マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

国語辞典はこれでいいのか(改訂版)

2018年09月26日 | カ行

 岩波書店が『広辞苑』の第7版を出して以降、ものすごい広告を張り続けています。「広辞苑大学」などというものも、どんな大学か知りませんが、開校したようです。朝日新聞紙上でのその狂騒を見る度に、「さすがの岩波も、紙の辞典の売れなくなっている時代に危機感を抱いたのか」との感慨を禁じえません。

 また、先日はNHKTVの「プロフェッショナル」という番組で、辞書編集者を取り上げていました。

 しかし、私は、これだけの情熱を以て辞書(ここでは一応、日本語の「国語辞典」だけを問題にします)の改善に取り組んでいる人たちがいるのに、実際の辞書は日本語の現実の問題に答えていないと思います。なんだかその活動はピントが狂っているのではないかという印象を持っています。

 彼らは第1には、あまりにも語釈にばかり意識を集中しすぎていると思います。辞書編集者を題材にして書かれた小説『舟を編む』に出てくる辞書編集者も、語釈をどうするかばかり論じていました。最新の『広辞苑』でも「間違い」とやらが話題になったのものが2つありましたが、いずれも語釈の間違いでした。第2には、世間の関心も編集者のそれも辞書で取り上げるべき新語に集中するのは必ずしも悪いとは言いませんが、取り上げるべき「新語」の基準が間違っているとも思うのです。

 そこで、これまでにも本ブログで取り上げてきた問題も含めて、日本語の「語句」についての問題点を整理しておくことにしました。日本語の「文法」にも問題はあると思います。その根本は、文法(現代語文法)の全領域をカバーしたものは中学の国語の時間で教えられる橋本文法以外にはない(らしい)という事にあると思います。「研究は常に研究対象の全体を見ながら進めなければならない」のです。日本語文法でも個々の点については優れた提案があるようですが、「日本語文法」と題する著書を公刊する蛮勇を持っている人はいないようです(私は知りません)。外国人に日本語を教える人はたくさんいるようですが、どうなさっているのでしょうか。

 文法はさておき、今回は「辞書」の問題をまとめます。たくさんの辞書が出ていますが、実例としては大修館書店の『明鏡国語辞典』を主として取り上げます。他の辞書で私見を補充する、あるいは反証する実例がありましたら、教えてください。私一人でこのような大きなテーマを扱いきれるとは思っていませんし、その気もありませんし、すべての辞書を揃える余裕もありません。

  小目次

A・用法
その1・他方
その2・お話を聞く
  その3・~に注目です
その4・~を決める
その5・下り坂に向かう
その6・立ち居振る舞い
その7・すごい
B・重言
その1、ひしめき合う
その2・注目を集める(→Aのその3)
C・語釈
その1・冷笑
その2・皮肉
その3・募金
  その4・王道
D・意味を曖昧にする新語
その1・事実関係
その2・方向性
その3・方法論
E・発音(漢字の読み方、アクセント)
その1・七
その2・市場
その3・他人事
その4・本性

付録1・アクセントについて
付録2・サ変動詞の上一段化
付録3・手皿

   A・用法

 ここで「用法」とは「他の語句との関係」のことです。「まとまった言い方を変更する言い方」も含めます。

その1・他方
 第1に問題にしたいのは、「他方」という語が死語になりつつある、という事実です。どうもこの事実に気付いている人がほとんどいないようなのです。「一方」と「他方」は対比を表す最も基本的な用語です。思考の根本が、弁証法の説くように、「対立した事柄の統一」であるならば、この「対比」を表す語は絶対になくしてはならないものであるはずです。それなのに、「他方」が「一方」で取って代わられたり、使われなくなったりしているのです。しかも、これに気付いて警告している辞書がない(私は知りません)のです。最低です。

