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歴史の審判(その1)

2008年08月10日 | ラ行
      ──石川達三著「人間の壁」を読んで

 この小説は、朝日新聞(朝刊)に昭和32(1957)年08月24日号から昭和34(1959)年04月12日号までにわたり、 593回連載されたものです。単行本としては、新潮社から前編(1958年05月)、中編(1959年01月)、後編(1959年07月)の3巻に分冊して刊行されました。

 私の高校時代の終わり頃から学生時代の初めまでです。社会問題に関心を持ちはじめた私は最初は熱心に読んでいましたが、大学に入って学生運動に係わると、運動の方で頭が一杯で小説の方は読まなくなったと思います。最近、全部を読み返してみました。

 この小説の極めて特徴的な事実として、「新聞連載中から、女性・主婦読者たちによって作者を激励する会がもたれ、完結後作者の主唱によってそれにこたえる会がもたれた」(久保田正文)ということがあります。これは初めから、教育闘争の一環として読まれたのです。

 私がこれを論ずるのもやはりこの観点からです。しかし、発表から半世紀近くたった今では、この間の歴史の審判もかなり出ていると思います。ですから、これに対して歴史はどういう審判を下したか、それを考えてみようと思うのです。

 新潮文庫(下巻)(1961年04月発行)に「解説」を寄せた久保田正文氏はこう書いています。石川達三論もあるほどの人のまとめですから、私にはこれ以上のものは書けませんので、そのまま引用します。読んでいない人でもこれで大体の事は分かるでしょう。

──この作品にあつかわれている時間は、昭和31〔1956〕年春から、翌年05月ころまでのあいだである。S-県津田山市が中心の地域として描かれ、その時期におけるS-県の政治的・経済的な位置と条件は「台風の季節」の章のはじめに概括されている。

 国ぜんたいの政治情況で言えば昭和30〔1955〕年11月には鳩山内閣が成立し、翌31年12月には石橋内閣にかわり、石橋は2ヵ月で岸信介にかわるという時代である。それらの政変の過程もこの作品のあちこちに適宜に、きわめてドキュメンタルな手法で点綴されている。

 鳩山-石橋-岸を通じて一貫する教育基本法のなしくずし骨ぬき政策、教育行政の中央集権化のプロセスも赤い糸のように全編を縫ってうかびあがるように描かれている。そういう大きな、そしてなまなましい政治的・社会的な背景のうえで、尾崎ふみ子というひとりの女教師の生活と思想が描かれている。

 作者は、S-県を日教組の組織力の弱い地域として描きはじめている。そして尾崎ふみ子も、教員組合に対してむしろ関心うすく、はじめは「組合というものを、何となくいやなもののように感じていた」教師として出発させている。

 そういう女教師が、県財政のシワよせによる教育予算の削減のための犠牲として退職勧告を受ける。彼女は夫との離婚の危機を予感しているから、みずからの生活をまもるためにも退職するわけにはゆかぬ。そのとき組合の力によって、退職拒否のためのたたかいの足場を据えることができる。そこではじめて彼女は組合の存在意義を知るとともに、その存在が個人の生活をまもるためのみではなく、教育そのものの意義と主張をまもるための、ただひとつの組織であることを知る。

 離婚したふみ子は、やがてそれも妻に死なれたひとりの教師を、教育者としても尊敬し、男性としても慕うこころを自覚するようになる。しかし、彼から結婚を求められたとき、彼女はよくかんがえ、やはり教育の理想をまもってゆくことと、家庭生活とが現在の段階ではなかなか一致しがたいものであることを思いあきらめ、結婚の幸福を断念して教員組合運動へ専心するコースをえらぶ。そういうふうに成長してゆく女性のものがたりを中心にしてこの一編は構成されている。

 尾崎ふみ子の夫であった志野田建一郎は妻のふみ子とは対照的にはじめから組合活動に積極的な県教組の執行委員としてあらわれる。しかし彼は立身出世主義に目のくらんだエゴイストとして、そのポストに就いているものにすぎぬ。彼の野望が正統な組合運動のなかで見破られ、失脚するにつれて、彼は家庭をも破壊して裏切者のコースへ入ってゆく。

 作者は労働者の組合運働が、本質的には人間的な良心の示す方向にしたがいつつも、それが反動的な権力とのたたかいにならざるむえぬものとしての必然的な制約にしたがって、組合活動のなかにも目的のためには手段をえらばぬ権力政治の悪が、何ほどかの度あいで混入するのをやむをえぬこととしているごとくである。

