マキペディア(発行人・牧野紀之)

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レーニンの真理論(その2)

2009年12月06日 | ナ行
4、認識論から存在論へ

 しかし、認識の間違いにもいろいろある。ちょっとした間違いなら、認識の原理的真理性(認識は真でありうるという考え)に疑いを起こさせないが、何度も検証された理論が完全には正しくなかったとか、その理論は或る限界内でのみ妥当するということが分かると、そこから認識は真でありうるのかという疑問が改めて起きる。

 この反省の結果として種々の認識理論が生まれる。まず、認識の間違いを感覚上の間違いである錯覚と思考上の考え違いに分けることができるが、そのそれぞれを重視し、原理的な間違いと見なす時、2種の懐疑論が生まれる。感覚に対する懐疑論と知性(思考能力)に対する懐疑論である。感覚の証言は感覚が感じたことをそのまま伝えるだけであり、その感覚の感じ方は対象の本当の姿を正しく捉えているかどうか分からないと考えるのが前者であり、古代懐疑論である。

 それに対して、感覚は感じたままを伝えているのだから、そこにうそはないとし、その感覚のデータを思考が加工する時、そこから間違いが始まるのだとするのが、後者であり、近世以降の懐疑論である。これは今日では実証主義と呼ばれている。

 不可知論というのは、言葉としては、対象の一切の認識の可能性を否定するものだが、実際には、感覚的事実だけ認め、思考による解釈の客観性を認めない考え方、即ち知性に対する懐疑論ないし実証主義を意味することも多い。

 以上は、一応対象と主観との区別を認めた上で、主観が対象を認識できるかどうかを考えているのだが、実証主義や不可知論は、そこにとどまらないで、対象の客観的存在自体に疑問を持つようになる場合がある。即ち、主観内に作られた認識は主観外の対象の像ではなくて、ただそれだけとして主観内にあるにすぎない、という考えである。これが主観的観念論である。この考えでいくと、それはもはや「像」と呼べない。像とは本来何かの像なのだからである。

 これに対して、認識はあくまでも像であり、原型を映すものであることを認めるのが、唯物論と客観的観念論である。しかし両者は、その次に、その原型を認識する際の感覚と思考(知性)の役割をどう考えるかで分裂する。唯物論は感覚的認識の根源性を主張する。即ち、思考はただ感覚に与えられたものを加工して、感覚では捉ええなかった側面を引き出すことができるだけだ、とするのである。確かに内容的には、感覚で捉えうる面より思考で捉える面の方が重要なのだが、その認識内容の起源については思考は感覚に依存しており、感覚の中にないものは引き出せないとするのである。

 客観的観念論は、直接的には感覚的認識の根源性を認めるとしても、究極的には感覚に依存しない知性と、そういう知性にしか与えられない存在を認めるのである。

 感覚的認識の根源性を認めることはなぜ唯物論と呼ばれるのか。それは、「まず知性にではなく、まず感覚器官に与えられるものが物質と名付けられている」からである。だから、感覚に与えられることなく直接知性に与えられるものを認めると、物質でないものを認めることになり、唯物論でなくなるからである。

 ここに認識論上の唯物論と存在論上の唯物論との接点がある。前者は、上述のように、認識の反映性の承認を前提した上で、思考に対する感覚の根源性を認めることが出発点である。従って、認識論上の物質概念は、「人間の意識の外に意識から独立して客観的に存在し、感覚を介してしか認識されえない実在」のことである。

 それに対して、感覚は、感覚器官の作用であり、思考は脳の作用であって、それ自身は実体ではないと反省する時、存在論上の唯物論になる。差し当っては認識論上の物質と対置されていた意識は、実際は物質と並ぶ第2の実体ではなく、実体である物質の機能に引き下げられるのである。そして、なぜ思考は感覚に依存するのかと、その起源の性格を問う時、認識論上の唯物論は存在論上の唯物論に行きつくのである。

 逆に、全ての知性とは言わないが、ある種の知性には感覚に依存しない能力を認め、従って思考に対する感覚の根源性を全面的には認めない客観的観念論は、世界の根源なり起源なりに、その特別な知性で直接捉えるしかない知性的実体を認めることになる。この種の観念論的認識論が「客観的」観念論と呼ばれるのは、そのように観念の1種とはいえ個人の認識から独立した客観的な知性体を認める観念論的な世界観(存在論)を前提しているからである。

 認識が対象の映像であることを認める客観的観念論及び唯物論は、そこに留まる低級な理論と、そこから更に先に進む中上級の理論とに分かれる。後者は、その映像は認識主観の対象との行動上の関わりを通してその中で得られることを認め、そのメカニズムの解明に向かう。即ち、ここでは認識主観は実践主体の一面という性格を持つようになっている。これがヘーゲルの実践的観念論とマルクスの実践的唯物論である。

 その骨子は、①人間と対象との関わりは労働から始まり、思考の発生的性格は目的意識性であること、②その内容は、対象及び実践主体の現在の認識から出発し、それぞれの過去を反省することを媒介にして、未来を展望するものであること、③そこでは理論と実践とは全体としては常に一致しており、その一致の仕方は大きく3つに分けられること、である。

5、存在論から人生論へ

   その1、幸福論(個人論)

 何度も検証されたはずの真理が絶対的なものではないと自覚させられた時、本来の認識論上の反省が始まるのであった。その結果としてさまざまな認識理論が生まれる。その時、たとえ客観的観念論か唯物論の道を採って、人間の認識の原理的真理性に対する信念を持ち続けたとしても、それだけでは問題は解決しない。それだけでは真理の相対性を説明できないからである。従って、知性に対する懐疑論である現代の実証主義の問題提起に答えていないからである。