 用例を挙げます。

 1-1、日本アンチ・ドーピング機構の浅川伸専務理事によると、コンタクトレンズの保存液が原因で、アセタゾラミドが検出され、ドーピング違反が問われたケースは聞いたことがないという。一方で、使っている点眼薬に禁止薬物が含まれ、ドーピング検査で陽性を示したケースは日本でもあった。(朝日、2018年3月2日)
 1-2、北朝鮮の脅威を除くための外交の試みは20年余りの経緯がある。核やミサイルの開発を許した失敗の歴史にすぎないとの見方がある。一方で成功に至る好機はあったという見方もある。(朝日、2018年03月08日。天声人語)
 1-3、(自動翻訳機の発達で)日本人が苦労してきた「英語の壁」は低く成りつつある。一方で、英語が再来年度から小学校の教科になり、大学入試の英語も変革期にある。(朝日、2018年04月19日、編集委員・山脇岳志)

感想・自動翻訳機の発展に驚嘆したことを報告している筆者は「現在最高のそれは、英語検定のTOEICで900点を取るビジネスマンと同等以上の和文英訳の能力がある」という話を聞いてきたそうです。では、その優れた翻訳機がこの引用文を訳したら、「一方で」の部分をどう訳すのでしょうか。文脈を理解して、「ここは本当は『他方』というべきところだから」と判断して、on the other handと訳すのでしょうか。それとも「原文に忠実に」on the one handとするのでしょうか。自動翻訳機もいいですが、それと同時に新聞記者の文章や国語辞典の語釈や見落としを校正する「自動校正機」も発達してほしいものです。

 1-4、崔(チェ)氏は昨年10月、モスクワで一部記者団に、対話による核問題や米朝関係の解決を訴える一方、「(米国は)最大の圧力を加えて、我々が核を手放すように強要している」と批判した。(朝日、2018年03月08日夕刊、ソウル=牧野愛博)
1-5、野田政権は「30年代原発ゼロ」に舵を切る一方、使用済み燃料については当面、再処理を続ける方向で調整に入っていた。(朝日、2018年04月22日。関根慎一)

 感想・このように「一方」ないし「一方で」を「前の文の最後に」付ける言い方の場合は、これで自然だと思います。文頭に置かなかったので、文末に置いただけと考えるべきでしょう。いったん句点で文を切った後に、次の文で「一方で」と始めるのが、昔は無かった(らしい)のに、今では当たり前になってしまったのが問題なのです。それはこのように「前文の最後に付ける言い方の影響もあったのかもしれません。

 1-6、委員には多くの有能な方に参加して頂きたいと思っていますが、他方実際には~(2018年03月02日、薬師寺みちよさんの質問に対する安倍総理の国会答弁から)
 感想・ラジオでたまたま聞いていただけなので、「実際には」以下の言葉は「女性の適任者が多くない」といった趣旨ではなかったかと思いますが、はっきりとは分かりません。しかし、最近では珍しく、本当に珍しく、「他方」という語を正しく使ったので記録しました。この点だけは安倍総理を評価します。

1-7、英国のEUからの離脱が決まってから2年になる。メイ政権は国内政治に手一杯で、煮え切らない英政府にEUがしびれを切らすという構図は続く。その一方、欧州全体が米国やロシアの問題に直面していて、離脱どころではなくなっている。(中日新聞、2018年6月23日)
 感想・「一方」がのさばっていることに問題を感じていないので、「一方」を使おうとしたのだが、何となくおかしいと感じて、「その」を付けてその場をしのいだ、という所でしょうか。そもそも、英国対EUの問題から、「更に」欧州全体対アメリカあるいはロシアという問題に移ってゆく場合、どういう「つなぎの語句」を使ったらよいでしょうか。やはり「さらに視野を広げると」くらいではないでしょうか。読者の意見を聞きたいものです。

