練っているようです。わが国もそろそろアメリカを「他者」と見て付き合う術を備える方が良いように思います。
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宮里立士氏・八月十五日の雑感――「天籟」のこと  (イザ!ブログ 2013・8・25 掲載)

2013年12月19日 09時12分08秒 | 宮里立士
八月十五日の雑感――「天籟」のこと




美津島明さんの「玉音放送」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/076fa861ea18bf298421c59cf319209b

を拝見して、私も八月十五日に関わる小文を綴りたくなりました。

八月十五日の「終戦記念日」は、昔の私にとっても特別の重い日でした。しかし、今ではこの日が、年中行事の一種のように感じられています。それはひとつに、「先の大戦」後、日本は戦争を経験していないとはいえ、五十年も六十年も前の、いや七十年近く経た後の今では、この日に終わった「戦争」を、リアルなものとして受けとめることが、なかなかできにくくなっていると感じるからです。

もちろん自分にとっても子供のころ――ちょうど戦後三十年から四十年にかけてのころ――は、大人たちが実際に戦争を体験した世代であり、その人たちの語る戦争の話を身近で、あるいはテレビ、ラジオから聴くと、それを知らない子供ながら、戦争に想いを潜めることができました。特に私の生まれ育った沖縄では、地上戦で住民も戦火の中を彷徨い、その実体験者たちの語る話は、子供ながら戦慄と恐怖を覚えました(ちなみに、誤解の無いように付け加えますが、昨今、しきりに左派が主張する、住民の集団自決に軍の命令があった、という議論とはこれは関係ありません。なぜなら、私がここで言う「戦争の話」は、「政治」とは関係がないからです)。

しかし、その世代がだんだん少なくなり、高齢化するに従い、「戦後も遠くなりにけり」という実感の方が自分のなかでは日増しに強くなってきました。つまり、八月十五日は、戦争を追体験する日というよりも、歴史のなかで祖国に殉じた先人に想いをはせる日というふうに変わっていったのです。そしてこれとは別に、この日が来るたび、近年、ひとつの不快な出来事で、途方に暮れます。それは、この八月十五日に、我が国の首相をはじめとした閣僚が靖国神社を参拝するかどうかが、まるで日本の踏み絵のようになっているからです。

日本国の公人が戦没者を慰霊追悼するのは義務だと思います。その意味で、靖国神社にこれらの人びとが参拝するのは当然です。そのことに「軍国主義の復活」やら「戦争の反省が足りない」などと、中国や韓国から批判されたり、米国から懸念を表されたりする謂れはありません。観念(イデオロギー)や大義を越えて、国に殉じた人びとに敬礼することができなければ国家は存立できないからです。とはいえ、このこととは別に、個人的には、わざわざ戦争に敗れた日に靖国神社に参拝することもないのでは、との感じも持っています。

靖国神社には公式な式典として春と秋に例大祭があります。日本国の公人なら、この日に参拝するのが自然と思えます。八月十五日に靖国神社を訪れたことのある知人から聞いたことですが、この日は神社の内外が騒然としていて、とても落ち着いてお参りできる雰囲気ではないとの由です。そのことはテレビなどからも知っておりましたが、何がなんでも無理に八月十五日に参拝するというのは、「敗戦」、あるいは「戦後」に重要な意味を見いだしているからでしょう。

昭和の時代には、八月十五日が近づくと、昭和天皇の玉音放送がテレビやラジオで流されておりました。子供ながら、その独特の抑揚を伴ったお声に触れると、その意味する内容は知らねど、かつて日本は大戦争を闘い敗れたのだ、という思いがおのずから湧いてきました。先に書いた、子供のころ聞いた大人たちの戦争の話とあいまって、すでに敗戦後三十年が経って、十分豊かになっていた日本に生きていても、その前時代には「戦争」があったことを教えてくれました。今回、美津島さんのブログから久しぶりに「玉音放送」を拝聴し、そのことも思い出しました。

