マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

大正時代(その2)

2019年11月05日 | タ行
大正時代(その2)


 ③ 関川夏央著『白樺たちの大正』文藝春秋

 03-1、その5ヵ月後、大正8年〔1919年〕6月には、パリ講和会議日本全権たちにあてた書簡の形式で、「私の所望」と題した原稿を蘆花は東京朝日に寄せた。そこには、パリ講和会議を拡大して世界的家族会議とすること、世界の人心を一新するため、この1919年を新紀元の第1年とすること、さらには軍備を全廃、関税廃止による物資の自由流通、国際通貨の制定と賠償要求の打切りなど、第一次大戦後の先進諸国をおおって大正日本の社会にも満ちた「平和主義」「国際主義」、そして楽観的な「コスモポリタニズム」の空気を色濃く反映した内容が盛られていた。(関川夏央著『白樺たちの大正』文藝春秋58~9頁)

 03-2、大正6年〔1917年〕のロシア革命以来、ようやく共産主義は一般に無政府主義と弁別されるようになっていたが、まだその真価は理解されていなかったから、実篤が共産主義の影響下にあったというわけではない。しかしコミューンへの強い憧れは、コスモポリタニズムへの傾斜とともに大正期を特徴づける思潮であり、当時の実篤はその結晶のようであった。(同書、69頁)

 03-3、志賀直哉にしろ武者小路実篤にしろ、自我を圧殺するもの、彼らの「わがまま」を抑圧する装置を徹底して嫌悪し憎悪した。それこそが、『三四郎』や『坊っちゃん』の主人公と同年代の知識青年の、そして大正という時代の精神形成をにない、同時に大正という大衆化の時代の影響を受けざるを得なかった「明治15年〔1882年〕以後生まれの青年」のセンスであった。(同書、91頁)

03-4、該当年齢人口での高等教育普及率は、明治期は1パーセント以下であったのに、大正9年〔1920年〕には、男子に限っていえば2,3パーセント、昭和5年〔1930年〕4,3パーセント、昭和15年〔1940年〕8,3パーセントと、まさに幾何級数的に増加した。その卒業生はだいたいサラリーマンとなったのだが、それはサラリーマンがもっとも安定した職業とみなされ、大企業の勤め人になることが人生上至高の選択だと考えられる時代の到来を意味した。そしてその流れは、1990年代なかばまで、だいたい75年間ほどつづく。大正こそ現代の発端した時代、というのはこういうことである。(同書、110頁)

03-5、最近、海外の経済機関が試算したところによると、1900年から1999年まで、百年間の英国の経済成長率(実質)は290パーセントだった。対して日本のそれは1660パーセントだった。この著しい差のなかに現在の日本の地位があるわけだが、ひるがえっていえば二十世紀初頭の日本は相当な貧乏国だったのである。

 英国社会の中核となるエリート(パブリック・スクール出身者)は、該当年齢人口の1パーセントにすぎなかった。日本の大学卒業者がその水準にとどまっていたのは明治末までで、大正期になると比率は急上昇し、はげしい大衆社会化がはじまった。歴然たる階層社会である英国の場合、エリートは良家または名門から生まれたが、日本の場合は、大学ではなく旧制高校の入試がエリートへの関門であった。つまり出身階層を選ばぬ、自由競争による能力主義が日本近代の原理であった。(同書、112頁)

03-6、戦後の明治40年〔1907年〕から日本は不況に襲われた。日露戦争という国家存亡の危機にあたっての民心の高揚感は目的を見失って浮遊し、また官民の一体感も急速に薄れていった。あまりに波乱に富みすぎた前半生を送った石光真清(まきよ)には「静かな時代」と印象されたかも知れないが、日本人にとっての明治末年から大正初年にかけては、不景気の時代、虚脱の時代、何であれ新しい課題を探し求めようとした模索の時代であった。

 大正3年〔1914年〕8月、日本は世界大戦に参戦した。当初イギリスは日本の参戦を強く促したのであるが、やがて〔中国〕大陸におけるドイツ利権の継承者たらんとする日本の野心があきらかになるとためらいを見せた。しかし、日本は参戦を「好機」ととらえ「天佑」と見た。それは大陸進出の「好機」であり「天佑」であるというより、日露戦後の軍縮ムードを払拭し、停滞した経済を活性化させる「好機」であり「天佑」であった。(同書、152頁)