 では、この事実を辞書はどう扱っているでしょうか。『広辞苑』の第7版はその「序」の9頁で「語義や語法説明の精密さ」と自慢しています(笑)が、「他方」はこう説明しています。
 ①他の方向、他の方面。「~の言い分」「~からの視点」
 ②一方では。別の面から見ると。「頑固だが、~実直である」
 『明鏡』の説明はこうです。
⑴(名詞)ほかの方面・方向。また、二つのうちのもう一方。「一方を青く、他方を赤く塗る」⑵(副詞)別の面から見ると、(もう)一方では。
 
 感想・私見では、「他方」を説明するならば、「一方」と対になる語である事をまず書く。そして、用例を挙げる。「死の念は、一方においては、人の考えをこの固定した生命の有限を超えさせ、他方においては、日常生活を真面目に考えさせるように引き締める」(鈴木大拙『禅と日本文化』北川訳岩波新書49頁)。次いで、「一方」の代わりに「他方」を使うのが当たり前になっている現状を確認し、それは間違いであると主張する。「一方」の項には上の用例1-4、1-5のような使い方もあることを説明する。明鏡の「一方」を引くと、これは②で説明してあります。が、その明鏡も「純粋な他方」の代わりに「一方」が使われている事実には気づいていないようです。

その2・お話を聞く

 「お話を聞く」という言い方は頻繁に耳にします。NHKのアナウンサーでも平気で使っています。私見によれば、「お話を」と言ったら後は「伺う」と受けるべきでしょう。逆に「聞く」と言うならば前は「話を聞く」だと思います。こういう事を教えるのは辞書の仕事ではなく、文法書の仕事かもしれません。

付記・NHKの雑誌『ラジオ深夜便』2018年8月号にはこの2種類の用例が共にありました。
 1-1、まさか約40年後、こんなにすてきなお話が聞けるとは……(58頁。遠藤ふき子アンカー)
 1-2、老いや死は誰もが必ず向き合う世界、お話を伺っていて、……(113頁。石澤典夫アンカー)
 (以上、2018年07月23日)

その3・~に注目です

 「~に注目です」という言い方はいつ頃から、どのようにして出てきたのでしょうか。今では全然違和感なく使われています。しかし、「注目」で『明鏡』を見てみますと、その品詞は「名詞、自動詞、他動詞、サ変動詞」とあります。ここで問題になってくる「~に注目です」はもちろん名詞としての「注目」の1つの用法でしょう。ではそれはどういう用法なのでしょうか。他の名詞で同じように使われるものがあるのでしょうか。
 それはともかく、「~に注目です」という所は、昔ならどう言ったでしょうか。「~に注目しましょう」くらいでしょうか。「~に注目するとよいでしょう」とか「~に注目するべきでしょう」は強すぎるでしょう。
 そうこうするうちに、「とりわけ注目なのが~」という言葉を聞きました。やはり「注目だ」という形容動詞が生まれていると考えるべきなのでしょうか。

注・そもそも「注目を集める」という言い方が今では完全に定着していますが、本来は、これは重言だと思います。しかし、『明鏡』は「不適切な重言ではない」としています。これについては既に~に書きました。

その4・~を決める

 「決める」の前に置く助詞には「~を決める」「~と決める」「~に決める」の三つがあると思います。しかし、いつごろからかはっきりとは知りませんが、かなり前から、ほとんどの場合に「~を決める」が使われるようになってきているように思います。
 『明鏡』を見ますと、私の問題にしているようなことには関心がないようです。しかし、この問題は2009年05月19日に書きましたので、繰り返しません。

 と、書いたら、次の用例に出くわしました。
 4-1、トルコ大統領選で再選を決めたエルドアン大統領は~(朝日、2018年06月25日夕刊、アンカラ渡辺丘)
 4-2、トルコ大統領選は24日、即日開票され、~エルドアン大統領が再選を果たした。(朝日、2018年06月26日、イスタンブール其山史晃)
 感想・後者の方が日本語らしいと思いますが、偏見でしょうか。ともかく、少し嬉しかったです。「~は決勝進出を果たした」という言葉をたまには聞きたいものです。

