マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

内容を生み出す形式の1例

2018年09月07日 | ナ行
    

 3年前(2004年)、私は引佐町の或る自治会の自治会長でした。引佐町には41の自治会があり、41人の自治会長がいました。年に4回の自治会長会議がありました。最初の2回(4月と7月)に出席してみて、「これは町長が自治会を押さえつけておくためのものだ」と感じました。自治会長同士が互いの問題を出し合って話し合うものだと思っていたのですが、違いました。

 そこで、第3回(12月)は変えようと思い、周囲の数人の自治会長と計らって改善提案を出しました。受け入れられました。

 その提案は2点ありました。第1に、机を学校の授業のように並べるのではなく、ロの字型に並べること、第2に、会議全体を2部に分けて、第1部は役場との協議とし、第2部は役場の人たちは退席してもらって、自治会長だけの会議とすること、です。

 その日の第2部は素晴らしかったです。皆が次から次へと発言しました。みんな、言いたい事が沢山あったのだな、と思いました。終わって会場から出てくる面々の顔は上気していました。提案した仲間とは「よかったねえ」と言い合いました。少したってから、会長(自治会長会の会長)に電話をした時、「引佐町に今まで、あんな活発な会議があったのか」と聞いたら、「あんなの、初めてだよ」との返事でした。

 内容的には何も決まらなかったのですが、机をロの字型に並べるのはその後も受け継がれました。自治会長会議を可能な限り週日の夜に開くべきだという提案は、その後部分的に実行されるようになりました。

 この経験は何を証明するかと言いますと、会議(これは個人の思考に対して「集団的思考」と言えます)のあり方(形式)は内容にとって大きな意味を持つということです。これを「内容を生み出す形式」と言うことも出来ると思います。

 さて、集団的思考は司会者で大きく3種に分けられると思います。司会者がいない議論、司会者が司会に専念する議論、司会者が発言もする議論、です。本ブログ(秋山ブログ)は大学のゼミと同じく第3の議論に入ると思います。

 このタイプでは司会者は時に発言者でもありますから、両方の役割をどう自覚的に使い分けるかが問題になります。私の経験では、大学教員を含めて、これの正しくできている人は少ないです。

 まず、ブログのあり方(形式)を決めるのは最終的に司会者(発行人)の義務と権利であることを確認する必要があると思います。

 この権限をどう使うかは、批判的な意見を抑圧する多くの校長とか社会主義国を一方の極端とし、どんな発言でも機械的に許す2チャンネルを他方の極端として、その中間に無数のあり方があります(外国はいざ知らず、日本の学校でも司会者は発言者を指名する機械に成り下がっていますが、これも後者です)。

 秋山さんの司会の方針は「なるべく介入しないように」といった言葉から伺えるように後者に近いと思います。しかし、これでは立ち行かなくなって、少し介入しようかと考えているところだと思います。理論的な根拠はともかくとして、「なるべく介入しない」といった考えではなく、「このブログの目的にはどういう司会が正しいか」という風に考えることを提案します。

 私自身、教師として、特に哲学の授業のやり方がなかなか分かりませんでした。こういう価値観的な要素を含む教科で議論中心の授業をどうやったらいいのか、分からなかったのです。

 今では、まず「授業の目的」を「自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」と明記して、最初の授業で「この授業の目的を間違えるなよ。議論もするし、他者の意見を批判するのも自由だけれど、あくまでも最終目的は自分の考えを発展させることだということを忘れるなよ」と念を押します。

 第2は、授業のあり方(形式)について異論が出たとか、私が疑念を持った時にはそれをそれとして提案し、皆の意見を聞きます。日本人は口では言ってくれませんが、書いてもらえばたいてい正直に言ってくれます。それを教科通信に載せて、私の判断を伝えます。皆の意見を聞き、賛否両論を発表した上での結論なら、受け入れてくれます。というか、「授業のあり方については講師に最終的決定権がある」と最初に「授業要綱」に書いておきます。

 つまり、「正しい司会(形式)」を追求するようになると、困ったり間違えたりすることがあるのですが、それは自分の成長のための糧なのだと思います。誠意をもってやって、しかも情報を公開してやっていけば、たいていの人は理解してくれます。おかしな人は何パーセントかはいるものですから、それは気にしても仕方ないでしょう。