03-7、黒龍会は明治34年に結成された愛国団体であるが、この大正年間、「左翼」の成立によって「右翼」もまた成立し、左翼が影響力を増せば右翼も活発化するという1980年代までつづく構造ができあがったのである。(同書、184頁)

03-8、この大正7年〔1918年〕7月には鈴木三重吉によって児童雑誌「赤い鳥」が創刊されていた。それは、ひと口にいって、男性的原理による明治国家の反動であった。子供でも小さな大人でもない「児童」という時期と存在とが「発見」され、その「純粋な心」は女性的母性的な感情によって保護育成されるべきだと鈴木三重吉はしたのである。創刊号は1万部を印刷し、うち9000部が売れた。以来月ごとに2000部ほどずつ部数を増していった。(同書、185頁)

03-9、大正の時代精神は「改造」への意欲であった。そして、それをになったのは新興する「中流」家庭の息子と娘たちであった。/ 彼らはみな「コミューン」について考えた。ある者は夢想的であった。ある者は冷静で、ある者は皮肉であった。コミューンの建設と維持が現実にそぐわないと見とおす者は少なくなかったが、最初からこれをばかにした者はいなかった。その背景には社会主義への希望がたしかに横たわっていた。(同書、213頁)

03-10、学歴至上主義と恋愛至上主義すなわち自我解放への強い志向、それから肉体労働への憧れと生活改造への焦慮、それら大正時代の思潮と流行がここ〔吉屋信子の小説『地の果まで』〕にはみごとにあらわれている。

『地の果まで』が書かれる前年の大正七年〔1918年〕、資本主義の限界説とバブル景気が併存するなかで流行語となった「改造」を誌名に冠した雑誌を山本実彦(さねひこ)が創刊し、社会主義を表看板にして売ろうとしたのは、滝田樗陰(ちょいん)の「中央公論」がすでに大正五年〔1916年〕から民本主義で売っていたから、それにならいつつ対抗したのである。山本実彦にとって「主義」は何でもよかった。彼は思想が商品となる時代だと見通したのであり、そしてその見通しは当たったのである。思想という商品の購買層は、大正期に拡大再生産されつづける知識的な大衆であった。

 大正そのものが矛盾を何重にも内部に抱えこんだ時代だった。その矛盾をそのまま素直に照り返して吉屋信子は『地の果まで』を書いたのだが、この作品は彼女の不安とは裏腹に三人の老大家に暖く迎えられ、めでたく当選作となった。

 新聞小説もまた、大正5年〔1916年〕12月のその死まで連載してついに未完に終った夏日漱石の『明暗』のような格調の高い作品、ときに格調の高すぎる作品ではなく、普通の人々が思想を持ち、同時にその思想によって左右される不安定な大衆社会にふさわしい作品、時代の揺らぎの気分を映し出しながら腕力でまとめあげてしまう吉屋信子の『地の果まで』のような作品を選びとり、その未熟な理想主義を商品としてさしだしたのである。(同書、254-55頁)

03-11、大戦下の好況は、近代日本がはじめて経験した経済の高度成長でありバブル景気であった。明治43(1910)年からこの大正8年〔1919年〕までの10年間で、国民総生産は名目で4倍、実質1,5倍となった。名目と実質の差がインフレである。その数字は、1960(昭和35)年からの10年間の、名目で5倍、実質で3倍という驚異的な高度成長にこそおよばなかったが、明治全般と大正末期から昭和初期にかけての1年当たり平均成長率1,5パーセントをはるかに上まわった。

 日本の工業は日露戦争でその基礎が完成し、この大戦景気下に著しい成長を遂げた。

 それはたとえば高圧送電などの技術革新によってもたらされた。大正3年〔1914年〕に完成した猪苗代・東京間11万5000ボルトの大送電線は、それまでエネルギー源付近に限定されていた工場立地を産品の移出に有利な港湾近接地に広げ、高圧線鉄塔の連なる風景を日本にもたらすとともに大都市周辺の臨海工業地帯を成立させた。