 「内部分裂はどこにでもある。日教組本部にもあるし、S-県教組本部にもある。分裂を内部にふくんだままで、闘争はやはり進められて行くのだ。」(「三十二年二月」)。つまり、生き・うごき・働いているものの内部にはかならず矛盾や分裂がある。それを含んでいるということがむしろ生きて前進しているということのあかしでさえもある。闘争が前進しているかぎり、そのことによって矛盾は解決されてゆく。志野田建一郎は、そういう作者の現実人生のうえに造型されている人物である。

 尾崎ふみ子が志野田建一郎と離婚してのち敬意のおもいを自覚する同僚教師澤田安次郎は、誠実に重厚な人柄であり、教育者としてみずから信ずるところのあるいわば古典的なタイプの教師である。彼は組合運動に対しても理解をもってはいるが、そこへ全身をかけようとはしない一種の孤立主義によってその個性をまもっている。

 彼は、「教職にあるものがほかの筋肉労働者と同じように、賃上げ闘争をしたりストライキみたいな事をやったり、赤旗をふりまわして労働歌をうたったり、身の程をわすれた軽薄な行為だと、つい先ごろまでは思っていた」(「小さな衝突」)のであるが、妻が病気して組合厚生部の助けを得たときには組合の意義を知った。

 しかし、彼じしんが捏造された生徒殴打事件で教職を追われることになったときには、組合に迷惑をかけることをおそれ、みずからあっさり身をひいてしまう。労働者としての連帯感にめざめて、組合のなかでのたたかいへすすんで入ってゆくことをしようとはしない人物である。

 澤田の生きかたを誰も非難することはできぬ。むしろ、こういう古典的なヒュ-マニストともいうべきものは、現代では教育者の世界にのみわずかに生き残っているのにすぎぬとさえ言わなくてはならぬのかもしれぬ。それにもかかわらず、それはけっきょく最後には尾崎ふみ子の、積極的に集団的なヒューマニティに生きようとする態度とは、こころを残しながら微妙にすれちがうことのやむをえぬものとして、作者のプリズムはそこを正確に描いている。

 もうひとりの典型的人物として一条太郎をあげることを忘れてはならぬだろう。「いなかの小学校の先生に、こんな美貌は必要ではないのだ」とみられている金ぶち眼鏡をかけた一条はさらに、「頭がよくて、学問ができて、底の方に何かしら投げやりなもめがある。心の底では生徒たちを軽蔑しているような冷たさがある」と言われる人物である。

 志野田建一郎とおなじように一種のエゴイストとしてふみ子と対照的な人間とも言えよう。しかし、一条のエゴイズムのなかにはいわば現実主義的な合理主義ともいうべきものがあり、その冷たさが同時に一貫した論理主義にも通じていて、志野田のような目的のためには手段をえらばぬ立身出世主義へ間化することをくいとめている。

 彼の意見が、組合の猪突的傾向に冷水をあびせることになったり、ときにそれが急場をすくうことになったりするのである。彼の生活についての理論と実践が、いつもどこかニヒリスティックな影をひきながらも、直感的に限界を自覚して崩れそうでいて崩れきらぬ姿勢を保っているのは、現代のインテリゲンツィアに共通する性格の一面を反映させている。

 ところで、澤田安次郎のかんがえかたのなかに課題としてあらわれている「労働者としての教師」というイメージを、どのように解釈してゆくかということが、この作品全編をつうじて大きなテーマとなっている。

 教師は聖職者である。聖職は労働とはちがう。したがって教師は労働者ではない。そういう論理はもちろん父兄の側からまず来る。尾崎ふみ子は、最初その問題が投げつけられたとき、「直感的に、闘いの必要」を感ずる。「教師は人格者でなくてはならない。けれども人格者というものが、常に無抵抗でなくてはならないという理屈はない。教師は人格者であるが故に、その全人格をもって、不法なるものと闘わなくてはならない。」(「国会闘争」)。

 しかし、その問題はくりかえしくりかえし、彼女をおそう。生徒からも出された。デモの隊列を組みながらも、おのずから思考はそこへもどってゆく。組合の執行委員会の論議の席でも、その疑問はむらがりおこる。

──工場労働者なら機械をとめても機械そのものは沈黙している。しかし、教師にとって「生徒たちは生きている。教育は休むことができないのだ。」「文部省には抵抗しても、子供たちには拘束されている」(「未解決の問題」)。

 澤田の意見もその点だけは終りまでゆずらぬ。権力者が圧しつける欺瞞的な「聖職」意識には反対するのが当然だろう。しかし、「PTA なんかに要求されて、聖職の仮面をかぶるのは困るけれども、そういう強制をされるのではなしに、自分の心のなかで、教師の仕事を聖職にまで高めたいんだ。」(「雪の街で」)。それが澤田の教育的信念である。

