マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

幻想を持つ権利 ナルシシズム

2014年08月16日 | ナ行
  鶏鳴学園の生徒に川口はじめ(筆名)という人がいる。方言のことが話題になった折に、「川口さんは少し発音が違う所があるね」と言った所、「いや、そんな事はない」との返事であった。「僕はNHKのニュースの発音を基準にして考えるんだけど、あまり違うことがないので、自分のでいいと思っている」と続けたら、「自分も違わない」と頑なに主張した。私は「あヽ、そうかね」と笑って応じながら、「開き直ったな」と直感した。

 今、私はこの直感を更に反省して考えた事を書きたいのだが、その前にもうひとつの問題を述べておかなければならない。つまり、方言は悪いことか、恥しいことかという問題である。私としては、方言を悪いとも低いとも思っていないし、方言をからかうなどは最低だと思っているが、方言を異にする人々が話すには共通語が必要だということも認めている。そして、その共通語教育が日本の小中学校の国語教育の中で正しくなされていないことには大いに不満である。だから、川口さんの発音が共通語と違うと言っても、別に悪いとか低いという意味ではなく、まして川口さんに全責任があると言うのでもないのだが、川口さんは自分に方言を認めること自体を快く思わなかったらしいのである。

 さて、先に触れた「開き直り」の件である。なぜ私がそう直感したかというと、その時の彼の言い方の頑なさも一因ではある。しかし、それと共に、丁度その頃迄続いていた鶏鳴学園の「現実と格闘する時間」で、私は川口さんには問題意識がないと批判し、更に、彼が問題意識として述べた発言に対しては、「それは問題意識ではなく、『私には何でも分っています』と言うのと同じである」と批評していたという背景があるのである。川口さんとしては私の批評の正しさを認めずにはいられなかったので、今度は「自分は正しい。だから自分には問題はなく、従って問題意識を持つ理由も必要もない」と開き直ったのだと思う。

 私は、川口さんという人は社会人として標準以上のマナーを身につけた人だと見ているので、この頑なな態度はこうとしか説明できなかった。すると、今度は、私が鶏鳴学園のゼミの中に「現実と格闘する時間」を設けて、無理にも発言させ、問題意識を出さない人をそれとして指摘し、問題意識でない発言を批判したことが正しかったかという事が問題になってくる。これはやはり一種のオルグであり、間違いだったと思う。

 人間は誰でも、余程の例外的な人を除き、又、余程ひどい目己嫌悪にでも陥って『人間失格』のような気分になっている時を除き、あるいはそういう時ですら心の奥底では、自分を過大評価しているのではあるまいか。分りやすく数字で表現するなら、十の力を持っている人間が自分を十一と思い十二と考えているのである。これが普通だと思う。「人間は誰でも、みな、ナルシストである」という言葉をどこかで読んだ記憶があるが、その言葉の意味を私はこう捉え直している。

さて、そうだとして、その時、「お前の本当の姿は十なのだ」と言ってやる必要がどこにあるだろうか。問題意識を持っていると思い込んで幸せに生きている人が、それで何も悪い影響を与えていないのに、「お前には問題意識がないのだ」と、鏡を目の前に突き付ける権利が誰にあるだろうか。

 私が他人を批評する時、私を支持して下さる人々にさえ「きつすぎる」という印象を与えているようだ。父を批評した文については「よくあそこまで書けるな」という感想も伺った。確かに私にも言い分はある。まず第一に、私の言葉が「きつく」見えるのは、それが客観的で全面的であり、しかもそれを立体的に構成して、その人の実像を浮かび上がらせているからだと思う。私がこういう態度を取るのは、「汝の敵を愛せ」とは、その人が正確な自己認識を持って正道に帰るのを助けることだと考えているからである。それに思考力と文章力が加わって効果を大きくしているだけのことである。

 第二に、私が批判する人は、十の自分を二十と思い三十と考えている人であって、十一や十二と思っている人ではない。そして、それが社会的にマイナスの働きをしている限りで、止むを得ず批判するのである。

 そして、私が特に注目し考えていることは、この「自分の極端な過大評価」が、革命運動家とか社会運動家とか、慈善家などに多いということである。統計がある訳ではないが、私は自分の経験から、社会運動をやっている人はとかく他人の間違いを批判するのに急で、自分に対する批判を嫌い、感情的に反発する人が多い、という印象を持っている。つくづく人間の罪は深いと思う。人を裁くことが、社会改革運動をすること自体が、その運動の担い手自身を思い上らせ、堕落させる働きをも持つのである。この最悪の実例がスターリンであった。

 このように私にも言い分はあるし、それはそれで正当だと思ってはいるのだが、時々「悪い事をしているのではないか」と考えることがあるのも事実である。そして、必要もないのに「幻想を持つ権利」を犯したことがあるのも事実である。(1985,09,28)(拙著『囲炉裏端』67頁以下)

 ・今回ほんの少し加筆しました。(2014年08月16日)
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