その5・下り坂に向かう

 テレビでもラジオでも同じですが、天気予報を聞いていますと、「天気は下り坂です」という言い方のほかに、「天気は下り坂に向かっています」という言い方が使われていることが分かります。後者の方が多くなってきているとさえ感じます。これでいいのでしょうか。
『明鏡』の編集者である碩学先生はこのような問題は歯牙にもかけないようです。いや、お気づきでないようです。この問題は2006年10月21日に書きました。

その6・立ち居振る舞い

 これは「用法」ではなく、二つの表現法ですが、ここに入れます。すなわち、「立ち居振る舞い」には「立ち振る舞い」という「居」を除いた表現もあるらしいということです。意味はおなじですから、辞書もそう書いていますが、問題はどちらからどちらがなぜ、あるいはどういう経過で出てきたのか、という起源の問題です。明鏡にはそういう事は書いてありません。分からないなら、「起源がどちらかは分からない」と書くべきでしょう。黙っているのは学問ではないと思います。

その7・すごい

 多くの人が気付いていると思いますが、程度のはなはだしいことの表現に「すごく」ではなく「すごい」が使われています。今や、この「間違った」使い方は9割以上の場合と言ってもよいくらいです。
 鈍感な国語辞典編集者もさすがにこれは気付いていまして、明鏡をみますと、「すごい」の項目に、「話し言葉では『すごい』を『すごく』と同じように連用修飾に使うことがある」と書いてあります。
 なぜ、いつ頃からこのような事が起きたのでしょうか。国語辞典はこの現象をただ記載するだけでよいのでしょうか。私は、「これは間違いだから、止めましょう」と提案するくらいの見識があっても好いと思います。 

   B・重言

その1、ひしめき合う

 「犇めく」で済むところを「犇めき合う」という言い方が多くなっていると思います。つい最近も、次の例を見ました。
 01、新宿駅は利用者数国内1位の座を守り続けるが、1番線から16番線までひしめき合う線路が街の東西を分断。(朝日、2018年6月11日夕刊。細沢礼輝)
 感想・「ひしめく」は漢字で書けば「犇めく」となります。牛が3頭集まっているわけで、これだけで既に「合う」は表現されているのではないでしょうか。『明鏡』には「大勢の人が一か所に集まって互いに押し合うようにする」という語釈があるだけです。「人」に限らず「他の物事」についても転用される、と書くとよかったでしょうが、今言いたいことは「犇めき合う」という重言が一般化しつつあることに気づいていないらしいことです。
 なお、学研の『国語大辞典」には語釈の第一に「ぎしぎしと音がする」を挙げています。3頭の牛が角を突き合わせるとそういう音がするのでしょうか。私はこの意味で「犇めく」を使った文に出会ったことがありません。

その2・「注目を集める」については上に言及しました。

   C・語釈

その1・冷笑

 ウルマンの詩「青春」の最後の方に When the aerials are down, and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism という句があります。ネットで和訳を調べてみたら、新井満訳と岡田義夫訳と作山宗久訳の3つがありました。cynicismの部分を、それぞれ、「雪のように冷たい皮肉」「皮肉の厚氷」「皮肉の雪」と訳していました。
 日本語では「シニシズム」を「皮肉」と訳すのが常態化していると思います。新井満でさえこう訳すのですから。私は前からこれの不当性を主張してきました。2006年12月09日にあります。
そこに書き落したことを追加します。①冷笑は英語ではcynicism、仏語ではcynisme、独語ではZinismusですが、この語の起源である古代ギリシャのキュニク派のことは英語ではCynics、仏語ではcynique、独語ではZynikerです。語源が良くわかります。
 ② 西欧の人もcynicをironicalという意味で使ったりすることがあるのでしょうか。英和、仏和、独和辞典にはここに「皮肉な」という訳語が載っています。
 ここで再度、論じます。
 皮肉の本質をとてもよく表現したのが次の川柳だと思います。「本降りになって出てゆく雨宿り」です。つまり「良かれと思ってしたことが逆の結果となってしまう」こと、これが皮肉の正体です。「ソクラテスの皮肉」というのも、相手を「知者」と認めて対話を始めますが、その結果、相手は自分が無知者であることを認めることになるというものです。
 ③『明鏡』の説明は、「人をさげすんで笑うこと」とあります。これでは説明不足です。「誰もが尊重するような事柄を」という限定が落ちています。

