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「巨大な歴史的感覚」その1

2021年04月05日 | abc ...
近況報告


 病気は色々あって書き切れないくらいです。最悪の問題は右眼の緑内障です。左眼の緑内障は何年もかかって失明となりました。右眼も同じと思っていたら、急に進みました。
 二月十五日に「ギックリ背骨(牧野の命名)を発症しました。重いものを持ったからだろうというのが、医者の見立てです。これはそのうち、完治するでしょう。
 さて、遅れに遅れている『許萬元のヘーゲル研究』ですが、遅れたために、また考えるところがあり、ついに第一論文「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」については評註の一部を特に「付録」として独立させることにしました。
 まだ途中ですが、それをここに引いて、お詫びに替えることにします。

──


          「巨大な歴史的感覚」

第一節 第一の問題提起
 
 許萬元の処女論文である力作「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」(一九六五年、都立大学の雑誌『哲学誌』に発表))は「エンゲルスは言う。『ヘーゲルのDenkweise(考え方)をほかのすべての哲学者のそれから判然と区別するものは、その根底にある巨大な歴史的感覚(der enorme historische Sinn)である』」という言葉で始まっています。
 読むたびに筆者の決意を感じさせる言葉です。しかし、今回この論文の評注を書くというテーマを持って繰り返し考えているといくつかの疑問が出てきました。
 まずは「歴史的」という単語です。特に「的」が気になりました。これは、英訳が sense of the historical としているとおり、もちろん「歴史に対する感覚」という意味でしょうから、「リズム感覚」とか「金銭感覚」とかいう場合と同じなわけで、それならここも「的」を取って「歴史感覚」と言った方がよかったのではないかという考えがすぐにも出てきます。
 すると「巨大な歴史感覚」となりますが、こういう所に「巨大な」はおかしいので、「強烈な歴史感覚」くらいにしておいた方がベターではないかと思われます。
 そういう些末な問題こだわるのはこれくらいにしますと、「では、歴史に敏感だったとしますと、何に対しては鈍感だったのか」という疑問が出てきます。歴史の対概念は何か、と考えてみますと、私には「地理」しか思い浮かびません。高校の社会科では日本史と世界史に対して「地理」が対比されているのではないでしょうか。すると、「ヘーゲルは地理は重視せず、世界全体を見ようとはしなかった」ということになりますが、これはどうでしょうか。博覧強記という点ではエンゲルスに勝るとも劣らなかったヘーゲルを、「地理に疎かった」とは言えないと思いますから、これは「歴史感覚はそれほどすごかった」という、比較の問題と考えておきましょう。
 さて、三つの小さな問題を片づけた我々は第四の最大のテーマと取り組む所に来ました。それは「ここでエンゲルスの問題にしている歴史とは歴史一般だろうか、それとももう少し限定された歴史だろうか」という問題です。

第二節 文脈を読む

 この問題に答えるにはエンゲルスの原文の文脈を読まなければなりません。しかるに、この論稿は政党の機関紙に最初の二回分が発表されただけで、完結していません。その二つの文章を第一稿、第二稿として箇条書き的にまとめます。

 第一稿
 ① ドイツは経済学以外の学問では世界の一流だが、経済学だけはお粗末である。
 ② それはドイツの産業が未発達だからであった。
 ③ しかし、ドイツでもようたく成長してきたプロレタリアートと共に遂にドイツ経済学が現れた。それが本書、マルクスの『経済学批判』である。
 ④ それは従来のブルジョア階級の学問とは違って唯物論的な歴史観、すなわち「唯物史観」に立脚している。
 第二稿
 ⑤ したがって、この経済学を理解するには、その個々の部分を切り離して扱ってはならない。その全体を体系として理解しなけばならない。
 ⑥ しかるに、ヘーゲルの死後、学問をその内的関連に基づいて展開しようとした人はいない。公認のヘーゲル学派も話にならない。
 ⑦ したがって、この「本当の歴史観」を学ぶにはヘーゲルに帰らければならない。
 ⑧ たしかにヘーゲルの歴史観は観念論的な世界観と結びついて。そのままで使うことはできないが、それ以外に使えるものはない。
 ⑨ しかるに、「ヘーゲル哲学の根底にある歴史観たるや、これまでのどの哲学も遠く及ばないほど強烈なものだったのである」。
(以後は省略)


 さて、上の文脈の⑨はわざと許萬元の訳とは変えました。文脈を読めばこうなると考えたからです。しかし、文脈を忘れたか誤解した許萬元は「唯物史観のためにヘーゲルを学ぶのではなく、歴史という言葉からすぐに「概念的把握」へと持ってゆきます。たしかにこの考察はプラトン譲りの想起説を掘り起こすという本論文の第二の大功績を結果するのですが、これは思考を「働く普遍者」とする所から出てきたことです。そして、思考のこの定義はヘーゲルの同語反復でしかない言葉に由来しているのです。
 寺沢恒信は許萬元の論文について「弁証法に強く、唯物論に弱い」と評していましたが(牧野が直接きいた話)、正確には「唯物史観に弱い」と言うべきでしょう。後年の「戦わない弁証法」は始めから芽生えていたのです。

第三節 思考とは何か(→その2



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1 コメント

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素晴らしい投稿をありがとう御座います。 (穴澤孝太郎)
2021-05-02 09:37:59
少し違和感を感じます。「何に対して敏感だったか、と言うことは何に対して鈍感だったか。」歴史に対して敏感で、他の全てに対しても敏感な可能性もある。論理的だとは到底思えない。鈍感な人間に敏感さがあるとも断定しきれない。地理は重視せず、世界全体を見ようとしなかったとありますが、歴史だけで世界全体を見ようとすることも出来るのではないでしょうか?人に対して「バカ」と言う言葉を使うわけにもいきませんが、(特に国内外で世界的に見ても牧野さんのヘーゲルの文脈の中でヘーゲル翻訳以上は出て来ていない。)「地理に疎かった」と言えないことが、博覧強記の条件ではないでしょう。「歴史感覚はそれほど凄かったと言える。」とありますが、博覧強記の凄さとの対比でない限りは、「歴史感覚の凄さ」をこの文脈で使うのは如何なものでしょうか?博覧強記の「凄さ」を証明してみせますか?比較の問題と言うのであれば、そのくらいやって見せて下さい。三つの小さな問題を片つけた「我々」は、に対しては、主語がおかしくて、せいぜい「私自身は」でしょう。恥ずかしくないんですか。第四がどうして「最大のテーマ」なのですか?ヘーゲルの問題に対して第三まで取り組んで来て、第四のテーマで最大と言い切る牧野先生は、どうしてそこで最大のテーマがヘーゲルからエンゲルスへと移るのでしょうか?普通であればヘーゲルが続きますよね?歴史一般に対する説明も足りないし、最大のテーマにしてはテーマが「薄い」と個人的に考えます。ドイツの経済学以外での学問では「世界一流」勉強に成ります。知りませんでした。ドイツの産業が未発達とはいつまでの話ですか?少し質問があるのですが、ヘーゲルの「精神現象学」の様な本を個々に部分的に研究したり、解釈を行うことに、なんらかしらの合理性は見当たりますか?つまり矢張り、ここでも「経済学批判」同様、体系的理解、が必須でしかも、部分理解よりも体系的理解が優先しますか?
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