八月十五日正午、昭和天皇の終戦の詔勅を聴いて、多くの日本人がおそはれた〝茫然自失〟といはれる瞬間、極東日本の自然民族が、非情な自然の壁に直面したかのやうな、言葉にならぬ、ある絶対的な瞬間について考へた。そのとき、人びとは何を聴いたのか。あのしいんとした静けさの中で何がきこえたのであらうか。〉

これは桶谷秀昭氏の『昭和精神史 戦後篇』の冒頭にある言葉です(7頁)。続けて、桶谷氏は「天籟」(てんらい)を聴いたと書いています。

天籟とは、荘子の「斉物論」に出てくる言葉で、ある隠者が突然、それを聴いたといふ。そのとき、彼は天を仰いで静かに息を吐いた。そのときの彼の様子は、「形は槁木の如く、心は死灰の如く、」「吾、我を喪ふ」てゐるやうであつたといふ。〉(7頁)

この言葉は、マッカーサーがその回想記の中で、敗戦によって、「日本的生き方に対する日本人の信念が、完全敗北の苦しみのうちに根こそぎくずれ去った」、「徹底的に屈伏した」うえに戦後が始まり、ここを出発点として、自分たちの占領改革が行われ成功したという自賛の文章への反措定として置かれています。

八月十五日の靖国神社参拝問題とは、「戦後」が占領改革から始まったのか、あるいは「天籟」を聴いたことに始まったのかを考え、そこから「戦後」イメージが亀裂を生じる問題と密接に絡まっているように思えます。

ただ、今の私にこの「戦後」の亀裂について、答える能力はありません。今回、「雑感」として小文を記した所以です。


〈コメント〉

☆Commented by kohamaitsuo さん
 宮里立志さんへ。

 難しい問題をとてもよく受け止めていると思いました。
 8月15日の玉音放送が日本人に与えた衝撃が、日本史上かつてないものであったことは確かなことですが、このことが同時に、周辺諸国や国内の左派たちをして、「日本軍国主義の敗北記念日」という図式によって、この日を「政治的に利用できる日」として扱わせている事実も無視できません。

 ですから、そういう政治的利用を避けるために、以後6年間続いた占領統治期間を、戦争の継続(敗戦過程)とする見方も成り立つ余地があるわけですね。

 私自身は、いまとなっては、この日をあまり大げさに考えずに、靖国参拝を、英霊を思う日本人の普通の営みとして、平常心の中で維持していけばよいのではないかと思っています。その意味で、貴兄の趣旨に賛成です。


☆Commented by miyazatotatsush さん
 kohamaitsuoさま

 コメントありがとうございます。

 8月15日の敗戦の日に靖国神社に参拝する、しないが、どうも政治の具になっているのではないかと、気にかかり、拙文を草しました。
 「平和の誓いを新たにし」、この日に参拝したと、国会議員のどなたかが仰っていた記憶があります。拙文にも書いたとおり、その「平和」とは、戦後の占領改革の上に築かれた「平和」なのか、それともそれへの是認を含まぬ「平和」なのか。

 敗戦という日本史上、未曾有の出来事に「天籟」を聴いたという感覚を、英霊と確かめたいという想いの8月15日の参拝というのは、解るのですが……。
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宮里立士氏・天皇の理想をこれからどう考えていくか (イザ!ブログ 2013・6・27 掲載)

2013年12月17日 05時18分57秒 | 宮里立士
はじめに

美津島明さんのブログに、拙稿「私の日本国憲法試論」を掲げて頂きました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/403fef28be232a2d7805d0973651033b
拙稿のなかで国民主権の問題と関連して、「歴史の古い国は、一時的な『民意』では動かされない根本の精神がある」と書きました。また、美津島明さんの「先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま書房)について」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/3678e53e48702eb1853a95afdac166ceを拝見し、国家・国民の価値体系の意味を改めて考えたくもなりました。

