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「雪解け道」(青木陽子著)

2008年05月28日 | ヤ行
     「雪解け道」(青木陽子著)

 この小説は2007年03月19日~10月10日に共産党の機関紙「しんぶん赤旗」に連載されたもののようです。それが今年(2008年)01月に新日本出版社から単行本として出版されたようです。私が読んだのも後者です。

 内容は、主人公である生駒道子(筆者と重なる人物なのでしょう)が東北地方のK市のK大学に入学してから卒業するまでの4年間、つまり1967年04月から1971年03月までの4年間の学生生活を克明に描いたものですが、その学生生活が、時代背景もありますが、主人公の態度から当時の学生運動と深く係わることになりました。それが克明に描かれているのです。なかなかの力作だと思いました。

形としては2007年に或るきっかけで40年前を思い出して回想したということになっていますし、最後は又2007年の現実に少し戻っていますが、これは形にすぎません。

一言で評するならば「理論は低いが事実はよく調べるという共産党の特徴の好く出た小説」だと思います。まず、その理論の低さから指摘しますが、私は元々共産党に理論を期待していませんから、非難しているのではありません。事実として確認しておくだけです。

 1969年01月に東大安田講堂の籠城とそれを解除する機動隊との戦いとやらがありました。この直後の政治学の授業でのやりとりが描かれています。

──その日、教官は安田講堂の事件から話をはじめた。「革命を豪語していた人間が、放水ごときで逮捕されていく。何という言葉と行動の落差かと思いましたねえ。まじめに革命を考えていたというのを信じたとしてもね。現実の歴史の流れと噛み合うことの難しさでしょうか」/ Sが手を上げた。「東大闘争は学生運動の新たな地平を切り開きました。あの闘争は勝利です」/ 「勝利ですか」教官は唸った。/ ナンセンス!/ 揶揄するような低い叫びと、失笑が机の間を這い回った。/

 「あの結末を勝利とするのは、一般的にはなかなか難しいことですね」/ 当然だ、馬鹿じゃないかといった呟きが聞こえた。/ 「あなたの言う新たな地平ですが、僕の言葉に直すと、新しい段階ということでいいのだろうと思いますが、それはどのような段階なのですか」/ 「新たな質を持った階級闘争が展開され始めたということです」/ 「その質とは何ですか」/ 「まず、国家権力の本質が、残忍な暴力であることを暴露しました。これは教訓化されるでしょう。個別改良闘争主義者の闘争の破産が明らかになりました。これが二番目です」/

 ざわめきが起こった。個別改良闘争主義者って何だ、破産って何のことだ、と言う声がまたも机の間を行き交っている。Sはそれを無視して続けた。/ 「東大闘争支援の街頭闘争が神田・御茶ノ水一帯で展開され、労働者大衆・市民との結合が実現しました。これが三番目です」/ 何か言わねばと青山〔生駒道子の男友達でこの話を伝えた人〕が思ったその時、隣に座っていた学生が手を挙げて立ちあがると同時に声を出した。/

 「何が勝利だ。お前たちの自己満足のために、どれだけの人間を翻弄したら気が済むんだ」/ 教官が穏やかに制した。/ 「勝利という言葉一つとっても、定義ができないくらいの考え方の差がある今は、ここまでとしましょう。何十年もしてから、一度話し合ってみたいものです。もっとも、僕は生きていないかもしれないが」/ 教室中が笑い声に沸いてその話は終わりになった。(引用終わり)

 作家やこれを伝えた人は、全共闘系の主張が学生大衆に受け入れられなかったことで満足しているのかもしれませんが、ここはもう少し考える必要があると思います。

 そもそも60年代後半の学園紛争はこういうお粗末授業を改革してほしいという願いが1つの出発点ではなかったのか、ということです。

 この願いは根本的には歴史的な背景があるようです。つまり、後で分かったことですが、当時、大学進学率が20%を越えて、大学が大衆化したのです(竹内洋「学歴貴族の栄光と挫折」中央公論新社)。それなのに、大学のあり方が全然改革されなかったのです。学生の不満にはこういう客観的な背景があったと思います。

 これは当事者にどれだけ意識されていたかとは別です。歴史は直接的には当事者の意識で動きますが、その意識は当事者には意識されない歴史的背景に規定されています。この場合はその典型的な例だと思います。

