新潮文庫から40年ほどたって岩波現代文庫でも出ることになりました。それも3巻になっていますが、2001年09月14日発行となっています「下巻」には、今度は映画評論家の佐藤忠男氏の「解説」が載っています。
これが先の久保田氏の解説とは内容も雰囲気も全然違うものですから、それを引いてみます。
佐藤氏はまず、戦後特に話題となった3大新聞小説として「青い山脈」「自由学校」と並んでこれを挙げています。
次いで、石川達三氏の作家としての特質を、「文学的というよりはジャーナリスティックな小説」とし、その系譜の中でもこの小説の反響は群を抜いていたとしています。
少し筋を追った後で、氏は「読者としての私が驚いたのは、作者の石川達三がほぼ全面的に日教組側を支持し支援する立場でこれを書いていたことである」としています。
そして、発表後40年以上たった時点での問題点、読む人にとっての意義をこうまとめます。「戦後民主主義という言葉がある。第二次大戦の敗戦後、アメリカ軍の占領下でアメリカに強制され、指導されて始まった民主主義であり、同時にまた、もともと日本でも徐々に育っていたのに軍国主義にさえぎられて消えかかっていたのが、敗戦後に最大の障壁だった軍部勢力の崩壊でぐっと伸びて根を張るようになった民主主義でもある。
ただしこの言葉には明確な定義はないようで、いつ頃までの思想的な動きをそう呼ぶのか、いつ頃から戦後ぬきのただの民主主義になるのか。それともいまだに日本の民主主義は戦後民主主義という特定の呼び方を必要とする特殊なものと考えたい人たちがいるのか、じつはよく分らない。
日本の民主主義が、自力でかちとったものではない弱さを持っていることは否定できない。しかし、ではまるまる支配者から与えられただけの、だからいつでもまた取り上げられてしまいかねないほどの弱いものだと自嘲するにも当らない。与えられたものだったかもしれないが、それを自分のものとして内発的にはぐくむ努力もしたし、感激もあった。そしてそれを取りあげられようとする動きもいつもあって、それに対しては多くの抵抗も行なわれた。まだまだひよわなものかもしれないが、多少は鍛えられてもきたのである。
小説『人間の壁』は、そういう日本の戦後の民主主義の浸透過程、確立過程の貴重な記録と言うぺきではなかろうか。そこにはまあ、あまりたいした英雄もいないかもしれないが、日本の民主主義の身の丈にふさわしい良き人々、愛すぺき人々が確かな手応えのある群像として息づいており、そこに私は、近年ややもすれば否定的なニュアンスをともなって語られる傾向さえ生じている戦後民主主義というあいまいな理念の初心や志を正しく読みとりたいと思う。この小説の尾崎先生や沢田先生などの気持のありようこそが、つまりは戦後民主主義であり、それを継承して戦後という限定ぬきの本物の民主主義に発展させ得るかどうかは正にいまの問題なのである」。
佐藤忠男氏の解説の中で私が考えたいのは次の言葉です。「時代を遠く離れ、ここに描かれたような貧困の問題も、また文部省対日教組の直接対決も過去のものとなった今日においても、貴重な証言として読み継がれるべき内容があると思う」。
この言葉の何を考えたいかと言いますと、貧困の問題とか文部省対日教組の対決の問題が「過去のものとなった」と言いますが、それはなぜ過去のものとなったのかということです。特に私が問題にしたいのは、それは当事者たちの予想とは違って「解決された」ということです。
小説のなかで、この闘争を戦う両者の意識についてこう書かれています。
まず、教組側の意識については、「今後10ヵ年にわたって 260人ずつの教職員が整理され、昇給はまったく望みがないという、この現状を忍ぶことができるだろうか」と。
そして、政府側の意識については、「この機会を生かしてゆかなければ、総選挙のたびごとに保守党議員の頭数は減ってゆき、遠からず政権を奪い去られることはほとんど明白な事実だ」と。
両者共、それほど追い詰められていると「思っていた」のです。この判断は正しかったでしょうか。その後の歴史の経過から見て、両方とも、間違っていました。
1955年というのは、いわゆる「55年体制」の出来上がった年です。ともかく体制が固まって、そこから戦後の日本資本主義は大躍進を遂げたのです。それと同時に貧困の問題は解決されたのです。そして、社会党は万年野党に甘んじ、最後には社民党になって社会主義を放棄したのです。
教組側をもう少し詳しく見ますと、特に1974年の人材確保法によって、教員には一般の公務員より5%高い給与が支払われることになりました。それによって札束目当ての人間が教育界に多数入ってくることになりました。