これらとも関連し、かつて書いたものですが、自分の天皇論も明らかにしたいと思いました。文藝同人誌『昧爽』第十三号「特集 天皇・皇室」(平成十八年十月一日)に寄せた小論です。これは小泉政権の終わりごろに、にわかに起こった皇室典範改正論議への批評の意味もこめて起筆しました。同誌編集部のご許可を得て、今回、若干の補筆をしてお送りします。(なお、引用文の漢字は現行の字体、いわゆる「新字」に統一しました。)

                  *

昨年十一月、いわゆる「女系」の皇位継承を盛り込んだ「皇室典範に関する有識者会議」の報告書が出て、年末年始、皇室典範の改正がにわかに現実味を帯び、一時は政局にまで発展する様相を呈した。しかしこの二月に秋篠宮妃御懐妊が発表されると、論議は急速に鎮まり、改正案の国会提出は見送られ、それ以降は宮妃の御出産を見守る状況に変わった。

皇室典範の改正とは、日本近代を省みれば憲法改正に並ぶ大事である。しかし小泉首相がどれだけそのことを認識していたのか、伝えられる言動から推して、まったく不明である。が、戦後形成された社会システムを、やや乱暴に「破壊」することを目指した内閣が、「象徴天皇」のあり方にまで手をつけようとしたことは、首相個人の資質を超えて、やはり象徴的事件にも見えた。それは戦後六十年、経済活動にのみ意を注ぎ、その他の国家として本来取り組むべき課題を疎かにしてきたこの国が、戦後的価値の偏差をもって、「天皇」をも新たに位置づけ直そうとした試みにも見えたからである。

「天皇」を、どう考えるかとは、この国にとって、やはり今なお最重要事の問題のはずである。古代以来、幾変遷してきた日本に、時代によってそのあり方は異なれど、常に天皇が「至尊」として存在したのは事実だからである。しかしでは「天皇とは?」と、大上段から問い質されると、ただただ舌たらずにしか答えられないのも、また事実である。とは言え、将来の日本の「かたち」に思い及ぶとき、「天皇」について考えるのはやはり必要なことのように思われる。これから試論として述べてみたい。

敗戦の翌年十一月に公布された日本国憲法は、第一条に天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定する。これはその年元旦の、いわゆる天皇の「人間宣言」と併せて、「神権天皇」を否定し、主権が天皇ではなく国民にあることを明確にするための規定であった。それは神話に由来し、国学、幕末の水戸学、尊攘思想を背景に、明治国家が創出した「天皇制」を、弱体化する意図から占領軍主導のもとで「押し付け」られたものである。しかし日本側が占領軍の意向に沿って、ただ唯々諾々とまったくすべてを受け入れたかと言えば、内実は必ずしもそうではない。

「人間宣言」は『五箇条の御誓文』を冒頭に置く。

「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」
「一、上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」
「一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス」
「一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」
「一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」

この明治維新の国是は、占領軍から「人間宣言」の素案が示された際、日本側の要望として掲げたものであった。それを掲げた理由を後に、昭和天皇は、「民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要」からと説明される。すなわち「民主主義」とは、明治以来の国是のなかにも存在し、「人間宣言」はこれを前提にして、日本近代に昂進した天皇を、「現御神(あきつみかみ)」とする観念を否定する目的だったというのである。

敗戦という未曾有の事態に直面し、占領軍の指令に基づく「改革」を強要された日本であったが、これを受け入れる際、日本側にも、もちろんかなり制約された形ではあるが、「改革」を自らの「論理」で咀嚼し実行する余地は残されていた。このことは日本国憲法第一条の解釈にも当てはまる。

「象徴」という、法律用語としては曖昧な言葉はしかし、それが指し示す内容が、天皇の伝統に合致し、何ら齟齬をきたさないという解釈が、これが公表された当初から存在し、「天皇親政」を建前にした時代がむしろ例外で、日本国憲法によって、「政体」は変化したが、「国体」は変わっていないという指摘が和辻哲郎から出され、それに対して、「国体」は変革されたと解釈した佐々木惣一との論争を招きながら、戦後、「象徴天皇」は徐々に浸透していった。

