マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

ヘーゲルはどう訳すべきか

2010年01月27日 | ハ行
             牧 野 紀 之

初めに

 長谷川宏さんの仕事についての私の評価を書くと予告しました。今、準備をしているところですが、少し遅れています。大幅には遅れないと思いますが、ともかく遅れています。そこでという訳でもないのですが、無意味ではないと思いましたので、習作みたいな感じで一文を書いてみました。

 彼は以前から自著も翻訳も公刊していましたが、一躍名を成したのはヘーゲルの「哲学史講義」の翻訳(河出書房新社)によってです。この原著の意義をどう考えるかも1つの問題ですが、この中の一番重要な箇所はカントの項です。そのカントの項を彼がどう訳しているか、見てみました。少しおかしいのではないかと思いましたので、ほんの一部分ですが、私の訳を対置してみます。皆さんもよく比べて読んでみて、両者がどう違うか、自分はどちらを取るのか、と考えて下さるようにお願いします。なお、注として、二点だけ、考えるべき問題点を書いておきました。

 長谷川さんはグロックナ一版を使ったようですが、私はズーアカンプ版で訳します。どちらでも同じです。後者の339ページの上から3分の1くらいの所から約1ページ半の分量です。

長谷川訳

 まず長谷川さんの訳を載せます。長谷川宏訳「哲学史講義」下巻の401ページの終わりの方からです。

  2、理論的理性

 カントは心理学的に、つまり、事態の推移に則して、理論を組みたてていきます。理論的な意識の主要な形態を一つ一つたどるというやりかたがとられる。第一が感覚的な直観、第二が分析的思考(1)、第三が理性です。一つ一つを説明していくやりかたはまったく経験的であって、概念から展開してみせるというのではありません。

   a、感覚(空間と時間)

 先天的(アプリオリ)なもの、先験的なもののはじまりは、感覚という先天的(アプリオリ)な形式です。経験とは、わたしたちが外的な観念に触発されて感覚をもつことです(2)。感覚のうちにはさまざまな内容が見いだされる。かれはまず感覚を外的な感覚──赤、色、硬さ──と内的な感覚──正義感、怒り、愛、恐怖、快感、宗教感情など──にわけます。そうした内容は感覚の構成要素の一つで、わたしたちの感覚をはなれては存在せず、すべては主観的で、主観をこえることはありません。が、感覚のうちには一般的なものもある。素材とは区別されるこの一般的なものとは、空間と時間のことで、この二つはそれだけでは空虚です。空間はわたしたちの外にあって、それだけでは内容がなく、それを満たすのが、色や軟らかさをもった素材です。時間もおなじく空虚であって、おなじ素材やべつの素材、主として、内面的な感情が、そこにはいりこんできます。時間と空間は純粋な抽象的直観であり、こうして、感覚や直観はわたしたちの外にあるもの、つまり、時間のうちにおかれればながれるもの、空間のうちにおかれればべつべつの場所にならぶもの、と見なされます。内容は、隣あわせにならびたつか、前後につながるかのどちらかで、並列の関係や前後関係をとりされば、空間と時間が得られる。この純粋な直観の作用が直観の形式です。

 今日では、いうまでもなく、どんなものでも直観とか思考とか意識とかよばれます。思考の対象にしかならない神が、直観とか、いわゆる直接の意識とかよばれる。そこから、空間と時間も感覚の一般形式とされ、カント流にいえば、感覚の先天的(アプリオリ)な形式とされます。ただ、それは直接にうけとられる感覚そのものに属するのではない。わたしがあれこれの感覚をもつとき、それはつねに個別的なもので、一般的な存在たる空間と時間は、先天的(アプリオリ)な感覚に属するのです。──こうした議論が先験的感覚論とよばれるものです。感覚論というと、今日では美の理論を意味しますが、カントの場合には、感覚についての一般論、主観そのもののうちにあって、主観に帰属する空間と時間の論を意味します。硬さとはわたしの感覚であり、直観とは、わたしがなにか硬いものを感覚すること、硬いものが空間のなかに横たわることです。ここには、主観と客観の分裂がある。空間のなかで内容は相並んでわたしの外にある。内容を外になげだすのは、先天的(アプリオリ)な感覚の活動であり行為です。これが空間にかんすることで、──なにかがとおりすぎていけば、今度は時間が問題となります。(引用終わり)
 〔途中の(1)と(2)は牧野が挿入した〕