 生産性の向上は、皮肉なことに企業間の規模の大小による著しい賃金格差をも生んだ。大戦景気前、大正3年〔1914年〕の工場労働者の平均賃金は1日ひとり40銭で、大工場と中小工場の格差がないどころか、大工場の方がいくらか低いくらいだった。しかし労賃はこの間小工場の職工たちを置き去りにして上昇し、『近代日本経済要覧』によると、昭和7年〔1932年〕には、5~10人規模の工場の賃金を100としたとき、50~100人では209、1000~5000人では325、それ以上では386となるまでひらいた。日本経済のいわゆる二重構造も、現在に至る大企業信仰も、実にこの時期に根づいたのである。(同書、279頁)

03-12、これらの童謡には、尋常ではない懐古趣味が感じられる。過去は美しい。ひるがえっていうと、現在は不本意なのである。「やさしい」という形容がしばしば登場する。その「やさしさ」の記憶は「母」によって満たされている。明治の男性性に対立して再評価されたものは女性性ではなかった。むしろ「母性への回帰」であり、それは「改造への衝動」とならぶ大正の時代精神の特質であった。

 もうひとつ気づくのは、勤め人(サラリーマン)の子供たちのみが読者として想定されたことだ。大衆化する社会の主力となり、また大衆そのものとなっていく子供たちに、「母性回帰」と「懐古趣味」とが「文学」によって注入されたのである。その意味で、大正中期こそ現代の発端となった時代であった。(同書、290-91頁)

03-13、大正は、「児童」と「婦人」の時代であった。大正末年に大手五誌といわれた婦人雑誌は、発行部数の順に、「主婦之友」「婦女界」「婦人世界」「婦人公論」「婦人倶楽部」であり、第1の波と第2の波に乗じた雑誌は、だいたい均等に生き残って成長を継続していた。大正13年頃、「主婦之友」は23~24万部、「婦女界」は21~22万部、「婦人世界」は17~18万部を発行し、まだ部数を伸ばす勢いであった。

 日露戦争後の虚脱、あるいは濃密に重なり合っていた国家と個人の意思が乖離したとき、婦人雑誌の第一の波は生じた。人々の意識は「日本人」から、「男」と「女」のジェンダーの別へと向けられ、女性の自己主張がはじまった。第2の波は第1次大戦好況によってもたらされた。そこに「主婦」と「勤労女性」という区分けが新たに生じたのは、好況と人々の会社員化によって「中流」意識が日本人に芽生えたからであった。
 その背景には女性のための中等教育の著しい普及があった。大正2年に高等女学校数は全国で214校、生徒数は6万8000人であった。それが大正8年には274校、10万3000人となり、大正10年には417校、15万5000人に急増した。さらに大正15年には663校、29万7000人に達した。大正年間に学校数で3倍強、生徒数で4倍強となったのである。

「大正時代のいわゆる『新しい女』を産み出した基盤は、この中等教育の機会に恵まれた新中間層の女性群であった。彼女らは良妻賢母主義の美名のもとに、家父長制への隷属を強いられていた従来の家庭文化のあり方に疑問を抱き、社会的活動の可能性を模索しはじめる。男性文化に従属し、その一段下位に置かれていた女性文化の復権を要求しはじめる。婦人の家庭からの解放を説き、女性の社会的進出と婦人参政権の獲得を繰返し取り上げた『婦人公論』が、そのオピニオン・リーダーであったことはいうまでもない」(「大正後期通俗小説の展開」前田愛、『近代読者の成立』)(同書、329-30頁)

03-14、「世界の国家は2、3年のうちにみな社会主義国家になる。日本も必ずその方向に向かうだろう」(中沢臨川)といった言葉に代表される大正の時代精神(同書、334頁)

 ④ その他

 01、このように三木清の場合、中学時代の末期から高校時代の初期にかけて、内面的なものへの関心が急速に深まっていくのであるが、これを彼自身、「時代の精神的気流の変化の影響」にもよることであったと、後年、回想している。ここにいう「変化」を、みずからの体験を通して、彼はつぎのように説明している。