その2・皮肉

 皮肉については2007年06月29日の記事で私見をまとめました。しかし、「皮肉」の乱用は本当にひどいものです。しかも、辞書がこれに警告を発していないのですから、希望がありません。
 最近も、次の用例に出会いました。
 1、年齢を重ねると、見えるものが多くなる。でも、それを語り合う知己が次々と世を去っていく。この皮肉が、言いようもなく寂しい。(山藤章二。朝日、2018,04,16)
 感想・「見える物事が多くなるのに反比例してそれを語り合う知己が減少する」というのですから、一見「皮肉」のようですが、どうでしょうか。まあ、これくらいなら「あり」かな?

 2、ウクライナ保安局(SBU)は5月30日、首都キエフで隣国ロシアのプーチン政権を批判したロシア人記者が射殺されたと報道された事件が、実は同局による偽装で、記者は殺されていなかったと明らかにした。殺人事件を装ったおとり捜査の一環だったとし、これによって実際に記者殺害を計画していた関係者の拘束に成功したと発表した。(略)
 SBUによると、バプチェンコ氏に対する殺害計画があるのをSBUが探知。バプチェンコ氏本人に協力を求め、29日夕に本当に殺害事件が起きたかのように見せかけて関係者のあぶり出しを図ったという。
 「事件」では、バプチェンコ氏が自宅近くで血まみれになっているのを妻が発見し、病院へ搬送される途中で死亡したとされ、各国メディアが報道した。
 フリツァク長官は、おとり捜査によって拘束された人物はウクライナ国民で、「ロシア治安機関に3万㌦(約326万円)で雇われていた」と話した。ロシア外務省は30日夜、「反ロシアの挑発行為だ」とする声明を発表。「ウクライナ当局は自国で本当に起きている犯罪は捜査せず、代わりにやらせの殺人事件をやってみせるくらいしか能力を示す道がないのだ」と皮肉った。(モスクワ=喜田尚。朝日2018年05月31日夕刊))
 感想・これのどこが「皮肉」なのでしょうか。「皮肉」でないとしたら、これは何と評したらよいのでしょうか。私案は、「~と負け惜しみを言った」ですが、「強がってみせた」、「嫌味を言った」、「あてこすった」などを考えましたが、どれも適当でないと思います。皆さんはどう思いますか。こういう具体例で考えないと、言語感覚は鍛えられないと思います。ともかく「皮肉」はかくも不正確に乱用されているのです。それなのに辞書編集者自身がそれに気付いていないのです。世も末です。 

その3・募金

 1、しかし、奨学金を支える募金(1) は年々減少。2011年の約3億6600万円をピークに17年は約1億8100万円にまで半減した。寄付を募る(2) ボランティアの不足も続く。募金活動(3) は22、28日にも全国約150カ所で実施する。集めたお金(4) は全額、「あしなが育英会」を通じて遺児学生の奨学金に充てられる。(朝日、2018年4月21日夕刊。金山隆之介)
 感想・(1)の「募金」は「集まった寄付金」の意でしょう。こういう使い方も出てきています。賛成は出来ません。「寄付金」とするべきでしょう。(2) の「寄付を募る」はあまり聞かなくなりましたが、正しい表現だと思います。(3) の「募金活動」も正しいと思います。(4) の「集めたお金」は、よくぞ「集めた募金」と言うのを踏みとどまったと思います。