「戦後改革」における天皇の位置づけは、確かに占領軍の「日本弱体化」の一環としてなされたものであった。しかしこれは開国以来、列強包囲のもとで強国となるため、過度に装飾された天皇の「神聖」を解除する役割を果たした一面があったことも否めない。実際、戦後の改憲論においても第一条の「象徴天皇」規定は、その表現方法に差はあっても、おおむね踏襲されている。

現在八割前後の国民が「象徴天皇制」を支持していると各種の輿論調査は伝える。間接民主制の下で政治権力者を選び、その上に国政に直接、携わらない長い伝統に根ざした君主を戴く体制は、政治の安定に大きく寄与している。その意味で「象徴天皇制」が国民の大多数に支持されるのも納得がいく。しかしこれはひとつの大きな無理を抱えた体制でもある。それは当事者である天皇に、過度な禁欲と「公正さ」を求める体制でもあるからだ。

「天皇制」批判の大きな柱に、天皇・皇族の特権的身分を強調し、人間平等に悖る理不尽なものとして廃止を唱えるものがある。しかし「貧困」が見える形で存在せず、少しばかりの才覚で巨富を手にすることもできる現在の日本で、常に自己抑制が求められ、プライバシーも無く、何よりも公事が「一分の隙も無く」、優先されるその日常とは、嫉妬するには程遠い生活である。まさに常人には堪えられない自己犠牲の毎日である。それを知ると、むしろ逆に天皇・皇族の方々を、「おかわいそうに」という文脈から、「天皇制」の廃止が醸成される可能性の方が、リアリティを帯びる。

皇太子妃の「心の病い」の健やかな回復が待たれて久しいが、これも皇室の、緊張に囲まれた生活に一般から入ると、それがいかに重く圧し掛かるかを示している。しかも世襲を前提とする天皇の制度は、当然のことながら皇位継承者を産むことを皇太子妃に期待する。出産は、現在では一般の国民にとっては、個々人の判断に委ねられていると観念される。が、皇太子妃にとっては、「義務」のように観念される。これほど私人性が制限される生活は無い。

福田恆存は、″「象徴」という曖昧な言葉で、天皇を規定してはならない。「全国民が一体になる同胞感の『象徴』」を天皇に求めるとは、「身動きの出來ぬ非人間的な存在」に天皇を追い込んでしまう″と警告する。特に″天皇と交際が出来る人びと、昔で言えば貴族階級、が無い今日の日本で、「象徴」に祭り上げられるのは、「天皇の地位を二階に追ひあげて梯子をはづしてしまふ」「孤立」を強いる結果となる″(「象徴を論ず」『福田恆存全集』第五巻所収)。

具体的にイメージできない「象徴」という言葉は、状況次第でさまざまな意味を含ませられる。戦後、「天皇制」に否定的な人びとは、憲法第一条は天皇から、権力を剥奪した、「象徴に過ぎないもの」にしたと、その意味を極めて否定的に捉える。これに対し「象徴」とは、二十世紀型君主制の実質をよく表現したもので、過度に消極的に評価する必要はないと説く人びともいる。あるいは先に見たように占領軍ですら全面否定できなかった「神格」を、この言葉は保存し、あらゆる政治闘争から超越し、宗教的次元の尊厳を持つ天皇の権威を、ここから引き出し、「象徴」に積極的意味を見いだそうとする人びともあり、年を経るにつれ、後二者が多数派を形成していった。