牧野訳

 長谷川訳で何かお分かりになりましたでしょうか。確かに「読みやすい訳」だと思います。しかし、何が書いてあるのだろうかと考えてみると、ほとんど何も分からないのではないかと思います。なぜなのでしょうか。その原因を考えるためにも、まずここにはそもそも何が書かれているのかを知らなければならないでしょう。私は原文に当たってみました。その結果が以下の私の訳です。

   1、理論理性

 さて、カントは〔認識論の研究なのに〕心理学的なやり方をします。つまり、歴史的なやり方〔事実を時間的順序で記述するというやり方〕をするのです。〔換言すれば〕理論的意識〔理論理性〕の主要なあり方を経めぐるのです。第1のあり方は直観ないし感性、第2のあり方は悟性、第3のあり方は理性です。

 カントはこれらについてあれこれのお話をしてくれます。つまりこの三者を経験的に取り上げるだけで、〔理論理性の〕概念から〔内在的・必然的に〕展開してはくれないのです〔そういうことはカントには想像もつかないことだったのです〕。

 ① 感性

 この先天的なもの、超越認識論的なものの考察〔先天総合判断はいかにして可能かという問題の考察〕は、感性における先天的なもの、つまり感性の[一般的〕形式の考察から始まります。〔というのは〕経験というのは、自分の外にあると思ったものによって触発されたという感覚を持つことから始まる〔からです〕。〔しかるに〕直観〔感覚〕の中には色々な内容があります。それを二大別すると、外から来る感覚〔外感〕と内から来る感覚〔内感]に分けられます。前者の例としては、赤、色、硬さといったものの感覚があり、後者の例としては、正義、怒り、愛、恐れ、快適さ、宗教感情等についての感覚があります。

 〔しかし、いずれにしても〕これらの内容は〔直観の〕「1つの」構成要素にすぎません。それは感情〔という一時的なもの〕に属するもので、主観的なもの〔個人的なもの〕であり、主観〔個人〕に左右されるものにすぎません〔から、客観性=普遍妥当性を持ちません〕。しかし、この感覚〔直観〕の中には、この〔内容の〕外(ほか)に、感覚における普遍とでも言うべきものもあります。それらの〔直観の〕素材〔内容〕に付随するこのもう1つの構成要素こそ「空間」と「時間」の2形式なのです。

 これらは〔形式ですから〕空虚です。空間は我々〔個人〕の外にあります〔つまり客観的で、普遍妥当的です〕が、それ自体としては内容を欠いています。これの内容を成すものがかの素材です。色とか軟らかさとかといったものです。時間も同様に空虚です。時間に規定を与え、内容をあらしめるのは〔空間の場合と同様〕あれこれの素材ですが、殊に個人の中に沸き起こる色々な感情です。

 即ち、空間と時間は純粋な直観であり、抽象的[一面的な〕直観なのです。人間は感覚し、〔その感覚したものを〕直観します。その時、人間は感覚を個人的主観の外に移すのです。〔具体的には〕時間の中に投げ込んで〔その感覚の内容を〕流れるものにする〔それに線形性を与える〕か、空間の中に投げ込んで隣り合って併存し合うものにするかしているのです。〔逆に、直観が出来ていると〕内容は〔空間的に〕並列関係にあるか〔時間的に〕前後関係にあるかしています。その時、その「並列」と「前後」と〔の2形式〕を〔内容から〕切り離して、それだけで考察すると、空間と時間が得られるのです。