 「今私が直接に経験してきた限り当時の日本の精神界を回顧してみると、先ず冒険的で積極的な時代があり、その時には学生の政治的関心も一般に強く、雄弁術などの流行を見た──この時代を私は中学の時いくらか経験した──が、次にその反動として内省的で懐疑的な時期が現われ、そしてそうした空気の中から『教養』という観念が我が国のインテリゲンチャの間に現われたのである。従ってこの教養の観念はその由来からいって文学的乃至哲学的であって、政治的教養というものを含むことなく、むしろ意識的に政治的なものを外面的なものとして除外し排斥していたということができるであろう。

 教養の観念は主として漱石門下の人々でケーベル博士の影響を受けた人々によって 形成されていった。阿部次郎氏の『三太郎の日記』はその代表的な先駆で、私も寄宿寮の消燈後、蝋燭(ろうそく)の光で読み耽ったことがある。この流れとは別で、しかし種々の点で接触しながら 教養の観念の拡充と積極化に貢献したのは白樺派の人々であったであろう。私もこの派の人々のものを読むようになったが、その影響を受けたというのは大学に入ってから後のことである。かようにして日本におけるヒューマニズム或いはむしろ日本的なヒューマニズムが次第に形成されていった。そしてそれは例えばトルストイ的な人道主義もしくは宗教的な浪漫主義からやがて次第に『文化』という観念に中心をおくようになっていったと考えることができるのではないかと思う。」(「読書遍歴」)

 ここには、1910年代の初頭に立ち現われた日本の精神状況の変化が、適確に描き出されている。それは通常、明治の時代精神から大正のそれへの変化として捉えられるものであ る。すなわち、「日清戦争」(明治27~28年)以後、「日英同盟」(明治35年)の締結にいたるまでの一時期、国民を挙げての「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」のナショナリズムを反映して、政治的な実践性を強調する、三木清のいう「冒険的で積極的な時代」があった。ところが、「日英同盟」の締結以後、「日露戦争」(明治37~38年)における勝利をつうじて、一等国意識に加えて、憂国的な緊張感を解かれたコスモポリタニズムが台頭し、非政治的な観照性を特質とする「教養」という観念が流行する時代が訪れるにいたったのである。これが、いわゆる教養主義的人格主義的ヒューマニズムを基調とする、大正の時代精神といわれるものである。(中略)

 大正6年9月、三木清は京都帝国大学文学部哲学科に入学した。大学時代の三木清は、当代日本の「文化主義」的思潮を哲学的に基礎づけるものとしてドイツから受容され、当時大いにもてはやされた新カント学派の「価値哲学」をはじめとして、西田幾多郎によってつぎつぎに紹介される海外の新哲学思想を追いかけるようにして学んだ。このほか彼は、宗教学の波多野精一からは歴史研究の重要性を教えられ、哲学の田辺元をつうじてドイツ観念論哲学についての理解を深め、美学の深田康算からは真の教養思想の何たるかを学んだ。当時は大学の学生数も少なく、秀才の誉れ高い三木清は、ことのほか、これらの教授たちに可愛がられたようである。彼は「書物からよりも人間から多く影響を受けた、もしくは受けることができた」良き時代に、幸わせな大学時代を送ることができたのである。

 このように、高等学校時代から大学時代にかけての三木清は、自称「古典派乃至教養派」として、大正期の教養主義的ヒューマニズム思潮を満身で呼吸しながら、人間形成に勤んだ。(中略)
ここで注意されねばならぬことは、青年三木清の主張の枠組みには、「普遍」(=絶対者、絶対的なるもの、永遠なるものなど)と「個別」(=有限な個人、個性など)は見出されるが、両者を媒介すべき「特殊」(=民族、国家、社会など)の契機が全く欠けていることである。ここに、先に指摘した非政治的な観照性に立脚した内面志向と相即不離の、大正期の思潮を特色づけるコスモポリタニズムの表出を見ることができるであろう。(三木清著『語られざる哲学』講談社学術文庫への宮川透の解説)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。