「絶対者」を持たなかった日本近代に、その代用者として天皇が持ち出されたとは、いまや言い尽くされた通説だろう。それは世俗を超越する「絶対的唯一神」を持たなかったため、人間の背丈を越える構想力を持ち得なかった日本人に、千年以上の歴史感覚と社会性、公共性をも備える長期的視点でものを見る力を与える基いともなった。日本では神とは、具体的で感情移入もできる、「神のごときもの」である。人間が神になることとも何ら矛盾しない。これが消極的な形であれ、「象徴」という言葉に、天皇の「神格」を保存する役割を与えた。しかしこれが大衆社会の進行のなかで、天皇に過度な役割を負わせ、孤立する「身動きの出來ぬ非人間的な存在」にしてしまっているとなると、この「かたち」の存続がほんとうに望ましいのか、問い直す必要が生じないか。

三島由紀夫は、福田恆存との対談で、自分の言う「天皇制というのは、幻の南朝」で、天皇とは「国家のエゴイズム、国民のエゴイズムの」「一番反極のところにあるべき」、日本人が近代化に疲れ果てたとき「フラストレイションの最後の救済主」の位置に立つという。「天皇がなすべきことは、お祭りお祭りお祭りお祭り―それだけだ」と、自己犠牲的生活のなかで、ただ祭祀にのみ専念するのが天皇の勤めと、極言している。これは福田が「天皇制」の、世界性を持ち得ない限界を踏まえて、これとは別に普遍性を持つ原理を立てる必要、日本人は「もう少し二重に生きる道を考えなくちゃいけない」、という指摘を受けての発言である(「文武両道と死の哲学」『対談集 源泉の感情』所収)。

三島はつまり、天皇それ自体のなかにある理想を、生身の天皇とは別に、二重化して抽き出そうとしたのである。

「文化防衛論」で、「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」を提起し、「文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴェルト・アン・ジッヒ)」であり、それが否定されるか、「あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機」であると結論した三島にとって、日本文化とは、伊勢神宮の式年遷宮に代表されるオリジナルとコピーを分別しない文化である。そこでの天皇の意義とは、独創性の対極にある古典の典型で、そのことによって、「独創的な新生の文化を生む母胎」となる、月並みでみやびな文化の「没我の王制」である。

この概念を先の対談の文脈に入れてみて考え合わせると、天皇は、没我の極みでひたすらに「お祭り(祭祀)」に専念すべき存在となる。しかし福田恆存が述べる通り、生身の人間である天皇に、実際にそれがどれだけ求められるか、三島もその理想はもはや「幻」であると認め、ある種のフィクションとして語っているふしが、対談のなかから汲み取れる。「もう少し二重に生きる道」を模索できないか。

近代主義の行き着くニヒリズムを超える概念として、三島の天皇論は魅力的である。が、「聖なるもの」を感知できなくなり、近代主義の一大分枝である個人主義イデオロギーが蔓延する現代社会に、それがそのままにどれだけ有効性を持つのか疑問でもある。

今上天皇は、古希を超えた今でも特別の事情がない限り、自ら宮中の祭祀を熱心に執り行われ、その御姿勢は同じく祭祀を重んじられた昭和天皇に優るとも劣らないという。神事に臨む前の準備とその最中の身体的精神的緊張は非常なものであり、極めて負担の重い勤めという。これを知る皇太子は自分がその勤めを引き継ぐことができるか自信が無く、それが囁かれる皇室内での皇太子御夫妻の「孤立」の背景にあるのではないかとも推測されている(原武史「対談『宮中祭祀』から見た皇室」『Voice』平成十七年八月号)。

この「重荷」を、世俗的近代社会を享受している大多数の国民が、「高貴な御身分」の宿命と、ひとり次代の天皇に背負わせて済ましていられるであろうか。もし天皇が日本という国家に重要な存在であるのなら、そのことを前提に、これまで通りの「象徴天皇」で良いのか、考え直す時期にそろそろ来ているのではないか。