 しかし、「国会闘争」の章で、作者は昭和31年05月18日、日教組全国統一行動の日の東京デモの風貌を描写して、「行進する大集団は、一見して労働者の集まりであった。」「その職業の性質が何であろうとも、この群衆は明らかに労働者であり、労働者以外のものではなかった。工場労働者よりも、もっと重い心の負担を負い、世間の批判にさらされている、苦難の労働者にちがいなかった。」と観ている。

 そして、その作者の観点はやがて、終章ちかく「花ひらく時」において、いくたびかの疑いや迷いやの末に尾崎ふみ子がたどづりつく結論にも照応している。「教師が労働者であるかないかという問題に対する最初の解答は、法律の条文のなかにあるはずだ」。労働基準法第八条がそれにこたえている。法律は教師を労働者としてあつかっている。

 こういう明白なことがらが、なお不安定に動揺するのは、教師じしんのなかにも残っている古い弱さにもよる。世間は「一面では教師を軽蔑しながら、一方では教師に最高の人格を要求する。教師たちは軽蔑されながら、しかも世間の人からの尊敬をほしがっている。自分のなかに矛盾をとり入れてしまったために、労働者という気持に徹しきれない。」

 くるしんで、そこまで問題をあきらかにすることができたことによって、尾崎ふみ子ほ澤田からの結婚の申し出に対してむ、正確にみずからの位置を認識し、「教育の絶望の時期、教育の暗黒時代」にほかならぬ現在をきりひらくために、「せめて自分の私事を忘れて働いてみたい」というところから組合運動へ積極的に入ってゆく条件を着実につくるものとなった。

 大河小説いうことばをこの小説についてつかうことができるだろう。したがってここでかんがえられている問題はその他にもいくつかの重要なものをとり出すことができる。道徳教育の問題、親・子の関係と教師・生徒の関係との異同の問題、教育は創造であり生きものであるという問題その他。

 とくに「波のうねり」の章には困難なそれだけに根本的な問題がいくつも提出されていて、読むむものの思考の発展をうながしている。さらに、この作品そのものから離れての客観的な問題としては、島崎藤村の『破戒』、田山花袋の『田舎教師』いらいの小学校教師の生活をあつかった日本近代小説の系列のうえでのこの作品の位置と性格、そして同時代の小説技術・方法のうえでの新しさと特質についても多くの論じうるテーマがここに存在するはずである。

 それらのひとつひとつについてくわしくふれている余地はここに残されていないけれども、終りにひとつのことだけをつけくわえることを私は忘れまいと思う。

 はじめの「放射能雨」の章の終りちかい部分で作者はなにげなく、津田山東小学校教職員組合分会長竹越先生の、明るく美しい笑顔を、夕方のガラス戸ごしの光のなかにうかびあがらせている。それは、永年のあいだ生徒たちを愛し育てて釆た、その経歴が彼の顔に刻みつけた美しさであった。だれにも認めてもらえない所で、永いあいだ誠実な努力をつづけて来た人だけがもっている、一種の冴え冴えとした美しさであった」として描いている。

 こういう部分へは、たとえば志野田ふみ子が校長室で教育長によび出され、夫が共産党の秘密党員であろうとキメつけられ退職を迫られるとき、彼女の耳へ、校庭での生徒たちの声が、ありありとひびいてくるシーン(「小さな衝突」)を重ねてよむことができるだろう。

 さらにまた、S-県闘争委員会が、休暇闘争をはじめて議題にしたとき、ことの重大さに議事が停滞し、結論が出ずに終るところで、県委員長吉沢の昏惑した意識へよびかけてくる、教室で待っている50人のこどもたちの眼(「拡大闘争委員会」)を重ねてみることができるだろう。

 そして何よりも、終章での、新しい生活への自覚をみずからのなかにかためた尾崎ふみ子の体育の授業時間に、溌剌と呼応してくるこどもたちの生気を、そこに重ねあわせてよむことができるだろう。つまり、教師の危機と昂揚とはつねに彼を「拘束」しているこどもたちの息吹にむすびついている。彼らは、こどもたちによって激励され、こどもたちによって自由をまもられている。彼らの横顔に刻まれている美しさを、そういう構造において理解することを、この作品は求めている。(引用終わり)(続く)

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歴史の審判(その2)

2008年08月10日 | ラ行
 新潮文庫から40年ほどたって岩波現代文庫でも出ることになりました。それも3巻になっていますが、2001年09月14日発行となっています「下巻」には、今度は映画評論家の佐藤忠男氏の「解説」が載っています。