 そのように根深い背景があったのですが、表面的にはこういう授業を改革してほしいと主張していたはずです。それなのに、この授業のどこがどう間違っているか、どう改革したら好いのか、指摘されないのです。これは理論の低さです。

 これはついでと言ってもいいのですが、第2に、ここで発言している全共闘系の学生S君の言葉や他の箇所に出てくる「安田講堂の攻防戦は全人民に衝撃を与えた」といった言葉は、小林多喜二の「蟹工船」の信仰告白とそっくりです。

 「蟹工船」の終わり近くには「いくら漁夫達でも、今度という今度は、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互いが繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた」とあり、そして、その「付記」の4番目には「「組織」「闘争」-この初めて知った偉大な経験をになって、漁夫、年若い雑夫等が警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ」とあります。

 両方共、事実の調査に基づいた研究ではなく、信仰告白でしかありません。そして、今からみれば明らかなように、内容的にも間違っていました。

 ここから分かりますように、新左翼というのは共産党の昔の姿を受け継いだものなのです。というより、左翼運動に関わり始めた人はたいてい誰でもこういう青二才左翼になるのです。それなのに作家はこれに気づいていないようです。ネットで作家が最近の「蟹工船」の人気について発言しているのを読みましたが、肯定的な発言だけでした。

 では今の共産党はと言うと、それは官僚化左翼と評することができるでしょう。

 第3に、民青に入ることを勧められた時、主人公は「赤旗も民青新聞も書いてある内容は正しいと思います」と述べています。

 そして、その後民青に入るようですが、この考え方は考え方として学問的に間違いだと思います。書いてある事が正しいかどうかは本当の問題ではないのです。もしそうなら、役所の発行する広報誌はみな「書いてある事は正しい」ですから(間違った事を書いてはいけないことになっているはずです)、問題ないということになります。

 学問というのは、部分的事実ではなく全体的真実を追求するものです。書いてある事が正しいとしても、書くべき重要な事が書いてなかったら、それは「全体としては虚偽」です。

 こういう考え方を教えるのが「学問の府」たる大学の第1の任務なのですが、それを実行しいる所はほとんどなくなったようです。東大ですら今では「専門学校の複合体」でしかないと私は考えています。

 ですから、作家やまして学生の責任ではないのですが、ともかく間違っていると思います。

 学問と言えば、主人公もマルクス主義の古典は読んだような事が書いてありますが、自分の勉強の様子も仲間で読書会をした様子も出てきません。徳永直の「静かなる山々」との大きな違いでしょう。

 後者はあまり知られていないようですが、私は敗戦直後の日本社会、特に農村とその地方に移転していた大工場の人々の様子を描いた貴重な記録だと思っています。それが共産党の立場に立って、共産党を中心とする人々がいかに戦ったか、周囲の人々とどういう事があったか、自分たちの間でどういう議論が交わされたかを克明に描いてくれた大作だと思います。

 未完であり、第3部も、ひょっとすると第4部も予定していたのに、徳永の早すぎる死で未完のままで終わってしまったのは返す返す残念です。

 第4に、ベトナム戦争反対運動との関係で次の記述があります。

 「ベトナムや沖縄に起こっている事柄について、おずおずと話し合っていたクラスの議論は、いつか、そうした政治課題に対して闘うのは学生として当たり前で、今の問題はいかに闘うのかだと、闘争の戦術論議に移っていた」。

 私が聞いた限りでも、学生運動のあり方についてこういう「感想」なり「感じ」を持つ人は少なくないようです。しかし、この「感じ」を「感じ」に止めないで、本質論と戦術論、本質論主義と戦術論主義といった問題として意識化し、考え進め、本質論主義の大衆運動を理論化して実践し、更に発展させた人はいないようです。共産党と言わず、どこの運動団体でも同じだと思います。

 第5に、この作家は愛知県で共産党系の活動を現在も続けているようですが、小説の中で、1969年には、「安保条約の固定期限終了を半年後に控えたこの選挙で、共産党は解散前の4議席を14議席に増やして躍進した」と書いているのに、終章で、つまり2007年の時点では、「あの時の若者たちの社会への目配りの仕方が変わってしまった訳ではない。それぞれに誠実に生きているのだと思うけれど、ではこの国は納得のいく発展を遂げてきたか」と書いています。