三島は「幻の南朝に忠勤を励む」と激語を吐いたが、天皇の制度とは、生身の人間が「神」の役割を果たすフィクショナルな制度であり、その現実と虚構の伸縮のなかで「日本」は生成されてきたともいえる。天皇位とそれに即く天皇個々人は必ずしも同一の価値を持つのでは無く、「理想としての天皇」と、現実の天皇の落差を埋める「情熱」が、実は『神皇正統紀』以来、くりかえし歴史のなかで現れてきた。ここから「勤王」「恋闕の情」が、悲劇的末路をたどったのも日本の歴史の一方の真実である。しかし、そのくりかえしが「日本」の生命力を形づくったこともまた確かである。

天皇とは、いったい何であろうか。敗戦後、占領軍の神道指令が発せられた直後、日蘭交渉史と日本文化史の泰斗である板澤武雄は、この指令を「顕語をもつて幽事を取扱はんとするもの、例へば鋏をもつて煙を切るもの」と昭和天皇に感想を申し上げている。

「アメリカ流合理主義をもつて、日本のながい歴史によつて培はれた神秘主義(幽事)が切れるであらうか」、桶谷秀昭氏はこう説明する(『昭和精神史』)。

葦津珍彦は、永い日本の歴史のなかで空位時代が通算すると百年近くあるが、しかし天皇を戴いているという意識が歴史を貫いて存在した重さを語っている(『日本の君主制』)。

神話時代から今日まで幾変遷してきた日本は、そのなかに解き難い矛盾を内包してきた。「人間宣言」の冒頭に『五箇条の御誓文』を置いたことの趣旨は、先に述べたが、唐木順三は「御誓文中の『皇基』と天皇神話の否定とは、なかなか調和しがたい。皇基と主権在民ともまた同様であらう」と評している。しかしそれでもまだ「幾変遷はしたが、日本は日本として存続してゐる」とも吐露する(『歴史の言ひ残したこと』)。

天皇とは、日本人が歴史のなかで夢見たものが、いつのまにかほんとうのように動き出したものだったのかもしれない。

戦後が還暦を迎えた今、日本人がしばらく真剣に向き合うことを避けてきた、天皇を、改めて考え直す必要に迫られつつあるように思われる。

〔付記〕 
小論の末尾に「平成十八年九月一日擱筆」と記しました。そしてこの五日後の九月六日に悠仁親王が御誕生となり、このときの皇室典範改正論議は終息しました。しかし、その後も皇位継承に絡む問題はくすぶり続け、今では公然と週刊誌までがこの問題を取り上げ、これに関連する皇族のゴシップ記事まで掲載する始末です。

小論のなかで述べましたが、私は、「天皇の制度とは、生身の人間が『神』の役割を果たすフィクショナルな制度」と考えています。そして、そのなかに「日本」の理想も託されてきたと考えています。しかし、その理想をせっかちに天皇個人や個々の皇族に投影しようとすると、ややもすれば、「幻滅」したり、「失望」したりすることもあります。とはいっても、この落差を埋める「情熱」が、「日本」の生命力を形づくってきた側面もあるとも考えています。

このことを三島由紀夫に学びつつ、二重化した「天皇」という観点から、自分なりに考えてみようと思い、小論を書きました。
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宮里立士氏・私の日本国憲法試論 (イザ!ブログ 2013・6・21 掲載)

2013年12月16日 07時52分17秒 | 宮里立士
はじめに

小浜逸郎さんのブログ「ことばの闘い」のなかの「私の憲法草案」(その1、その2)

http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f923629999fb811556b5f43b44cdd155(その1)
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2aff34e653f463326a618d7e7376983f(その2)

を拝見して、かねがね自分が抱いていた、憲法改正論議に対するモヤモヤしたわだかまりを文章にしようと思い立ちました。

まず、これを小浜さんのブログのコメント欄に寄せました。しかし、字数に制限があり、コメント欄には自分の原文を半分以下に省略しました。

今回、この原文を基に、その後に考えたことも含めて、美津島明さんのブログにお送りいたしました。

                        *

小浜逸郎さんのブログを拝見し、また、今回、議論のきっかけとなった産経「国民の憲法」要綱や、私宛の小浜さんのメールに貼り付けていただいたチャンネル桜「【討論!】どうする!?自主憲法制定」を視聴して、日ごろ漠然と思っていた、憲法改正論議に関する自分の考えを述べてみたいと思いました。