 これが先の久保田氏の解説とは内容も雰囲気も全然違うものですから、それを引いてみます。

 佐藤氏はまず、戦後特に話題となった3大新聞小説として「青い山脈」「自由学校」と並んでこれを挙げています。

 次いで、石川達三氏の作家としての特質を、「文学的というよりはジャーナリスティックな小説」とし、その系譜の中でもこの小説の反響は群を抜いていたとしています。

 少し筋を追った後で、氏は「読者としての私が驚いたのは、作者の石川達三がほぼ全面的に日教組側を支持し支援する立場でこれを書いていたことである」としています。

 そして、発表後40年以上たった時点での問題点、読む人にとっての意義をこうまとめます。「戦後民主主義という言葉がある。第二次大戦の敗戦後、アメリカ軍の占領下でアメリカに強制され、指導されて始まった民主主義であり、同時にまた、もともと日本でも徐々に育っていたのに軍国主義にさえぎられて消えかかっていたのが、敗戦後に最大の障壁だった軍部勢力の崩壊でぐっと伸びて根を張るようになった民主主義でもある。

 ただしこの言葉には明確な定義はないようで、いつ頃までの思想的な動きをそう呼ぶのか、いつ頃から戦後ぬきのただの民主主義になるのか。それともいまだに日本の民主主義は戦後民主主義という特定の呼び方を必要とする特殊なものと考えたい人たちがいるのか、じつはよく分らない。

 日本の民主主義が、自力でかちとったものではない弱さを持っていることは否定できない。しかし、ではまるまる支配者から与えられただけの、だからいつでもまた取り上げられてしまいかねないほどの弱いものだと自嘲するにも当らない。与えられたものだったかもしれないが、それを自分のものとして内発的にはぐくむ努力もしたし、感激もあった。そしてそれを取りあげられようとする動きもいつもあって、それに対しては多くの抵抗も行なわれた。まだまだひよわなものかもしれないが、多少は鍛えられてもきたのである。

 小説『人間の壁』は、そういう日本の戦後の民主主義の浸透過程、確立過程の貴重な記録と言うぺきではなかろうか。そこにはまあ、あまりたいした英雄もいないかもしれないが、日本の民主主義の身の丈にふさわしい良き人々、愛すぺき人々が確かな手応えのある群像として息づいており、そこに私は、近年ややもすれば否定的なニュアンスをともなって語られる傾向さえ生じている戦後民主主義というあいまいな理念の初心や志を正しく読みとりたいと思う。この小説の尾崎先生や沢田先生などの気持のありようこそが、つまりは戦後民主主義であり、それを継承して戦後という限定ぬきの本物の民主主義に発展させ得るかどうかは正にいまの問題なのである」。

 佐藤忠男氏の解説の中で私が考えたいのは次の言葉です。「時代を遠く離れ、ここに描かれたような貧困の問題も、また文部省対日教組の直接対決も過去のものとなった今日においても、貴重な証言として読み継がれるべき内容があると思う」。

 この言葉の何を考えたいかと言いますと、貧困の問題とか文部省対日教組の対決の問題が「過去のものとなった」と言いますが、それはなぜ過去のものとなったのかということです。特に私が問題にしたいのは、それは当事者たちの予想とは違って「解決された」ということです。

 小説のなかで、この闘争を戦う両者の意識についてこう書かれています。

 まず、教組側の意識については、「今後10ヵ年にわたって 260人ずつの教職員が整理され、昇給はまったく望みがないという、この現状を忍ぶことができるだろうか」と。

 そして、政府側の意識については、「この機会を生かしてゆかなければ、総選挙のたびごとに保守党議員の頭数は減ってゆき、遠からず政権を奪い去られることはほとんど明白な事実だ」と。

 両者共、それほど追い詰められていると「思っていた」のです。この判断は正しかったでしょうか。その後の歴史の経過から見て、両方とも、間違っていました。

 1955年というのは、いわゆる「55年体制」の出来上がった年です。ともかく体制が固まって、そこから戦後の日本資本主義は大躍進を遂げたのです。それと同時に貧困の問題は解決されたのです。そして、社会党は万年野党に甘んじ、最後には社民党になって社会主義を放棄したのです。

 教組側をもう少し詳しく見ますと、特に1974年の人材確保法によって、教員には一般の公務員より5%高い給与が支払われることになりました。それによって札束目当ての人間が教育界に多数入ってくることになりました。