 ここから分かる事は、第1に、「納得のいく発展を遂げてきていない」原因の1つとしてこの間の共産党の消長に触れていないということです。その理由についてもこれからの展望も自分では何も出せないのでしょう。

 第2に、「若者たちの社会への目配りの仕方が変わってしまった訳ではない」と断定していますが、どれだけ調査したのでしょうか。最近、小林多喜二の「蟹工船」が読まれていることでも念頭においているのでしょうか。こういう安易な信仰告白は役立たないと思います。

 これは「理論的低さ」ではありませんが、小さな事実誤認を指摘しておきましょう。

 小説の中で「全学連指導部は60年安保の時過激な方針をとった。やがて全学連は主流派と反主流派に分裂した」と書いていますが、これは不正確すぎます。

 主流派と反主流派を構成する流派の変化も含めて大変化の起きたのは1959年11月27日のいわゆる国会突入事件がきっかけです。詳しいことは「歴史のために」の中に書いておきました。

 さて、この小説はこのように理論水準は極めて低いのですが、それにも拘らずと言うか、ひょっとすると、だからこそ、下らない理論に邪魔されることなく、当時の特に学生運動に係わった学生たちの生活とそこで交わされたであろう会話を最高の正確さで記録しています。もちろん作家の人柄の誠実さもあるのでしょう、とにかく貴重な記録だと思います。

 新左翼系の人々はこれでも「これは民青系の本だ」と言って見向きもしないかもしれませんが、旧左翼からも新左翼からも敵視されている私の見るところ、極めて公正な叙述だと思います。その意味でこの小説は、歴史に残るのではないかと思います。ともかく私は高く評価しますし、このような記録を残してくれた事に対して作家に心から深く感謝します。

 公正な記録と言えば、当時、東大の美学科に在学していたAさんが全共闘のお粗末理論(と行動)と闘った思い出話を2年くらい前に JanJan (インターネット新聞)に書いていました。これは小説ではなく、広義の自伝(の1部)でしょうが、東大の研究室の内部でのやりとりですから、貴重だと思います。紙媒体になっていないのが残念です。

 最近、私はつくづく、小説の意義ということを考えます。文学としての意義にはあまり関心はありませんが、歴史にとっての意義です。

 例えば、1928年の共同印刷の大争議が歴史に残ったのは徳永直が「太陽のない街」を書いたからではないでしょうか。同じ年、浜松日本楽器でも歴史的な大争議がありましたが、これは誰も小説に書かなかったので、今では知っている人の方が少ないでしょう。私の知っている限りでは、長谷川保の自伝的小説「夜もひるのように輝く」(講談社)の中に少し出てくるくらいです。

 60年安保も小説にはならなかったようです。

 そう考えれば、60年代末の大学紛争について、全共闘系では(小説は出ていないと思いますが)いくつかの文章が出ていますが、民青系(といってもそれほど党派的ではないと思います)からこのような長編小説が出たことはとても好い事だと思います。

 内容も形式も、柴田翔の「されど、我らが日々」など問題にしない作品だと思います(柴田の小説も1955年頃の学生党員の事を書いた小説がほかにない以上、無いよりは好いと評価はできますが)。

 石川達三の「人間の壁」は大作家の力作ですから、さすがに内容豊かで、1956年当時(敗戦から約10年後)の日本の様子と(日教組の)組合運動の中で交わされた会話(様々な考え方)を克明に記録してくれました。しかし、これは1956年03月から翌年の春までの1年間が対象です。「雪解け道」は最初の1年が詳しく、後は短くまとまったものを載せていますが、それでもやはり4年間全部をカバーしています。

 「人間の壁」に出てくる会話は内容的に整っていますが、「雪解け道」の学生運動家の会話は観念を弄んだと言うか、消化していない言葉を並べただけのようなものが多いです。しかし、これは現実に彼らの言葉がそうだったのですから、むしろ「こんな意味不明で覚えにくい言葉を好く覚えていたな」と感心するくらいです。覚えるには内容を理解していなければならないと思うからです。そういう意味でも運動の渦中にいたからというだけでなく、作家の能力が素晴らしいのだと思います。

 「学生時代のアカなんて、ハシカみたいなものだ」とは好く言われたものですが、1960年代末におけるそのハシカの様々な症状を詳しく描いた作品としてこれ以上のものはないのではないでしょうか。

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