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認識論(03、レーニンの真理論)(その1)

2009年12月06日 | ナ行
 レーニンの労作『唯物論と経験批判論』(1908年)は「弁証法的」唯物論や「史的」唯物論よりも、弁証法的「唯物論」を強調したものだとされている。しかし、それは単に古い命題を繰り返しただけではなく、唯物論の認識論を発展させもしたのだという。それは特に、「認識論における実践の基準」と「哲学における党派性」との明確化にあるとされている。

 「理論の党派性」については既に検討した。この問題でのレーニンの意義は、歴史研究における主観的方法と客観主義的方法と唯物史観の方法との異同を明らかにしたこと、そして、理論を事実的特殊研究と一般理論とに分けて、後者でのみ党派性が問題になることを主張したことである。その限界は、理論展開が内在的ではなく、間違った命題に自説を対置する悟性的な方法に終始していること、従って自説からの前衛党論への論理的帰結を引き出しておらず、自称レーニン党の変質の一因を作ったことであった。

 今回は「レーニンの真理論」を検討してみたい。

1、レー二ン理論の要旨

 レーニンの真理論は、その著書の第2章の第4,5,6節にまとめられている。第4節は「客観的真理は存在するか」と題され、第5節は「絶対的真理と相対的真理~について」と題され、第6節は「認識論における実践の基準」とされており、これらは内容を正しく表現した題名となっている。

 第4節の冒頭部分は第6節までの3つの節全体への「はしがき」である。即ち、マルクス主義者のつもりでいるが、実際は観念論に転落しマッハ主義者となっているボグダノフの言を引いて、その中で混乱させられている問題を3つに整理している。この3つの問題が3つの節のテーマとなっているのである。

 さて、本来の第4節はボグダノフの真理概念の引用とそれへの批判から始まる。ボグダノフは、真理をば人間の経験を組織する形式としているが、これでは人間に依存しない客観的真理の否定になると、ボグダノフ自身による修正命題も含めて批判している。続いて、このボグダノフによる客観的真理の否定は氏個人のものか、それともマッハ主義の基礎からの必然的帰結かと、問題を立て直す。そして、そこには、A=認識は感覚から始まるかと、B=感覚の源泉は客観的実在かとの二面があり、マッハ主義と唯物論とはAで一致し、Bで異なるとする。だから、客観的真理の否定はマッハ主義の本質だとなる。

 その後は、そこまで述べてきた本論への「補論」で、唯物論者に対する批判、①唯物論者は客観的実在を認める形而上学者である、②唯物論者は感覚を信頼しすぎる、③唯物論者は物質概念にしがみつく独断論者である、という3つの批判に反論することによって、それ迄に述べたことに念を押している。そして、最後が次のまとめである。

 「物質の概念を受け入れるかそれとも否認するかの問題は、人間の感覚器官の証言に対する人間の信頼に関する問題であり、人間の認識の源泉に関する問題である。~我々人間の感覚を外界の像と見なすこと、客観的真理を認めること、唯物論の観点に立つこと、これは同じ事なのである」(163頁)。

 第5節のテーマは絶対的真理と相対的真理の関係如何の問題であり、人間の認識の相対性をどう考えるかの問題であった。レーニンはまず、ボグダノフによるエンゲルス批判を取り上げる。即ち、エンゲルスは真理の相対性を認めながら、他方で「永遠の真理」を認めているのは折衷主義だ、というのである。レーニンはこれに対して、まず、ボグダノフはエンゲルスが永遠の真理の実例として挙げた命題の虚偽性を証明していない、という直接的反論をする。そして、次に、『反デューリンク論』の第1篇第9章の真意を積極的に述べ直す。即ち、客観的な真理を認めることは何らかの仕方で絶対的真理を認めることを意味すると確認した上で、その「何らかの仕方」を次のように述べる。

 「人間の思考は、その本性上、相対的真理の総和から成る絶対的真理を人間に与えることが出来るし、〔現に〕与えてもいる。科学の発展の各段階は、絶対的真理というこの総和に新しい粒を付け加える。しかし、各々の科学的命題の真理の限界は相対的であって、知識が更に発展するにつれて拡大したり縮小したりする」(170頁)。

 その後に、フォイエルバッハの説を引用してそれを補強し、「弁証法は相対主義の契機を含むが、相対主義に還元されることはない」とまとめている。

 第6節は認識論における実践概念の問題であった。レーニンはここではボグダノフを取り上げることなく、直ちにマッハの言葉をマルクスとエンゲルスに対置する。即ち、マルクスとエンゲルスが実践概念を認識論の中心に持ち込んだのに対して、マッハは現実と仮象の区別に実践上の意味(行動上の意味)を認めるだけで、理論的意味を認めない。つまり、マッハは実践概念と認識論とを並直して分けてしまい、正しい認識は有用なだけで、それが客観的実在の反映であるかどうかは問わないのである。

