美津島明編集「直言の宴」

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宮里立士氏・吉田茂『回想十年 新版』を読んで浮かんだ偶感 (イザ!ブログ 2013・4・22 掲載) 

2013年12月15日 00時01分55秒 | 宮里立士
あるきっかけで、二十数年ぶりに吉田茂の『回想十年』を再読した。

今回、読んだものは昨年、毎日ワンズから刊行された新版と銘打たれたテキスト。全4巻の原著の第1巻を定本とし、適宜、割愛や他巻の一部を加えたものと凡例で断る。本のスタイルから見ても、一般読者向けに読みやすくしたもので、帯には「戦時中、獄舎に囚われていた男が、祖国再建の鬼と化し、大暴れする!!」との惹句が踊る。特に最後の「大暴れする!!」は大文字になっている。吉田茂のことをよく知らない読者にも手に取ってもらいたいという工夫が感じられた。




吉田茂といえば、敗戦日本を支え復興の基礎を築いた政治家というイメージが一般的だろう。それは高坂正堯の「戦後処理を通じて、日本の国際政治上の地位を回復すること」に成功した「大宰相」という吉田茂観に由来している。たしかに吉田茂は「戦後日本の形成者」(北岡伸一)であり、戦後日本に、“吉田ドクトリン”と呼ばれる経済優先の国家活動の指針を示し、これに基づき日本は経済大国とまでなった。しかし、それは国防、安全保障という国家にとって、根本の課題を覇権国家アメリカに丸投げしての結果でもあったとも批判される。吉田は『回想十年』のなかで語っている。

〈「独力防衛論」などは笑うべき時代遅れの議論というべく、また「再軍備」にもこの論と相通ずるものがある。この種の主張をあえてして自らその見当外れを知らぬに至っては、その迂愚ともに国政外交を断ずるに足らぬ輩であるというべきであり、日米安全保障条約が妥当適切な防衛策であることを知るべきであろう。〉(176~177頁)

〈しかるに世間には、この共同防衛体制をあたかも屈辱なるが如く感ずるものが少なくない。今におよんでも、対等であるとかないとか、議論を上下している。かかる人々は、現今の国際情勢を知らず、国防の近代的意義を解せぬもの、いわゆる「井底の蛙、天下の大なるを知らぬ輩」と評するほかない〉(260頁)

ここから吉田茂の「功罪」が問われ、戦後70年が経とうとする現在でも決着をみない。そのこともあって、改めて吉田茂本人の主張に耳を傾けたいと思った次第である。

最初に「日本外交の歩んできた道」が語られる。近代日本の外交は英米との協調を基本路線とし、それからの逸脱が日本の国際的孤立を招き、日本を破滅へと追いやったという。

戦後の日本外交を「対米従属」と批判する声は大きい。しかし、程度の差はあれ、敗戦前の近代日本外交も、実は「英米追随」的であった。国際政治学者の入江昭の『日本の外交』(中公新書 1966年)は、近代日本外交を学ぶうえで代表的入門書であるが(今では入門書の「古典」かもしれないが)、ここに日本政府、明治の元勲以来の、「現実主義的」英米追随の外交姿勢が批判的に指摘されている。不平等条約を押し付けられ、また、長い「鎖国」で外国との交渉に不慣れな近代日本にとっては、それは致し方のないことだったと私は感じるが、とにかく英米(当時は英国を先に置く)と交渉し、その「お墨付き」を得ることで、近代日本は国際的地位を固めていった。不平等条約も英米との交渉からその改正への道を開き、日露戦争も両国の支援があって勝利にこぎつけた。しかし、日本が強大になるにつれ、英米両国は日本を警戒し、特に米国は日本をときに敵視した。日露戦争の翌年、すでにアメリカのカルフォルニア州で日系移民排斥運動が広まった。その打開策として、日本は移民を自主規制する代わりに米国は排日移民法を制定しないという紳士協定が結ばれる(しかし結局、1924年に排日移民法成立)。

そしてこれとは別に日露戦争の2年後の1907年末に、米国は1年余りかけて大規模な大西洋主力艦隊による世界一周のデモンストレーションを行った。幕末の黒船を意識し、艦船を白く塗り、「グレート・ホワイト・フリート」と称したこの艦隊の大航海は、明らかに日本に対する威圧であった。これを「白船」と称した日本側の反応を、私はかつて論文にまとめたことがある。このとき日本政府はアメリカのこのデモンストレーションの意図を、欧米や中南米の在外公館に探らせ、実際に「白船」が日本の横浜に寄航したとき、それこそ官民を挙げて「日米親善」を演出した。その演出は米国の威圧に朝野ともに危機感を抱いた涙ぐましい努力であった。上陸した米水兵らをもてなす休息所が各地に設置され、酒も振る舞われた。後に対米強硬論者となる徳富蘇峰もこのとき日米友好に奔走した。しかしその一方で、上陸水兵たちの言動は注意深く監視され、内務省の記録には泥酔して暴れだす者、なかには遊郭にあがる者まで報告されている。