 「募金」は今では「寄付金を出す」、つまり「拠金」の意味でも使われるようになってきています。NHKテレビのニュースを見ていますと、花を手向ける人の映像に交じって、寄付金を置く人の姿を映しながら「中には募金をする人も」というナレーションがなされることがあります。
 この「募金」の意味の変遷(寄付金→寄付金を集める行為→寄付金を出す行為つまり拠金)は、私の知る限りでは『明鏡』が良く追跡しているようです。その第2版では「〔寄付集めの〕主催者側からいう言葉」と「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」との「説明」が付いています。しかし、「醵金」の項には「今では多くの人がこの意味で『募金』ということもある」という説明がありません。片手落ちでしょう。私は「醵金の意味で募金と言うのは『間違いだから止めましょう』と書いて、NHKにも注意をするのが辞書編集者の仕事だと思います。

その4・王道

 予備校の広告などを見ていますと、「何々への王道を伝授する」といったような文句が出てきます。これで好いのでしょうか。「学問に王道なし」という言葉は間違いで、実際には「学問にも王道、つまり『楽をして目的地に達する道』がある」のでしょうか。
 『明鏡』━━①儒教で、有徳の君主が仁徳を以て国を治める政治の道。覇道の反対概念。②安易な方法。「学問に王道なし」。③最も正統的な道。「古典研究の王道を行く」。
 ③の意味で使われている事実を事実として認めているわけです。しかし、これで好いのでしょうか。学研の『国語大辞典』を見ると、③は載っていません。つまり、これは最近になって(と言ってももう20~30年以上も前から使われてきていますが)、使われ、何の疑問も持たれなくなってきたのです。私の記憶でもそうです。ということは、誤用の始まった頃にいち早く警鐘を鳴らさなかった辞書編集者にも大きな責任があるということです。『明鏡』の編集者にはこの種の反省がないと思います。私は、今からでも、③の意味では「正道」を使うように変えてゆくべきだと思います。

  D・語義を曖昧にする新語

その1・事実関係

 01、野党議員は2日午後、東京労働局に出向いて勝田氏に会い、事実関係を確認。(朝日、2018年04月03日)
 02、東京労働局が公表済みの是正勧告の事実さえ、加藤氏が説明を拒んだ理由も不可解だ。(朝日、2018年04月03日)
 感想・いまでは「事実関係」のオンパレードの様相を呈してきています。この「事実」(「事実関係」ではありません)に気付いていない方は、注意してニュース番組を聞き、新聞を読んでください。『明鏡』で「事実」を引きますと、「実際に起こった事柄」といった語釈の後に、説明もなく「事実関係」と載っています。そして、「事実関係」という項目はありません。辞書編集者の責任を放棄しています。

その2・方向性

 01、選手の意見を尊重するのが西野監督のスタイルだ。ミーティングは活発になった。ただ、ピッチ上で攻守に方向性が見えぬチームに、話し合いが有効になっているのかどうか、疑問に思っていた。25歳の大島は言う。「皆がそれぞれの成功体験を話すことで、一つの方向に行かない難しさはある。」(朝日、2018年6月13日。藤木健)
02、(東電の福島第二原発の廃炉決定に関して)小早川社長は〔県知事との〕面会後、報道陣に「大きな方向性を示させて頂いた」と繰り返し、すべて廃炉の方向はごく最近、取締役会で説明し、賛意を得たと述べた。(朝日、2018年6月15日)
 感想・このようにごっちゃに使われています。全体としてはやはり「方向性」の方が多く使われていると思います。『明鏡』には「方向性」は載っていないようです。「方向」欄にも言及はありません。「他方」の用例2に「方向」が使われています。

 ウィンブルドンのテニスの試合を視聴していたら、「正確性を欠いている」といった言葉に気付きました。日本人は、やたらと「性」を付けて曖昧な表現を作るのが好きなようです。

その3・方法論

 「方法」と言うべきところで「方法論」と言う人が少なくありません。これについては2012年01月17日の項をお読みください。

その4・哲学の世界では、「関連」の代わりに「連関」という用語が使われるが普通です。なぜでしょうか。「哲学用語は日常用語とは『ちょっと』違う」という考えと関係があるのではなかろうか。賛成できません。関連で十分です。