実を言えば、小浜さんと同じく私も現憲法の大上段からの改正に、最近(といっても5、6年前から)、消極的になっています。

というのも、もう十数年来「改憲」の必要が唱えられ、世論調査でも改憲派が多数を占めている筈だったのに、今回、その入り口に過ぎない改正事項緩和の96条の改正ですら、「橋本発言」などという、改憲問題とまったく関係ない、いわゆる「従軍慰安婦」問題絡みで、世論はナーバスとなり、改憲支持が少数となるのが現状だからです。このような状況を見るにつけ、いったいいつになったら、現憲法の全面改正ができるのやらと、百年河清を俟つ思いがします。

たしか7、8年前でしたが、50歳代の改憲派の公法学者と改正問題を話して、「憲法改正の気運はだいぶ高まってきている。しかし、それでも本当の改正までは、まだ十年は議論が必要だろう」と云われ、「憲法改正の気運が盛り上がった90年代以来、すでに十年たっている。それでもあと十年議論が必要だと、いったいほんとうの改正まで何十年かかるのだろう」と、内心思いました。

国民の多くは現憲法がいい加減なものであることは知っていると思います(護憲派でも、よっぽど「良心」的な人か、幼児体験的刷り込みに無自覚な人以外は内心では、いい加減だと知っていると思います)。それでいて70年近く改正できなかったのは、ひとえに現憲法下でも、何となくうまくやってきたと大多数の国民が思っているからではないでしょうか。  

現憲法が改正されるときとは、日本社会が大混乱し、到底、こんな憲法ではやっていけないと、国民の大多数が考えたときだけではないのか。そしてその一歩手前までは、何だかんだ云っても、解釈改憲で凌いでいくというのが、実際のところではないのか、という気がします。

現憲法下でも最大限、何と戦術核兵器の保有まで、憲法違反にならないというのが、政府の憲法解釈です(戦略核の大陸間弾道ミサイルは、さすがに今の解釈では認められていないようですが)。

しかも、もともと根本法(というか体制)を変えたがらないというのが、日本国の伝統的あり方です。明治憲法も「不磨の大典」と云われ、その「弾力的運用(=解釈)」によって、議会制民主主義の道を開きました。そしてそれ以前、明治維新までの日本は、形骸化していたとはいえ、千年来、律令が根本法でした。

それならば、もっと簡便な「改憲」を考えたほうがよいのではと思えてきます。

たとえば、つぎのようにしたらどうでしょうか。すなわち、国会議決などで、現憲法は日本国が主権を喪失している占領下に制定されたものであることを確認する。しかし、その条項の多くは国民の権利として、判例を通して定着しているのは事実です。とはいえ、十七条憲法以来の日本国の憲法典の伝統にそぐわない日本国憲法前文には積極的意味を見いだしえないので、それもあわせて確認する。また、非常事態に国家主権を縛る条項は有効性を持たないと宣言し(このことに関連して、わざわざ9条2項を明示する必要があるかどうか、これだけ挙げたら、他の条文で縛られる可能性があるような気がしますので、特に明示しないほうが良いような気がします)、代わりに十七条憲法以来、明治天皇の憲法発布の詔勅などなどを日本国憲法典の理念として掲げ、非常事態に備える戒厳法令を制定し、自衛隊法に代わる自衛軍法、あるいは国防軍法を制定する方式が良いのではと、最近は考えております。

この方式でも、政治的労力がかなり必要で実現困難なのでは、というご意見があると思います。それならば、まず、集団的自衛権の行使を政府解釈で可能にする点に政治エネルギーを集中するというのも一考かと思います。

「集団的自衛権は、わが国は主権国家なので国際法上、当然、保持しているが、現憲法下では行使できない」という、奇怪な政府解釈こそが、わが国を主権国家たらしめるうえでの足枷となっているからです。