日露戦後のこの二つの例が象徴する、アメリカの主張や行動に日本が受け身で対応するという図式は、その後も続き、これに日本はストレスを溜めていった。その挙句、フランクリン・ルーズベルトが登場し、国民党のプロパガンダもあいまって、露骨な中国びいきと日本潰しがはじまり、それに対抗する形で、日本の側に対米英強硬外交が台頭した。

たとえ、米英(ここではアングロサクソンと云い換えてもよいと思うが)の下位に立っても、彼らとの協調こそが日本にとって利益となるからこれを外交の基調にするという方針と、、この方針から不可避的に生じざるをえないストレスとをどう調整すればよいのか。現代まで貫く、近現代の日本外交のこのジレンマに、ほんとうのところ、吉田茂は答えていない。これが『回想十年』を再読して一番の感想だった。特に占領期の叙述に強く感じた。

吉田茂は、いかにもGHQの幹部と対等に、ときには相手を小バカにしたように、折衝をした風に述べている。マッカーサーはさすがにそうとは描けず、その命令に従わざるを得なかったことは認めている。が、それでも彼とのやりとりも「征服者」相手との交渉とは思われない、どこかユーモラスな調子である。もちろん、練達の外交官だった吉田は威厳を失わずに占領軍と交渉するすべも身につけていたであろう。しかし、それはお互い建前と解ったうえでのことではないか。こと政策に及べばGHQと日本政府は命令者と被命令者の関係であって、たしかに吉田は個別の政策に不服があれば、GHQ内部の対立や、人脈を利用して、これを若干は修正することもできただろう。しかしGHQがひとたび命令を下せば、これに従い実行するのが日本政府の役割だった。実際、憲法などはその最たるもので、この関係に基づき「改正」されたことは本書からでも伝わる。さすがに吉田もこれには忸怩たる思いがあったのは、その叙述から窺える。

〈改正草案ができ上がるまでの過程を見ると、わがほうにとっては、実際上、外国との条約締結の交渉に相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層「渉外的」ですらあった〉(228~229頁)

と、現憲法が戦勝国と敗戦国の「力学」によって成立したものであったことを示唆する。しかし、それでいて、「押し付け憲法」論に吉田は異議を唱える。

〈制定当時の事情にこだわって、あまり多く神経を尖らせることは妥当でないように思う。要は、新憲法そのものが国家国民の利害に副うか否かである。

国民としては、新憲法がひとたび公布された上は、その特色、長所を充分に理解し、その真意を汲み取り、運用を誤ざるように致すことが大切なのである。〉(248頁)


吉田はGHQ側の「どうしても不都合だというのならば、適当の時期に再検討し、必要ならば改めればよいのではないか」という言葉も紹介している。実際、民生局次長だったケーディスは30年が経っても占領下の憲法が未だ改正されていない事実を知り驚いたという(古森義久氏)。だが、衆参両院総員の3分の2の発議を経て、国民投票で半数以上の賛成が無ければ改正できない、という極めて厳しい改正条項を持つ現憲法の改正は至難の業だ。これを「押し付けた」当事者が、30年経って、この点を忘れたのか、惚けてなのか、まだ改正されていないと聴かされ驚くこと自体に、この憲法が、いかに無責任に作られたものだったかということが判然とする。実際、吉田も「軍備放棄」に関連して、枢密院の審議で、「国内に擾乱が起こった場合どう対処するか」と問われ、次のように答えたという。

〈占領軍が引き揚げた先のことは想像がつかない。歴史は繰り返すということもあるが、とにかく将来のことはわからぬ〉(233頁)

いかに改正が難しいからとは云え、なぜこのような憲法が「理想」のようにその後に語られ、今も存続しているのか。結局、占領体制の反省が十分に行われなかったせいではないだろうか。