   E・漢字の読み方

 その1・七

 今年(2018年)の3月11日は東日本大震災の7周年記念日でした。朝からラジオやテレビを聞いていますと、「震災から7(なな)年経って」という言葉が繰り返されました。「おや、『しち』年ではないのかな?」と思いました。その後は「しちねん」と言う人も多く出てきました。どちらが正しいのでしょうか。

 ① 「しち」──七福神、七転八倒、藤井総太七段、
 ② 「なな」──七転び八起き、七回の表、河津七滝(かわづななたる)、
 特注・証書などで金額を記す場合は間違いを避けるため「漆」とも書く。(明鏡)
 
 どういう場合に「なな」と読み、どういう場合に「しち」と読むのかを教えている辞書はあるのでしょうか。知っている人は教えてください。

 考えてみますと、日付の読み方では、月は「いちがつ」「にがつ」「さんがつ」……、日は「ついたち」「ふつか」「みっか」……ですから、「七月七日」は「しちがつなのか」と読むはずです。この「月」と「日」の読み方の違いはどこから来たのでしょうか。日の読み方はしかし、十一日以上は「二十日(はつか)」を除いて、漢字読みと言うのでしょうか。大和言葉ではないと思います。

その2・市場

 築地市場(つきじしじょう)の移転問題で、この名前が頻繁に聞かれています。しかし、「これは昔は『築地いちば』と呼んだはずだったのだがなあ」と思う人は、私のように「棺桶に片足を突っ込んだ老人」だけでしょうか。
 「いちば」と「しじょう」の違いを辞書はどう説明しているでしょうか。これは既に2014年08月29日に論じてあります。

 今回は『明鏡』を見てみました。

b・しじょう━━①売り手と買い手が集まって、商品や株式取引を行う特定の場所。中央卸売市場、証券取引所。②商品の売買や交換が行われる場を抽象的にいう語。国内市場、国際市場、金融市場。③商品が売買される範囲。販路。マーケット。④いちば。
a・いちば━━⑤定期的に商人が集まって商品の売買を行う所。市(いち)。⑥食料品や日用品などの小売店が集まった常設の共同販売施設。
 念のために「市(いち)」も引いてみました。⑦多くの人が集まって品物の売買や交換をすること。また、その場所。市場。「市(いち)が立つ」「朝市」。⑧多くの人が集まる場所。「市(いち)に虎を放つ」。
 「市(いち)」という言葉が先に出来て、それの場所をも表すようになったのが第2段階でしょう。そのように「現物」を扱う所であることは当然の前提だったのですが、資本主義の発達で株や債券の市場(しじょう)が開かれた時、これは「現物」ではなく「観念的なもの」を扱うので「しじょう」と読むようになったのではあるまいか。今では、株や債券の売買も一般化して、特殊な専門家だけの事ではなくなったので、「しじょう」という言葉が日常用語になったのでしょう。その時、多くの人が両者の違いを意識しなくなり、現物を扱う所もある種の場合には「しじょう」と言うようになったのだと、推測します。
 私は今でも、現物を売買する所はどんなに大きくても「いちば」と言ってほしいと思っていますが、もう無理な願いでしょう。しかし、今でも地方の魚市場(うおいちば)とかはそのままですし、卸売り市場でも「いちば」と呼ばれているところはあるようです。ニュースを注意して聞いていてください。
 「築地中央卸売市場」でさえかつては「おろしうりいちば」と呼ばれていたと思います。私の若いころはそうだったと思います。最近のニュースでも、昔からある従業員の組合(団体)の名前は固有名詞であるがゆえに「築地いちば~組合」と呼ばれている例を1つだけですが聞きました。何だったか、記録しなかったのは残念です。興味のある方は、築地市場に行って、年配の人やおかみさんに聞いてみてください。「昔は『いちば』と言った」とか「今でも『築地いちば』と言っている団体はある」と教えてくれるはずです。こういう言葉の問題に関心のないジャーナリストが多すぎて、私は孤立無援です。