 これに対するエンゲルスとレーニンの考えは次の通りであった。デューリンクが自説を絶対的真理として主張したのに対して、エンゲルスは、①個々の命題でもいつまでも変らない「永遠の真理」というのは確かにあるが、それは「パリはフランスにある」といった大した意味の無い事柄についてだけである。②逆に、重要な事柄についての永遠の真理は、1命題に表わせるものではなく、少しずつ完成されていくものである。③真理と誤謬の対立も、善と悪の対立も、ごく限られた範囲の外では相対的である、と答えていた(『反デューリンク論』第1篇第9章)。

 レーニンは、認識の絶対性を全否定するボグダノフとマッハに対して、①個々の真理は相対的だが、絶対的真理の粒を成し、その総和が絶対的真理である。②実践による検証は、人間の知識を絶対者に転化させないほどに不確定的だが、相対主義に転落するのを許さない程度に確定的である、と答えた。

 しかし、これらによっては「人間の知識が絶対者に転化する」のを防げなかった歴史的経験を経た我々は、この問題をもう一度初めから考え直さなければならない。

 そもそも多くの人が認識の相対性を自覚し、考えるようになるのは、どういう経験からか。それは、デューリンクやマッハが、従ってまたエンゲルスやレーニンが扱った、ほとんど自然科学に限られた学問上の問題からか。私は、決してそうではないと思う。確かに自然科学の発展によって、旧来真理とされてきた理論の絶対性が揺らぎ、それを正しく説明できないために、おかしな哲学が出て来ることはある。しかし、それは一部の学者の間だけの問題だし、自然科学自身は、そういう間違った解釈によって進歩を遅らされることはあっても、進歩し続けるものである。だから、「自然科学に正しい方法を与える」ことも必要なのだが、それは哲学的反省を正しく行った自然科学者の一部によってなされている。自然科学も哲学も知らない自称「マルクス主義哲学者」がその方法を与えたいと言うなら、やらせておけばよい。笑い話の種くらいにはなるだろう。

 多くの人が真理の相対性を考えるようになるのは、自分の今の考えがどれだけ正しいか分らないとしたら、自分は自信を持ってそれを実行できないとか、先生を選んで勉強したり、運動に参加していくにしても、正しいと思って選んだ先生や運動が間違っていたらどうなるのか、その正しさの確証が無いのに選んで、1人なり1つに賭けることはできない、とかいったことではあるまいか。これが個人内の問題とするなら、対他人の態度の問題としては、○○に随分決め付け的な言い方をされて不愉快だったけれど、人間には決め付け的発言をするどれだけの権利があるのだろうかとか、逆に、自分は今迄随分断定的な言い方をして敵を非難し、自分の正しいと思う運動をオルグし、自分の方針を主張してきたが、個人の判断には間違える可能性があり、他人の幸不幸に責任を負えないのに、そういう強い主張をする権限が人間にあるのだろうか、といった反省ではあるまいか。反省の始まる迄は倣慢ですらあった人が、何らかのきっかけでこの種の反省をしておとなしくなったり、あるいはこの問題に答を出せないで一切の自信を失い、おかしくなってしまう人もいる。実際、人間の幸福はその大部分が信念の持ち方と人間関係に依存しており、それは認識論的には、ほとんど、人知の相対性をどう考えるかの問題に関係する。

 現実には、これらの問題は煮詰められることなくあいまいに処理されていると思う。多くの場合、それは、自説を絶対的真理として主張し、かつ何らかの方法で自説を他人に納得させる術をわきまえている親分と、よい親分の子分でありたいという人々との関係となっている。私は、こういう関係はとても広く行き渡っていると思う。会社の長と部下の関係は言うに及ばず、教師と生徒の関係でも、夫と妻の関係でも、あるいは多くの友人関係でも、一方が第1ヴァイオリンで他方が第2ヴァイオリンという例は多いと思う。いや、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンならまだよい。投手と捕手の関係で、それも捕手にサインさえ出させないで勝手に投げる投手とそれを受ける捕手の関係が多いのではあるまいか。理論的には、人間の外に絶対者を求め、それによって全ての人間を相対化するはずの宗教の中でも、これは変わらない。そこにも人間関係があり、それが正しく処理されない以上、事実上こうなっている。

 これは本当の民主主義ではないのではないかという反省から、我々は民主主義を原理的に考え直し、認識論的に基礎付けることになった。それは、人格の平等と能力の不平等と個人の有限性(どんなに優れた人でも間違いを犯す)を三大原理とするものである。

 人間の有限性を自覚せず、口の巧さと押しの強さを自分の正しさと思い込んでいる人に付ける薬は無いが、自信喪失の人に忠告しておこう。経験によって検証された真理は、たとえその後乗り越えられることになっても、より高くより包括的な真理の1要素になるだけで全否定はされないから、あなたの行動が無意味になることはない、と。又、先生を選び間違えれば自分も傷つくが、現時点で出来るだけの調査と研究をして一番正しいと思う道を選ぶ以外に、人間には行動のしようが無いし、一度選んだならば、その選択の当否を知るためにも、又間違っていた場合にはどこがどう間違っていたのかを知るためにも、その道を真直ぐ歩まなければならないし、そうしたならば、たとえ間違っていたと判明した時でも、その時にはもちろん改めるのだが、自分に誠実に精一杯生きたという「真理」は、無駄にはならない、と。


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