現憲法第98条2項には、主権国家として条約及び確立された国際法規を誠実に遵守する義務が謳われています。そして、サンフランシスコ平和条約以降の、戦後処理の過程で締結した諸条約には、個別的、集団的自衛の固有の権利が確認されています。条約の相互主義の建前からいっても、自国のみ「保持はしているが行使できない」という訳の解らない解釈をしていると、日本は主権国家ではなく条約の主体にもなれない欠陥国家と自己主張しているようにしか聞こえません。素人ながらこんなヘンな話は、それこそ国際社会に通じるものかと危惧します。

つまり、現在の政府の集団的自衛権に対する憲法解釈は、国際法上および国際慣習上、非常識だということです。これでは護憲派の大好きな日本国憲法前文の「国際社会に名誉ある地位を占めたい」といっても相手にされませんね、と皮肉のひとつも云いたくなります。

素人なので、法技術的なことは解りませんが、日本国憲法自体の制定過程や、あるいはワイマール体制も憲法改正がされた訳でもないのに授権法でナチス体制に変わったりしたことや(しかも、第二次大戦後は憲法に代わる基本法を現在でも根本法にしています)、イギリスの不文法の伝統といったものを少し調べると、何が何でも現憲法の手続きに従って憲法を改正するというのは、戦後の70年近い体験から鑑みて、「労多くして功少なし」ではと最近、とみに感じております。

このことと関連し、チャンネル桜の討論会で、佐瀬昌盛さんが冒頭に強調していた「国民の憲法」という発想に、私はあまり積極的意味を感じません。というのは、佐瀬さんの日ごろの見識については、いろいろ教わるところがあり、彼をとても尊敬しているのですが(集団的自衛権に関する議論に関しても、佐瀬さんの『集団的自衛権 論争のために』PHP新書、は、とても勉強になりました)、この場合、「国民」という存在はどうしても、現に存在する「民意」の多数派という俗論に結託するだけだと思うからです。

歴史の古い国は、一時的な「民意」では動かされない根本の精神があると考えます。これは佐瀬さんの本意ではないでしょうが、憲法に関して「国民」を強調すると、それこそフランス革命に由来する人民主権を私は連想します(もちろん、人民主権も単に多数派の意思というのではなく、「一般意思」が主権の主体となるのでしょうが)。

とはいえ、今の憲法下では国家の体をなさないのは事実なので、これを変えてゆく工夫は必要だと思いますし、さまざまな憲法論議から今の日本の問題点を浮き彫りにしていくことは意義あることだと感じております。

そういう視点から、ここで述べた自分の感想は、我ながら少し消極的過ぎるかな、という反省も湧きますが……。

                      *

ところで、これは余談になりますが、先の「慰安婦問題」に絡む「橋本発言」が、第96条の改正にも影響を与えたということは、端的に云って、橋本徹氏の発言にアメリカがかなり感情的に猛反発したことに、世論が動揺した結果だと思います。橋本氏の「ホンネ主義」は、所詮、国内でしか通じないものであることが今回明らかになりました。政治家として、中国、韓国相手だと、「失言」でも致命傷にまでは至らないのに対して、アメリカ相手だと、致命傷に至るという、戦後政治の構造は変わっていないことが、橋本氏の「失言」で改めてよく解りました。

これはある種の論者がしたり顔で云う「対米従属」とは違い、日本社会が未だに「戦後」のなかでもがいている一例だとも痛感しました。

私は橋本氏の政治手法には批判的です。しかし、そのことと別に、今回、わざわざ「虎の尾」を踏んでくれた橋本氏からいろいろと教えられた、とは思っています(反面教師的ですが)。

わが国の憲法改正とは、国内問題であると同時に、戦後の国際社会をも大きく変えるものであるとの認識を新たにしました。この点に改憲派こそ敏感でなければならないと思います。
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