 思い出したことを1つ付け加えます。築地の「場外市場」も今では「場外しじょう」と呼ばれているのでしょうか。ここは完全に「現物」を売買していますから、「場外いちば」と読むべきだと思いますし、昔はそうだったと記憶しています。これも興味のある人は調べてくださるようにお願いします。

 付記・書くのを忘れていた事を思い出しました。それはネット通販の大手「楽天市場」はその創業の当初から自分の名前を、正しく、「楽天いちば」と呼んでいることです。(2018年07月23日)

その3・他人事

 これについては『明鏡』が明快な説明を与えています。
━━明治・大正期の文字で「ひとごと」とふりがな付きで書かれていたものが、後にふりがなが取られ、「たにんごと」とも読むようになった。

その4・本性

 これは「ほんしょう」と読むのが本来の読み方でしょうが、哲学の世界ではなぜか「ほんせい」と読むようです。哲学者はくだらないところで「差」を付けようとするようです。情けない習性です。「呪物」でいいところをわざわざ「物神」という新語で置き換えるのも、そういう所でしか新味を出せない無能学者の負け惜しみでしょう。

付録1・アクセントについて

 日本語は高低アクセントなので、紙の上に表示するのは難しいですが、かつては高低のあった語が今では平板に発音されることが多くなっているようです。サークル、クラブ、など。
 私のような老人は世を去るべきなのかもしれません。最後のあがきとして、いくつかの出版社の辞書編集部にこの論文を送ってみようかと考えています。

付録2・サ変動詞の上一段化

 「論ずる」を「論じる」と言い、「感ずる」を「感じる」と言い、「信ずる」の代わりに「信じる」というように、本来はサ変動詞であったものを上一段動詞として使うのは今では一般化していると思います。少し古い方には同じ語について両方を、使い分けているのではなく、多分無意識にごっちゃに使っている人もいます。
 いつ頃からそうなったのか、調べたことはありませんが、たまたま読んだ鈴木大拙の『禅と日本文化』(岩波新書、1940年初版)では訳者の北川桃雄は「転ぜられる」ではなく「転じられる」と書いています(63頁)から、この変化はかなり前から起きていると推察出来ます。先に申しましたように、今ではこれは基本的に上一段になったと言ってよいと思います。実際、語釈は上一段の方に書いて、最後に「=感ずる」と断っているだけです。これでは不十分だと思います。代表的な語を決めてきちんと書くべきでしょう。
 この点で例外があるのを発見しました。「禁ずる」です。明鏡ではサ変の方に語釈を書いて、上一段の項にはただ「=禁ずる」とあるだけです。どちらに語釈を書くかで基準を決めていないのでしょうか。こういう事に無頓着な事自体、褒められた事ではないと思います。

付録3・手皿

 「手皿」という名詞は本当にあるのでしょうか。ヤフーの「辞書」で検索すると、「長手皿」といった語しか出てきません。しかし、そのヤフーでも「WEB」で検索すると、手皿が礼儀に適った作法か否かでの議論が沢山載っています。
 私は、手皿はダメだと聞いています。箸で持った物を口に運んでいる途中で落としたら、それが食卓に落ちるのを防ぐのに何で受けるべきでしょうか。手で受けたら、手が汚れます。その手は何で拭うのでしょうか。ですから、茶碗とか皿とかを常に左手で持っていて、運んでいる食べ物の下にセイフティネットのように構えているのが日本の食事作法だと聞いています。
 テレビを見ていますと、美しい方々の多くが、この手皿を使っています。子供たちはそれを自然に「模範」として理解して育ちます。
 まず、国語辞典に「手皿」を掲載することから始めなければならないようです。これが「礼儀正しい日本国の現状」です。
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