その意味で、もはや今では吉田茂の「功績」が負債のようにのみ、重くのしかかってくる印象を自分は抱く。

吉田は、サンフランシスコ平和条約によって、日本が主権を回復した後も首相を続けた。これは占領期にGHQによって、日本に課された足枷を一番知る立場から、その是正に努めたいという意思の表れであっただろう。が、むしろその「居直り」が、占領期の継続のような「戦後」を生んでしまったのではないか。これは福田和也も云っていたが、もし吉田が、日本の主権回復とともに、もっと率直に、占領下の指導者としての苦悩を吐露し、それがいかに屈辱的であったか、近衛文麿のような盟友をも見殺しにせざるをなかった苦渋を公けの場で演説して首相を退任していれば、あるいはその後の日本の行き方、あるいは世論も違ったものになったかもしれない。

今年、サンフランシスコ平和条約が発効した4月28日に、はじめて政府主催の主権回復の式典が行われる。しかし、この式典に沖縄から反発の声が挙がっていると報じられる。それはこの日が、沖縄にとっては日本から分断され、米軍の支配下に置かれることが確定した「屈辱の日」であるからという。そして「沖縄」にだけ米軍を押し付ける構図はこのとき確定されたとも非難する。沖縄一般の声ではなく、沖縄のマスコミ、沖縄知識人の声と思われるが、これに調子を合わせ、むしろ煽る県外の識者もいる。そのなかには、最近、何かと日本の「対米従属」を強調する元外交官の孫崎享氏もいる。孫崎氏は、この「屈辱」が、昭和天皇の意向によってはじまったものだと沖縄のマスコミで高言している。

外務省高官であった人物が国家の正統性にかかわる存在に対して、安易な非難を吹聴してまわるとはどういうことであろう。このような精神構造の外交官がなぜ生まれたのか? 

ここに至り、改めて戦後外交のはじまりについて考えたいと思い、本稿を草した。




〈コメント〉

Commented by kohamaitsuo さん
ケーディスの驚き自体が現行憲法の形成過程の無責任さをあらわしているという指摘、サンフランシスコ条約以後の吉田の「居直り」が占領時代と同じような「戦後」を作ったという指摘、とても具体的でいいですね。単に戦後レジームの元凶として吉田を批判するのではなく、当時の状況によく想像力を馳せた文章だと思います。
孫崎元外交官のような反日論客が、なぜ大きな顔ができるのか。沖縄に自分の言論の活路をあえて見出していくところに、本土知識人特有のとても薄汚れたものを感じます。昔からいましたね。次は三里塚だ、それ次は沖縄だ、それ次は慰安婦だ、と、自分の実存に関係のない政治課題をねつ造していく連中。そのあたり、伝えられていない沖縄住民の平均的な意識のあり方なども絡めて、さらに続けて書いていただくとありがたく思います。


Commented by miyazatotatsush さん
kohamaitsuoさま
懇切なコメントありがとうございます。
占領期の吉田茂について言えば、私はあれ以上、どうにも仕方が無かったし、よくがんばったと思っています。
問題は、拙文でも触れたとおり、主権が回復した後、吉田が居直ったことだと思います。吉田のパーソナリティーもあって意固地に、「憲法は渉外的に作られたが、押しつけではない」とか、「独力防衛論など時代遅れだと」と言いつのったツケが廻り、しがらみとなって、今日の我々にも未だ纏わりついているように感じます。
そしてここから派生する矛盾が集約的に現れているのが、遺憾ながら、「沖縄問題」だと思います。ただ、大多数の沖縄県民は良かれ悪しかれ、現状では沖縄に米軍基地が多いことはやむを得ないと考えていると思います。しかし、沖縄のマスコミや沖縄知識人は、ヘンに本土にコンプレックスを持っていて、反中央的ポーズを取りたがるので、これが「沖縄の声」のように伝わってしまいます。それに本土で行き場を失った左翼が、沖縄になだれ込み吹きだまりのようになって、困ったものです。
コメントでご指摘の「自分の実存と関係のない政治課題のねつ造」とは、自分流に言い直せば、「大きな問題を持ち出して、自分が本当に苦にしている問題をごまかす」ということだと拝察します。ダメ知識人の典型的な自己欺瞞だと思います。孫崎某も自称、「アメリカの陰謀」(苦笑)で外務省を失脚した腹いせのつもりで、いろいろアジっているようです。彼の言説は沖縄のごく一部にしか届きませんが、先ほど言ったような沖縄のマスコミや沖縄知識人と共鳴すると、いかにも外部には、沖縄を代表する主張のように聞こえ、これが政治的、歴史的に日本の中で複雑な立場に立つ沖縄の今後にも大きな影響を及ぼしかねないため、憂慮しています。
この問題については、これからもしばらく続けたいと存じます。

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