 このようにマッハの認識論を性格付けた後、これを哲学史の中に位置付けることによって、マッハの路線もその内容も何ら新しくないことを示し、既にフォイエルバッハによって反論されている、と言う。

 まとめは次の通りである。

 「生活と実践の観点が認識論の第1の根本的な観点でなければならない。そして、〔この観点に立つなら〕それは、必然的に、講壇的スコラ学問の限り無い思い付きを掃き捨てて唯物論に到達することになる。もちろんその際には、その実践という基準も、事の本質から言って、決して人間の観念を完全に確証または論破するものではない、ということを忘れてはならない。即ち、この基準も、また、人間の知識が「絶対者」に転化するのを許さない程度に「不確定的」であり、同時に、観念論や不可知論のあらゆる変種との情容赦無い闘争を行いうる程度に確定的である」(181頁)。

2、レーニン理論の検討

 国民文庫編集委員会の前記「解説」に拠ると、これが、「レーニンの仕事は古いものの繰り返しに終っておらず、唯物論の初歩的真理を一層強固なものに築き上げた」ことになるそうである。が、この評辞は間違っていると思う。まず、「古いものの繰り返しでなく」と来たら、「発展させている」と受けてくれなくては困る。しかるに発展とは潜在的本質の顕在化である。「一層強固に築き上げた」程度では量的進展に過ぎず、発展とは言えない。

 ここのレーニンの真理論には4つの積極的内容がある。第1点=客観的真理の承認、第2点=相対的真理と絶対的真理の弁証法的関係、第3点=認識論への実践概念の導入、第4点=実践による理論の検証における確定性と不確定性、以上である。

 第1点は唯物論そのものであり、初歩的真理である。第3点はそれはど初歩的ではなく、一歩進んだ真理である。レー二ンはなぜか言及しなかったが、フォイエルバッハの自然的実践概念とマルクスの社会的実践概念を区別すれば、それは完全に弁証法的唯物論であり唯物史観に通ずるから、上級の真理となる。

 第2点は、エンゲルスの理論を「相対的真理」と「絶対的真理」という語を使って言い直しただけだが、第4点を明確に定式化したのは、おそらくレーニンが初めてであろう。内容的には、マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』の第8に、「社会生活はすべて本質的に実践的である。〔だから〕理論を神秘主義にいざなうすべての神秘を本質的に解決する道は、人間の実践及びこの実践の理解である」という言葉があり、これと関係すると思うが、レーニンのこの定式はマルクスのその言葉に還元されるものではない。だから私は第4点だけをレーニン固有の功績と認める。

 レーニンの叙述の方法は、相手の主張を整理してそれに自説を対置し、次に相手の説と同じ哲学史上の先例を引いて相手の説を一般化し、既に先行唯物論によって行われている反論を対置し、最後にまとめるという方法である。即ち、レーニンの反論方法は間違った説に正しい説を対置するという最も初歩的な悟性的反論方法である。換言すれば、ここでもレーニンの叙述は概念規定からの内在的展開ではなく、従って前衛党論にとっての必然的帰結を引き出してもいない。そのため、本書によっては、「人間の知識が絶対者に転化する」のを防ぐことはできず、自称レーニン党が宗教団体に変質し、一般党員が党と党の幹部を信仰するのを防ぐことができなかった。

 レーニンは本書の「第2版への序文」(1920年)の中で、これが「弁証法的唯物論の参考書」として役立ってほしいと言っているが、それなら基本的概念についてはきちんとした定義をするべきであった。そもそもボグダノフは真理についての定義をしているのである。それを批判するなら、それに代わる定義を出すべきである。それなのに、客観的真理の命名的定義すら与えないで、その存否を論じた。そのために、その主張方法が断定的になっただけでなく、そもそも客観的真理とは何の事か、不明確のままとなった。

 レーニンの用語法からは次の3つの意味が考えられる。第1は、客観的実在を正しく捉えた観念。第2は、客観的実在そのもの。そして、この2つの意味の場合は、その実在自身が現象か仮象か本質かは問わない。第3は、自己の概念と一致した実在というヘーゲル的真理概念、である。このどれかがはっきりしないのに、その存否を論じても始まらないだろう。