 これらの純粋な直観作用が直観の形式なのです。確かに昨今は、どんなものでも直観され、思考され、意識されると言われています。思考の対象でしかない神の認識ですら直観だとか、言うところの直接的意識〔直接知〕だとされ〔目茶苦茶にされ〕ています。〔しかし〕今見たように、空間と時間とは感性における一般的なもの〔直観の形式〕であり、カントによれば、それは感性の先天的な形式なのです。直接与えられたままの感覚自身ではまだ、空間と時間は持っていないのです。〔というのは、個人としての〕私があれこれの感覚を持つ時、それはつねに個別的な感覚でしかない〔からです〕。一般的なものである空間と時間は先天的なものとしての感性に帰属するのです。

 この議論をカントは超越認識論的感性論(エステーティク)と名付けています。現在では「エステーティク」という言葉は美についての理論〔美学〕を意味しますが、カントではそれは直観論です、直観における一般的なもの、認識主体そのものの中にあるもの、あるいは認識主体そのものに帰属するもの、すなわち空間と時間についての理論です。

 〔簡単に繰り返しますと、或る物を〕硬いと感じているのは〔個人としての〕私の感覚です。その時、自分が或る硬い物を感じている〔ことを自覚し〕、その硬さ〔だけ〕を空間の中に移し入れるのが直観です。このように、主観的〔個人的〕なものと客観的[一般的〕なものとを区別して考えるのが〔カント哲学の〕核心です。空間の中に移し入れられた時〔初めて〕、内容は並列するのであり、私〔個人〕の外に置かれるのです。〔しかるに、個人の感覚の個別的な〕内容を〔個人的主観の〕外に投げ出すのは先天的な感性〔直観形式〕の仕事です。これが空間〔の仕事〕なのです。そして、〔感覚の内容を〕過ぎ去りゆくものにするのは時間〔の仕事〕なのです。(翻訳終わり)

   問題点2つ

 考えるべき点は沢山ありすぎて、全部取り上げるのは大変ですので、今は2点だけ指摘しておくことにします。

 ① カントの「悟性」を「分析的思考」と訳してよいかの問題。

 根本問題として、誰かが或る単語を従来の意味と違った意味で使った場合、それをどう訳すか、従来通りの訳語を当てつつ文意でその単語にこめられた新しい意味を理解できるようにするか、訳語そのものを「新しい意味を含んだ単語」ないし「説明的な語句」にするか、という問題があります。その時には同時に、その選択の根拠ももちろん問題です。しかし、それは今は置くとして、従来「知性」と一括して捉えられてきた能力を「悟性」と「理性」に分けた時、これを分析能力と総合能力の対比で理解するのはどうでしょうか。

 第1に、原理的に考えて、どのような分析も何らかの総合と結びついているということは、ルビンシュティンが「思考心理学」(石田幸平訳、明治図書。但し、この翻訳は目茶苦茶である)の中で述べた通りです。従って、分析と総合という観点で考えるならば、それはむしろ悟性的分析・総合能力と理性的分析・総合能力の違いはどこにあるのかという問題として考えるべきでしょう。第2に、カントについて言うならば、カントの「悟性」は先天総合判断をする能力だったということは、基礎的知識ではないでしょうか。

 ② 長谷川訳に(2)を付けた文の問題。

 ここは私の訳と比較して考えていただきたいのですが、この文は文として、ヘーゲルの述べた文とは違うのではないか、と私は思います。元のままでは意味が分からないからです。従って、この文を考えるためには、この文の働き(前の文の理由の説明)と、カントの経験概念(感性に悟性がプラスして出来た認識という意味と普通の経験概念。ここは前者であろう)でも考えてみなければ、訳せないと思います。しかるに、長谷川さんはこの文の論理的役割をどう考えているのでしょうか。そもそも氏には文章の形式を読むという問題意識があるのでしょうか。こういう所を見ると、注釈を付けないでただ訳すという方法自体が、ヘーゲルの訳し方として適当なのかということまで考えなければならなくなると思います。(1997年09月15日)
(雑誌『鶏鳴』第144号に所収)

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