 具体例(例ですよ)を出しますと、小杉さんが、「このブログでは匿名は止めたらどうか」と発言していたと思います。これに対して秋山さんは「自分は実名派だ」と答えていました。しかし、これは「1発言者」としての振る舞いです。この時、「司会者」として振る舞い、「小杉さんの提案を皆さん、どう思いますか」と、いったん皆の意見を聞いてから、今までどおり自由にするとか、実名にするとか、規律を確認するというやり方もあったと思います。

 さて、miburoさんの牧野批判は、➀議論と無関係な事を書くことは間違い、②ほかに書くべき場所があるのだからそこに書くべし、の2点だと思います。

 ①は、一般的には言えないと思います。ブログのような単線的な場で一時にせよ特定のテーマ以外の事を出してはいけないとすると、多様な議論がしにくくなると思います。

 ②は一見もっともですが、これもブログの性格からして現実的ではないと思います。ブログでは誰でも、原則として、最新記事とそれのコメント欄しか見ないと思います。

 過去の記事のコメント欄への新たな書き込みがあった場合には発行人(司会者)がそれを知らせるようにすることも考えられますが、現実的ではないと思います。

 「コメント掲載の事前承認制」を取っていない秋山ブログでは、発行人にすら過去のコメント欄に黙って書き込まれた発言を知るのは難しいでしょう〔これは私の誤解でした〕。すると「オーナーへのメール」で一々知らせなければならなくなります。やはり現実的ではないでしょう。

 ついでに言及しますと、これは市役所のホームページでも同じで、この方はかなりの大問題です。「新着記事を知らせるメールを登録者に送る」ようにするか、「トップページの新着記事の欄にその日に新しく掲載された記事を箇条書きにして知らせる」ようにするかしてくれないと困ります。メルマガに1週間分の新着記事を知らせるコーナーを作るのも1つの手かもしれません。ともかく、自分でその箇所を見に行かなければ分からない現状は改善してほしいと思います。

 いずれ、市役所に言うつもりです。その前に、「市役所のホームページのあり方」というテーマで議論してもいいと思います。

 元に戻って、その後の秋山ブログの様子を見ていますと、私への「違和感」を2人の方が表明しました。

 これらの結果、「コメントを書くと何か言われるのではないか」と躊躇している方や、「あまり長いコメントはよそう」と考えるようになった方がいるように「感じ」ます。

 それやこれやで、何となく、このブログには元気がなくなってきて、「今日はどんなコメントがあるかな」と思って秋山ブログを開く楽しみが減少したように思います。これは大問題です。

 ですから、次の2大原則を確認するべきだと思います。
 第1に、原則としてコメントは最新記事のコメント欄に書く。
 第2に、自分の意見を表明するのに必要十分な長さの文を書いてよい。

 ただ、1つだけ改善案を出します。それは「コメントに番号を振る」という事です。

 「コメントを書き込む本人が自分で番号を入れる」のを原則として、「発行人がチェックして落ちている番号や間違っている番号は直す」ことにするといいと思います。

 このようにコメントの多いブログではどのコメントの事を言っているのか、参照してほしいのか、特定するのを容易にしておく必要があると思います。

 記事は年月日で特定できます。ですから、例えば「2007年09月25日C-15」とすれば、2007年09月25日の記事の15番目のコメントのことだと分かるわけです。

 たしか『論語』だったと思いますが、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉がありました。

 日本は「小人の国」のようで、協調性などという言葉を創り出して、和と同をわざわざ一緒くたにして、事実上「同」を押しつけています。その結果、日本は世界に冠たる「イジメ大国」になっています。

 こういう日本人とイジメ学校に満ち溢れている浜松で、これを少しでも変えようとしてがんばっている秋山ブログぐらいは「君子のブログ」であってほしいと思います。

 秋山さんのリーダーシップを期待します。

 付記

 1、これは2007年12月に秋山ブログへ寄せたコメントです。秋山さんというのは、そのブログの主宰者です。牧野のブログ『教育の広場』に載せておいたものを、今回ここに転載しました。
 2、「内容を生み出す形式」というのはヘーゲルの哲学観です。哲学は形式を問題にする学問だが、その形式とは内容に無関係な外面的な形式ではなく、「内容を生み出す形式」だというものです。では、それは例えばどういうものか、私の答えがこれです。
 あまり答えになっていないと思う方もいるでしょう。ずっと考え続けている問題です。近刊予定の『小論理学』(ヘーゲル著牧野紀之訳、未知谷)でもまた考えています。
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