 このように概念規定をしないで先に進む非科学的態度は、宗教論になると完全な間違いを引き起こす。レーニンは、あらゆるイデオロギーは歴史的に条件付けられているが、科学的イデオロギーには客観的(絶対的)真理が対応し、宗教的イデオロギーにはそれが対応していない、と言っている(172頁)が、これは間違いである。唯物論というのは、全ての観念(これがある程度以上まとまったものがイデオロギー)は客観的実在を反映しており、その限りで真理(ヘーゲルのいう主観的定義における真理、正しい観念)であることを認めるものである。だから、もしレーニンのように、客観的実在をいささかも反映せず、従って客観的真理の対応しない観念やイデオロギーがあると認めると、唯物論を自ら否定することになる。なぜレーニンはこういう間違いを犯したか。根本的姿勢としては、敵のことは調べもしないで実際以下に悪く言う、悪い意味での党派的な態度であろうが、直接的には宗教と科学の違いを原理的に考えず、それらの概念を規定せず、従ってあいまいな常識的用語法を無批判に受け入れたからであろう。

 不可知論者が唯物論者に投げつけている、やれ形而上学者だとか、やれ独断論者だとかいう非難に対しても、レーニンはそれらの語の意味を検討せず、相手がどのような意味でそれらの語を使っているかを明確にせず、従ってその非難がかえって非難者の間違いと唯物論の正しさを証明していることを内在的に示さず、ただ超越的に不可知論者だとか、反動哲学だとかの悪罵を投げ返すことになった。

 私は以前から、自称共産主義運動家の人々が、一部の情勢分析や綱領などではその表現の微妙な違いに過度にこだわるのに、他の一部の重要な語句についてはその概念規定を抜きにして粗雑な言葉使いをして平気でいられるという事実に、疑問を持ってきた。これを私は「辞書の無い運動」と呼ぼうと思う。私が「ヘーゲル哲学辞典」を書き続けている理由の1つはこの問題意識であり、それによって我々の自然生活運動を「辞書を持つ運動」にするためである。「科学的」社会主義運動とは本来こういうものだったのではあるまいか。

 レーニンは絶対的真理と相対的真理についてもその命名的定義を与えることなく、両者の関係についてだけ述べている。しかし、これはほとんど実害を与えていない。レーニンに代わってそれを規定しておくと、絶対的真理とは「無条件に、いつでもどこでも妥当する命題、または理論体系」のことである。相対的真理とは「何らかの条件下でのみ、あるいは限定された時と場所の範囲内でのみ妥当する命題、あるいは理論体系」のことである。

 この方面でのレーニンの欠点は、第1に、『反デューリンク論』でのエンゲルスの叙述は、自説を絶対的真理と主張するデューリンクへの批判であったために、真理の相対性に力点が置かれたが、レーニンは、その「真理の相対性」を絶対化することを要求するボグダノフを批判することが目的だったために、相対的真理の真理性、即ちその客観性(客観的実在の反映)と絶対性(絶対的真理の粒になること)の主張に力点を置くことになったことを、断らなかったことである。しかしこれは小さな欠点である。

 第2は、欠点というより間違いに近くなるが、相対的真理の「総和」を絶対的真理としたことである。つまり、無数の相対的真理の関係を算術用語の「和」で表現したことである。確かに、分野を異にする複数の真なる命題の関係なら、こういう語で表現してもそう悪くないかもしれないが、同一対象についての低い真理とそれを止揚した高い真理との関係を「和」で表現するのは、拙いを通り越して間違いだと思う。しかも、学問的にも社会生活でも革命運動でも、そこで大きな問題になるのは後者の関係なのである。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学、ニュートン力学と相対性理論、古典経済学とマルクス経済学、カント哲学とヘーゲル哲学、自然発生的運動と自覚的運動等、例を挙げればきりが無い。

 そして、第三に、レーニンは真理の主体的性格に言及しなかった。即ち、真なる命題も理論も、それを理解している生きた個人に担われている限りで、実際に作用するのであって、書物か何かに書き残されているだけで理解している人がいない場合には、それはいわば眠っているのであり、理解していないのに理解しているつもりの個人が振り回す場合には、それは虚偽に転化し、当人をハッタリ屋にし、周囲の人々を傷つけ、歴史を後退させる働きをするということを、指摘しなかった。そのため、又、低い相対的真理と高い相対的真理の関係は、遅れた個人と進んだ個人の関係として現われることも指摘しなかった。レーニンがもしこれに気付いていたら、両真理の関係を「和」の関係で捉えると、遅れた人と進んだ人を並列することになり、師弟関係や指導者と大衆の関係をうまく説明できなくなることに思い至ったであろう。しかし、不幸にして、レーニンはこれに気付かず、レーニン信者達もこれに気付かなかったために、社会主義運動の組織論は認識論的基礎付けを持たず、時々の政治力学だけに左右されることになった。