1970年に国民総生産で世界第2位になった日本には金で組合を懐柔する財力があったのです。この人材確保法を作ったのが金権政治家の田中角栄だったことは実に象徴的です。
教員組合の運動は堕落し、ついに文部省に屈伏しました。しかし、教育公務員は特に高給を得るようになったのです。だからこそ、最近大分県の教育界で明らかになった「金で教師になる」という事態が生まれたのです。それは大分県だけでなく、多くの所で行われている事だと言われています。
組合の敗北は又、非合法な闘争形態のために生まれた沢山の犠牲者への補償金支払いが嵩んで、財政的に耐えられなくなったためでもありました。とにかく、今では、東京都で日の丸・君が代の強制に対して反対する教師たちの動きがあっても、組合の支持や応援は得られないという情けない状態になってしまったのです。
要するに、日教組の運動はカネの力に勝てなかったのです。それは幹部の力不足が第1の原因ではありますが、それと共に、組合活動に積極的になってゆくけれども政治的に(共産党か社会党かを)はっきりさせない尾崎ふみ子先生のような教師たちの運動の限界でもあったと思います。
佐藤忠男氏は石川達三がこの小説では「常識的な立場」を越えて日教組支持を明確にしたと言っていますが、そしてそれはその通りですが、「日教組支持」程度の「立場」では現実の政治を動かすことはできなかったのです。
政治は社会体制をどうするかを根本問題として、力の対決で動いているものです。石川氏の支持していた日教組の思想はカネの力には勝てないような思想だったのです。いや、そもそも組合運動を通じて政治を変えようとすること自体が無理だったのです。政治を変えるには政治運動をする以外にないのです。
最初に書きましたように、この小説については、朝日新聞に連載中から、作家を励ます会が読者たちによって開かれたり、完成後にも又そのような会が開かれました。しかし、敢えて憎まれ口をたたくなら、そういう「励まし」をした人々の思想もその程度のものだったのだと思います。
私はそれが「悪い」と言っているのではありません。そういう「思想」では政治を変えることは出来なかったという「事実」を直視して、その理由を考えるべきではないかと提案しているのです。
もう少し積極的に言うならば、私はやはり北欧の社会民主主義を高く評価していますが、それは社会民主党を中心とする連立内閣に指導されています。そして、それらの政党は多くの党員によって支えられています。日本のように、政党支持を明確にしたがらない人々が、政治を変えようというのとは違うのです。
この結論は逆からも証明できます。失敗することなく、自分の目的を追求して大きな成果をあげた教育関係者もいるからです。私の知っている限りではその代表として、国語教育の大村はま氏と「仮説実験授業」の板倉聖宣(きよのぶ)氏を挙げることができます。
ではこれらの人はなぜ大きな成果を挙げることができたのでしょうか。もちろん本人の才能と努力があったからでしょう。しかし、その前提として、政治に係わらなかったということがあるのを見落としてはならないと思います。これは政治に係わって敗北した人々と比べるとその対比は鮮やかです。
大村はま氏はキリスト者で政治的な発言は一切しなかったと思います。板倉聖宣氏は学生運動に少し係わったようですが、すぐにその理論的低さにあきれて見切りをつけ、自分は、社会運動の「基礎」を作るのだと言って、教育理論と方法の研究に自分を限定したのです。
しかし、これらの限定的な成果にもかかわらず、全体としての日本の教育は衰退してきたと思います。生徒の水準が何とか保たれているのは学校外の様々な要素に負うところが大きいと思います。公立学校の校長は消化試合をしていれば年俸1000万円がもらえるのです。誰が努力をするでしょうか。
しかし、このような結果を作ったのは本当は誰なのでしょうか。私は日本の教育を動かしている根本的な勢力は文部官僚だと思っています。教育行政を研究している人々や評論家やジャーナリストがこの実態を報告してくれないのが不思議なのですが、生々しい記論としては、西尾幹二氏の「教育と自由」(新潮社)を挙げておきましょうか。
この文部官僚の支配を断ち切るには、何よりもまず政権交代が大前提だと思います。「戦後、本格的な政権交代のないのは先進国では日本だけだ」と言われますが、その日本でもようやく政権交代が近づいてきたようです。我々はどのようにしてそれを迎えるべきでしょうか。1人1人が試されていると思います。
それと同時に、北欧の社会民主主義政党のあり方を研究して、そこから学ぶ必要もあると思います。政治家がなぜ、どのように住民と結びついているのか。これを考えなければ本当の民主主義は育たないと思います。
関連項目
板倉聖宣
解放運動(01、日教組と三里塚)
社会民主主義(01、北欧の社会民主主義)