 1970年に国民総生産で世界第2位になった日本には金で組合を懐柔する財力があったのです。この人材確保法を作ったのが金権政治家の田中角栄だったことは実に象徴的です。

 教員組合の運動は堕落し、ついに文部省に屈伏しました。しかし、教育公務員は特に高給を得るようになったのです。だからこそ、最近大分県の教育界で明らかになった「金で教師になる」という事態が生まれたのです。それは大分県だけでなく、多くの所で行われている事だと言われています。

 組合の敗北は又、非合法な闘争形態のために生まれた沢山の犠牲者への補償金支払いが嵩んで、財政的に耐えられなくなったためでもありました。とにかく、今では、東京都で日の丸・君が代の強制に対して反対する教師たちの動きがあっても、組合の支持や応援は得られないという情けない状態になってしまったのです。

 要するに、日教組の運動はカネの力に勝てなかったのです。それは幹部の力不足が第1の原因ではありますが、それと共に、組合活動に積極的になってゆくけれども政治的に(共産党か社会党かを)はっきりさせない尾崎ふみ子先生のような教師たちの運動の限界でもあったと思います。

 佐藤忠男氏は石川達三がこの小説では「常識的な立場」を越えて日教組支持を明確にしたと言っていますが、そしてそれはその通りですが、「日教組支持」程度の「立場」では現実の政治を動かすことはできなかったのです。

 政治は社会体制をどうするかを根本問題として、力の対決で動いているものです。石川氏の支持していた日教組の思想はカネの力には勝てないような思想だったのです。いや、そもそも組合運動を通じて政治を変えようとすること自体が無理だったのです。政治を変えるには政治運動をする以外にないのです。

 最初に書きましたように、この小説については、朝日新聞に連載中から、作家を励ます会が読者たちによって開かれたり、完成後にも又そのような会が開かれました。しかし、敢えて憎まれ口をたたくなら、そういう「励まし」をした人々の思想もその程度のものだったのだと思います。

 私はそれが「悪い」と言っているのではありません。そういう「思想」では政治を変えることは出来なかったという「事実」を直視して、その理由を考えるべきではないかと提案しているのです。

 もう少し積極的に言うならば、私はやはり北欧の社会民主主義を高く評価していますが、それは社会民主党を中心とする連立内閣に指導されています。そして、それらの政党は多くの党員によって支えられています。日本のように、政党支持を明確にしたがらない人々が、政治を変えようというのとは違うのです。

 この結論は逆からも証明できます。失敗することなく、自分の目的を追求して大きな成果をあげた教育関係者もいるからです。私の知っている限りではその代表として、国語教育の大村はま氏と「仮説実験授業」の板倉聖宣(きよのぶ)氏を挙げることができます。

 ではこれらの人はなぜ大きな成果を挙げることができたのでしょうか。もちろん本人の才能と努力があったからでしょう。しかし、その前提として、政治に係わらなかったということがあるのを見落としてはならないと思います。これは政治に係わって敗北した人々と比べるとその対比は鮮やかです。

 大村はま氏はキリスト者で政治的な発言は一切しなかったと思います。板倉聖宣氏は学生運動に少し係わったようですが、すぐにその理論的低さにあきれて見切りをつけ、自分は、社会運動の「基礎」を作るのだと言って、教育理論と方法の研究に自分を限定したのです。

 しかし、これらの限定的な成果にもかかわらず、全体としての日本の教育は衰退してきたと思います。生徒の水準が何とか保たれているのは学校外の様々な要素に負うところが大きいと思います。公立学校の校長は消化試合をしていれば年俸1000万円がもらえるのです。誰が努力をするでしょうか。

 しかし、このような結果を作ったのは本当は誰なのでしょうか。私は日本の教育を動かしている根本的な勢力は文部官僚だと思っています。教育行政を研究している人々や評論家やジャーナリストがこの実態を報告してくれないのが不思議なのですが、生々しい記論としては、西尾幹二氏の「教育と自由」(新潮社)を挙げておきましょうか。

 この文部官僚の支配を断ち切るには、何よりもまず政権交代が大前提だと思います。「戦後、本格的な政権交代のないのは先進国では日本だけだ」と言われますが、その日本でもようやく政権交代が近づいてきたようです。我々はどのようにしてそれを迎えるべきでしょうか。1人1人が試されていると思います。

 それと同時に、北欧の社会民主主義政党のあり方を研究して、そこから学ぶ必要もあると思います。政治家がなぜ、どのように住民と結びついているのか。これを考えなければ本当の民主主義は育たないと思います。

   関連項目

板倉聖宣
解放運動(01、日教組と三里塚)
社会民主主義(01、北欧の社会民主主義)
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