 そのため、第四に、この部分でのレーニン固有の功績である「実践による理論の検証の確定性と不確定性の関係」も、その効力を十分には発捧せず、いや、そもそもほとんど注目されなかった。これは、レーニンの叙述自身が、実践の検証性の主張に力点を置いており、この確定性と不確定性の関係については、最後に但し書きとして触れただけだったことも、一因である。

3、認識論の始まり

 レーニンに代わって認識論から解放運動の組織論への内在的展開の骨子をまとめておこう。

 認識論(認識そのものではない)は、「人間の認識は真でありうるのか」の反省と共に始まる。それ迄、そのような反省無しに認識してきた人が、そういう自己反省をし、認識が認識自身を対象とするようになる時、認識論は始まるのである。
 この間いは、当然、「もしそれが真でありうるとするならば、それはなぜか」、又「もし真でありえないとするならば、それはなぜか」という問いに連なっていく。更に、第三に、「認識の真偽は何によって判定されるのか」の問へと進み、そこから、「そもそも真理とは何か、認識するとはどういうことか」という反省までさかのぼる。これがいわば原理論ないし本質論である。

 それに対して、「正しい認識のためには、あるいは認識の間違いを少なくするには、どうしたらよいか」というのが方法論であり、認識における実践論である。直接的動機はどうであれ、認識の本質への反省の根底にはこのような方法への関心がある。

 このように反省してみるとすぐ分かることは、人間は或る予想をもって行動しており、その行動の結果が予想通りだと、そこで前提されていた予想を真と見なしている、ということである。ここでは、その行動が個人または集団が自然に働きかける行動か、それとも他の個人または集団に働きかける行動かということは問題にならない。又、その予想が感覚的な漠然としたものかはっきり考えられたものか、つまりどの程度当人に意識されていたかも、関係無い。

 ともかく、行動の結果が予想通りなら、その予想が真とされる。では、予想とは何か。それは現状認識に基く未来の推定である。その推定の内容は当の対象の未来像である。つまり、対象自身が現実に新しい姿を取る前に、それを主観内で先取りするのである。しかし、対象の未来像は対象の現状の中に潜在しているものの顕在化でしかない。従って、予想とは、対象が現状A(潜在態Bを含む)から現状Bになる前に、主観が現状Aの把握を介して、Bを主観内で顕在化させることである。

 つまり、予想は対象の自己変化の先取りであり、行動が予想の正しさを確証しうるのはこのためである。確かに全ての対象が人間の働きかけの結果として変化するものではなく、天体のように人間の関わり無しに動いている対象も多いが、その変化の結果を予想して観察するのも、この場合の行動の内である。

 では、人間はどうやって対象の現状の把握からその潜在態を推定するのか。それは、その対象の動き方についてのこれまでの経験と知識をもとにしてである。だから、初めて出会った対象については予想は立てられず、せいぜい既知のものの中に外面的に似ているものを連想して、確度の低い推定が出来るだけである。しかし、ここから分かる事は、予想は対象の未来の先取りであると同時に、対象についての過去の経験の反省でもある、ということである。というより、対象の「現状の把握」と言う時の「現状」は、それまでの変化の結果としての現状であり、それを把握するとは、本来、その「変化の過程」という過去とその過程の結果としての現状とを知ることなのである。これが、変化する対象の過去と現在と未来に対する人間主観の関わり方の基本である。

 この現状把握と、従ってまた未来の推定とを意識的に試してみるために行われるのが、実験である。だから、実験は行為の一種だが、本来的には主観内で行われる過程を小規模に対象世界で行うもので、本来の行為というより、本質的には認識の一要素である。

 ここでは認識とは対象の主観による把握のすべてであり、真理とはその把握の正確なことである。これが真理の差し当っての定義である。真理をこう定義する時、認識の真偽は行動の結果によって判定されるものだが、それが真でありうることは経験的事実である。確かに人間の認識には不正確な場合があり、従って行動の結果が予想通りに行かないこともある。しかし、この事から、認識が原理的に真でありえないということにはならない。むしろ間違いの発見による認識の是正により、その後は予想通りの結果が得られるようになることで、かえって認識の真でありうることの証明になる。

 なぜ認識は真でありうるのかとの問いに対しては、逆に、もし認識が真でありえなかったら、人間の行動はつねに予想に反した結果を得ることになり、そもそも人間は生存し続けることができなかっただろう、と答えることになる。

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